【02】お飾り妻
ミスで一部内容が重複していました。
「君を愛することはない」
私の夫であるライダー侯爵家嫡男のブライアンは、初夜を終えた後にそう言った。
王侯貴族の結婚では、初夜を無事に済ませられたかの確認が使用人や家族の手でされる。特に、女性が初婚の場合は出血がしっかりとあり、処女だったかの確認は大事だ。恥ずかしさは多少あったものの、血筋を保たねばならない貴族にとってはそれが普通なので、私は処女を失った後大人しく、古参なのだろう侍女からの確認を受け入れた。
そうして無事に、私は処女であり、夫婦の初夜は無事に終えられたと確認された。私たちの交わりに何も問題は起こらなかったのだ。
……けれどその、初夜の確認をした侍女が立ち去った直後、ブライアンは前述の言葉を私に告げた。
私は訳が分からず目を点にして、横の夫を見上げた。ただでさえ初めての経験ばかりで疲れていた私の頭は、夫の言葉を理解し受け入れる事が出来なかったのだ。
「…………え?」
長い時間をかけてそう絞り出した私の横で、ブライアンはベッドから体を起こすと、何も身に纏っていない汗ばんだ体に、脱ぎ捨てられていた己の服を身に纏い始める。勿論、初夜を終えたからと裸のまま眠る理由はないので、私もこの後服を着るつもりでいた。だがまだやっと、行為が終わったばかり。私が教わった夫婦の夜は、大体、行為が終わった後は少しピロートークを交わして、それから片づけて眠りにつくなんて書かれていた。
ブライアンはいつでも私に紳士的だった。初婚で処女の私を気遣い、「大丈夫か?」「緊張しないで」「ほら、こちらに集中するんだ」と何度も声をかけながら、私の体を開いて行った。普段は優しくても夜だけ暴力的だったり、女性に気遣いのない男性も多いと聞いた。自分の夫がそういう男性ではなかった事に安堵して私は幸福を感じていたのだ。
けれど、私の声を聞いたブライアンは、今まで聞いた事のない、冷たい声を向けてきた。
「はぁ……一度で理解してくれないか? 君は私の妻になったが、私は君を愛する事はない。私には既に愛する女性がいるんだ。だが、彼女との結婚を、両親は許さなかった。だから両親が許しそうな女を探していて、たまたま君を選んだだけだ」
彼の言っている事が理解できない。言葉そのものは耳に入ってくるのに、まるで素通りしてしまったようだった。
私はなんとか体を起こす。そしてまだベッドに腰かけているブライアンへと手を伸ばした。
「ブライアン様……」
彼の袖から覗いている、彼の男性らしい筋肉の前腕に触れる。
その瞬間、ブライアンは立ち上がりながら私の手を振り払った。
「触らないでくれ」
「ぁ……ぁ……」
「……いいか。君は大人しく、この屋敷で暮らしていればいいんだ。金は――家令や、執事のギブソンが止めなければ自由に使っていいが、外に出て他の人間と無駄に顔を合わせるのは許さない。勿論だが、私が君を愛していない事や、私に最愛の人がいる事を、私の両親や使用人たち含め、誰かに言ってみろ。……君のお父上は前以上に迷うだろうし、君の弟妹は、まともな結婚も就職も望めないだろうな」
ブライアンは私の耳元に口を近づけて、囁くように言った。その最後の言葉に、喉からおかしな音が鳴った。
お父様にお母様、そして弟妹たち……まだずっと幼い、あの子たち。家族の顔が浮かぶ。
固まった私に気をよくしたようで、ブライアンは僅かに笑みを浮かべて寝室を出て行った。
朝を迎えた時、私の横には誰も寝ていない。昨夜はどうやって寝たのか、その記憶すら定かではなかった。
起きた時、私は昨夜ブライアンが態度を急変させた事を覚えていた。それを象徴するかの如く、初夜の朝だというのに、私の横には誰も寝ていない。……その現実がありながら、私は昨日は幻覚を見て幻聴でも聞いたのかもしれない。そう思った。
簡単には信じられないほど、婚約者だった頃のブライアンは私に優しく、甘かった。
■
「ブリンドル伯爵令嬢。どうか私と一曲踊っていただけませんか?」
自分の踊りに自信がなく、舞踏会に来るたびに会場の端にいた私に、ブライアンは優しく手を差し出してくれた。顔が良く、ハンサムな年上の素敵な男性に誘われて、浮かれない少女はいない。
彼にエスコートされると、自分は踊りがこんなにうまかっただろうかと思う程、彼と踊るのは楽しかった。それでもその時は何の関係もない男女。一曲ですぐに離れようとする私を、彼は引き止めた。
