Menu18.魚醤の娘 中編
どうやら太陽は、夏に向けての準備をすっかり終わらせたらしく、遥か天上から、容赦なく灼熱の光を浴びせてくる。
そうなると、過去の施策により街路のほとんどを石畳に置き換えている王都ナタシャは、路面にこもった熱で、ちょっとした蒸し風呂のごとき状況を呈するものであり……。
この暑さを軽減する方法は、ただ一つ――打ち水なのであった。
――パシャリ!
木桶からひしゃくで水をすくい、適当に放ってやると、いかなる原理によるものか、極小規模の虹が発生し、目を楽しませてくれる。
とはいえ、虹は一瞬で消滅し……。
後にはただ、濡れた石畳の街路のみが残されるのであった。
「こう暑いと、体にこたえるわ……。
この子たちも、心なしか、元気がなさそう」
マルガレーテが打ち水をする一方、自らは店外で育てる観葉植物の世話をしていたアウレリアが、彼らの様子を見ながらそうつぶやく。
「そもそもは、毎日開ける予定のお店ではなかったので、ある程度は世話をしなくても、大丈夫な種類のものを選んでるんですけどね。
これだけ急に暑くなると、人間だけでなく、植物も調子を悪くするのかもしれません」
返事しながら、アウレリアの隣にしゃがみ込み、問題の観葉植物を見やる。
見やる、が……。
――普段との違いが分からない。
別段、葉の色が変わっているわけでも、ましてや幹や枝がへたれて垂れ下がっているわけでもなく……。
まったくもって、いつも通りに見えるのだった。
何ならば、その様が小憎らしく思えてくるくらいである。
――アウレリア様に世話されるという、この世で最大の幸せ。
――それを得ているんだから、枝という枝に花を咲かせるくらいのことはしなさいよ。
マルガレーテからすれば、こやつらが享受しているのは、たかが観葉植物ごときが得ていい幸福ではない。
で、あるのだから、暑さで調子を崩すなどもっての他であり、種の限界を超えた奇跡の一つ二つは、起こしてしかるべきであった。
「やっぱり、ちょっと元気がないわね。
何か、肥料でもあげた方がいいのかしら?」
そんなマルガレーテの心中をよそに、アウレリアが、心配そうな眼差しを鉢植えに向ける。
その姿が……。
――尊い!
思わず吹き出しそうになる鼻血を抑えるのに、侍女は全力を尽くさざるを得なかった。
「植物の世話に関しては、あたしも詳しくないので判断が難しいですね……。
今度、お花屋さんにでも相談してみましょうか?」
鼻を抑えながらも、極めて真面目な口調でそう答える。
近年、ハイデルバッハ王国の中流階級は、貴族が力を弱めていくのと裏腹に、どんどんと豊かさを増していた。
そうなると、暮らしに潤いをもたらす商売というのが望まれてくるというもので、少しばかり値段は高くつくものの、花を扱う専門店も存在するのである。
「そうね……。
何事も、専門家に相談するのが一番でしょうし。
ところで、マルガレーテ?
お鼻を押さえて、どうしたの?」
「いえ、何でもありません。
これは少し、くしゃみを我慢しただけです」
「そうなの?
なら、いいんだけど……」
などと、二人で日常的なやり取りを交わしていた、その時だ。
「すいません。
ここが、シュロスですか?」
背後から、声をかけてくる者の姿があった。
声は……幼い、少女のものだ。
そして、どことなくその声質から漂うのは――美少女の気配!
