4
。
次の日、瑠璃は自宅のだだっぴろい居間をひたすらうろうろと歩いていた。
(祭のやつ、どういうつもりよ・・・。ど、どうやって顔を合わせればいいのよ?いいえ、うろたえるなんて格好悪いわ・・・そうね、そ知らぬふりで何もなかった風に?でも、それも腹立たしいわね・・・やっぱり、責任取れって迫ってやろうかしら?)
完全にうろたえまくって爪を噛む瑠璃を見かねて、珍しく家にいた12歳年上の兄が機嫌を取るように近づいてくる。
「瑠璃、どうしたんだ?可愛い顔が台無しだぞ」
若いながらも地元で有力な県議の右腕として抜擢され、将来はその地盤を継ぐと言われている切れ者の兄ではあるが、妹にはひどく甘かった。溺愛である。まさに溺れるほどの愛を一方的に捧げてくる。
「何か嫌なことでもあったのか?お兄ちゃんに話してみろ。力になるぞ。な?」
しかし、こういうときはうっとしい。瑠璃は口をへの字に結んで、ぷいと横を向いた。
「お兄様には関係のないことよ。あっちに行ってて」
そもそも溺愛がすぎて、この兄は祭を蛇蝎のごとく嫌っているのだ。
そんな兄に昨日のことを話したら発狂し、殴りこみに行く可能性すらある。
(まあ、お兄様の非力さじゃ祭に返り討ちにされて終わりでしょうけど)
しかし、汚い手段も厭わない兄が何かをやらかすとも限らず、瑠璃はふぅっとため息を付いた。
「瑠璃~、最近冷たくないか?」
「そう?お兄様、私の心配よりも、身重のお義姉様はお元気なの?」
「凛子か?元気だぞ。つわりも終わって最近は人の倍は食べるように・・・そうだそうだ、お前に見せようと思って写真を持ってきたんだ。段々とお腹が大きくなってきてな・・・」
嬉しそうに義姉のお腹が膨らんだ写真を携帯で見せてくる兄は、子供が生まれる前からメロメロだ。
上手く話をすり替えることには成功したが、延々生まれてくるわが子の話を聞かされ続けた瑠璃は辟易とし、結局途中で兄を邪険に部屋から追い出した。
けれどその日は上手く心の整理がつかず、瑠璃は祭のところへ特攻するのをあきらめたのだった。
そして次の週の休日。ゴールデンウィークも間近に控えた気候のよい日に、瑠璃は意を決して蒜生本家に乗りつけた。
「おじゃまします。祭はいるかしら?」
昔は蒜生の組長がいなければ決してしなかった挨拶をし、玄関先に現れた瑠璃を馴染みの組員たちが笑って出迎えた。
「お嬢さん、いらっしゃい」
「若でしたら組長とお話されてます」
「おじ様がいらっしゃるの?」
「はい。お話が一段落したらお会いになられますか?組長もお嬢さんに会いたがっていらっしゃいましたよ」
「そうね、久しぶりだもの。ご挨拶したいわ」
蒜生の父は穏やかな瑠璃の父と比べると格段に威厳があるが、彼もまた瑠璃を気に入り可愛がってくれている。
しばらく別室で待たされた後、金の襖の一際豪華な部屋に通された瑠璃を見て、蒜生組組長蒜生一虎は鋭い目を細めた。
「おお、瑠璃か。しばらく見ないうちに随分大きくなったな」
「嫌ですわ、おじ様。大きくだなんて・・・私、もう17になるのに」
「もう17か!時の経つのは早いもんだな。道理で随分と女らしくなって。いや~しかし、相変わらず可愛いな。周りが放っておかないだろう?高倉の奴も心配で仕方ないだろうな」
「女子高で寮生活ですもの。おじ様が心配なさるようなことは何もありませんわ」
「そうか、そうか。それは何よりだ。変な虫がつく心配がなくて何よりだな、祭」
自分の父親と談笑を始めた瑠璃を不満そうに見ていた祭は、突然そんな話を振られてますます眉を寄せた。
「別に、俺には関係ありませんよ」
