その二
「ヤーコ、遅い! ご主人さまをこんなに待たせるなんて、困った子だね!」
怒ったふりをして眉を吊り上げているのは綾子の仕えるこのお屋敷の主人だ。身動きするたびつやつやと光り星を散らすような琥珀の髪は、生花と真珠で繊細に編み込まれており、砂糖菓子のようにあまく色づいた薔薇色の頬、そしてとろりと蕩けそうなチョコレートの瞳に妖精を思わせる華奢な肢体は優美である。
ナルキッソスの美貌。――綾子は己の主人を見るたびにその言葉が浮かぶ。
確かに見た目は神さまにふさわしい――そう、信じられないことに彼は神さまであって、別に特別なことではないらしい――とんでもないほどの美少年の姿をしているが、内面は多大にぶっ飛んでいる。
「もう離れないで済むよう、さあこれにサインを!」とさっと差し出されるのは婚姻届。「はいはいお預かりしておきますとも」と言い、恭しく受け取りポケットに適当に押し込んで後で竈の種火用の紙として使うのもいつものこと(火が移りやすいので重宝している)。
「ヤーコの世界には婚約指輪っていうのがあるんだって? ほら、これ受け取ってくれるよね」と指に無理やり嵌められたのは、主人の家で先祖代々伝えられてきたという家宝の指輪。嵌めた時は緩かったのにすぐにジャストフィットして抜けなくなった(魔術って怖い)ため、傷が付きそうだなと思いながらも仕方なく付けたままでいる。
他にも「式はいつにする? ぼくとしては今からがいいんだけど」とさりげなく手を握ってきたり、「ちょっと世界が遠すぎてご両親への挨拶には行けないけれど、そんな不甲斐ないぼくを許しておくれ」と流し目で見つめてきたりする、とんでもない雇用主である。
ちなみに世界、という言い方は誇張表現でも何でもなくて、実際綾子は今いるこの世界とは別の場所からこちら――神さまがあちらこちらに普通に住んでるファンタジーの世界――へ落とされてやってきたのだ。何故かは知らないし、知りたくもない。偶然――本当に偶然なのか日に日に疑念が強まっている――主人に拾われて、幸運なことにお屋敷で働かせてもらっている今の生活を、意外と自分なりに、悪くないと思っていたりする。




