駅で。
天気予報では晴れだったのに。小学三年の彩菜は、バスに揺られながら傘をぱらぱらと払います。滴がいくつも落ちて、カラフルに着てきた足元は湿っていました。
ピンポン。まもなく…。
車内にアナウンスが流れて、彩菜は立ち上がります。
バスから降りて、彩菜は駅前のバス停に着いていました。大の仲良しの絵里と今度転勤になる担任の清水先生に会うため、隣町まで行くのに彩菜は駅に向かっていました。階段を上り、ホームに着くと、彩菜は益々降り始めた雨に顔をしかめました。夏場、少しでも涼しい方が良いにきまってはいるのですが、こうも降ると、傘が鬱陶しくてなりません。
彩菜はもう、と愚痴をこぼしました。その時、隣で並んでいた40代の夫婦が言っているのが聞こえました。
「やだ、あの人目つき悪いわぁ」
耳に入った言葉に、彩菜は夫婦を振り返り、夫婦が見ている人物を見ました。
ホームの黄色い点字ブロックの上に、確かに目つきの悪い、30歳くらいの男性が一人立っていました。男性はジーンズに皮のジャケットを着て、タバコを近くのゴミ箱に放り込みます。
「嫌ねぇ、もう一つ先の車両に乗ろうかしら」
女性が呟くのが聞こえます。彩菜は男性をさりげなく見ます。本当に男性は柄が悪く見えました。しかし。
にこり。
男性は、一瞬彩菜と目が合うと、視線に気づいたのでしょうか、優しげに笑ったのです。彩菜は不思議な光景でも見たように、え、と瞬いて男性を見上げました。やがて男性は、彩菜の方向にやって来ました。目をぱちぱちさせながら彩菜は、近づいてくる男性を見上げます。その時。
ゴーッ。ガタンガタン。
電車が到着して、やがてドアが開くと、逃げるように電車の中に駆け込んでいく先ほどの夫婦。その後を、目つきの悪い男性は続きます。しかし、彩菜がボーっと見ているのに気付いたのか、小さく言いました。
「どうした、乗らないのか?」
彩菜は見た目とは違い、穏やかな声に、固まっていた首を振りました。ううん、と言うと、男性の後を続きます。男性は彩菜の頭をトントンと撫でると、ドア口に立ちました。少しの間、彩菜は男性を見つめていましたが、電車に体をゆすられると、慌てて空いている席に座りました。
座った席は、右に20代の男性二人組、左に幼児の女の子の親子。車内は込み合ってはいませんでしたが、あえて立ったままの人もいるようでした。首を回して運動しているような20代のカジュアルなスタイルの男性。音楽を聴くカールがかかった髪を揺らす綺麗な女性。大人しそうな地味な会社員風の男性。様々な人が、電車に揺られます。
少しうとうととし始めた彩菜。短いアナウンスが鳴って、ドアが開いて。何人か降りた時でした。再び空気音とともにドアが閉まって走り出した頃。
バシャッ。
「…っ!」
彩菜は腰から下にジュースを浴びて。思わず悲鳴を上げそうになりました。隣に座る6歳くらいの女の子が、缶ジュースを片手に座席の上ではしゃいでいました。
「ごめんなさい!」
その子の母親が気づいて、女の子からジュースの缶を取り上げます。
「あー…こぼしちゃって!」
母親はバッグの中を勢いよくかき混ぜると、何か拭くものを探し始めます。
「ごめんなさい、ちょっと待って」
そうして中を彷徨わせますが、なかなか見つからないようで、彩菜はいつまでたっても濡れたままでした。彩菜もまた、何も拭くものを持ってはいなかったのです。すると。
「これを使うといいよ」
彩菜のもう隣に座っていた20代の男性が赤いハンカチを差し出してきたのです。一瞬戸惑ったものの、彩菜は素直に受け取りました。
「ありがとうございます」
二人のうち、向こう側の男性は眼鏡をかけ、ハンカチを渡してきた男性は茶髪の優しげな人でした。彩菜は受け取ったハンカチで全体を拭いていきます。それでも、ぐっしょりと染み込んで、なかなか濡れた感触は取れませんでした。
このくらいかな、と彩菜は心の中で呟きました。
ありがとう、と彩菜は男性にハンカチを返そうとしましたが、男性は首を振りました。
「いいよ、もうちょっと拭いておいた方が良いよ、僕はまだ先の駅で降りるから、それまで…」
男性がそう言うので、彩菜はその好意に甘えることにしました。彩菜は、拭き続けます。そうして、少し経った頃でした。
「ちょっと!いけないねぇ!」
中年男性の低い声が車内に響きました。
彩菜は顔を上げます。ドア口で、中年のジャンパーを着た太めの男性が、先ほどの目つきの悪い男性の腕を掴んで後ろ手にひねりあげていました。
ざわざわと車内が騒がしくなって、皆が二人を見つめます。中年男性は男性をドアに押し付けました。
慌てて立ち上がると、電車の揺れにも負けずに、彩菜は二人に近づきました。
「…あの、どうしたんですか?」
声が小さすぎたのか、答えない中年男性に、彩菜は再度尋ねます。
「あの!」
すると、中年男性はこちらを振り向き、視線を下に降ろしました。その、彩菜の肩を誰かが捕まえます。彩菜は気づいて振り向くようにして上を見上げました。ハンカチを貸してくれた男性と一緒にいた、メガネの男性でした。