いつもはぶっきらぼうな祭であるが、さすがに組長である父親には敬語を使っている。しかし、声音までは取り繕う気はないようで、明らかに興味がないといった様子だった。
「何だ、こんなにも可愛い嫁をもらえて、何の不満があるんだ」
「だから、そんな話は無効だと何度申し上げていると思っているのですか。とにかく、そんな子供の頃の約束に縛られるなど俺はごめんです。大体、瑠璃だってまだ17なのに、婚約者だなんだって、かわいそうに思わないんですか?」
「もう17じゃないか。法律上結婚できる年は過ぎているぞ。なあ、瑠璃?」
「親父!だから勝手に決めないでくれ!」
瑠璃を振り返った一虎に、祭は不愉快そうに主張した。けれど、一虎は祭の発言など全く無視して瑠璃にだけ問いかける。
「瑠璃がうちの馬鹿息子を嫌いになったというのだったら、すぐにでも婚約なんぞ解消してやるが・・・そうなのか、瑠璃?」
「そんなことないです!祭を嫌いになんてならないもの!おじ様、解消なんて嫌ですわ!」
「る・・・っ」
「そうかそうか。お前は本当に幸せ者だなあ、祭。高倉の娘に気に入られるなんて光栄なことだぞ。瑠璃がわしの娘になるか・・・本当に楽しみだ。祭、瑠璃の気が変わらないうちにさっさと祝言をあげなさい。こんなに可愛い子を横からかっさらわれてはいかん」
「このク・・・」
クソじじい、とと言いかけたであろう祭は、何とかその暴言を飲み込んで無言で立ち上がった。
そして隣にいた瑠璃の腕をひっぱり、強引に部屋から連れ出す。
「まあ、あとは二人でよく話し合って決めなさい。ああ、婚前交渉はいかんぞ。高校はきちんと卒業させてあげなさい」
にこにこと機嫌よく見送った一虎の想像とは違い、祭の表情はかなり険悪なものだった。
そのまま瑠璃を自室に投げ込む勢いで連れ込むと、かなり苛立った様子で襖をぱん!と閉める。
「・・・なんで来るんだよ?」
「な・・・、来ちゃいけない理由なんてないでしょ!?」
しかし、しょっぱなから頭ごなしに邪険にされて、瑠璃はむっと口を尖らせた。
「あるに決まってるだろ。しかもクソ親父がいるときに乱入してきやがって。また誤解されたじゃねえか!」
「ご、誤解って。いいじゃない!私が婚約者ってのは周知の事実でしょ?!」
「お前が勝手に作り上げた嘘じゃねえか!」
「嘘じゃないわよ!うちのお父様と蒜生のおじ様がちゃんと正式に決めたもの!」
「当人は無視か?俺がいつその話を納得したんだ!?」
「・・・・っ」
それを言われると瑠璃は弱い。
黙り込んだ瑠璃に、祭はため息を吐いた。
「いい加減にしろよ、瑠璃。俺は・・・誰とも結婚なんざしねえよ。そう決めてるんだ」
そして続いた言葉は、余りにも意外なものだった。
「結婚しない・・・?」
「そうだ。そんな気は微塵もねえ」
呆然と呟いた瑠璃に、祭はさらに念押ししてくる。
それを聞いて瑠璃は祭の胸元を掴んだ。
「どういうことよ?祭は蒜生の跡取りでしょう?結婚しないって・・・」
「別に跡取りだからしなきゃいけねえなんて法律ないだろ。うちの組の跡取りなら分家から貰ってくりゃいいじゃねえか。それにもともと俺はこの組を継ぐはずじゃなかったんだ。社の子供にでも継がせろよ。それが正当だろ」
「そ・・・そんなの紗枝が許すわけないじゃない!」
「別に社が紗枝と結婚するとは限ってねえだろ。この先何があるかわからねえしな」
「祭の馬鹿!最低!別れないわよ、紗枝たちは!」
「まあ、随分と肩入れしていることだな。・・・ま、そりゃいいや。あいつらの勝手だし。とにかく俺は結婚なんてしねえ。絶対に」
「なんで・・・」
「そんな人生の墓場みたいな選択したくねえ。一人の女に縛られるなんて冗談じゃねえし」
ろくでもない物言いに、瑠璃は続ける言葉を失った。
