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28/42

過去の精算

◇◇


探していた人影は、申告のとおり河川敷の坂にあった。

夕日を受けるその横顔がひどく寂しそうに写る。


「美江子!」


冬の冷たい空気を吸い込んでから、社は声をあげた。


「まあ、社くん?」


振り返った美江子はいつものように、簡単に社を見分けた。少し驚いた表情のあと、ゆっくりと笑う。

その笑顔が悲しげだったのを、社は今でもはっきりと覚えていた。


「社くんがここにいるってことは、祭くんは来ないの?」

「・・・・ああ。なんか、用事ができたとか言ってた。美江子を待たせてるから迎えにいってくれって」

「そう。どこかで可愛い子でも見つけたのかしら?」

「っ違う。本当に、ただ用事が・・・」

「いいのよ、社くん。祭くんのことだもの。よく分かってるわ」


すべてを悟って微笑む美江子は、それでも泣きはしなかった。

代わりに、一つ大きく伸びをして草はらから立ち上がる。


「最近はずっとつまらなそうな顔をして、一緒にいることも避けたがった。だから、そろそろ駄目かなって分かってたの。あーあ、やっぱり祭くんは祭くんね。幼馴染だから、少しは特別になれないかと期待していたんだけど、とっても甘かったみたい」

「美江子、祭は・・・祭にとって、美江子は他の女とは違う。それは俺にも分かる。だから・・・」

「ありがとう、社くん。優しいのね」


ふふふ、と美江子はいつもの優しい笑みを浮かべた。

それが余計に社にはもどかしい。


「あいつが美江子を大切に思ってるのは本当だ。嘘じゃない。じゃなきゃ、あいつが一人の女とだけ付き合うわけがないんだ。美江子のことだけは、ずっと一緒にいたから粗雑には扱えなくて、美江子とのつながりが大切で、ただそれにあいつは馬鹿だから気がついていないだけで・・・」

「・・・ありがとう」

「嘘じゃない!俺にはあいつのことが、よく分かるんだ」

「そうね。双子ってお互いの気持ちがわかるっていうものね」

「美江子、真剣に聞いて・・・」

「真剣よ?でも、社くん。私もずっと祭くんを知っているわ。彼がどんな人で、どんなに気持ちの移ろいが激しい人なのかも。どんな仕草をすれば、どんな感情を持っているのかも。だから、祭くんにとって、私はもう価値がないのだと・・・・・分かってるわ」


美江子はまつげを伏せた。

そして一度だけ、指で目尻をこする。泣くのを耐えようとしているその目は赤くなっていた。


「駄目ね、年上の威厳なんてまるでなくて、本当に駄目。社くん、祭くんには言わないでね」


余計にうっとおしがられちゃうわ。縛り付けることは、祭くんが一番嫌うことだもの。


その言葉のなんと重いことか。社はぎりぎりと胸が痛んだ。


「馬鹿だって言ってくれればいいわ。それでも私、言われるまでは祭くんをあきらめたくないの」

「・・・・・なんで・・・」


強い感情をこらえた言葉は、苦しげな音で吐き出された。


「何で・・・、そんなにまでして祭に・・・あいつは、美江子がそこまでするような、そこまでして好きでいるような奴じゃない。あんな奴っ」

「社くん」


美江子の非難するような呼びかけにも、社は止まらなかった。


「ああそうだよ。美江子が思ったとおり、あいつは他の女と外泊だってよ。お前に飽きたって、そう言って、わざわざ俺に返してやるから迎えにいけって電話してきて・・・。そんな糞野郎だよ、あいつは!美江子が思ってるよりもずっと最低な人間だよ!・・・っ、いつだって、自分の都合のいいように振る舞って、俺を巻き込んで、それでいい思いばかりしているんだ!俺が・・・俺がっ、美江子のこと好きだって知ってて、それでもあいつは横からかっさらっていきやがった。あの日、美江子がさらわれかけたときのことも・・・」