「どうか、もう一曲」
熱のこもった声と瞳でそう請われて、私は断る術を持たなかった。
夢見心地でブライアンと……ライダー侯爵令息と踊った日の次の日には、実家のブリンドル伯爵家に、ライダー侯爵家から婚約を飛び越えた結婚の申し入れがあった。舞踏会の事を私から聞いていなかった両親は仰天し、父は椅子から落ちて腰を強打した。
「あの日……壁際で佇む貴女に一目惚れしてしまったのです」
父が送る先を間違えていませんかと返信すると、ブライアンは単独で我が家に来た。そして私の両親に、送った申し入れは間違いでもなんでもないと主張した。
「で、ですが、我が家は……その、歴史しかない家でして。勿論アナベルにはしっかりと、どこに嫁いでも大丈夫なように教育は施しましたが、しかし……その、とてもではないがライダー侯爵家には釣り合わないと思うのです。ライダー侯爵がお許しするとは思えません」
父の言葉はあえて自分を卑下した訳ではなく、ただただ事実であった。
歴史はあるが金のない伯爵家。それが私の生家、ブリンドル伯爵家だ。
幼い頃に亡くなった祖父は優秀な人だったらしく、我が家の資産を歴代の平均の数倍にまで膨れ上がらせた。
そしてそれを、父はたった数年で枯渇させた。
優柔不断、優しすぎた結果傷だらけ。
祖父の残した遺産のお陰でギリギリ借金はできなかったものの、まだ幼い子供二人を抱えていくのは絶望的ともいえる状況だったらしい。けれど母は離婚する事もなく、財布のひもを父に渡さない事にしてなんとかブリンドル伯爵家を存続させた。
その後追加で妹二人が出来てしまったのは…………あのような状況下でも子供が出来るほど、夫婦仲は良好だったという事だ。
我が家は、そんな家だ。歴史も長く、名声もお金もあるようなライダー家とは比べられる訳がない。
父の言葉に、ブライアンは言われてみると、という顔をした。
「そういえば、両親には何も相談をしていませんでした。気が急いてしまって」
「え、ええっ?」
「ブリンドル伯爵。先ほどのお言葉は、私の両親がブリンドル伯爵家について何も言わなければ、アナベルを貰っても良いという風に聞こえましたが、間違いありませんか?」
「え、えぇえと…………まぁ…………」
優柔不断な父が濁しに濁してそう返事をしたが、ブライアンは分かりましたと頷いて立ち上がる。
「本日は急な来訪をお許しいただきありがとうございました。また後日、伺います」
彼は宣言通り、数日後、ライダー侯爵夫妻と共にブリンドル伯爵家を訪れた。事前の連絡はあって来られた訳だが、我が家からすれば殿上人のような存在である方々が来るという事になり、我が家は上から下まで大騒ぎで、埃一つないように屋敷を掃除することになった。
「先日は愚息が突然訪ね、ご迷惑をおかけしたそうで。申し訳ありませんでしたな」
「い、いぇ、そのような事は、全然……」
ライダー侯爵は、ブライアンより背も高く、彼より体そのものが一回りぐらい大きいのではという男性だった。元々は軍人として長く国に勤めていたという侯爵の迫力を前に、小柄な私の父は圧倒されてまともに喋れたのは奇跡に近かった。
父を支える母も母で、侯爵の横に寄り添う夫人の姿と自分を比べて、少し恥ずかしそうにしていたのを覚えている。侯爵夫人はその日、殆ど話す事がなかった。けれどただ座り、夫の横に寄り添っている……それだけ気品があった。夫人は私より背が低い方だったから、侯爵と並ぶと大きさの違いがより際立つ。そうでありながら、彼女の存在感は侯爵に消される事なく、まるで輝いているようで、けれど侯爵の邪魔にはならない。不思議な人だった。
「一目惚れ、というような目に見えぬ理由では伯爵も不安を覚えましょう。ですが同時に、人と人との相性もまた、目で見えるものでもない。伯爵や夫人、そしてアナベル嬢が宜しければ、愚息と暫く付き合いを持ってみては頂けませんかね」
「こ、侯爵様、恐れ多くも……我が家は、ご覧になってお分かりだとは思いますが…………お恥ずかしながら、裕福とは言えぬ家でございます。とてもではありませんが、ご子息と並んでは、そちらにご迷惑をお掛けしかねないような家ですので……」
「ふむ。それぐらいは些細な事ですとも」
「さ、さ……い?」
