魔女の部屋にて
魔女がいたのは、日のさんさんと差し込む、こぢんまりとした部屋だった。物はかなり多く置かれているが、よく整頓されており、掃除も行き届いた清潔な空間である。薄暗く淀んだ空気を想像していたエイダは、拍子抜けしたほどだ。
出迎えた魔女もまた、想像とは懸け離れていた。鉤鼻の老婆ではなく、清楚な雰囲気の若い女性だ。かなり年下に思われたが、見た目通りの年齢ではないのだろう。黒いローブも尖った帽子も身につけておらず、長い杖も手にしていない。質素ながら品のある淡い紫色のワンピース姿だ。無表情ではあったが、冷たさを感じさせない穏やかな口調で、ソファに掛けるよう促す。
その魔女については、母から聞き知っていた。5年前の結婚式の前夜、妻としての心得を伝えるという習わしの最後に、母はエイダの手を取り、魔女と連絡を取る方法を口にしたのだ。離婚が難しい貴族の結婚だからこそ必要な、最終手段だと前置きして。
「どうしようもなく結婚生活が辛かったら頼りなさい。妻としての義務を一通り果たした後が望ましいけれど、それ以前であっても、あなた自身の心を守るためであれば躊躇う必要はないわ」
そう言ってどこか寂しげに微笑んだ母を思い出す。両親は仲が悪いわけではなかったが、相互に愛情があったとは言えない夫婦だった。母がどのように思っていたのかはわからないが、不幸ではないが幸福でもなかったのだろうか、とエイダは今になって思う。
母は昨年、病で儚くなった。孫の顔を見せるのが間に合ったのは、せめてもの慰めだ。
その母から教えられたとおりに、中心街の広場に設置されている掲示板に定型文を記載した書面を貼り出すという方法で、エイダは魔女に連絡を取った。翌日、聞いていたとおり、封書をカラスが運んできた。手紙に書いてあった通りの手順を踏み、こうして魔女の部屋を訪れるに至った。
魔女といっても、国に登録されている女性魔法使いではない。薬の魔女と呼ばれる特殊な存在だ。訪ねた者に必要な薬を用意してくれるという。それは普通に調合した健康増進の薬草に、魔法で効能を付加させたものと聞く。その効能というのが心に作用する魔法ばかりであり、心に作用する魔法はほとんどが禁術だ。魔女の扱う薬草茶は、非合法の魔法薬というわけだ。
壁の一面は天井から床まで細かく仕切られた棚が据えてある。それぞれの棚には、抱えるような大きさの蓋付きのガラス容器が一つずつ納まっており、その中には種類の異なる乾燥した草花が入っている。
「どの薬草茶にするかを判断するから、質問に答えてくださるかしら」
「はい」
「まずは薬を欲しいと思った理由を教えてくださる?」
エイダは促されるまま、説明を始めた。
官吏である夫に愛人がいるのは、結婚前に母が行った身上調査でわかっていたため、あらかじめ承知していた。貴族の結婚など家同士の契約であるから、愛情を持てなくても仕方がないと諦めていた。当初は、夫が愛人についてエイダに知られるような素振りを見せる様子はなかったため、構わないと思っていたのだ。
ところが、一年ほど前から外出と外泊があからさまに増え、半年前には愛人に家を買い与えたのを知ってしまった。夫の書斎で偶然見つけた家の権利書がきっかけだった。そのような書類を机の上に出しっぱなしにするくらいに、もう妻の目を気にする気遣いもなくなったのだと、エイダは思った。
数ヶ月前には、街中で二人が連れ立って歩く姿を偶然見かけた。夫の母親が、家で家政と育児だけに携わっているエイダを気遣い、気分転換にと送り出してくれたのだが、それが仇となってしまった。屈託のない笑顔を浮かべる夫を見て、エイダは心が冷えるのを感じた。日頃からエイダにも優しい笑顔を向けるが、それとは明らかに質の異なる笑顔だった。
その日以降、エイダは魔女の秘薬について思い浮かべるようになった。
