ゲスイカッパ
「なあ、この街の下水って、危ないらしいぜ」
夜の公園で、友人の圭介がタバコをふかしながら言った。
「危ないって、犯罪とか?」
「違う。カッパだよ、カッパ」
僕は笑った。けれど圭介は真顔だった。
「昔から川や沼にいる妖怪だろ? なんで下水に?」
「進化したんだよ。人が川をコンクリートで埋め立てて、流れを下水に変えただろ。だからあいつらもそこに住みついた。今じゃマンホールの下にいるって噂だ」
冗談のように聞こえたが、その目は真剣だった。
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数日後。残業帰り、雨に濡れた歩道を歩いていると、マンホールの蓋から音がした。
「……ぽちゃん」
雨水が流れる音に混じって、不自然な音が続く。
足を止めた瞬間、低い声が聞こえた。
「……ミツケタ」
ぞっとして振り返るが、誰もいない。視線を戻すと、マンホールの隙間から二つの光が覗いていた。目だった。ぬめりを帯びた、異様に丸い瞳。
次の瞬間、蓋の隙間から手が伸びた。
緑色に濡れ、異様に長い指。僕の靴を掴んだ。
「やめろ!」
必死に振り払い、転ぶようにして逃げ出した。背後で蓋が鳴り、水音が耳にこびりついた。
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翌日、圭介にそのことを話すと、奴は顔を引きつらせた。
「……マジで出たのか」
「冗談じゃない! 夢じゃなかった」
「やっぱりこの街にもいるんだな」
圭介は、さらに信じがたいことを言った。
「下水カッパに目をつけられたら、最後だ。連れていかれる」
僕は笑い飛ばそうとしたが、前夜の冷たい手の感触を思い出し、笑えなかった。
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夜になると、夢を見るようになった。
夢の中で僕は必ず下水道にいた。コンクリートの壁。濁った水が流れ、湿った空気が肺を圧迫する。
暗闇の奥で、ぬるりと光る目が浮かんでいる。
近づくと、それは子供ほどの背丈の影だった。だが四肢は不自然に長く、頭には金属の蓋のようなものが埋め込まれている。
「還レ」
声が響く。逃げようとしても足が動かない。次の瞬間、水の中から無数の腕が伸び、僕を掴んだ。
目を覚ますと、体は汗でびしょ濡れになっていた。
⸻
数日後。圭介が行方不明になった。
最後に目撃されたのは、河川敷近くの下水処理施設だった。警察は「事故の可能性」と発表したが、僕には分かっていた。
――下水カッパに連れていかれたのだ。
その夜、圭介からLINEが届いた。
《助けて。水の中にいる》
慌てて返信したが、既読はつかない。スマホを握る手が震えた。
耳を澄ますと、部屋の床下から水音がした。
「ぽちゃん……ぽちゃん……」
ぞっとして畳を見下ろす。そこには小さな水溜まりが広がっていた。
「還レ」
頭の奥で声がした瞬間、足首を冷たい手が掴んだ。
⸻
気がつくと、僕は暗いトンネルに立っていた。
どこまでも続くコンクリートの下水道。足元には濁った流れ。
「……やっぱり来たか」
前方に、圭介が立っていた。だが、その目は虚ろで、体は濡れて光っていた。
「逃げろよ!」
叫んだが、圭介は首を振った。
「無理だ……もう、俺は“こっち側”だ」
その時、暗闇から無数の影が現れた。頭に金属蓋を埋め込み、体中が苔と泥に覆われた異形。子供の背丈ほどだが、異様に長い腕で水を掻きながら近づいてくる。
「還レ」
声が重なり、トンネルが震える。
僕は必死に後ずさる。だが濁流が逆巻き、背後からも手が伸びてきた。
圭介が、最後に微笑んだ。
「すぐ慣れるよ。水はあたたかい」
冷たい手が僕の口と鼻を塞いだ。息ができない。
視界が揺れ、世界が水で満たされる。
⸻
目を覚ますと、僕はベッドの上にいた。
夢……だったのか?
だが服は濡れており、部屋の床には泥の跡が続いていた。
スマホに新着通知があった。圭介からだった。
《今夜も待ってる。流れの下で》
手が震える。窓の外を見ると、雨が強くなっていた。
下水口からあふれる水の音が、はっきりと聞こえてくる。
「ぽちゃん……ぽちゃん……」
それはただの水音ではない。
呼んでいるのだ。僕を。
――次に引きずり込まれるのは、間違いなく僕だ。