あなたが落としたのは【冥界の斧】ですか?
木こりのヤコブが金と銀の斧を手に入れた、という噂が村に広まったのは、秋も深まった頃のことだった。
ヤコブに詳しい話を聞いた商人のロッテルは、その夜のうちに倉庫へ走った。でっぷりと肥えた腹が波打ち、額からは汗が噴き出すが、この商機を逃してはならないと本能が告げていた。
店じまいした鍛冶屋を叩き起こし、不機嫌そうな店主に銀貨の詰まった袋を突き出して黙らせた。
翌朝、ロッテルは村外れの泉へ向かった。小脇に抱えているのは、昨日おろしたばかりの立派な斧だ。柄は上等なオーク材、刃は鍛冶屋に特注した業物。さらに【幸運】のエンチャント付きだ。それだけに斧は重く、山道に差し掛かると腕がじんじんと痺れてきた。それでも足は止まらなかった。
「古い斧を落とせば、金と銀の斧がもらえたらしい。……この斧を落とせば、何がもらえる?」
口の端が自然と吊り上がった。金と銀の斧が脳裏にちらつくたびに、重さなど気にならなくなった。
やっとのことで泉に辿り着いた。自慢の商人服には木の葉や虫がひっつき、二重顎に蓄えた髭からは汗が流れ落ちている。足はとっくに悲鳴を上げ、今すぐにでも仰向けに倒れ込みたいが、今はそれどころじゃない。
泉の畔に立ち、ロッテルは周囲を見回した。誰もいない。
立派な斧を振りかぶり――わざとらしく手を滑らせた。
「しまったぁ!」
斧は水面に吸い込まれ、波紋だけが広がった。
しばらく待つと、水面がゆらりと揺れた。
現れた女神は、噂通りの美しい姿をしていた。だが、様子がおかしい。表情がない。能面のように整った顔で、ただロッテルを見ている。それだけなのに、全てを見透かされたような感覚があった。
ロッテルは長年商人として生計を立ててきた。盗賊に襲われたり嵐に巻き込まれたり、それなりに修羅場というものを経験してきたのだ。だからこそ、培った商人の勘が、ろくでもないことが起きると告げていた。
女神が水中に手を差し入れ、何かを取り出した。
最初の斧は、嫌でも目に入ってきた。刃が黒く、柄には見たことのない文様が刻まれている。冷気が肌を刺した。見ているだけで目の奥が痛む。それでも視線を外せなかった。
何かが語りかけてくるようだ。その刃を己の首に当てろと。そうか、この斧は血を欲しているのか。ならば捧げよう。己の生き血を――
「あなたが落としたのは、この【冥界の斧】ですか」
女神の静かな声でロッテルは現実へ引き戻された。思わず首筋に手を当てる。大丈夫だ、首はまだ繋がっている。
ロッテルは唾を飲んだ。違う、と言おうとした。
女神が再び水に手を差し入れた。
次は、逆だった。そこに『何か』がある。形も色も、存在すら掴めない。
見ようとするたびに、目が勝手に逸れた。あるはずの場所を見ているのに、何も映らない。いや、映っているのかもしれない。ただ、脳がそれを認識することを拒んでいた。理解してはならない、と本能が叫んでいた。
「それとも、【■■■■の斧】ですか」
音は聞こえた。確かに聞こえた。だが、意味が脳に届く前に、何かが遮った。どうして遮ったのか?どうして、どうして――
――考えるなっ!
ロッテルが深淵に引きずり込まれそうになりながらも、かろうじて耐えたのは、彼の商魂の強さ故か。
――考えるべきは、他にあるだろうがっ!
ロッテルは食いしばりながら脳内のそろばんを弾いた。
木こりのヤコブは正直に「違う」と答えて、金と銀の斧を貰った。では自分が「いいえ」と答えても——あれを、受け取ることになる。「はい」と答えたらどうなる。そのまま斧を渡されたら?……どちらに転んでも、あの斧が来る。
完全に、詰んでいた。
ロッテルの膝が崩れ落ち、諦めの言葉を残そうとしたところで――口が勝手に動き出した。
「私が落としたのは普通の斧でございます! 木こりの噂を聞き、自分も金と銀の斧をいただこうと……いえ、もっと豪華な斧をいただこうと、考えておりました! 大変申し訳ございませんでした!」
気づいたときには、額が地面についていた。それは本能だった。打算でも策略でもなく、ただ生き物として、土に頭を擦りつけていた。
しばらく沈黙が続いた。
「……あなたは正直者ですね」
女神はそう言って、水の中へ消えた。
――斧は、返ってこなかった。
村への道は、来た道と同じはずだった。斧はない。荷物は何もない。体は軽いはずだった。
それでも足が上がらなかった。一歩踏み出すたびに、何かが脚に絡みついてくるような気がした。あの斧の重さより、ずっと重いものが、どこかにのしかかっていた。
村に戻ると、ヤコブが声をかけてきた。
「その様子じゃ、斧は落とし損だったみたいだね」
「だが、斧より大切な物を落とさずにすんだよ」
「なんだいそれは」
「……命さ」