超能力じみた直感と共に振り向くと、そこに立っていたのは、マルガレーテが推測した通りの美少女であった。
年の頃は、おそらく十代の前半だ。
季節もあって、二の腕や脚が大胆に露わとなった格好をしており、陽光を反射する若々しい肌がまぶしい。
そしてこの装束は、ただ単に薄いだけではなく、職人仕事にも耐えられるような性質のものである。
髪の色はごく一般的な栗色で、やはり、何らかの職人仕事に従事する家の娘なのだろう……首にかかる辺りで、短く切り揃えられていた。
顔立ちは、いかにも勝ち気であり……。
こちらを睨み据えるその顔は、どこか、他の動物を威嚇する子猫じみている。
――か。
――かわいい。
胸中ではそうつぶやきつつも、他ならぬアウレリアの前だ。
そのような感想はおくびにも出さず、侍女らしい粛々とした仕草で立ち上がった。
「はい、シュロスは当店の屋号です。
かわらしいお嬢さん。当店に、何かご用でしょうか?」
少しばかりの本音を交えつつ、そう尋ねる。
すると、突然現れた少女は、腰に手を当てながらこう宣言したのだ。
「あたしは、ガルムっていって、魚醤職人の娘です」
「魚醤職人……」
つぶやいたアウレリアと、目を交わす。
――道理で。
主従共に抱いたのは、そのような感想であった。
実を言うならば……。
ガルムなる少女からは、どうにも臭い……女の子がまとうとは思えぬ臭気が、漂っていたのである。
その正体は、工房で製造中の魚醤から移った臭いであったというわけだ。
マルガレーテが気づいていたのだから、時に犬並みの嗅覚を発揮するアウレリアが、気づかなかったはずもないだろう。
「……ガルム様ですね。
その、魚醤職人の娘さんが、当店にいかなるご用でしょう?」
ともかく、そう尋ねる。
何やら、剣呑な雰囲気を漂わせる少女であるが……。
とにもかくにも、用向きを聞かないことには始まらない。
すると、おそらくアウレリアの高貴な美しさに圧倒されたのか……ガルムは、言葉を選びながら、口を開き始めたのだ。
「えっと……問屋の店主さんに聞いて、こちらの店で、あたしの家が作った魚醤やアンチョビを使ってくれてるって、聞いてます」
「まあ、あなたの家があの魚醤を作っているの!?」
すると、その言葉にぱあっと顔を明るくしたのは、アウレリアである。
「他にも、魚醤を作っている工房はいくつもあるけど……。
あなたの家で作ったそれが、一番だわ。
わたしも死んだお爺様も、魚醤といえばずっとこれを愛用しているのよ」
ばかりか、立ち上がると、やや興奮気味にガルム少女の手を握ったのだ。
――う。
――羨ましい。
そう思いつつ視線を向けていると、ガルムはあろうことか、ぱっと握られた手を放した。
「あ、ありがとうございます……。
で、でも……!」
「でも?」
「でも、ですか?」
アウレリアと共に、首をかしげる。
すると、少女はこんなことを言い放ったのであった。
「でも、もう……うちの魚醤は使わないで欲しいんです!
その……ショーユとかいう調味料を使ってるの、知ってます!
あたしは、そうやってよそに浮気する人に、うちの魚醤を使ってほしくない……!
こんな綺麗なお嬢さんが、そんなかわいい格好して……。
どうせ、遊びでやってるような店なんでしょ……!?」
「ちょっと……」
あまりといえば、あまりに失礼な言葉……。
反論しようとした自分を、アウレリアが手で制す。
そして、聡明なる主は目線を少女に合わせると、慈悲深い眼差しを向けながらこう告げたのだ。
「ガルムちゃん……だったわね?
確かに、わたしは醤油や味噌という、東方由来の調味料をソースの決め手にしているわ。
それを聞いて、面白くなくなっちゃったのね?」
「う……まあ……そうです……」
どうやら、少女自身も自分の暴言には恥ずべきものを感じているらしく……。
目を逸らしながら、そう答える。
そんな彼女に、アウレリアは優しく……努めて優しく、こう提案したのだ。
「でもね?
わたしは、決して魚醤やアンチョビという、伝統ある調味料をないがしろにしているわけじゃないの。
よかったら、ちょうどお昼時だし、ご馳走させてくれないかしら?
いつも美味しい魚醤を作ってくれているお礼に、ご馳走させて頂くわ。
そして、それを食べてもらえれば、わたしがあなたたちのお仕事にどれだけ感謝しているか、分かってもらえると思うの。
ね? どうかな?」
アウレリアほどの女性が、慈愛を込めてそう告げているのである。
これに抗える者など、いようはずもなく……。
「……はい」
少女は、素直にうなずいたのであった。