「うん、知ってる」

「・・・え?」


社の激情にまかせた告白は、美江子の静かな声で途切れた。見れば、みたこともないような顔で美江子が笑っている。

それは社が知らない“女”の顔だった。


「ごめんね、社くん。私、知ってたの。あれが社くんだって分かってたのに、私、それを利用したの」


ごめんね、と繰り返す声が、夕方の河川敷を吹き抜ける冷たい風に乗ってさらわれていった。

美江子はその風になびいた髪を手で押さえながら、川の方を見つめた。


「助けてくれたとき、泣いてくれたね。とても心配してくれた。必死になって走ってくれた。すごく嬉しかった。言うのが遅くなったけど・・・助けてくれてありがとう。社くん」

「知っていたのか?」

「最初は自信がなかった。目の前がぼんやりしていて、話し方とかそういうことでしか。だから、あの日家にいたのが祭くんだったと知ったときには、私が間違えたのかな、と思った。でも、お父さんとお礼を言いに行ったときの祭くんを見て、やっぱり違うって気がついたの。祭くんは嘘があんまり上手くないから。ああやっぱり、あれは祭くんのふりをしていた社くんなんだって、気がついたの」

「・・・じゃあ、何で・・・」

「私ね、社くん。すごくずるいの。社くんが思っているような女じゃないの。だから、社くんに好きだって言ってもらう資格なんてないのよ」


美江子の穏やかな、でも冷たい言葉に、社は黙り込んだ。


「ごめんね、こんなんで。でも、嘘はつけないから。私ね、ずっと祭くんが好きだったの。ずっとずっと前から」


美江子の自信に満ちた横顔を、ただ黙って見つめていた。


「社くんは優しいし、責任感が強くて弟思いのとてもいい子だと思うわ。祭くんはその反対ね。自分が自分がって気持ちが強くて、社くんへのコンプレックスが強すぎて、素直になれない」


でもね、と年上の幼馴染はふわりと笑う。誰にだってわかる、幸せそうな笑顔で。


「祭くんも、本当は優しいのよ。優しいって思われたくなくて悪ぶってるけど、いざというときは手を差し出してくれるの。弱い者を、自分が気に食わないからって理由をつけて助けてしまう。そういう人なの」


それは社も知っていた。

祭は謂れのない喧嘩を吹っかけたりはしない。

目をつけられたなら別として、自分から行動を起こしたならそれは“誰かのため”だ。

絶対に意地っ張りの祭は認めないけれども。


「それに、社くんにひどいことをしてしまったとき、いつもいつも悲しそうな顔をしているのよ。なんで、自分はこうなんだろうって無防備にこぼしてくれたときがあるわ。自分がいなければみんなよかっただろうにって。どうして双子で生まれてきたんだろうって」

「・・・え・・・?」


しかし、続けられた事実は、社にとって衝撃だった。


(祭が・・・そんなことを?)


好き勝手に振る舞っている傍若無人な祭が?


「そのときから、かもしれない。祭くんの孤独をなくしてあげたいって、そう思ったの。きっと祭くんには迷惑だったと思うけど。でもね、いつも元気いっぱいにやんちゃをしている祭くんが、あんな風に苦しそうな顔をするのを見ていたくなかったの。祭くんには祭くんのいいところがあるって分かってほしかった。だって誰よりも自分を認めてあげてないのは、祭くんなんだもの。社くんにだって負けてばかりじゃないってことを、認められないでいるの」

「・・・知ってる」

「ふふ、社くんは賢いものね。人の気持ちを推し量る点では祭くんは全然社くんに敵ってないわね」

「美江子は・・・本当に、祭を見ているんだな」


祭の行動は誤解されやすい。

組の兄衆たちにでも、父親にでさえ、祭の真実は見えていない。

分かっているのは自分だけだと思っていた。

けれど、そんな社以上に、祭の本心を美江子は知っていた

「私はね、捨て猫を抱えて雨の中飼ってくれる家を探し回る・・・ううん、知り合いを脅し回るような祭くんが、すごく好きなの。でも、ずっと言えなかった。だって祭くんにはたくさんの彼女がいたから。今更、そんなこと言えなかった。それも、年下の中学生の男の子に。でも、命を助けてくれたのが祭くんだったとしたら、それを口実にできるかなってずるいことを考えたの。だから、ごめんね社くん。私、こんな卑怯でひどい人間なの。ごめんね」