「……伯爵は、我が家に嫁いでくる女性の家を支える甲斐性もないと仰られますかな?」
これまでは圧はあれど笑っていた侯爵の表情が僅かに強張り、低くなった声でそういった。空気がひりついたのは私でもわかった。父は顔を真っ青にして、首を横に振った。
「めめめめ滅相もありません!」
こうして私とブライアンはお付き合いをする事になった。彼はいつでも誠実で、優しくて。気が付けば私は正式な婚約者となり、そして結婚式の日取りが決まった。
友人たちからは心の中はどうであれ、祝福され、多くの人と神の前で、私は永遠の愛を誓ったのだ。
■
使用人に呼ばれて、私はダイニングルームに向かった。
ブライアンは既にそこにいた。使用人にいざなわれ、彼の席のすぐ横に腰かける。
私たちが結婚するのに合わせて侯爵夫妻は王都から領地の屋敷に移動していた。新婚である私たちが気を遣わず過ごせるようにという心遣いであったけれど、お陰でこの屋敷にいまいるのは私とブライアンと使用人たちだけ。ブライアンは私に声もかけず、食事をとり始める。
正直に言えば、期待していた。席に着けばブライアンが笑顔を向けてくれると。そして、「おはようアナベル。一人にしてすまなかったね」と声をかけてくれる事を。
そんな事はなかった。食事中、私が話しかけようとする度にブライアンは私を視線で黙らせた。そして食事終わりに、「部屋へ」とだけ指示を出した。
どこの部屋に行けばよいかも分からない私を、使用人たちが案内してくれた。……後々に思い返せば、彼らも前日まで私に甘いブライアンを見ていた筈で、一夜をあけて態度が豹変したブライアンに驚いたかもしれない。だが彼らはそんな態度を微塵も見せなかった。
使用人に案内された部屋に入室した彼は、顎で一つの椅子に腰かけるように指示をする。呆然としながらも腰かけた私に、彼は対面――ではない席に腰かけて、喋りだした。
「昨夜も言ったが、私は君を愛する事はない。君がこの屋敷の中で私の妻と呼ばれる事はないが、君を外に連れ回して紹介するつもりもない」
「で――では、社交は……?」
「君にはさせない。私一人で問題ないからな。どうせ君も、結婚前から大した社交はしていないだろう?」
……否定できない事実だ。自分でも、色々な人と話すのが得意ではないと自覚している。だから私はいつも同じ人と集まって話をすることが多く、顔は広くない。ブライアンと共に出掛けた時はずっとブライアンの傍にいて、私が他の人と話す事は全然なかった。
「つ、妻を連れていかねばならないものは……」
「連れて行くべきという場所は確かにそれなりにあるが、何も妻を絶対に連れて行かねばならない理由はない。適当な理由をつけておく。君が関知する事じゃない」
「……わ、わた……私…………」
「ふん」
体が震え始めた私を、ブライアンは鼻で笑った。
「私が、君のような、なんの面白味もないつまらない女を、本気で愛するとでも思ったのか? せめて鏡でも見てくるんだな」
ブライアンは義父譲りの青い瞳と、義母譲りのブロンドの髪を持っている。まさに絵本の中から出てきてもおかしくない、王子様のような容姿をしている。
対する私はどうだろう。特に目立つところのない茶色の髪に、茶色とも黄色とも言えない微妙な色の瞳……顔立ちだって、どこにでも埋没してしまいそうな普通の顔だ。
「君に求めているのは……そう、お飾りだよ、お飾り。妻という名前のね。昨日も言った通り、金は常識の範囲内なら好きに使えばいいさ。ただし、この事を家族にしろ、友人にしろ、赤の他人にしろ、誰かに話してみるといい……君の家族は、以前より酷い状態になるだろうね」
私の結婚に伴い、実家はライダー侯爵家から支援を受けていた。そのお陰で弟は無事に社交界にデビューしたし、その下の妹たちも問題なくデビュタントに迎える状態になっている。
……支援を受けるという事は、自分たちの生活のその後を、相手に握らせるも同然だ。けれど私たちはその事にそこまで不安を抱かずに受け入れた。
だって、ブライアンが私を愛していると言ってくれていたから。だから実家を酷い目に合わせるなんて想像もしなくって……。
「お、お願いします、家族に、家族にはどうか……!」
彼の膝に縋りつけば、不愉快そうに鼻に皺を寄せて振り払われる。
「君が大人しくしていればいいんだ。簡単だろう?」