すると、祭は瑠璃の手を外させて、冷ややかに笑う。
「俺はその場その場楽しいのがいいんだよ。しがらみとか面倒くせえのは嫌いなんだ。まあ、そうだなぁ・・・今までどおり他の女と好きなだけ浮気していい、構わなくてもまったく気にしねえし嫌味の一つも言わねえ、っていう女とだったら結婚も考えてやってもいいけど?」
そんな人いるわけない。だったらなんのために結婚するんだ。
そんな不満が顔に出ていたのだろう。瑠璃を覗き込んだ祭は、「ほら、結婚なんて無理だろ」と勝ち誇ったように言った。
「わかったら、さっさとあきらめな。お前なら嫁の貰い手くらいいくらでもあるだろうが、若いうちのほうが選びたい放題だぞ。帰って高倉の親父に別のいい縁談を探してもらえ」
ひどい。祭はひどい。
なんて残酷な人なんだろうと思いつつも、瑠璃はどうしても大嫌いになれない。あきらめきれない。
「・・・・・・だったら・・・・どうして・・・」
瑠璃の喉から唸るような低い声が出た。
「ん?何だよ?」
けれど祭は動じない。むしろ楽しんでいる様子で、瑠璃を見下ろしていた。
「どうして・・・どうして、私にあんなキ・・・キスしたの!?今までどれだけ私が頼んでも、一度もしなかったくせに!どうして!?」
瑠璃は、涙目になりながらにらみつける。
祭は少し意外そうに眉を上げた。覚えていたか、と唇が動いた気がした。
けれど、彼はポケットからタバコを取り出して咥えながら、鼻で笑ったのだ。
「ばーか。あんなもんに意味なんかねえよ。お前が酔っ払ってうるさかったから、黙らせただけだ」
「な・・・!」
「言っとくが、俺は紗枝にも同じことしたぜ?疑うんなら、紗枝に聞いてみな。あんなキスくらい誰とでもできる。なんだ、自分が特別だとでも思ったか?」
「・・・・・ッ」
タバコに火をつけた祭は、ふぅっとその煙を瑠璃に吹きかけた。けほけほと咳き込んだ瑠璃の頭を祭は押しつぶすように上からぐしゃぐしゃと撫でた。
「お子さまはこれだから相手にしてらんねえな。あんなん、犬に噛まれたとでも思って忘れな」
いつもと同じように祭は笑う。それが何より瑠璃を傷つけた。
どうしようどうしようとうろたえていたし、恥ずかしかったけれど、でも、嬉しかったのに。
「最っ低・・・」
「今更何言ってるんだよ。知ってただろ、それぐらいのことは」
「・・・・最っ・・・低よ・・・」
それ以上罵る言葉はもう出てこなかった。喉につっかえた熱いものが、代わりに瞳からあふれ出てきた。
ぼろぼろと言葉もなく泣く瑠璃を、祭はどう思ったのか。
しばらく黙り込んでいた彼は部屋の隅にあったティッシュを持ってきて、瑠璃に差し出した。
「んなことくらいで、泣くなよ。面倒なやつだな・・・ったくよ」
瑠璃は差し出されたそのボックスを手で叩き落すと、唇を噛んだまま、無言で祭の横を通り過ぎていった。
つらくてつらくて、どうしていいのかが分からないまま。
一方、瑠璃が出て行ってすぐろく吸ってもいないタバコを消した祭は、床に落ちたボックスティッシュを拾い上げて、手の上でボールにするように、ぽんぽんと投げていた。
最近になって、瑠璃を泣かせてばかりいる気がする。
いや、本当はずっと瑠璃を泣かせていたのかもしれない。気が強い彼女がそれを見せなかっただけで、ずっと瑠璃を傷つけていたのかもしれない。
瑠璃の傷ついた泣き顔が頭から離れない。
苦い思いが胸の中にわだかまっていた。
「若」
「大森か」
「お嬢さん、お帰りになられました」
「・・・・・そうか」
ようやく祭は放り投げていた箱を卓袱台においた。
そして見事な日本庭園に面している縁側に向かい、その景色をぼんやりと眺める。
「よかったんですか・・・?」