そこまで言い切って、美江子は振り返り頭を下げた。


「社くんが思っているような人じゃなくて、本当にごめんね。社くんにはもっと優しくて誠実な人が似合うと思うわ」

「・・・・・つまり、体よく振られたってことか」


そんな美江子に肩をすくめ、社は笑った。

不思議と胸はもう痛まなかった。


「社くん・・・」

「そんな顔するなよ。ていうか、知ってたし。俺は認めたくなかっただけなんだよ。だから、二人を見ていたくなかった」


泣きそうな表情になった美江子の肩を、ぽんと叩く。


「俺は美江子が理性的で頑固な奴だって知ってた。たった一回助けられたくらいで、そんな突発的な気持ちだけで今までのバランスを崩すなんてことをするはずがないと思っていたんだ。だから、祭に美江子に告白されたことを聞いたとき、美江子は前から祭を好きだったんだなと思ったんだ」


そりゃすぐに祝福はできなかったけど、と社は苦笑いした。それからすぐに、表情を引き締める。


「祭が・・・、お前のこと飽きたって言ったのは事実だけど、本心じゃないと思うぜ」

「・・・ううん、いいよ。気を遣わなくて・・・こんな、私なんかに・・・」

「気を遣ってんじゃねえよ。あいつと俺、好きになるものが一緒なんだ。あのろくでなしが、美江子のことを気にかけてた。何でも俺のものを奪いたがるあいつが、俺が美江子を好きなのを知っていても、ちょっかいをかけはしなかった。それは美江子が大切だったからだ。それってあいつにとって、最大級の好きってことなんだよ」

「そんなこと・・・ないよ」

「そんなことあるんだよ。あいつさ、誤解してんだよ。さっき美江子も言っただろ。祭は人の気持ちを察することが苦手なんだよ。だから、美江子はあの事件があったから自分を好きになったと思ってる。そのきっかけが自分じゃないから、苦しいんだよ。美江子は誤解してて、俺を好きなのに間違えてると思ってる。だから、俺に“返してやる”なんて言い方をしたんだよ。あいつ、馬鹿だから」


