表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/48

【13】ライダー若夫人01 (“ブロック”視点)

ブロック館長視点です。館長の独り言の回。

「……やはりこれらでは無理だな」


 私はライダー侯爵家から届けられた資料を見て呟いた。恐らく侯爵家の執事頭であるギブソンが準備したのだろう。資料は必要最低限であり、けれど不足な情報はなかった。

 アナベル・ライダー夫人が個人で所有している絵画の全てがどこから入手したか、いくらで購入したかの情報も記載されていた。それと共に、ライダー侯爵家が所有している絵画もまとめられた情報も届いている。

 全てに目を通した後に、机の上で紙束を整えてから、椅子を引いて立ち上がった。


 暑い盛りを過ぎ、少しずつ空気は冷え込んできた。とはいっても、暖炉に大袈裟に火をつけて部屋を暖める必要はまだない。ただ今日は、事前に使用人に通達して暖炉が使えるように準備をさせていた。

 薪を燃やす暖炉の横に立った私は、紙束の一番上の一枚を手に取る。それをそっと、暖炉の火の上に落とした。

 真ん中と端から紙が燃え始める。少しずつ丸まるが、それよりも火が回る方が早い。


 一枚目の紙が八割がた燃えたのを確認してから、二枚目を手に取り、それもまた暖炉に放る。

 薪の上に白い紙が重なる速度は、少しずつ増していく。薪と火と、燃え切った黒い屑が積み重なっていく。度々、紙を呑み込む炎がパチパチと呼吸をする音と、紙をめくる乾いた音だけが部屋に響いていた。


 最後の一枚を放ってから暫くの間、私はやはり無言で暖炉の炎を見つめていた。全ての紙が燃えたのを目で見て確認してから、使用人を呼びつけて暖炉の火を消させる。

 完全に消火された暖炉の跡を、火かき棒で混ぜ回す。

 燃え切っていない薪はともかく、紙は全てが黒ずんでおり、中身を確認する事は不可能に思われる。それを認識してから私は暖炉から離れ、再び椅子に深く腰掛けた。


 事前の話の通りに私の元に届けられた書類は、ライダー侯爵家の極めて私的な内部資料といえる。それが送られてくるほど、私が侯爵家から――或いはライダー夫人から――信頼を受けているという事だろう。

 ありがたい話だ。だからこそ、その信頼に応えるためにもその書類を残しておく事は出来ない。


 幸いにも記憶力に自信があった。今読んだ書類の内容は、細かい情報を含めてすべて記憶した。昔から、こういう記憶は得意だった。実際、普段からカンクーウッド美術館に保管されている全ての美術品の記憶は勿論の事、普段の職員たちのスケジュールなども把握している。そのぐらいの記憶力を有しているから、かの書類を手元に残しておく必要はあまりない。


 このような形でライダー夫人と関わる未来を、想像はしていなかった。

 初めて彼女と関わった日の事が、すぐ昨日のように脳裏に蘇った。



 ■



 私が初めてアナベル・ライダー夫人を目撃したのは、彼女が二回目にカンクーウッド美術館に訪れた時の事だった。


 一回目の時から、夫人の行動は目立っていた。

 彼女が初めてカンクーウッドに訪れた時私は所用で美術館を離れていたのだが、戻ると困惑した職員の一人に話しかけられた。本日訪れた貴人の一人が、様子がおかしかったという報告だ。どうおかしかったのか詳しく聞けば、入ってすぐの部屋の、一番手前の椅子に腰かけて、たった一枚の絵画を一日中眺めていたのだという。


 ただそれだけでおかしいと言うのは失礼だというものだ。

 美術が好きな者には往々にして、心から好きだと思える絵画を見つめるだけで一日が終わるという事がある。私にも覚えのある事だった。若い頃から芸術に傾倒し、あまりに熱中するが為に使用人に引き摺られるようにして家に帰った事もあった。

 なので噂の貴人の行動もその手のものではないかと考えたのだが、実際に彼女を目撃した他の職員たちも、不安や違和感を覚えたと言う。


「その、絵が好きで眺めていたとは思えないのです」

「意識ここにあらずといいますか」

「目が、目がですね、とても遠くを見ているといいますか」

「声をかけようかと思ったのですが、傍にいた使用人から触れないで欲しいという反応をされまして、結局声も掛けられず……」


 職員たちはそんな風に彼女を説明した。美術館で働いている者たちもまた、芸術を愛する人々だ。平均的に、感性の豊かな者も多い。だからこそ客の雰囲気が他と違い、それにあてられてしまったのかもしれない。


