瞳
ひらひらと、階段の上から落ちてきた一枚のA4の紙。
私は目の前に降って来たそれを、一度掴み損ね、二度目で今度こそ捕まえた。
『保健だより』と書かれた紙が、なぜ上から落ちてきたのか。不思議に思って上に目をやると、真っ黒で不気味な目を見つけた。
「——ぅわ」
思わず不快な声を漏らしてしまう。漏らしてしまった。
取り繕うように、私は咳払いをして誤魔化す。
「すみません、そのプリント……拾ってくれて、ありがとうございます」
誤魔化せたのかは分からないが、微笑みを浮かべて再度、上にいる彼女に向けて微笑むと、そんな言葉が返ってきた。
相変わらず、無愛想で暗い奴だなと思う。
丁寧な言葉遣いは、同じクラスで過ごして二年になるのに距離を感じさせ、いつも無機質で平坦な声は不気味ですらある。
だから正直、私は彼女が苦手だ。
「あぁ、今持ってく」
人のことを言えないくらい、粗暴な性格であることは自覚しているけど、いつもより刺々しい口調になってしまっている気がするのは……やはり、私が彼女を苦手にしているからだろう。
階段を登って彼女の元に着くと、私はすぐに手に持っていたプリントを手渡す。
「ありがとうございます」
「別に、たまたまだから」
それだけ言って、すぐに階段を降りて帰ろうとする私だったが、背後から伸びてきた手によって引き止められる。
「待ってください」
掴まれた右肩を掴んで放さない彼女の握力に驚く。
私よりも頭二つ分は大きい体だ。平均よりも小さい体格の私より数段は強い力を感じて、私は思わず、
「力強いな、アンタ」
と、会話をしたい訳でもないのに、そんなことを口走ってしまっていた。
いけない、早く帰りたいのに。
「そうですか?」
「あー、まあ、そんな気がしただけ。それじゃ——」
「待ってください」
さりげなく誤魔化して帰ろうとしてみるものの、やはり彼女に引き止められる。だから、力強いな、アンタ。
「お願いがあるんです」
「お願い?」
「はい」
少し癖のある、黒く野暮ったい前髪の隙間から見えた、黒い双眸が、私を見つめる。
……やっぱり苦手だ、コイツ。
「なぜ目を逸らすんですか?」
「別に。ちょっと人見知りなんだよ」
「そうでしたか。デリカシーに欠けていました、すみません」
丁寧にお辞儀をして謝る姿は、妙に堂に入っていると言うか、いちいち大袈裟だと言うのに、コイツがすると違和感がない。
そのことが解るくらいには、私は彼女のことを知っている、と言うことなんだろう。
「しかし失礼ですが、人見知りをするほど繊細な方に思えません」
「本当にデリカシーに欠ける奴だな」
「すみません」
また綺麗にお辞儀をする姿を見て、少し恥ずかしくなる。
コイツも、それが解るくらいには私を知っているのだ。それが妙に恥ずかしく思えた。
「で、お願いって?」
「はい、実は——」
話を聞いて、その内容に同情する。
どうやら担任に仕事を任されたらしい。が、不運にも、うちの担任は学年主任でもある。その所為か、頼まれた仕事の内容も大変なものだった。
「で、プリントを運ぶように、と」
「はい」
「しかも、同学年の全クラスにね……」
「友人と協力するようにと言われましたが、友人と呼べる人が居ないので、どうしたものかと」
「それで、ちょうど通りかかった私に声をかけたのか」
「いえ、それは正しくはありません」
「あん?」
私は彼女に説明をされながら廊下を歩く。
そして、当てが外れると同時に、予想を間違えたことで生まれた疑問を晴らすため、訊き返す。
「正しくないって?」
「それは——」
口を開いて、閉じる。
何か言いたそうな仕草を見て、私は溜め息を溢す。
機械じみた奴だけど、たまに人間らしいところを見せるから、やっぱりコイツは人間なんだなと、そんなことを思う。
「なに? 言いたいことがあるなら聞くけど」
「……いえ、大丈夫です」
「あっそ」
大丈夫と言うのなら、これ以上は訊かないでおこう。
強引に聞き出すようなことでもないし、そんな馴れ馴れしくする相手でもないんだから。
そう思って隣の彼女を見上げると、目が合う。
その深い黒の瞳に吸い込まれそうになるような……そんな錯覚を、軽く頭を振って振り払うと、私は取り繕うように話す。
「ま、まあ、プリントくらい直ぐでしょ」
「直ぐ、とは?」
「直ぐ運び終わるでしょって言ってんの」
「手伝ってくれるんですか?」