後ろに控えていた大森が、ふと、そんな問いかけを発した。
「何がだ?」
「お嬢さんにあんなことをおっしゃって・・・」
「いいもなにも、事実だからな」
皮肉気に頬を歪めた祭に、大森は少し黙り込んだ後、もう一度言葉を発した。
「けれど、若。若はお嬢さんをずっと可愛がって・・・大切にしていたではないですか」
「・・・もう潮時ってやつだ。いつまでも俺のような男に幻想を抱いてられちゃ困る」
「若・・・もう、いいのでは?」
「何がもういいんだよ?」
「無理に軽薄に振る舞わなくてもいいのではないですか?」
「馬鹿言え。俺の性質だよ」
「・・・世話役の私にまで、強がらなくてもかまいません。若は、自分の懐深くに他人を入れるのが怖いのでしょう?そして、そうすることが美江子への裏切りに感じるのでしょう?だからいつまでも、表面上の付き合いしかしたくないし、してはならないと感じている。そうでしょう?」
「大森、口がすぎるぞ」
核心をえぐる大森に、祭はにらみを聞かせた。
大森はすぐに頭を下げたが、それでも言葉を撤回はしない。
「申し訳ございません。ですが、これだけは。若がそのようなことでは、死んだ美江子も浮かばれません。美江子は若が幸せになることを望んでいるはずです」
「貴様、知った口を・・・!」
「美江子は私の異父妹です!名乗れはしなくても、幼い頃は私が面倒を見ていた・・・私は確かにあの子の兄です!美江子がどういう子で、何を望むか、それくらいのことは分かります。だから、私はあなたに今でも仕えている。美江子の分まで、あなたの役に立とうと誓ったからです。そのあなたがみすみすご自分の首を絞めていくのを見過ごせはしません!」
「・・・・っ・・・!」
大森の胸倉をきつく掴みあげていた祭の手が、急速に力を失った。
幼い頃から祭、社、そして美江子の世話を買って出てくれていた大森。そして、美江子のたった一人の兄である彼の言葉を無視することはできなかった。
美江子を傷つけ、殺した原因たる祭は・・・。
祭は、ふっと息を吐いて気持ちを落ち着けると、できるだけ平静な声で言った。
「大森・・・悪いが俺は、そんな生易しい感傷は持ち合わせていない。俺は俺の生きたいように生きるだけだ。だから、瑠璃が邪魔だった。それだけだ。この結果に満足してる」
「では、何故そのようなお顔をされるのですか?左目の下がひきつっていらっしゃる」
「---―っ?」
「ご希望通りになれたというのに、祭さんはちっとも満足そうにはみえません。今一度、ご自分の心に聞いてみてはいかがですか?・・・祭さんは、いつも自分の気持ちと反対のことばかりを選び取ろうとしてしまうところがありますから」
昔の呼び名と諭すような言い回しに、祭はなんとも言えない表情を浮かべた。
「ご無礼申し上げました」
大森は一拍置いて、深々と床に手と額をつけた。
「ただ、主のためを思うがゆえの無礼とお許しください。失礼いたします」
いつもの優秀な部下に戻って、大森は部屋を後にする。
祭は振り返りもせずに、ただじっと庭を見つめていた。
◇
その日の夜、瑠璃は実家の自室でけたたましい音をさせ続けていた。
「お、お嬢様!おやめください!」
「うるさいわね!」
「瑠璃様!」
「近寄らないで!!」
「あっ!」
唯が飛び出してこようとするのを見て、瑠璃は手に持っていたカップを咄嗟に投げつけた。
高価な白磁のカップは唯に当たって、床で無残に砕け散る。
陶器をぶつけられた唯が額を押さえているのを見ても、今の瑠璃には謝罪の気持ちなど沸いてこなかった。
「来ないでって言ってるのに寄ってくるあんたが悪いのよ。さっさと下がりなさい」
「・・・申し訳ありません」