 ただ、精神に不安を抱えた来訪者は、美術館に少なくない。


 美術館に来るのは、必ずしも絵が好きな人という訳ではないのだ。

 何もすることがなくて来たとか、理由もなく入ってみたとか、行き場がないから来てみたとか、ただ時間をつぶしたいとか、そういう人だっているのだ。


 入館するためにお金を払い入っており、中で何か問題を起こした訳でもない以上、女性が一日中ぼうっと絵を見つめていたとしても、それを咎める権利は美術館にはない。


 ――女性がカンクーウッドを再訪した時、職員たちはすぐに私を呼んだ。彼女は一度目の時、一日中座っていた椅子の一つ横の椅子に腰かけて、その隣の絵画を見つめているという。

 私がその場に行くと、確かに貴族女性が一人、椅子に腰かけていた。美術館に入ってすぐの展示エリアで、彼女が入館から特に移動をしていないのが分かる。

 そんな主を邪魔しない位置に立ち続けている従者が、遠くから近づいていく私に気が付いた。若い従者に覚えはないが、以前見かけた事のあるライダー侯爵家の執事ギブソンによく顔つきが似ていた。親族だろう。彼は手を動かして、放っておいてほしい旨を伝えてくる。私もそれを心得て、軽く会釈をした。


 そうして、彼らの邪魔にならない位置でかつ彼らの様子がうかがえる場所へと移動した。従者は静かに控えるだけ。彼を連れる主人はそれから何時間もの間、一枚の絵の前に腰かけていた。

 その絵を貶めようという意図は一切ないが、確かに貴人の様子は絵そのものに強く惹かれて……というのとは、違うように見えた。彼女の視線は間違いなく絵に注がれているにも関わらず、絵を見ていなかった。


 近くで観察するまでもなく、職員たちが不安を覚えたり違和感を感じた理由が分かる。


 まず、かの女性には生気というものがなかった。

 枯れた……しかも、自然に枯れたというよりも、水を意図的に与えられずに萎れ枯れた花のような女性というのが、第一印象だ。


 そして、その印象をより際立たせるのがどことなく古さの感じる衣服である。

 これを着ているのがもう少し年配の女性であれば違和感がないのだろうが、見るからに若い女性が身に纏っているせいで、違和感が拭えない。好きな服を着る事を否定はしないが、やはり人間には個性があり、また年齢によって似合う事の多いジャンルも定まってくる。世間一般的なイメージ図による「この年代の女性はこうだろう」というイメージとズレる事により、彼女の姿がちぐはぐにすら感じた。


 それを助長させていたのが、洋服以外の彼女の見た目だった。

 低い身分の人間や、貴族でも困窮している家の女性であれば違和感がないのだろうが、あの女性は髪も肌も爪も、綺麗に手入れされていた。傍にいる従者も洗練されており、彼女が身分のある家の女性だという事が分かる。だからこそ、何故世話をする侍女たちは彼女にあのような服を着せているのかと疑問を抱く。ただ、使用人たちは彼女の世話を蔑ろにしている訳でもない。それが髪、肌、爪に現れているが……。


 ……どれほど先端を美しく磨いたとしても、大本が枯れていては、手の施しようがない。

 使用人たちの努力の水も、受け取る器がひび割れて水を零してしまっては、十二分な活躍は出来ない。


 何かきっと、辛く、恐ろしい目にあったのだろう。絵画を見つめるヘーゼルの瞳は澱み、日々手入れされている亜麻色の髪は哀れさを誘った。



 ■



 彼女の身元はすぐにわかった。

 深く調べるまでもなく、彼女はいつも家紋が刻まれた馬車で美術館まで乗り付けていたし、支払い先も全てがライダー侯爵家のものだったからだ。


 ライダー侯爵家と言えば、軍部で長らく腕を振るっている名門貴族だ。

 特に今代の当主は、若い頃に隣国と頻発していた小競り合いの争いで指揮官を務めて領土を取り返し、名を上げている。今は最前線は退いているものの、まだ軍部に籍はあり、影響力も大きい。妻である侯爵夫人も長らく王都の社交界で軍門家系の貴族夫人たちを纏め上げていた。

