Menu18.魚醤の娘 前編
例えば、騎士がそうであるように……。
あるいは、医者がそうであるように……。
人間社会において欠かせぬ身分や職業というものは、多くの場合、他の職業に従事する者から尊敬の念を向けられるものである。
これは、他でもなく人間が社会性を獲得した生物であるからで、自分たちが帰属する集団を維持するのに必要不可欠な存在を尊敬し敬うのは、生物としての知恵であるといえるだろう。
ところが、何事においても例外は存在するもの……。
社会を維持するのに必要不可欠な仕事でありながら、人々から尊敬の念は向けられず、ばかりか、蔑みや嫌悪の眼差しを向けられる職業というものも、存在した。
代表例といえるのが、下水道の掃除夫であろう。
この仕事は、きつく、汚く、それでいて……臭い。
慣れぬ者では文字通り鼻がへし曲がるような空間で仕事しているのだから、下水道を出た後にもその臭気は体にこびり付くものであり、感謝の言葉どころか、汚いののしり言葉を浴びせられ、距離を置かれるという光景もまま見られた。
きつさと汚さはともかくとして、臭気という点でそれに並びうるのが、ガルムの生業――魚醤職人である。
――魚醤。
その歴史は古く、果たして、いつ頃から存在する調味料なのか……それを把握している者は、歴史学者にも存在しない。
ただ、一つ確かなのは、このハイデルバッハ王国の食卓に欠かせぬ調味料として、常に人々の傍らへあり続けたという事実だけだ。
のみならず――こうした調味料にはありがちなことであるが――かつては万能の薬としても用いられ、病人はひとまずこれを飲まされたものであった。
そのように、魚醤そのものは欠かせぬ存在であり、王都中に流通しているのであるが……。
これを生産する工房はといえば、これがとにかく嫌われており、法律によって、郊外へ建てなければならぬと制定されているほどである。
その理由は、至極簡単……。
――臭いから。
……であった。
何しろ、魚醤の製造工程というものは、簡潔に述べてしまえば、魚の内臓を塩漬けにするというものである。
それも、一尾や二尾の内臓を使うわけではない……。
万を優に超えるいわしが工房内で捌かれ、塩漬けにされるのだ。
初夏を迎えたこの時期になると、王都沿岸部を回遊する大量のかたくちいわしが水揚げされ、郊外の魚醤工房へと運び込まれていく。
そこでいわしは捌かれ、塩漬けにして魚醤やアンチョビへと加工されるわけであるのだが……何しろ、量が量であった。
工房内のみならず、その周辺に至るまでが下水道もかくやという臭気で満たされ、とてもではないが、余人が住める環境ではなくなってしまうのである。
結果、その重要性に反して、魚醤職人もその工房も、王都郊外へと追い出され……。
何一つとして悪いことをしていないというのに、半ばはみ出し者のような扱いをされてしまっているのであった。
そうなってくると、身内での結束や、自分たちの仕事に対する自尊心が強まるのは、必然であるといえるだろう。
人は、寝床と食い物さえあれば生きていけるという生き物ではない。
肉体のみならず、精神をも生かすには、自己の肯定という要素が必要なのだ。
両親が、自分にガルムという娘らしからぬ名前を付けたのも、そんな……ある種歪んだ、生業への誇りがあったからに違いない。
ガルムという名の由来は、言うまでもない――魚醤だ。
古くから、王国民たちを魅了してきた調味料……。
十三歳という若さでありながら、両親や他の親族たちに混ざり、製造へ従事している調味料……。
ガルムは、そんな調味料から取られた自分の名を、気に入っていた。
郊外から都の中心部へ向かうと、バカな小僧たちがこれ見よがしに鼻をつまみながら、臭い臭いとこちらを指差してくることがある。
あるいは、今や大した稼ぎもないくせに、態度だけはますます大きくなっているお貴族様が、臭いので脇にどくよう要求してくるという、屈辱的な一幕もあった。
ガルムがそれらに耐えられたのは、自分たち魚醤職人こそが王国の食卓を豊かにしているという、確かな自負があったからなのだ。
だから、工房を差配する両親に命じられ、他の親戚たちと一緒に納品すべく市場に訪れた今日も、胸を張って荷車を引き、問屋へと訪れたものであった。
しかしながら、そこで問屋の主人から聞いたのは、そんなガルムの自負を根底から覆すものだったのである。
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「はいよ、今日もお疲れ様。
……こないだ、新しく立ち上げたっていう工房に頼まれて仕入れてみたんだけどな、やっぱり、ガルムちゃんとこのじゃないと駄目だ。
こう……味の深さってやつが違う」
納品書に自らの名前を書き入れ渡してきた主人が、そう言いながら、満足そうに納品された壺を撫でた。
「当ったり前さあ!
爺ちゃんの、そのまた爺ちゃんの代から……。
一族全員で守って、工夫を凝らしてきた味だもの!
そんじょそこらの新参者が、うちの魚醤に勝てるわけないね!」
ガルムが胸を張りながら答えると、同行した年長の親戚たちが、やや苦笑いを浮かべる。
だが、その言葉を決して否定しないのは、同じ自信を胸に宿しているからであった。
たった今、納品した壺に収められし魚醤とアンチョビ……。
それらは、一族の創意工夫が詰まった結晶なのである。
「ああ、魚醤に限れば、ガルムちゃんとこのが一番だ。
並ぶところはないだろうな」
問屋の主が、柔和な笑みを浮かべながら自慢のひげをしごいた。
その言葉に、どこか含みのようなものを感じ……。
思わず、尋ねてしまう。
「魚醤に限れば……?」
「ああ、いやね。
実は最近、食通たちの間で、別の調味料が注目されているんだよ」
――別の調味料。
これなるは、青天の霹靂がごとき言葉である。
ハイデルバッハ王国において、調味料といえば第一に挙げられるのが魚醤。
他に酢や、近年では唐辛子を始めとする香辛料も流通しているが、やはり、最も多用されるのが魚醤であり、最も愛好されているのが魚醤なのだ。
「一体、どんな調味料なの?」
故に、重ねて問いかける。
食通たちが注目しているという謎の調味料……。
これが、気にならないはずはなかった。
「ああ、ショーユに……ミソっていうんだけどね。
とりわけ噂されているのは、ショーユだね。
黒騎士団って知ってるだろう? 王国最強の騎士団で、料理上手たちさ。
何でも、そこが大量に仕入れるようになったって話だよ」
「ショーユに……ミソ……。
おじさんは、食べたことあるの?」
ガルムの言葉に、店主が大きくうなずく。
「ああ、実は飲み屋街の隅っこにシュロスっていう変わった店があってね。
そこで、そのショーユを使ったソースが出されているんだ。
で、おれも噂を聞いて食べに行ったんだが……。
あれは、絶品だ。
ちょいと高いが、懐が許す範囲で通いたくなるね」
よほど、その料理が美味かったのだろう。
問屋の主は、遠くを見つめながらやや恍惚とした顔を見せる。
「シュロス……」
だから、ガルムが深刻な面持ちでそうつぶやいていたのには、気づくことがなかった。




