わたくしの代わりに、あなたが縁談を断ってくださった。同じ夜、わたくしは、あなたの代わりに主任を断っていました
目を覚ますと、わたくしは知らない部屋の長椅子に横になっていた。
手の甲に、黒い字で、九時半申し送り、と書いてあった。
わたくしの手ではなかった。爪が短く切られ、指の節が少し太い、三十を過ぎた女の手だった。
「戸川さん、申し送り終わったんで、上がっていいですよ」
若い男が戸口から顔を出して、そう言った。わたくしのことを、戸川さんと呼んだ。
壁に掛かった暦には、見たこともない年号が刷ってあった。添えられた西暦は、わたくしの知っている年より、百年ほど先だった。窓の外には、電信柱がやけに多かった。わたくしは御園綾子という名で、山の手の屋敷に住む子爵の娘で、二十二で、今夜は見合いのはずだった。そういうことを一つずつ思い出しているあいだに、知らない体は勝手に立ち上がり、鞄を肩にかけ、靴を履いていた。
今夜の見合いは、わたくしが決めたことではなかった。家令が先方と話を進め、女中が母の形見の着物の寸法を直し、わたくしは鏡の前で、言われた角度に首を傾ける練習をしていた。九つで母を亡くしてから、わたくしの一日は、誰かが決めたことの順番でできていた。断る、という言葉は、わたくしの持ち物のなかになかった。
廊下に出ると、車椅子の老女が、わたくしの袖をつかんだ。
「まっちゃん、また夜にね」
知らない人だった。けれど、この体の手は、老女の手の甲を二度、軽く叩いていた。叩かれた老女は、安心したように目を閉じた。
この体は、帰り道を覚えていた。
川を渡ると、低い家の並ぶ町に出た。アーケードというものの下に、店が続いている。半分ほどはシャッターが下りていた。開いている店のなかで、揚げ油の匂いのするところだけが、いやに元気だった。
自転車が鈴を鳴らして、わたくしの横をすり抜けていった。軒先では、年寄りが二人、同じ話を二度ずつしていた。誰も、わたくしを振り返らない。山の手の道では、わたくしが歩けば、誰かが必ず頭を下げた。
「まっちゃん、明けかい」
前掛けをした女が、油の鍋の向こうから声をかけてきた。かね吉、と染めた暖簾が下がっている。惣菜屋だった。
「今日もハムカツね。一枚」
わたくしが何も言わないうちに、おかみは揚げたての一枚を紙に包んだ。わたくしが財布の開け方に迷っていると、手のひらを広げさせて、そこから小銭を選んで取った。
「眠いんだろ。早く行きな」
隣は酒屋だった。店の奥に、立ったまま飲むための狭い台がある。年寄りの主人が、わたくしの顔を見るなり、硝子のコップに一升瓶を傾けた。
「明けだろ。一杯だけな」
わたくしは、コップの前で動けなくなった。
わたくしの家では、水一杯も自分では注がない。注いでもらうものを、注いでもらう時刻に、注いでもらう器で飲む。女が昼前に、それも一人で酒を口にするなど、わたくしの知っている世界のどこにもなかった。庭に出るにも、本を選ぶにも、わたくしは誰かが先に頷いてくれるのを待ってきた。
主人は、わたくしを見ていなかった。帳面に何か書きつけながら、ラジオから流れるゆうべの野球の話に、一人で相槌を打っている。誰も、わたくしが飲むかどうかを見張っていなかった。
コップを持ち上げた。冷たかった。けれど、喉を通るときは熱かった。胃の底に落ちてから、ゆっくり温かさが広がった。ハムカツを齧ると、衣が音を立てた。
誰の許しも、もらっていなかった。
それなのに、何も起きなかった。叱る声も、眉をひそめる顔も、どこからも来なかった。体のどこかで固く結ばれていた紐が、一本だけほどけたような気がした。
ふいに、遠い笑い声を思い出した。まだ小さかったころ、昼前になると、屋敷の奥のほうで誰かが笑っていた。誰の声だったのかは、思い出せなかった。
「まっちゃんは、これがねえと眠れねえんだもんな。親父さんと同じ飲み方だ」
主人が、帳面から顔を上げずに言った。
夜の仕事と眠りのあいだに、この人は毎朝、この一杯を置いてきたのだ。誰に頼まれたのでもない、自分で自分に出す一杯を。
部屋は、惣菜屋の二階だった。床が狭く、窓を開けると揚げ油の匂いが上がってきた。
壁の暦には、夜、明、休、と三つの字が、順に繰り返し書き込まれていた。鴨居に、夏祭りの写真が一枚留めてある。浴衣の年寄りたちに囲まれて、この体の持ち主が真ん中で笑っていた。
洗面所の鏡に、知らない女の顔が映った。目の下が青く、髪に白いものが二本あった。笑い皺のほうが、先に年を取っている顔だった。
小さな机の上に、紙が一枚あった。主任昇格についてのご相談、と印字してある。その余白に、断る、と書いて線で消してあった。その下にまた、断る、と書いて、また消してあった。三度目は、ペン先を当てた点が一つ、残っているだけだった。
この人も、降りられずにいるのだ、と思った。
わたくしは、知らない人の布団で眠った。揚げ油と、知らない石鹸の匂いがした。
夕方に目を覚まして、もう一度、商店街を歩いた。かね吉のおかみが、店じまいの手を止めて、わたくしを呼び止めた。
「まっちゃん、主任の話、どうすんの。あんた、人の上に立つのは向いてないって、自分で言ってたじゃない。主任になったら夜勤から外れるんだろ。眠れない年寄りの手を夜じゅう握ってるのが性に合ってるって、言ってたのに」