 そんな二人は、一人息子の結婚を機に、夫婦水入らずで少しの休息を取るといい領地に下がっている。

 ……つまりあの女性は、一人息子の妻だろう。


 私は普段は芸術系のサロンにばかり出入りして、あまり大きな社交界には顔を出さない。だからライダー侯爵家の一人息子が結婚したことは聞き及んでいたけれど、その過程も、その後もあまり興味を持っていなかった。知識として持っているぐらいだ。

 一人息子が結婚したのは、ブリンドル伯爵家の令嬢。記憶に残っていたのは、ブリンドルという名前がなんとなく印象に残っていたからだ。


 ブリンドル伯爵家は現当主が先代の亡き後家を継いだ後、みるみる転落していった家だった。貴族の中には、そういう話題がよくある。優れた当主の跡を継ぐものが、愚者である事は、どこでも起こりえる事だった。


 先代ブリンドル伯爵とは、若い頃に顔を合わせた事がある。

 貴族ながらに商才に溢れ、数年先を知っているかのように投資を行い、その数倍の利益を手に入れていた。芸術作品にも興味を示し、いくつかの有名作品も所有していた。急過ぎる速度で財を増したが、それに頼った成金というイメージは一切ない。現在の政治に多大な影響を持っていた訳ではないが、古い歴史に潤沢な資金があり、かの家は向こう百年は平穏だろうと言われていた。

 だが跡継ぎの育成は、上手くいかなかったようだ。もしかすれば先代当主が最低限の手綱を握っていたのかもしれないが、どちらにせよ、後を継いだ息子はあっという間に家を没落させた。


 噂に聞くに、悪人という訳ではないようだが、貴族の才能も商人的な才能も無かったのだろう。

 人が良く、あっさりと騙され、泣ける話を聞くとすぐ信じて、あっさり金を渡す。

 心根の良くない人間があっという間に群がり、みるみる内に金を吸い取られ、没落し、屋敷すら手放し、貴族として最低限レベルの家に家族で移り住んだ――という噂を、一時、人々は面白おかしく話し合った。そしてあっさりとその話題は飽きられて、次の噂話に興味が移る。そうすると人々の記憶からブリンドル伯爵家という名前は、かすれて忘れ去られていったのだった。


 普通なら成り立たなそうな婚姻だ。歴史だけなら釣り合うが、それ以外の全てが釣り合わない。

 それでも侯爵夫妻は結婚を認めた。直接娘と会い問題ないと認識したのだろうが、私の周囲では妥協だという声も聴かれた。


「あそこの一人息子は、親の選んだ結婚相手を悉く拒絶していたというからな。このまま妙な女に入れこまれたり、独身を貫かれるよりも、負債だらけとはいえ確かに貴族の家の娘を娶らせたかったのだろう。全く、親の言う事を聞かぬ息子を持つと苦労するな」


 古い友人は、溜息交じりにそう予想を立てていた。

 実際のところがどうだったのかは存じ上げない。深入りするつもりもサラサラなかった。その噂を聞いた、当時は。



 ――その結婚相手が、あの、萎びて枯れたような女性だとすると、結婚生活はうまくいっていないらしい。



 それも仕方のない事だった。落ちぶれたブリンドル伯爵家からライダー侯爵家に嫁ぐというのは、平民が貴族に嫁ぐに近いものがある。

 貴族夫人の仕事は少なくなく、爵位や立場が上がれば妻が求められる能力も上がっていく。


 爵位を持っているだけで生活が平民に近いような貴族夫人は、最低限、家を守り母親としての義務を果たせばいい。


 だが地位が高い夫人は、半ば夫の片腕として行動し、人々と渡り合っていかねばならず、その際に把握しておかなければならない知識も多い。

 家格の近い家同士で結婚させようとするのは、そういう事情もあるのだ。

 きっと嫁いだ後は生活が全く変わり、大変だというのは想像に容易い。


 その疲れを癒すために来ているのであれば、芸術はその対話相手として相応しかった。絵画は周りをよく見て、よく語っている。その言葉に耳を傾けるかどうかは、見る者に一任されているだけなのだ。

 独り孤独な人ほど、絵画は良き友となり、相談相手となる。絵画は逃げない。何時間でも何日間でも、悩みを聞いてくれるのだから、いくらでも、気が済むまで絵画と話して欲しいと思った。


