Menu16.初夏のきゅうり 前編
ハンベルク公爵家を追放されて以来、アウレリアの生活は様々なところが変化したものであるが……。
代表的なところでは、歩く機会が増えたというのを挙げられるだろう。
普通、貴族家のご令嬢ともなれば、移動には馬車か、さもなくば力車を用いるものだ。
こればかりは、いかに困窮しようとも拭い去ることのできない貴族文化というもので、各家は、厳しい台所事情の中、様々に工夫して足代を工面しているのである。
そして、アウレリアが生まれたハンベルク公爵家は、亡き祖父の功績により困窮とは無縁の財政事情であり……。
当然ながら、アウレリアも特別な事情――例えば、密かに料理店を開業しようとするなど――がなければ、日々の移動はそういった乗り物に頼ってきたのであった。
だが、今は違う。
もはや、ハンベルクの姓を名乗ることのできない立場となったアウレリアは、ただの女であり、一介の料理屋に過ぎない。
当然ながら、馬車や力車を利用するなどといった贅沢をする余裕はなく……。
市場へ仕入れに行くのにも、あるいは他の用事で移動するのにも、己の足を頼りにするしかないのである。
しかしながら、自分の足で街を歩くと、こう思う。
――何て。
――何て、楽しきことでしょう。
初夏の陽光に照らされながら、歩くのも……。
雨を傘でしのぎながら、濡れた石畳でパシャパシャと足音を立てるのも……。
全てが、新鮮で……楽しい。
これは、狭苦しい座席の中に収まり、他の足に任せて移動するのでは、決して得られない喜びであった。
まして、隣には血を分けぬ姉妹と呼ぶべきマルガレーテがおり……。
歩きながら、彼女と様々な話に花を咲かせることができるのである。
生きる喜びというのは、存外、このようなささやかなところにこそあるのだと、思い知ったアウレリアなのであった。
しかも、己が足で歩き、己の目で見回してみれば、このナタシャという街は実に様々な表情を見せてくれる。
街路の片隅では、子供たちが様々な遊びに興じており……。
どこぞの商家では、すでに隠居したのだろう老人同士が、盤上遊戯を楽しんでいた。
井戸端で会話しているのは人妻たちで、その言葉というものは尽きることがなく、市井の暮らしというものは、飽きることがない事件の連続であるのだと知ることができる。
そして、街を行く人々に共通すること……。
それは……。
「……大分、暑くなってきたわね」
「ええ。
この侍女服も、そろそろ薄いものに変えなければいけませんね」
最近になって急激に気温が上がったことから、誰もがうっすらと汗をかいていたのだ。
人によっては、手で扇ぐことによって、わずかばかりの涼を得ており……。
立ち話の類も、場所となっているのは日陰であることが多かった。
「もう、すっかり――夏」
人間の脳というものは不思議なもので、どうやら、言の葉にするとそれを強く認識するようである。
あえて、夏という単語を口にしたら、もうすっかり、新しい季節の入り口へと入ったのだと思えてしまった。
「そうですね……。
あのような光景を見ると、いよいよ、本格的に暑くなってくるのだと思えます」
「あのような光景……?」
マルガレーテの口にした言葉が気になり、彼女の目線を追う。
すると、そこはある商家の壁が生み出した日陰となっており……。
日陰の中では、木桶を置いた少年が、じっと座りながら道行く人々を見つめていたのだ。
これを見て、アウレリアが想起したのはただ一つである。
「大変、暑気あたりかしら?」
「アウレリア様、そうではありません」
少年が体調を崩したのかと心配する自分を、マルガレーテが落ち着いた声でたしなめた。
「おそらく、あの商家の子供なんでしょうね。
あの子は、ああして道行く人々に辻売りをしているんですよ」
「まあ、そうなの?」
言われてみれば……。
ただ体調を崩しているのならば、通行する人々に助けを求めるなり、あるいは、逆に通りがかった人が助けに入るなりするはずだ。
何しろ、ここは天下の往来であり、それなりの人数が歩いているのである。
「一体、何を売っているのかしら……?」
「覗いてみますか?
せっかくですから、涼を得るのも悪くありません」
「涼を得る……?」
その言葉が気になり、忠実な侍女と共に少年へと歩み寄った。
「こんにちは。
かわいい辻売りさん。あなたは何を売っているのかしら?」
そして、そう声をかけながら木桶を覗き込んだのである。
すると、そこにあったのは……。
水を張った木桶の中に沈む、きゅうりの串刺しであった。
「見ての通りさ。
冷やしたきゅうりを売っているんだ。
お姉さんたち、よかったら一本買っていかない?
綺麗なお姉さんたちだから、一本買ってくれたら、もう一本おまけしてあげるよ」
見上げた少年の口上は、子供ながら侮れぬものである。
そのようにすらすらと述べられると、つい財布の紐をゆるめてしまうのが人情であり……。
「じゃあ、わたしと彼女で一本ずつ頂こうかしら」
アウレリアはうなずくと、少年に提示された額の銅貨を手渡したのであった。
「――毎度!
へへ、キンキンに冷やしてあるから、今日みたいな日にはぴったりさ!」
笑顔で銅貨を受け取った少年が、自分とマルガレーテに一本ずつきゅうり串を手渡してくれる。
「それじゃあ、頂きましょうか」
「ええ」
道端でこのようなものを食べるのも、令嬢時代にはあり得なかったこと……。
それをする喜びに少し胸を高鳴らせながら、きゅうりにかじりついた。
「ん……」
なるほど、少年の言葉通り……。
おそらくは汲み立ての井戸水を張ったのだろう木桶で冷やされたきゅうりは、冷やりとして唇に涼を与えてくれる。
そして、やや固い表皮を噛み砕くと、その内から、果実のそれにも劣らない水気を溢れさせてくれるのだ。
――これは、冷気というものが野菜の形を取ったかのよう。
――しかも、この塩気が心地良いわ。
そう……木桶に張られていたのは、単なる井戸水ではなかった。
そこには適量の塩が仕込まれていたらしく、これを吸ったきゅうりは、やや身が引き締まっており……。
しかも、暑い時にあらゆる生物が欲するもの――塩分をもたらすことによって、清涼感がさらに増しているのである。
「美味しい……」
「このような時に、こういった食べ物はありがたいですね」
マルガレーテと共に、うなずき合った。
「俺にも一本くれるか」
「こっちにも一本くれ」
「かわいいお嬢さんたちが食べてるのを見たら、食いたくなってきちまったよ」
そうこうしていると、道行く人々の何人かが少年に声をかけ、きゅうりを買っていく。
「どうやら、アウレリア様は客寄せに貢献したようですね。
きっと、これを見込んで一本おまけしてくれたのでしょう」
「まあ……」
ちらりと少年を見ると、彼はにっと笑ってみせた。
それで、どうやらマルガレーテの言葉が真実であったのだと分かる。
まったくもって、幼いながらあなどれぬ商才だ。
そのことに感心しつつも、思う。
「もう、きゅうりが美味しくなる季節ね……」
これはもう、シュロスでもきゅうりの料理を出す他にあるまい。
串刺しのそれから涼を得つつ、アウレリアはそう決心していたのであった。