この人は、上に立つ役を降りたいのではない。手を握る役に、留まっていたいのだ。
わたくしは、少し考えてから答えた。
「お断りいたします」
おかみは目を丸くして、それから笑った。
「なんだい、急にお上品に。でも、それがいいよ」
おかみは、売れ残りのハムカツを二枚、紙に包んでよこした。
「持ってきな。断る日は、腹が減るからね」
部屋に戻って、机の紙の、あの点の隣に、わたくしは書き足した。お受けいたしかねます。この人の字とは似ても似つかない、わたくしの字だった。
その夜、わたくしはまた、知らない布団で眠った。一度目より、怖くなかった。
目を覚ますと、天井に見覚えのある木目があった。
手を見た。わたくしの手だった。細くて白い、何も握ってこなかった手だった。
「お嬢さま、お目覚めでございますか」
女中のきよが、襖の向こうで泣きそうな声を出した。きよの話は、何度も前に戻りながら進んだ。
昨日の朝十時半、わたくしは台所へ下りていったのだという。料理番のしげが揚げていたコロッケを一つ、立ったまま食べ、台所の一升瓶から冷やを一杯飲んで、大きな声で笑ったのだという。しげは、奥さまがお戻りになったのかと思いました、と言って泣いたそうだ。
そして夜、見合いの席で、伯爵家のご次男を前に、こう言ったのだという。
ごめんなさい。このお話、お断りします。
「お嬢さまのお口から、あのような物言いを伺ったのは、初めてでございます」
先方は顔色を変えて帰っていった。父は、それを玄関まで見送ったそうだ。
「娘がそう申しておりますので、と、旦那さまが」
わたくしは、しばらく口がきけなかった。
父は、わたくしの顔をまともに見ない人だった。朝餉の席でも、新聞の陰から一度、わたくしの手元を見るだけだった。縁談のことも、家令に任せきりにしていた。わたくしが何を思っていようと、あの人には関わりのないことなのだと、ずっと思っていた。
父の書斎の戸を叩いたのは、昼前だった。
書斎は煙草の匂いがした。机の端に、母の写真が、父のほうを向いて立ててあった。父は机に向かったまま、顔を上げなかった。わたくしは戸口で頭を下げた。昨日のことは、わたくしが自分でしたことではない。けれど、それをどう言えばいいのか分からなかった。
「申し訳ございません。昨日は」
「母さんもな」
父が、わたくしの言葉をさえぎった。
「昼前に、台所で一杯だけ飲む人だった。しげに揚げ物を一つ揚げさせて、立ったまま飲んで、笑った」
知らなかった。母が亡くなったとき、わたくしは九つだった。
「わたしは、一度も止めなかった。あの一杯のあとだけ、あれはよく笑ったからだ」
父は、そこで初めて顔を上げた。
「お前は、母さんに似てきた。似てくるほど、どう話していいか分からなくなった。それで、黙っていた」
新聞の陰から、父はわたくしの手元を見ていた。あれは、わたくしの手に、母の手を探していた時間だったのかもしれない。
父の目は赤かった。わたくしが父の顔をまともに見たのは、たぶん、これが初めてだった。
父がわたくしを見なかったのではない。わたくしのほうが、父を見ていなかったのだ。
「昨日、お前が断ったとき、わたしは、止めないと決めていた。母さんの一杯を止めなかったのと、同じだ」
断ったのは、わたくしではない。百年先の、夜勤明けの誰かだ。
けれど、父はそれを、わたくしだと思って止めなかった。そしてわたくしは、あの人の机に、あの人の代わりに、お受けいたしかねます、と書いてきた。
わたくしたちは、互いの代わりに一度ずつ、降りたのだ。
そこから先を続けるのは、自分の足でなければならなかった。
その日の夕方、わたくしは家令を呼んで、次の縁談のお話は当分お受けいたしません、と伝えた。家令は父の顔をうかがった。父は新聞の陰で、小さく頷いた。
翌朝の十時半、わたくしは台所へ下りた。
しげが油の鍋の前で、驚いた顔をした。何も言わずに、揚げたてのコロッケを一つ、皿に載せてくれた。
一升瓶に、しげが手を伸ばす前に、わたくしは自分で瓶を取った。
生まれて初めて、自分で注いだ。少しこぼれた。
廊下の向こうで、足音が止まった。父だった。父は台所の戸口を一度だけ見て、それから何も言わずに通り過ぎていった。
止めないことが、父のやり方だった。止めないことと、見ていないことは違うのだと、わたくしは二十二になって初めて知った。
冷やは、あの酒屋のコップより少しぬるかった。コロッケの衣が、同じ音を立てた。
一度でいいから、まっちゃんと並んで飲んでみたかった、と思った。あの狭い台に、ハムカツとコロッケを一つずつ並べて。互いの代わりに断ったことは、どちらも口にしないまま。あの人はたぶん、わたくしの堅苦しい字を笑うだろう。わたくしは、線で消された二つの、断る、と、書きかけの点のことは、黙っておく。
けれど百年は、あの台の端から端より、ずっと遠い。
百年先の商店街でも、たぶん今ごろ、誰かが一杯だけ飲んでいる。机の上の紙を見て、知らない字に首をかしげながら。
わたくしは、コップを少しだけ持ち上げた。あの商店街の、十時半のほうへ。