 それからライダー夫人は、約半月という時間をかけて、カンクーウッド美術館に常時展示されている全ての作品を見て回った。

 その間に少しずつ雰囲気も和らぎ、彼女の心を芸術たちが少しは癒せたのだろうと確信する。


 そのあとは暫くカンクーウッドに来なくなったが、代わりに他の美術館や劇場に顔を出しているらしく、同業者から噂を聞く。なので私は、芸術で疲れを癒している女性のようだから、優しく、作品と二人きりにさせてやって欲しいと同業者たちに話して回った。美術館としても、何も問題を起こさずただ作品を見て回るだけならば問題もないからと、彼女に話しかける事は殆どなく、放っておいてくれているらしい。


 そんな風にライダー夫人が王都内の様々な芸術の関わる場所に出没するようになって、大体半年が経った頃、いつも一人だった彼女の横に新しい姿が加わったという話を耳にした。それはいつも傍にいる男性従者ではなく、親しげに話す女性だという。

 その噂を初めて聞いてから少しして、カンクーウッドで行われていた展示会に、少しぶりにライダー夫人が現れた。


 彼女は前々から展示会にもよく顔を出したのだが、展示会である良い影響を周囲に与えていた。恐らく彼女自身は自覚がないだろうが。


 何かというと、彼女は絵画を買う事はなかったが、他の展示作品と同じように一枚一枚一つ一つ丁寧に作品を観賞していたのだ。ただそれだけとはいえ、ひたすらに、熱心に、作品を見つめるライダー夫人。その姿を見た他の客が、もしかしてこの作品は凄いものなのかもしれない……と考えて足を止める。そもそも目立ったり誰かに見てもらえなければ、買われる機会は減る。ライダー夫人のお陰で出会いが増えて、結果的に普段買われない作品が買われていく……という出来事を数回起こしていた。

 勿論、そのチャンスが物に出来るように話して回った製作者や職員たちの努力もあったので彼女一人の成果というのは難しいが、ライダー夫人の姿に感化された人々がいたのは確かだった。



 私がライダー夫人を見かけたのは久方ぶりの事だったけれど、会場に現れた彼女には、分かりやすい変化が二つあった。



 一つは横を歩く溌剌とした女性。

 それが誰か、私に限らずカンクーウッドの職員は皆知っていただろう。


 アボット若夫人。アボット商会の若きトップに嫁いだ女性だ。


 アボット商会は先代商会長が、突然亡くなってしまった。やり手の商人として王都で頭角を現し始めていた時の事だったので不運としか言いようがなく、残されたのは妻とまだまだ若く下っ端として働いていた息子だけ。一部ではもう駄目だろうと言われたが、息子は父の才覚を十二分に引継ぎ、今まで目立たなかった妻は夫に肩を並べる強さを持っていた。母と子は協力し、先代の亡き跡、むしろ商会の勢いを増していった。

 最初はどちらかというと平民向けに展開していった商会だが、そのまま平民だけを相手にしていては頭打ちだ。人数では国民の大多数は平民だが、財力では貴族の量が勝っている。貴族相手にも商売をしていきたいと思うのは、成長した商人なら当然の事だろう。


 こういう時、商人たちが取る手段は色々とあるが、大きく分ければ二つだ。

 より強い貴族の後ろ盾を得るか、家格は低くとも関わりやすい貴族の後ろ盾を得るか。

 前者は大きな飛躍が得られる可能性が高いが、同時に失敗した時の影響も大きくなるだろう。後者は失敗しても比較的被害が小さく済む可能性が高いが、その代わり商売拡大の速度は遅くなりがちだ。


 アボット商会は高望みはせず、堅実な方を選んだ。

 あまり裕福ではない、そこそこの伯爵家の娘を娶ったアボット商会をどう判断するかは、その時点では難しかった。


 だが結婚してから一年が経つ頃には、アボット商会の躍進は凄まじいものになっていた。

 金があろうとも、平民と貴族の政略結婚はうまくいかない事が多い。一つは、平民に嫁いだ(或いは婿入りした)貴族が、生来の気位の高さ故に平民になじみ切れないという問題があるからだ。それを解消するには平民の家に入った貴族本人の大きな意識改革と、それをサポートする平民たちの努力が要る。往々にして、時間がかかって馴染むか、完全に仕事の関係として冷めた夫婦関係になる事が多い。

