Menu19.弾劾トマト その4
水を得られたことで、かえって何かの糸が切れてしまったのか……。
ハンネの全身は、気だるさと脱力感に支配され、もう、座らせてもらった椅子から立ち上がることもままならないほどであった。
「はあ……本当にすいません……。
お水を頂けたら、すぐに出ていくつもりだったのですが、どうにも体が言うことを聞かず……」
「暑さにやられる時というのは、そのようなものです。
お嬢さん、他に何か症状はないかな?
例えば、頭痛や吐き気などは……」
首を横に振って答えると、黒い長髪が印象的なその男性は、安心したようにうなずいてみせた。
「どうやら、軽度な暑気あたりのようだな。
水も飲んだことだし、しばらく休めば回復するだろう。
何ならば、私の方で馬車や力車を手配してもいい。
安息日とはいえ、声をかければやってくれる者はいるはずだ」
「おーほっほっほ!
それなら、心配ご無用でしてよ!
夕方になれば、わたくしのお供が再集結するのだから、一緒にみこしへ乗せて行ってあげますわ!」
「いや……暑気あたりであのみこしに担がれるのは、結構きつくねえか?」
真紅の……そう、ドレスと形容して相違ない装束に身を包んだ少女が高笑いすると、頭を剃り上げた男性が苦笑いと共に告げた。
「まあ、大事なくてよかった。
たかが暑気あたりと、馬鹿にしたものではありませんからな」
「ええ……。
場合によっては、命に関わることもあるのですから」
四十路と思わしき男性たちも、語り合いながらうんうんとうなずく。
――なんて優しい方々なんでしょう。
普段は半ば書庫に引きこもっており、家族を除く他者との関係性に乏しいハンネだ。
それだけに、その優しさは弱った体に染み入り、また、天上の主にも深く感謝を捧げたのである。
「あら……この匂いは……?」
そうやって落ち着くと、店内に漂う芳香へ気づく。
おそらく、厨房内の竈を使って、何か焼いていたのだろう。
小麦やチーズの焼けた香ばしい匂いと、何か未知の……。
それでいて、嗅いだだけでも濃密な旨味を感じられる香りとが、店の中を支配していたのである。
「あー……」
貴族家に仕える侍女然とした少女が、何かまずいことへ気づかれたというように、目線を逸らす。
どうやら、それは他の人たちも同じだったらしく、苦笑いを浮かべながら互いの顔を見交わしていた。
「何か、食べようとしているところだったのですね?
ごめんなさい。私のせいで、中断させてしまって……」
やはり、あまり長居をして困らせるものでもないだろう。
そう考え、立ち上がろうとするが、やはり、上手く力が入らない。
いや、そればかりか……。
――くう。
水を得た。
ひとまず、休憩もさせてもらえることになった。
その事実を経て、ハンネのさもしい体は、さらなる欲求を伝えることにしたらしい。
お腹から、どうにも恥ずかしい音が漏れ出したのである。
「あら?
あなた、お腹が空いてらっしゃるの?」
赤いドレスの少女が尋ねると、侍女然とした少女も自分の顔を覗き込んだ。
「失礼ですが、朝食はきちんと取られましたか?
睡眠は十分に?」
「いえ、その……。
朝は食べていなくて、昨日も夜更かしして本を読んでしまっていて……」
答えると、長髪の男性が腕を組む。
「それでは、倒れるのも当然だ。
いずれの時期においても、食事と睡眠は大切であるが……。
とりわけ、今の季節はそれらをしっかりと得なければ」
「その……いいでしょうか?」
話に割って入ったのは、カウンター越しにこちらを見ていた少女である。
金色の髪は、調理の邪魔にならないよう結い上げており……。
身にまとっている装束は、そう……ディアンドルという山岳民族の伝統衣装だったはずだ。
自分より、間違いなく年下であろうが、しかし、何となく母性を感じられる少女なのであった。
「料理屋で、お腹を空かせたまま帰らせるというのも、無作法というもの……。
もし、よろしければ、一緒に食事をしていかれては?