「全員よ。出ていって!」
唯が単調な声で謝罪をした気持ちなど何も考えずに、瑠璃はヒステリックな声で叫んだ。
ついでにソーサーも床に叩きつけて割る。
瑠璃が使用人たちの非難の目を理解し、ようやく反省の念が沸きあがってきたのは、部屋にあった貰い物のほとんどを壊してからだった。
(・・・どうして・・・こうなんだろう・・・)
胸が痛い。
今まで誰に八つ当たりしても、誰にひどいことをしても苦しいことなんてなかったのに。
今は、その頃の自分を省みるだけで恥ずかしくてたまらない気分になる。
それなのに、何処にぶつけていいのか分からない憤りだけは確かに存在していて、それを上手くコントロールできずに他人を傷つけてしまう。
気がついたときにはもう遅く、自己嫌悪だけが残る。
瑠璃は高慢だが、人に思われているほど自分の非を認められない人間ではない。
ただ、その後悔と反省をどうやって伝えていいのか、その方法が分からなかっただけだ。
けれど今は違う。
謝るのにはとても勇気がいることを知ると共に、ちゃんとその勇気を絞り出すこともできるようになった。まだ、時間はかかってしまうけれど。
「・・・・唯に・・・謝らなくちゃ・・・いけないわね」
あんな硬いものをモロにぶつけられたのだ。
きっと瘤になってしまっているだろう。謝って、ちゃんと腕のいい医者に連れて行ってやらなくては。
唯は瑠璃の人形ではない。
自分が怒り、落ち込んでいたからといって、無下に扱っていいなどと言うことは絶対にないのだから。
けれどそう決心したときには既に唯は病院から戻り、高倉家の近くにある実家に帰ってしまっていた。だから瑠璃は明日、学園に戻るときに謝ろうと硬く心に誓う。
今度こそ、ごまかさないで。まるで犬に褒美を与えるかのように物をあげるだけではなくて、きちんと今までのことも含めて謝ろうと。
せめて、違う決意を胸に秘めていなければ、祭の言葉が思い出されて余りにも痛かった。
今は、彼の何も考えたくはなかった。
そして次の日。
いつもどおり部屋に迎えにきた唯に、瑠璃はまず第一声として謝罪を述べようとした。
「唯、あの・・・昨日は・・・ご・・・ごめ・・・」
「瑠璃様、出発のお支度はすでに整っております。週末課題の方もこちらに」
「え・・・あ・・・あり・・・ありが・・・」
「それでは私は車の手配をしてまいりますので」
だが、唯は瑠璃の言葉など聞きもしないで、必要な事務連絡だけを伝えてくる。
そのまま踵を返そうとした唯を、瑠璃は慌てて呼び止めた。
「ゆ、唯!待ちなさい!」
「何でしょうか、瑠璃様」
すると唯はぴたりと動きを止めて、まるで人形のように両手を前でそろえた綺麗な立ち姿で振り返る。それを見た瑠璃は、言おうとしていた言葉をとっさに飲み込んでしまった。
違う。こんな命令口調ではいけない、と。
「瑠璃様?」
「・・・あ・・・」
だが、唯の痛々しい額のガーゼを見ていると、どんどんと心臓が早鐘を打って、緊張が競りあがってきた。
今更謝っても許されないのではないか・・・そう思うと喉が音を発しない。「ごめんなさい」とその一言を言わなければいけないのに。
「瑠璃様、ご命令がないのでしたら私はこれで」
ぎゅっと目をつぶってしまった瑠璃を不審そうに見遣った唯は、一礼して部屋を出て行った。
瑠璃はようやく詰めていた息を吐き、その場にへなへなと崩れ落ちた。
(・・・・何やってるの・・・私・・・)
こんなことだから駄目なのに。
“てめえは自分のしでかしたことの尻拭いもできねえのかよ”
いつかそう言った祭の言葉が思い出された。そしてつい昨日の祭の馬鹿にしきった顔が脳裏に浮かぶ。
“なんだ、自分が特別だとでも思ったのか?”