――気が付けばブライアンはいなくなっていた。私もいつの間にか、用意されていた自室に連れ戻されていた。
使用人を部屋の外に出し、私はぽろぽろと涙をこぼした。
……全て、全てが嘘だったのだ。
始まりから何もかも。
ブライアンは私に一目惚れなんてしていなかった。私を愛してなんていなかった。ただ、私が都合が良かっただけ。
ブライアンより爵位が低く、家に問題があって弱みを握れ、けれど特に経歴に瑕がある訳でもなく、言うことを聞かせやすい性格の娘。ブライアンが結婚当初から愛人を持とうと、文句一つ言えぬ娘。外に助けを求めてブライアンを貶める勇気もない娘……。
■
一人で泣き暮れて、すぐに諦めればよかった。けれど私も諦めが悪かった。
ブライアンに愛されていたあの月日を、偽物だと受けきれなかった。彼が屋敷から出掛ける時、帰ってくる時、食事の時、様々な時で彼に声をかけた。
「おはようございます、ブライアン様。本日はお仕事ですか」
「夜会に出かけられるのですね、いってらっしゃいませ」
「本日はブライアン様がお好きだというものを用意していただきました」
ブライアンは私が話しかけてくる度に顔を歪め、時にはさっさと消えろとばかりに手で追い払われもした。それでも何日もブライアンを見送り出迎えていた。
「若奥様。若旦那様は、レモンケーキがお好きです」
「まあ……そうなのね、教えてくれてありがとう」
私たちの関係を気にしたのか、侍女頭が、コッソリと私にそう教えてくれて、私は料理人に今日はレモンケーキを用意してほしいと頼んだ。今日は昼前に帰ってくると聞いていた。ブライアンは殆どの場合、朝出掛けたら夜まで帰ってこないので、今日はお昼を共にとれる特別な日だった。食卓には彼が好きだと言う赤いバラを飾らせた。正直私はバラの匂いが少し苦手だ。実家では強い香料のようなものはなかったから、強すぎる匂いは得意ではない。けれどブライアンが好きなものだと思うと、そこまで気にならなかった。
帰ってきたブライアンは出迎えた私を無視し、食卓についた。
メインが終わった後、レモンケーキが運ばれてくる。
ケーキというよりクッキーに近い感触のものだ。好物が出てきた事で、ブライアンの顔が和らいだ。嬉しくなって、つい私はブライアンに話しかけてしまった。
「レモンケーキがお好きと聞きましたので、料理人に用意するように頼んだのです。どうぞゆっくりお召し上がりください。バラもお好きでしたよね?」
私の言葉を聞いた瞬間、ブライアンはほんのわずかに硬直し、次の瞬間、レモンケーキの乗った皿を弾き飛ばした。勢いよく飛び、レモンケーキは皿から落ちて床に散乱し、落下の衝撃で皿は割れてしまった。
何も言えないでいる私を後目にブライアンは立ち上がり、食卓に飾られている赤いバラの入った花瓶を持ち上げると、床に叩きつけた。そして、私の目の前でその薔薇の花びらを踏みつぶした。
「二度と余計な事をするな。不愉快だ」
ブライアンは私をそう睨みつけて、去っていった。
この時に私の心は、ぷちっと潰れてしまったのだろう。結婚前の幸せな婚約期間に抱いた幸せな結婚生活の妄想が大きかったから、余計にこの落差に耐えれなかった。
床に散乱する破片。こぼれた水やレモンケーキ。そして何より、踏みつぶされた赤いバラ。
まるで私たち夫婦を表しているようだった。
■
それからの私は、ブライアンに対して何もしなくなった。
これ以上何かされるのも怖かったし、あの一瞬に見せた暴力性がこちらに向くかもしれないと思うと恐ろしかった。私の父は優柔不断で、家の当主として足りない所ばかりの人だったけれど、子供や妻に暴力を振るったりする事は一度としてない人だった。力のある男性に何かされれば、抵抗など出来ないと分かってしまった。
ブライアンを見送ったり出迎えたりなんてできるはずもない。食事だって、同じ場所で取るのが怖かった。
突然態度が変わった私に使用人たちはどう思っただろうか。私は彼らと話すのも怖かった。ここはブライアンが生まれ育った場所で、私はよそから来たばかりのよそ者。私の命令より、ブライアンの命令が優先されるに決まっている。そんな環境で使用人たちに心を開けるはずもない。
ブライアンは大人しくなった私に満足した。彼は私に何かをしてくる事はなかった。そして気が付けば、屋敷に帰ってくる日が減っていた。