 アボット商会の若い商会長と、彼より更に若い元伯爵令嬢の夫妻は、そのどちらの例にも当てはまらなかった。

 アボット若夫人は商会に携わる平民たちに文字を教えた。平民の識字率は高くない。生活に必要な単語しかしらないという人間は多かった。しかしその状態のままでは、貴族相手に商売など難しかっただろう。若夫人はそれを補うように、まずは若い彼女にそこまで反発しない若手と関わり、文字を教え、貴族相手へのマナーを教え、言葉遣いを教えた。

 まず、それだけで商会へのイメージが向上する。普通の店より丁寧な対応をされれば、平民の客たちも良い気分になる。そして「アボット商会で働けば、文字も礼儀作法も学べる」となれば、子供に礼儀作法等を教えたい親たちが、こぞって子供をアボット商会に入れたがった。

 次第に昔から商会にいた職員たちも、若夫人から物を教わりたがった。若夫人は自分の知恵など大したことは無いと笑いながらも、対貴族の礼儀作法を彼らに教える。商品の知識は、長年働いてきた商人たちは十分に持っている。そこに貴族にも対応できる礼儀作法や言葉遣いなどが加われば、そのまま貴族の客の対応をする事も問題なくなった。

 アボット商会の対貴族部門の業績が伸び始めた頃から、商人も出入りできる社交の場に商会長夫妻は揃って出てくるようになった。ここでも夫婦は息ピッタリだったという。人間の顔やその人間の生まれ育った経緯、暮らす土地、その土地の特産物や有名な人間等は夫が十二分に把握している。後は細かい礼儀作法だが、そこは夫が失敗しないように横の妻がフォローした。二人はいつでも仲睦まじく寄り添いどんどん様々な所に伝手を作っていった。


 その中で、彼らはカンクーウッド美術館にも訪れた。

 彼らの目的は館長である私個人だっただろう。

 だが最初から熱心に私だけに関わろうとする事はなく、まずは職員らと段階を関わりを深めていき、違和感を感じさせずに私とも顔見知りになったのだ。私目当てだったのだろうが、そういう人間は多いので問題を起こさないのならば私はたいして気にしない。

 そうして彼らは、頻度は高くないが、展示会に来る時には狙った芸術作品を中々の確率で手に入れていくようにもなった。

 ――そんな経緯があり、アボット若夫人とは会話もする顔見知りだ。確かに彼女は元貴族なので、ライダー夫人と知り合いでもおかしくは無かったが、まさかの交友関係に少し驚いたのは否めない。



 だが私が一番に目を引かれたのは、ライダー夫人その人だ。

 彼女は横のアボット若夫人と談笑しながら歩いてきていた。大袈裟な笑顔ではないが、彼女の顔の筋肉はやわらぎ、ヘーゼルの瞳は暖かく丸みを帯び、口角は緩やかに上がっている。それは作ったものではなく、間違いなく素の笑顔だった。


(彼女はああいう笑顔をする人だったのか)


 恰好はいつもと同じ少し残念な服装であったが、笑顔一つで感じる印象は随分と違う。

 いの一番に目が向く華やかさはない。だがそれは、魅力がないという意味ではない。貴族社会を生きる女性たちを侮辱する意図は全くないが、普段、他者より目立つために着飾る女性に疲れたり飽き、ああいう女性を求めたくなる男は少なくない。


 二人は本当に親しいのだろう。いつも通り作品を観ようとするライダー夫人を、アボット若夫人が目的の所まで連れて行く。その後も二人は周囲の迷惑にならない程度に楽し気に会話をし、カンクーウッドを後にした。



 ■



 ここまでライダー夫人について記憶に残っている限り詳細に語ったが、この時点でも私の中で彼女は一人のお客様でしかなく、何も責任は負わないが彼女が元気になるのならそれは良い事だなと思う程度の気持ちしか抱いていなかった。

 最初があまりに哀れだったので多少気を回したし、耳に入れば意識はする。だがそれ以外で積極的に彼女と関わろうとは思わなかった。



 その感情に変化が訪れたのは、それからすぐの事である。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 旦那はやけに強気だけど、実際の所まだ当主になった訳じゃないんだよね? ならご当主夫妻の頭越しに妻に言ったような強権発動するなんて出来るのかなぁ? 旦那が怖くて萎縮してるせいで視野が狭まってる…
[良い点] こう言われてみれば確かに美術館の作品を端から端まで全部時間をかけて見るのは普通じゃないんだなって思った。 あとブロック館長ってめちゃくちゃ優秀だったんですね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