「そう言ってんでしょ。成り行きだから……仕方ないし」
嘘だ。
本当は手伝わずに帰ろうと思っていた。あまり一緒に居たくない相手と、一緒に居ては、都合が悪い。
それなのに、私は……なんで、手伝うなんて言ったんだろうか。胸の奥に芽生えた自身に対する疑念が、指に刺さった棘のように鬱陶しい。
「それで、プリントはどこにあるの?」
「印刷したものが段ボールに入ったまま、一組の隣の準備室に——」
「ココじゃん」
直ぐ真上の教室の表示プレートを見上げて、私は開いたままの扉から中に入る。
すると長テーブルの上にある段ボールが一つ、その中央に置かれていた。
「これ?」
「はい、そうです」
「持てるかな」
私は段ボールを持ち上げて、そのまま運べるかどうか試してみる。中にはかなりの枚数のプリントが入っているものの、なんとか持ち上げることはできそうだけど——っ⁉︎
あまりの重さに体制を崩した私が後ろにひっくり返りそうになり、目をギュッと瞑った瞬間——。
「——危ない」
——ふわっ、と。
私は背中から柔らかい温もりに包まれた。
私よりも頭二つ分は高い彼女に、包み込まれているのだと、直感的に察する。
「……え」
「危ないです。大丈夫ですか?」
「あ、ああ、うん、大丈夫」
すぐに放されたものの、突然のことに内心は穏やかでない。
「段ボールは私が持ちます」
「……大丈夫か?」
「はい、私の方が力持ちですから」
どこか釈然としない返しをされたことは聞き流し、段ボールを持ち上げた彼女を引き連れて部屋を出ようとしたところで、私は、言い忘れていたことを伝えるために振り返る。
「なあ」
「はい?」
「その、ありがとう……後ろから抱き止めてくれなかったら、危なかった」
彼女の目を直接見て言うべきなんだろう。
誰かに感謝する時には礼儀として、そうするべきだとは思っている。けど、それは流石にできなくて……ましてや、今は、流石にできそうもない。
顔に集まってくる熱を早く散らしてしまおうと、私は手でパタパタと風を送る。
「……いいえ、大したことはしていません」
「そうか」
私が今度こそ部屋を出ようとしたところで、
「はい。ですが……お願いがあります」
「お願い?」
彼女は持っていた段ボールをテーブルに置く。
「……いつも、私と目を合わせてくれませんよね」
「え……あ、えぇと、そうか?」
「そうです」
突然、そんな図星を突かれてしまったので、私はしどろもどろな返事しかできず、下手な誤魔化し方をしてしまう。
「私、本当は待っていたんです」
「待っていたって……?」
なんのことを言っているのか分からず、私は訊き返す。
「階段から、態とプリントを落としたんです。貴女なら、拾ってくれると思ったから」
彼女は私の目の前までやってきて詰め寄ってくる。
「な、なんで、そんなこと……」
「ずっと、話したくて……そして出来ることなら、こうして——」
その長い前髪を掻き上げて、私と、目を合わせる。
「貴女と、二人になりたくて」
黒い落とし穴が、私の前に現れた。
ああ、怖い。
だからこの目が苦手なんだ。
「私の目を見てくれませんか?」
眼前に晒された黒い双眸から逃れる為に、私は目を開けない。
しかし、頬に触れた温もりを感じて、反射的に目を開けてしまう。
「あ、やっと見てくれましたね」
「——あ」
底が見えない黒い奈落が私を覗く。
ああ、だめだ。
この魅惑的な瞳に、吸い込まれてしまう。
自分が自分じゃなくなるような虚脱感に襲われて、私はその恐怖から反射的に、彼女の胸を押して突き飛ばす。
「力、弱いですね」
でも、私の力じゃそれも叶わず、私は彼女に抱き寄せられる。
「ずっと、私は見ていたんです、貴女を。でもそれ以上に……貴女も私を見ていてくれた」
「そ、それは」
「気づいてないって思っていたんですか?」
ぐいっと腰を抱き寄せられ、目と目の距離が近くなる。
もうこれ以上、その目で見ないで。
「貴女が私を見れば、私も貴女を見返していました。でも、決して目を合わせてはくれない。だから——」
——ずっと、こうしたかったんです。
完全に、私の瞳と彼女の瞳が重なり合う。
ゼロ距離で、視界に映るのは黒一色。
移りこんだ私の、困惑しつつも蕩けた表情が見えたのを最後に……私はただ、この黒さに溺れることしかできなかったのだった。
見られていると気づきます。
視線を感じるって、不思議ですよね。