屋敷には、殆ど私と使用人しかいなかった。
ブライアンは何もするなといった。
女主人としてするべき一番の仕事は屋敷を整える事。毎日過ごすからこそ、ここを疎かにしてはいけない。とはいっても主人が自分で何かするわけはなく、基本的に命じるだけ。家に飾るもの、置くもの、庭の様子まで、妻のセンスが問われたりする。
だけど……だけど私がそれをして、何になるのだろう。
この家で茶会は開かれない。ブライアンは私に社交の一切をさせないと宣言し、実際その通りにした。外で彼がどう誤魔化しているかなど知らない。外から誘いの手紙もないし、私が社交をしない事に、義父母からも何も文句は出てこなかった。
この屋敷はただ私が暮らすだけの場所。けれど私好みにするのも躊躇われた。屋敷の維持にあれやこれと口を出していたと後から知って、ブライアンが怒るのが怖かった。だから以前から義母と共に屋敷の管理をしていたという執事のギブソンらに、一任した。好きにしてくれと。
けれどそうすると、本当にする事というものがなくなってしまった。私はただただ毎日を消費するだけの人形だった。貴族のたしなみとして刺繍をしたりして気を紛らわせたが、そもそも送る相手がいない。家族に送れば良いかもしれないが、新婚一年目の夫婦なのに夫以外にわざわざ送るのも変だ。私はこれまで刺繍を趣味にしていた訳でもないし。
どこからがブライアンの逆鱗に触れるか分からず、部屋の中に送る宛のないハンカチが溜まっていく。どうせ誰にも上げないのだからと、ハンカチに空いたスペースがないほど刺繍をさした。さしている間は無心になれても、気が付けば手が止まって、どうしてこうなったのだろう……と考えてしまう。
そんな生活が、半年と少し続いた。
月に数度屋敷に帰ってくるというぐらいまで外に行っていたブライアンが、ある日帰ってくると私を呼び出した。知らぬ内に彼の嫌がる事を何かしたのかと思って怯える私に、彼は尊大な態度で言った。
「外では、夫婦仲が良いフリを必ずしろ。当然だが、この事は喋ってはならない。それを守れるのなら、多少の外出は許してやろう」
それは、私にとって救いの言葉だった。私はブライアンの言葉に何度も何度も頷いた。
約半年間、屋敷に閉じこもっていた私はもう頭がおかしくなってしまっていたのかもしれない。
従順な私の態度に満足げにブライアンは頷いて、また帰ってこなくなった。
行先などどこでもいい。私は外出用の馬車に乗り込んだ。
「どこへ向かわれますか?」
貴族の女主人が一人で出掛ける訳もなく、使用人たちが付き添ってくる。彼らの言葉に特に行先も浮かばず、「お店」とだけ答えた。
連れていかれたのは服飾店だった。
買った所で使う宛もないので、服を買うのは気が引ける。けれど一度入れば何も買わないのは失礼だと思い、一日一回、店に行っては帽子や靴を買った。服そのものに比べれば、まだ場所は取らない。
一度も使われない靴や帽子があまりに積もって、買い物に対して気おくれしてきた時に、店内で呼びかけられた。
「まあ、失礼。アナベル夫人でありませんこと? ライダー家のブライアン様と結婚なされた」
話しかけてきたのは結婚前、どこかのパーティーで顔のあわせた事のある女性だった。
その瞬間気が付いたのだ。店に買いに行けば、誰かと……知り合いと会う可能性があるという、当たり前な事に。
女性と話して、ボロが出てしまうのが怖くて、適当な事を言って店を飛び出した。
「駄目だわ、買い物は……だめ……」
店員だけならば、こちらが話したくないという空気を見せればそれ以上話してくる事は殆どない。だがその店に来ている客は違う。こちらがどんな態度をしようが関係ない。商品を選んでいるのに集中したいと言っても、多少は話もできるだろうと考える人は少なくないだろう。
高位貴族は店に買いに行くよりも家に商人を呼びつけて買う事が多いと聞く。そういう風に誰かと話さず、気を楽にして買い物をしたいのかもしれない。なんとなく、そんな風に高い地位の人たちの気持ちを妄想した。
それからどこかの店に行くことはなくなったが、でも屋敷に居続けるのはもっと嫌で。数日間はあてもなく馬車を走らせたけれど毎日それを続ける訳もいかないし……。
そんな時、視界に入ったのは美術館だった。
「……美術館」
あそこならば、大声を出したり会話をするのは忌避されるのではないか?
