Menu18.魚醤の娘 後編
「さあ、こちらへお座り下さい」
まるで……。
いや、貴族家の侍女そのものといった風情の女性にうながされ、着席して店内を見回すと、そこは、こんな飲み屋街に存在するとは思えないほどに豪華で……それでいて、落ち着く空間であった。
――不思議。
――こんな石造りの建物も、飾られている絵や盾も……。
――全部、馴染みがないものなのに。
それは、ガルムにとって、不思議な感覚である。
普通に考えれば、普段の生活と縁遠い場所に来たのならば、緊張を覚えてしかるべきだ。
まして、自分はこの店へ、喧嘩を売りに来たにも等しい存在なのである。
だが、この店は……どこまでも、心が安らぐ。
案外、あまりに縁がない場所であるから、脳が緊張を覚える暇もないのか……。
あるいは、この店を作った店主――カウンター越しに調理している綺麗なお姉さんの心遣いというものが、店そのものへ染み付いているのかもしれなかった。
そうだ。彼女は、間違いなく善人であり、自分たちが作った魚醤のことも、先の言葉通り愛してくれているに違いない。
だから、さっきぶつけた言葉は、単なる八つ当たりなのである。
だって――。
「お待たせしました。
――アンチョビガーリックパスタです」
考え込んでいる内に、料理が出来上がったらしく……。
うやうやしい――そう、これがきっと、うやうやしいという言葉の意味だろう――仕草で、侍女のお姉さんが料理を供してきた。
「こちらはお水で……。
こっちは、お客様たちがおしぼりと呼んでいるもので、手を拭くのに使います。
普段ならお湯で絞っているのですが、今は開店前なので、水で絞ったものでお許し下さい」
しかも、料理とシルバーの他に、水が入ったガラスコップと、言葉通り水で絞った布までが供されたのである。
「あ、ありがとう……ございます」
ひとまず、礼を述べながら、おしぼりなる布で手を拭く。
そうしながら、眼前の料理を眺めた。
目の前に置かれた大皿へ、盛り付けられた料理……。
それは、言葉通りのパスタ料理であった。
おそらくは、アンチョビ――それもフィレの部分とにんにくとを麺に絡め、炒め合わせたのだろう。
立体感を強く意識して盛り付けられた麺の頂点には、刻まれたアンチョビフィレが乗せられている。
それだけでは、いかにも彩りの薄い皿となりそうだが……。
全体にすり下ろしたチーズと、粉々にした干しパセリとがまぶせられており、それが料理を美しく飾り立てていた。
総じて、ガルムたちが普段食べているようなものとは、別次元の料理であるのだ。
「さあ、遠慮なく食べて。
この暑さだし、しっかりと食べて元気をつけなきゃ」
「あ……はい。
その……頂きます」
カウンター越しに店主のお姉さんへ礼を言い、フォーク手に取る。
そして、このパスタへ挑もうとしたのだが……。
――なんて。
――なんて、香り高い。
シルバーを突き立てるまでもなく感じられたのは、圧倒的な香味の爆発であった。
そもそもが、魚醤というのは加熱すると、製造時の臭気が夢幻であったかのごとく、香ばしい匂いを発するものであるが……。
そこに、オリーブオイルとにんにくの香りまでもが合わさり、格調高さと力強さが加わっているのだ。
このまま、匂いだけ嗅いでいても楽しめそうな料理であるが……。
そういうわけにもいかず、麺をフォークで絡め取り、食す。
食して感じられたのは、鼻で嗅ぐ以上に強烈な、アンチョビの風味……。
これが、にんにくとは実に好相性で、ごく少量投じられているに過ぎないにんにくが、抜群の存在感を発揮して交わり合い……食欲を増進させてくる。
それらの旨味を存分にまとった麺が――たまらない。
この頃、急激に暑くなったせいで、若きガルムの体も、どこかだるさを覚えていたが……。
その気だるさが、一気に吹き飛ぶような……体に精を与えてくれる味なのであった。
散らされたチーズとパセリの効能も、忘れてはいけないだろう。
パスタの熱により、徐々に徐々にと溶けていくチーズは、乳脂のまろやかな甘みによって、パスタの味をますます引き立て……。
パセリは、その香味によって、ややもすれば単調になってしまいそうなこの料理を下支えし、舌が疲れることを防いでくれているのである。
具材として用いられた、ごく少量のアンチョビフィレは、巻き取られた麺の中で確かに己の存在を主張し、これを共に咀嚼すると、ますます麺が食べたくなった。
全てが――合一。
アンチョビという具材が持つ、特性と美味さ……。
その全てを、存分に引き出しているのがこの一皿なのである。
「どうかしら? お味の方は?」
おそらくは、自分たちの分だろう皿をカウンターに並べた店主さんが、優しい声でそう尋ねてきた。
これだけの料理を出されて、嘘などつけるはずもなく……。
「美味しい……です。
すごく美味しい……。
うちのアンチョビを使って、こんなに美味しいお料理を作ってくれるなんて……」
ガルムは、素直にそう言ったのである。
「そのお料理の手柄は、何といってもあなたのお家にあるわ。
そもそも、使う材料の質が良くなければ、これだけ美味しくなるはずもないもの」
ほほ笑む店主さんの姿は、同性であるガルムから見ても、ひどく魅力的で、綺麗なもので……。
自分の抱いたつまらない嫉妬が、浄化されていくかのようであった。
だからだろう。
ガルムは、素直に自分の心境を伝えることにしたのだ。
「……ごめんなさい。
あたし、本当はショーユっていうのが気になっただけで、うちの魚醤を使って欲しくないとか、そういうことを言うつもりは、最初はなかったんです」
「あら、そうだったの?
それで、どうしてそんなことを言ってしまったの?」
聞いてくる店主さんの顔に、詰問の色はなく……。
ただ、自分でも奥底に隠してしまった本心を引き出そうとしてくれているのが、ありありと伝わってきた。
この……どうしようもなく、つまらないひがみを。
「それで、いざこの店に来たら、表にいるお姉さんたちが、あんまり綺麗で、それで……。
自分を比べてしまったら、あんまりにもみじめに思えて……」
それは、自分でも意外な感情である。
ガルムという、生業に由来するこの名を誇りとし、どれだけ蔑まれようとも、避けられようとも、気にする必要はないと、自分に言い聞かせてこれまで生きてきた。
だが、それはただ、目を逸らしていただけで……。
本当のところは、心に少しずつ傷が付いていたのである。
「……そう。
きっと、今まで色んなつらい扱いを受けてきて、それが心の中に積もってしまったのね」
店主さんが、そんな自分の胸中を正確に汲み取り、優しい眼差しを向けた。
そして、こう言ってくれたのだ。
「ガルムちゃん……。
これから先も、きっと心ない人は、あなたたちのおかげで食卓が豊かになっていることを忘れて、ひどい仕打ちをしてくるに違いないと思う。
でも、これだけは忘れないで?
あなたたちの作ってくれる魚醤やアンチョビに感謝し、あなたたちの仕事ぶりを尊敬している人間もいるということを。
少なくとも、わたしとそこのマルガレーテは、そういった人間よ」
店主さんの言葉を受けて、マルガレーテというらしいもう一人の女性が、そっとうなずいてくれる。
「はい……ありがとうございます。
これからも……どうか、うちで作ってる品を使って下さい。
あたし、もっと美味しくなるように、頑張りますので……!」
「ふふ……。
なら、わたしもそれを使って、どんどん美味しいものを作らなきゃね」
天使のような店主さんは、そう言ってほほ笑んでくれたのであった。
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