先月、息子のお披露目を終えた。子供が三歳になって初めて外部に紹介するという風習は、乳児の死亡率が高かった頃の名残だ。そのお披露目を終えたことで、妻としての最大の義務を無事に果たしたといえる。本来は子供は複数人いるべきだが、自分にできるのはここまでだと思い、魔女を訪ねることにした。
一通りの説明が終わると、魔女は小首を傾げた。
「それで、あなたはどうしたいと思っているかしら?」
エイダは静かに、胸の奥に秘めていた願いを口にした。
魔女の部屋に、ブライアンは足を踏み入れた。
迎え入れた少女は、優美な仕草でソファを勧めた。
「男の方が来られるのは滅多にないのよ。よくここまで辿り着けましたね」
「苦労した、とだけ申しましょう」
ブライアンは少女を睨む。自分の母親が事情を承知している様子だったにも関わらず、なかなか口を割らず、魔女の存在を聞き出すまでに数ヶ月を要した。さらに魔女の部屋に辿り着くまでにもう数ヶ月。
「あなたが薬の魔女で間違いないのでしょうか?」
「そう呼ばれているわね。さて、どういったご用件かしら?」
「まずは私の妻に関して確認したいことがあります。半年前にあなたと面会しているはずだが、そのときに妻に飲ませた薬について伺いたい」
息子の披露目式を終えた翌日、妻のエイダが誰にも告げずに外出したため、家では騒ぎになった。家人と共に探し回り、数時間後に街の中央にある公園で見つけた。だが帰宅したエイダは、一見なんの変化もなかったものの、どういうわけかブライアンのことだけを忘れていたのだ。二人で話をすれば、夫であるとすぐに納得はしてくれる。だが、数分でまた忘れてしまう。
「これはあなたの仕業ですか?」
ブライアンは問い詰めた。魔女は表情を変えることなく答える。
「あら、仕業という言い方は心外ね。私は依頼者から事情を聞き出して、当人の希望に沿うと思われる最適の効能を煎じた薬草茶を勧めるの。その効力で生じる矛盾について当人は気付かない、という効能も付け加えてね。それだけよ。そのお茶を飲むかどうかは、ご本人が決めるのだもの」
「妻は、私を忘れることをあなたに依頼したのですね?」
ブライアンは重ねて問う。魔女は首を横に振った。
「少し違うわ。彼女は、あなたを見ても辛くならないようにしてほしい、と希望したの」
「辛く……? 私を見ると辛かった? その理由は言っていましたか?」
「あなたに愛人がいるからですって」
「なっ……。そんな者などいない!」
思わずといった様子でブライアンは声を荒げた。
「あら、エイダ様がそうおっしゃってたわ。結婚前からの愛人だから、嫁ぐときにはすでに、愛情は得られないものと諦めていたそうよ」
「結婚前からの……? まさかキンバリーのことか? 違う、愛人などではない! 彼女は姉だ!」
ブライアンは焦ったように説明した。キンバリーは、父の恋人だった平民の女性が、父と別れた後に生んだ娘、つまり異母姉であるのだと。
十年ほど前に、金銭的に行き詰まっていた彼女が家まで訪ねてきたときには、すでに父が亡くなっていたが、家令が事情を知っていたので裏付けも取れた。他家に漏れないよう、なにより心臓を悪くしていた母に知られないよう、誰も介在させずに直接自分で対応することにした。彼女の夫が金遣いの荒い人物だったせいで一度に多くの金銭を渡せず、月に1度会っては、少額ずつ援助してきたのだった。
だが一年ほど前から、キンバリーと夫の仲がどうにもならなくなり、仲介を求められたため頻繁に会うようになった。さらには離縁が決まり、彼女が一人で生活を立てられるよう、下宿屋を始める手筈を整えたのだ。
そこまでを一気に述べたブライアンに対して、魔女は肩をすくめてみせる。
「事情は理解したけれど、それは結婚前に、きちんとエイダ様に説明しておくべきだったのではなくて?」