以前の私は、ああいう芸術的なものを楽しむ事はなかった。我が家にはそういう余裕がなかったからだ。入った事だってない。ただ、あそこならば屋敷に帰らず、時間を使う事が出来るのではという思いだけで入館した。
昼間だからか、館内はそこまで人が多くはない。外から見たよりずっと広いのか、入ってすぐの場所から絵画が並んでいたが、書いた画家の名前を見ても知らない人ばかり。
それでも意外と面白かった。
一枚一枚、書いた画家の名前や、その絵について説明された文章を読み進める。それから、絵の前に立って、絵を眺める。この絵はどういう場面を描いているのだろう。そうやって想像を膨らませるだけでも沢山の時間を過ごす事が出来た。
最初の日では美術館の中のほんの少ししか見る事が出来ず、私は連日美術館に通った。一週間かけて全てを見終わった後に美術館を後にすると、丁度美術館の目の前の広場で、ここからそこまで離れていない劇場の人々が声掛けを行っていた。
「来週から、カリオーラ座の新作公演が開始するよぉ!」
そういえば劇場に足を運んだ事もないと、私は思った。美術館に比べれば人に話しかけられる可能性もあったけれど、劇場にはボックス席という個室もある。そこで観る事が出来れば、他人と話す可能性は減るだろう。
そう思って、劇場に足を運んだ。
私の想定は概ね正しくて、ボックス席ならば他の人と話す事もない。入る時と出る時に気を付ければ、ずっと座って演劇歌劇を観る事が出来て素晴らしかった。
同じ様な流れで音楽ホールにも足を運ぶようになる。勿論、ボックス席のような座席があるホールに限られたけれど。
そんな風にして日々を過ごしていると、気が付けば私は人の少ない日は美術館や劇場、音楽ホールに足を運び、客の増える日は屋敷で大人しく過ごす……という生活を過ごすようになった。各施設のオーナーたちが声をかけてくる事もあったけれど、あまり話したくないという雰囲気を出せば彼らもすぐに引いてくれた。そうして一人、特別良し悪しが分かる訳でもない芸術を楽しんだ。
■
メラニアからの手紙は突然だった。彼女が嫁いだアボット商会の名前が薄く書かれた手紙で、何か商品の注文をしただろうかと思いながら開けば、メラニアからの手紙だったのだ。
どうやら彼女は商人という夫の仕事柄、いくつものコミュニティに所属していたらしい。そのうちの一つである芸術系のコミュニティで、ライダー侯爵家の若夫人……つまり私が劇場などに足を運んでいるという噂を聞いて、私の夫が許せば遊ばないかと誘ってきたのだ。
一人で出掛けるのならともかくとして、誰かと出掛けるのはブライアンの怒りを買うかもしれない。けれど誘いの手紙が届いた以上、無視する訳にもいかない。ブライアンが許してくれるのならば行きたいと思った。けれど怒りを買ったら……。
悩みながら恐る恐るギブソンに頼んでブライアンに「以前からの友人に、歌劇に誘われました。秘密は喋りません。行っても構いませんか」と連絡を取った。ブライアンは帰ってくる事もなく、何かの紙をちぎったかのような切れ端で、「約束さえ守れば好きにしろ」と返事を送ってよこした。
こうして私は久しぶりに友人に会うべく、気持ちを高揚させて当日を迎えた。
……そしてメラニアと再会し、彼女の姿を見て、自分が負け組になったのだという気持ちと、絶望と、そして大切な友人と思っていたメラニアを見下して安心したいと思っていた心根の醜い己への失望だった。
誤字脱字のご指摘ありがとうございます、見落としてばかりでお恥ずかしいです。