4.思考に至る病
人けの少ない夏の砂浜で迷子の男の子がいた。七瀬は迷うことなく近づくと、熱心に男の子の話を聞く。
「名前は?」
「夏希」
「お母さんとお父さんは?」
「分かんないよ!」
泣きじゃくる夏希の頭を撫でると、七瀬は柔和な表情をした。
「大丈夫。私たちがお母さんの所まで連れて行くから」
「うん」と呟く夏希の頭を再度撫でると、七瀬は俺たちを見た。
「藍坂くん。駐車場を探してくれる? 谷中さんは、この子の傍にいられる?」
「七瀬は?」
「私は、交番に連絡する」
時間は、あっという間に流れた。夏希の両親は、この近辺に住んでいるらしく、はぐれた後は、周囲や家を探していたそうだ。
数時間が経ち、七瀬の読み通り、交番に両親は来た。
「ありがとうございます。面倒まで見てもらって」
「いえ、何も問題はないです」
駐在は中年の男性で、子守がとても苦手なようだった。一向に距離が縮まらない二人を見た、七瀬が相手をする事になったのだ。
俺たちは、とても感謝された。
しかし、事件が解決したときには、既に日が傾き始めてきた。
堤防の上で俺たちは、貰ったアイスを黙々と食べる。溶けてしまうという理由もあるが、単純に休憩したかったのだ。七瀬も谷中も、緊張が解けた時のようなホッとした表情をしていた。
とはいえ、海浜清掃には、ノルマがある。少しはゴミを片付けないと怪しまれる。
今から集めきれるだろうか。いや無理だ。諦めるか。
いや、少しでも多くゴミを集めた方が良い。そう解釈した俺は、アイスのコーンを素早く口に放り投げた。
「七瀬。ゴミ集めないと」
「大丈夫だよ」
「まだ全然集めてない。もう少しで日も暮れる。さすがに怪しまれるぞ」
「だからどうしたの。私たちは、良いことをした。当然のことをした。教師が分かってくれなかったら、仕方がないよ」
七瀬は、ニッコリと破顔した。薄ピンクの唇が三日月を描き、目元からは優しさが溢れ出ている。学校では見たことがない笑顔だった。
「怒られるだろ」
「もう手遅れだよ。なるようにしかならない」
確かにそれは事実だった。今から日没まで集めたところで、たかが知れている。ゴミ袋一つ分も集まらないだろう。とはいえ、出来るだけ多く集めたら、教師も納得してくれるのではないか、と俺は思っていた。だから、七瀬の諦観には賛同でそうになかった。
俺は再び抗議の声を上げようとしたところ、それを制するように谷中がクスリと笑った。
「本当に葵ちゃんらしいよ」
「そうかな?」
「以前もこんなことあったよね? 葵ちゃんは困っている人を助けたけど、学校が課したノルマに到達できなかった。確かそのときは、怒られちゃったよね」
七瀬はコクリと頷く。そんなことがあったのか。すーっと心から抗議の思念が消えていく。
「今回もそう。私なら、自分のことばかり考えちゃって、警察に任せきりにしちゃうかも。そもそも、私は話しかけられない」
「いつも、海奈ちゃんはそうだね。そう言って、いつも助けるんだ」
「どうだろうね」
谷中はわざとらしく笑った。俺も谷中と同じだと思った。数秒前まで、説教されるか否かで行動を変えようとしていた。
谷中は、俺にも七瀬的素質が眠っていると思っているようだが、それは間違いだ。
俺は利己な性質が強い。それが恥ずかしいと思えた。
しかし、七瀬と俺や谷中の違いは何だろうか。その根本的原因は、何だろうか。
俺は思索を進めると、ある悲劇的な結末に辿り着いた。
「なぁ……最低な事言ってもいいか?」
「うん。どうぞ」
七瀬は、淡々とそう返す。
「助けることに何の意味があるんだ。七瀬は、人生が意味ないと思っていて、人助けは特別な何かでもないだろう。結局、全員死ぬんだ」
「最低な事なんかじゃなかった。藍坂くんは、やっぱり凄い」
「え?」
七瀬はコーンを口に押し込むと、口をもぐもぐと動かした。
俺と谷中は、ただ黙ってその様子を見つめていた。
数秒が経ち、ようやく飲み込んだ七瀬は、満足そうに青空を見た。
「人が死ぬのなら、この世のすべての事柄は意味がない。人助けだって意味がない。そんな疑問を抱く時点で凄いと思う。多分だけど、普通に社会生活をしている人は、人助けは良い事だと感じて、だから相反する感情を抱かせる事を言う人を嫌う。でも、結局意味はない。この根本的な疑問を解消できていない」
七瀬の言っている意味を理解できなかった。長年付き添った谷中なら分かるはずだ、と一瞥する。しかし、谷中も分かっていないようで、当惑していた。
「七瀬さん。それどういう意味?」
「なぜ勉強をするのかって聞かれたら、谷中さんはなんて答える?」
「え……将来のためとか?」
「仮にそれが正しいとして、数学の勉強も正しいとするよ。数学の勉強をしていたら、将来のために役立つよね」
「うん」
「でも、人生の生きる意味は、無だよ。全てが無くなってしまう。人助けも無になるよ。善悪なんて最初からないよ。つまり、人助けが良い事。相反する感情を抱かせる人間は悪人だと仮定する人は、全てが無に帰すことを考慮していないんじゃないかな?」
「全てが無に帰すという条件を忘れているってことか?」
「うん」
七瀬はそう言うと、青く輝く海を指差した。海はどこまでも果てしなく続いている。
「海は万物の幸とよく言うけど、海水は何れ干上がる。何れ海水は熱水に変化する。万物の幸じゃなくなるし、良いともされない。適温である時間軸で、良いってことじゃないかな」
七瀬の言葉を真に理解できなかった。ただ、なんとなく納得はできた。
全てが無意味である。しかし、ある時間軸では無意味じゃないと言うことだ。
俺がそう言うと、七瀬は頷いた。
「この場合は、まさに本能的合理性じゃない?」
七瀬葵は、本能的合理性を軸にして生きていた。