魔女は淡々と言う。ブライアンは苛立ちを感じた。
「エイダは昔から母と仲が良いのです。母に伝わる可能性は少しでも低くしたかった。それにエイダにも煩わしい思いはさせたくありませんでした」
「その結果がこれですか」
魔女は無表情のままで、語調にもまるで変化はない。だがブライアンは彼女の言葉に嘲りを汲み取り、ギリと唇を噛む。
「魔女殿がどのように考えても構いません。ともかくもエイダにかけた魔法を解いていただきたいのです」
「無理よ」
魔女はにべもない。
「この通りだ」
ブライアンは頭を下げた。
「あら、魔女などに礼を尽くすようなお貴族様もいるのね。でもそうするのは誰のためかしら?」
「……私自身のため、でしょうね」
「そうね、ご名答。そう答えられたのは誉めて差し上げるわ。でもね。エイダ様ご自身が、あなたを拒絶したのよ。そう仕向けたのはあなただわ」
「…………」
「そもそも心にかけた魔法には、解除の魔法が存在しないのよ。禁呪とされる理由の一つはそれね」
ブライアンは何も言い返せなくなった。しばらくの沈黙の後、顔を上げ、魔女をまっすぐ見つめる。
「私は望んでエイダを妻に迎えました。母親同士が友人だったので、以前から知っていて、好ましい女性だと思っていたから……。そんな妻に、まるで記憶されていない。側で話しかけている間しか、私を認識してもらえない。たとえ隣にいても、まるで目に映っていないかのようだ。こんなのは耐えられない」
「エイダ様もおっしゃってましたわ。もう耐えられないって」
魔女は淡々と告げる。
「そういえばあなた、愛人に家まで買い与えたんですって?」
「愛人ではないと言っているではないですか!」
ブライアンは再び声を荒げた。
「彼女が下宿屋を始めるための家です。私は父に代わって責任を果たしただけだ」
「そうだとしても、何も知らされていなかったエイダ様には、そのようには思えなかった。夫が素性の知れない女性と頻繁に会い、その女性のために家まで買っている。そうとしか見えなかった。そして、その状況を耐え難く感じた」
魔女は相変わらず表情も口調も変えることなく続ける。
「それに隠すのであれば、完全に隠しとおすべきではなくて? エイダ様が家について気付いたのは、その権利書を見たからだそうよ」
「……見られた。あ……。ようやくすべて片が付いて、ホッとして机に置いたまま……。だが、ほんの短時間だった。すぐに家令に仕舞わせて……。いや、それも私の落ち度ですね」
再度、部屋に沈黙が落ちた。
しばらくして、ブライアンは魔女に視線を向けた。彼の顔に諦めが浮かぶ。
「お時間をいただきました。失礼します」
ブライアンが部屋を出ようと魔女に背を向けた。
「一度掛かった魔法の解除は、私にはできないけれど」
魔女は起伏のない声音で告げる。
「ひょっとしたら、あなたにはできるかもしれないわ」
ブライアンは、弾かれたように振り返った。
「毎日何度も彼女に話しかけるといいわ。あなたの存在を再認識するたびに、魔法の拘束は緩んでいくのよ」
「そうしていれば、いつか魔法は解けるのですね?」
「いつかは、ね。でも、さほど喜べるような方法ではなくてよ。彼女があなたを思い出すのは来月かもしれないし、来年かもしれない。あるいは十年後、いいえ、もっと掛かるかも」
あまりにも曖昧で、気の遠くなるような言い様だ。それでも、唯一の可能性だった。
「あなた次第よ」
魔女はそう締めくくった。
ブライアンは魔女の言葉を反芻する。エイダが自分を拒絶したのは、自分が原因だ。そして、その結果を覆すことができるかもしれないのは、自分自身だけだという。
簡単ではない。いつになるかもわからない。それでも、妻の心を取り戻す可能性がゼロではないのなら、やることは一つだけだった。
ブライアンは一言礼を述べてから、魔女の部屋を後にした。
了