6.思考に至る病
俺は七瀬葵のことを異性として完全に意識するようになった。
中学の奇行事件は、偽の七瀬を飾り立てるただのアクセサリだと感じるようになった。
校内でよく見ていた凛とした表情。友達が少なく、近寄りがたい雰囲気。
それらはステレオタイプな価値観に、七瀬を当てはめていたから発生した思念だった。
今では、本質的な彼女は、とてもやさしく誠実だと感じる。
そんなことを延々と考えていた最中のため、冷え切ったリビングから、廊下に出た俺だが、大して苦ではなかった。
少し汗ばむ中、俺は洗面所で身支度をする。
ちょっと跳ねた髪を直すのも、歯を磨くのも、本能的合理性だ。
無意味ではある。しかし、七瀬に会いたい俺にとっては、価値がある行為だった。
と言っても、漠然と会いたいと感じているだけで、七瀬の連絡先も知らなければ住所も知らない。今現在、どこで何をしているかも知らない。
俺は、友達との夏祭りの約束を遂行するために動いているだけに過ぎなかった。
寝ぼけた表情が現実を突き付けてくる。
「俺の顔は、微妙だな」
整いすぎている顔は、恋愛においてとても価値がある。下手をすれば、多量のダイアモンドよりも。津々浦々、世界中で顔が良い人間が恋愛市場で勝利する。
しかし、何故だろうか。人間は、本能的に顔が良い人間が好みだからだ。
本能的に何故好むのだろうか。やはり優れた遺伝子を持っている確率が高いからだ。
人間が無意識的に良いと錯覚していることもあるが、人工知能に言わせれば確かに優れている傾向があるらしい。
遺伝子的に、だ。
しかし、一歩俯瞰して恋愛を考えてみる。
人間は、本能とは別に理性を獲得している。
理性的に良い遺伝子とは、どんなものだろうか。
顔が良いと次世代に繋がりやすい。顔が良いと頭が良い可能性が高い。
やはり顔は重要な要素だ。顔が良い人間と付き合うのが良いだろう。
しかし、緩い相関であって完全ではない。
であるのならば、思考や雰囲気から賢い人間と付き合うのが良いのだろう。
さらに、運動ができ、優しく実直だと完璧だ。
そういう意味でも、七瀬はやはり別格だった。
あの七瀬が凡庸たる俺を選ぶ確率は低いだろうな。
この思いは胸に仕舞い込み、身支度を終えた俺は、再び蒸し暑い廊下に出ると、玄関で靴を履いた。
コンコンと靴の先を地面に打ち付ける。
すると、リビングから明瞭な母親の声が聞こえてきた。
「歩どこに行くの!?」
「ちょっと祭りに」
「お金は後であげるから、帰りに牛乳勝ってきてちょうだい」
「分かったよ」
いつも通りの会話をした後、僕はドアノブに手をかけた。
この街は盆地だ。田んぼが当たり一面に広がっている。中央に行けば行くほど、人口密度は高くなる。僕の家は中心の外れにあり、祭りの場所は中心で行われた。
花火大会もない、小さな祭り。
地域のおじさん、おばさんたちが屋台役を受け持つような、そんな。
辺りは薄暗い。街灯が明りの交換を始めようとしている。
珍しく通りにはチラホラ人がいる。と言っても、その大半が知り合いだった。
僕は挨拶をしながら、急ぎ足で祭りの会場へと向かった。