まるで、瑠璃には何の価値もないという祭の言い分。
誕生日を祝ってくれたから、浮かれていた。
祭にはやはり“高倉”への義理以上の感情を瑠璃に感じてくれていることなんて一度もなかったのだろう。
またドツボまで落ち込んだ瑠璃だったが、兄が先に帰ると言うので暗い表情のまま見送りに出た。
「瑠璃、そんな顔してると幸せが逃げるぞ」
「・・・・もともと、こんな顔よ」
しつこく言うのでそんな気分でもないのに見送りにきてあげたのに、ろくなことを言われず、瑠璃はますます眉間のしわを深くした。すると兄はふーっと思い切りよくため息を吐く。
「またお前、蒜生の若頭と喧嘩したんだろう」
「・・・・別に」
「部屋中の物、壊したって?唯にも怪我をさせたそうじゃないか。駄目だぞ、そんなことじゃ。一体どんな大喧嘩したんだ?」
「・・・・・」
答えない瑠璃に、彼はもう一度息を吐いて、苦笑した。
そして瑠璃の頭をぽんぽんと撫でる。
「そうか、お前がそこまで怒るんだ。よほどのことがあったんだな。なら、仕方ない」
兄は決して瑠璃を怒ったりはしない。
けれど今はその態度にもやもやが広がった。
それを上手く言葉にできない瑠璃は、かがんで瑠璃と視線を合わせる兄を複雑な表情で見つめていた。すると兄が瑠璃の目元にすいと指先で触れる
。
「赤くなっているな。泣いていたのか?」
「・・・・・たいしたことはないわ」
結局、指摘に気恥ずかしくなった瑠璃からぷいと視線をそらせることになった。
「俺の可愛い妹を泣かせるなんて何て奴だ」
「お兄様、私は大丈夫よ」
「大丈夫なわけがあるか。なあ、瑠璃。いい加減考え直さないか。俺はあいつが瑠璃にふさわしいとはどうしても思えない」
しかし、兄は真剣な表情で瑠璃の肩をつかみ、必死に諭してくる。
「確かにそれなりに手腕もあるようだが、お世辞にも素行がいいとはいえない奴だ。そもそも私はお前に極道の家に嫁いでは欲しくないんだ。瑠璃にはもっと由緒ある名家に・・・」
「蒜生家だって、由緒正しい名家よ。それに、高倉の家に生まれて極道と縁をもたないで欲しいだなんて・・・今更よ、お兄様」
「いや、だけどな、極道関係と言ってもいろいろあるじゃないか。しのぎを削っている組など、いつ何時危ない目にあうかもしれない。そうだ、私の知り合いの県議の息子とかどうだ?一度会ってみても悪くはないと思うぞ」
挙句にそんな提案をしてくる兄に、瑠璃は胡乱げな眼差しを向けた。
「お兄様は、私を出世の道具に使いたいの?」
「まさか!可愛いお前をそんな風に思うはずがないじゃないか。私は、いつでも瑠璃のためを思ってるよ。瑠璃がその気がないならいいんだ。ちょっと言ってみただけだよ。何と言っても瑠璃の気持ちが一番だからな」
途端に兄はうろたえまくり、必死に弁明をする。
瑠璃に嫌われてはたまったものではないと思ったのだろう。
予想通りの反応に満足して、瑠璃は宣言した。
「だったら、お兄様。お兄様は口を出さないで。私は祭がいいんだから!」
しかし、そこではっと気がつく。
やはり、「祭がいい」という気持ちに変わりはないことに。あんなことを言われても、どうしてもあきらめたくない自分に。
「・・・・・、あきらめてなんてやるものですか」
祭が結婚したくない、自由に生きたいと無茶苦茶な理屈をこねるのだったら、それを変えさせるまでだと、瑠璃は手で拳を作った。
まだ、自分を見てもらえるように頑張り始めたところではないか。だったら、“高倉”以上の価値を見つけてもらうまでしつこくしてやる。
変えられないなんて悲観的に考え続けるのはやめた。
まだ、これ以上無理というだけの努力をしていないのに、あきらめてなんてやるものか。
社が言っていたではないか。今までの10年以上の年月は、そう簡単に変えられるものではないと。
あきらめたくないという気持ちがこんなにも強いのだったら、あきらめないでいてやる。
他にどうしても結婚したい女がいるというわけではないのだから、まだ望みが全くないわけじゃない。
「瑠璃・・・」
兄が深々とため息を吐いたのは知っていたが、瑠璃は不屈の意思で再び祭への執着心を燃やした。