ただ、今日は少し特別な食材を使っていますので、口外だけはしないで頂けると……」
彼女の言葉は、願ってもなきもの。
「その……ご迷惑でなければ、よろしいでしょうか?
もちろん、誰かに話したりもいたしません」
頭というよりは、胃袋に突き動かされ、反射的に答える。
「決まりだな!
まあ、別に死ぬようなもんが入ってるわけじゃねえし、腹が減ったまま出て行って、また倒れるよりはいいだろうよ」
禿頭の男性がそう言い……。
ハンネもまた、宴に加わることとなったのである。
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「ピッツアか……。
今日のは、北部風に手で掴めるやつなんだな?」
「ええ、大勢で分け合って食べるのなら、これがよろしいかと思いまして」
どうやらこの店は普段、カウンター席を活用しているようであるが……。
今日はテーブル席を中心とし、思い思いに椅子へ座ってそれを囲む。
そのテーブルへ、侍女風の少女が供した料理……。
それは、焼き立てのピッツアであった。
生地が露わとなっている部分は、こんがりとした焼き目がついており……。
表面のチーズが、自分の来訪という騒動を経て尚、熱を持ち、ふつふつと泡立っている……。
奇妙なのは、チーズの下地として用いられている赤いソースで、これは果たして何を材料としたのだろうか?
しかしながら、全体に散らされたバジルの緑とあわせると、これが実に――美しい。
ソースの赤、チーズの白、バジルの緑……。
三つの色がピッツア生地の上で見事なグラデーションを生み出し、まずはこの目を楽しませてくれるのだ。
「これは、また、見事な……」
「ええ、食べるのがもったいないくらいに鮮やかですね」
男性客たちの言葉に、心中でうなずく。
これは、間違いなく一つの完成形……。
食べるまでもなく、それが直感できるだけの完成度を備えた一枚なのである。
「ささ、まずはお熱い内にお召し上がり下さい」
侍女の少女がそう言いながら、見事な手際でピッツアを切り分けた。
生地に突き刺したナイフから、とろりとチーズが伸びていくのを見ると、もうたまらない。
目の前で、切り分ける。
この工程を経ることで、ますます料理への期待値が高まっているのだ。
「こいつは、たまらねえ。
それじゃあ、アウレリア嬢への感謝を込めつつ……頂こうか」
よほど、ピッツアというものが好きなのだろう。
禿頭の男性が、我先にと切り分けられたそれを手に取る。
「おーほっほっほ!
……そういえば、あなた、お名前は?」
「あ、ハンネと申します」
「ハンネさん! 遠慮は無用でしてよ!
頂きましょう!」
とにかく派手な少女にうながされ、自身もピッツアを手にした。
そして、指が焼けそうなくらい熱々なことへ喜びを覚えながら、食らいつく。
「ほっ……」
食らいついて、驚いた。
具材やソースが合一しているのは、見た目の上のみではない。
味においてもまた、絶妙なマリアージュをもたらしていたのだ。
土台となったソースが、何とも言えぬ絶妙な酸味と濃厚な旨味で口中を支配する。
これが、水牛のチーズと実によく合う。
このチーズは、密やかな甘みと酸味が特徴であるのだが、それがこの濃厚なソースと合わさると、かき消されるどころか、くっきりと自己を主張し出すのであった。
それらに、バジルの爽やかな香味が彩りを与え……。
さくさくとした食感の生地が、小麦の味わいでもって全てを受け止める。
――なんて美味しい。
――これだけ体が弱っているのに、するりと入っていくわ。
噛み切った端からチーズが繊維状に伸びていくのを楽しみつつ、胸中でそうこぼす。
一度、これを食べたらやみつきだ。
そして、食べた者を夢中にさせる立役者となっているのは、間違いなくこのソースなのであった。
こんな料理は、いかなる書物でも出会ったことがない。
「あの……。
差し支えなければ、このソースに使われている材料が何なのかを……」
ハンネが意を決し、料理人の少女に聞こうとしたその時である。
「――そこまでだ!
異端の宴が開かれていると、通報が入っている」
自分とはまた別の闖入者が、現れたのであった。