それは社の中で自信があった。自分がいなければいいなんて弱気な祭を知ってからは、余計に自信がついた。祭は自分が好かれる人間だと信じていないのだ。


「なあ、もう一度、ちゃんと祭に言ってやれよ。美江子が好きなのは、ずっと好きだったのは祭の方なんだって。そうしたら、絡んだ糸は元に戻れる。俺も協力してやるからさ」

「・・・っやしろくん・・・」

「うわ、泣くなよ?!」

「ごめんね・・・ごめんね・・・っ」


いままで一度として涙をこぼしはしなかった美江子が、突然ぽろぽろと頬を濡らし始めた。

社はしばらく戸惑って、そっと美江子の頭を撫でる。

うつむいている美江子はずいぶんと小さく感じた。


「あー、ほら、泣くなって。年上だろ」

「私・・・わたし、社くんにひどいこと、したのに・・・」

「ひどくねえって。別に何にもねえよ。あのさ、誤解してっかもしんねえけど、俺、祭と美江子なら似合いだと思うぜ。お前らが上手くいくなら、俺も嬉しいし」

「・・・な・・・なんでそんなに・・・社くんは優しい・・・の・・・?」

「優しくねえと思うけど。だってうすうす美江子の気持ちは知ってたのに、祭には言わなかった。悔しくてな。そのせいで、美江子は泣いてんだし。だから、これは罪滅ぼし」

「社くん・・・」

「祭は単純だから、すぐひっかかるって。うまくいったら・・・そうだな、また作ってくれよ。なんだっけ?あのケーキ」

「・・・・洋梨のタルトね。うん、いつでも作ってあげるわよ。社くん、甘いもの好きだものね。祭くんと違って」


その言葉に社は曖昧に笑った。

たぶん、祭も甘いものが嫌いということはないと思う。

ただ、美江子に差し出されたものであったことと、女みたいに甘いものを食べることはかっこ悪いという固定観念で口にしないだけだ。

逆に社は、そっぽを向いた祭にしょげた美江子を思って、特別好きでもなかったけれど食べた。

その違いだけだ。

それからは美江子が自分のためだけに作ってくれるのが嬉しくて、美江子を喜ばせたくて、よく食べているうちに好きになった。

そんなくだらない経緯があるだけ。


「祭には内緒にしとけよ」

「そうね。でも、祭くんのことだから、そのうち知るんじゃないかしら?そしたら、思い切り社くんのこと、からかいそう」

「その前に恩売っとくのも悪くねえなぁ」

「・・・どうかな?」


また不安を除かせた美江子の背を、社は軽くたたいた。


「まあ、任せとけって。ほら、とにかく今日は帰るぞ。こんなところにいつまでもいたら風邪ひいちまう」

「・・・・そうね」


コートのポケットに手を突っ込んだ社が踵を返すと、美江子もその隣に並んだ。

いつもはその距離に胸が痛いような、むずかゆいような変な気分だった。

けれど、今はそれがない。

代わりにあるのは、また穏やかな時間。

いつも3人でこの道を帰っていた、騒々しく楽しかった時間。


(こいつらがうまくいったら、また、笑える気がする)


社はずっとつらかった。

それは祭に美江子を取られたということよりも、もしかしたらお互いの気持ちを知って、それがすれ違っていることを黙っていた罪悪感だったのかもしれない。

だからすべてを伝えられた今は、こんなにも晴れ晴れとした気持ちになっているのかもしれない。


(あいつ、どんな顔するんだろ?)


その瞬間を思うと、社の胸は弾んだ。自分のことのように。

ただ、幸せな未来だけを思い、他愛のない会話を続けていた。


「そういえば、この間料理部で新しいレシピ覚えたのよ」

「へえ、何?」

「ほうれん草のシフォンケーキ」

「・・・それは作らなくていい」

「結構美味しいわよ?今度、持っていってあげるね」

「何で野菜をケーキにする必要が・・・」

「あら、今健康ブームではやってるのよ?にんじんケーキとか」

「げ。ごめんだね」


にんじんがあまり好きではない社が顔を思い切りしかめたとき、遠くで悲鳴が上がった。


それに驚いて振り返ったときには、すべてが遅かった。


猛スピードでライトを照らし突っ込んでくる車が目の前にあり、咄嗟に美江子の手をひっぱったことしか覚えていなかった。


体がばらばらになるような衝撃と、冷たい水のまとわりつく感触。

振り払われた弱々しい美江子の手。


目を覚ましたときには、すべてが無くなっていた。

これからあるはずだった、幸せな結末も。何もかもが。


◇◇

「俺は憎んだよ。美江子のことが好きだった、大切だった。けど、それと同じくらい、俺はお前にも幸せになってほしかった。あんなにもお前を分かってくれるのは、美江子しかいないと思っていたから。だから、俺は二人分なくしたんだ。美江子とお前と二人分。勢力争いなんてそんなくだらないことで、あるはずだったものを奪われた。それが、許せなかった」


今もきっと胸が痛んでいるのだろう。社の声はつらそうだった。


「もううんざりだった。義理だ何だといって美江子を犠牲にした親父も、本家のぼっちゃんを助けるためなら娘も報われると俺を責めなかった玉城の親父も、俺のために自分から手を離した美江子自身も・・・うんざりだった。何が蒜生本家だ。だったら全部ぶっこわしてやると、そう決めた。そうすればせめて、お前に後継ぎの座はやれる。美江子をちゃんとお前に渡してやれなかった。その代わりにはならないだろうが、せめてもの償いに」


社がしっかりと祭を見た。

祭はなんと言えばいいのかわからないのだろう。

何度か口を開こうとして、その都度閉じていた。

それを見て、社はふっと笑う。


「お前の言いたいことはわかるぞ。“そんなことをいって社の方が本当はふさわしいのに”、だろ」

「・・・・社・・・」


ようやく祭が片割れの名前だけをつむぎ出した。彼が妬んだ、蒜生を支えるはずの名前を。


「馬鹿。一番わかってねえのはお前なんだよ。そりゃ、中学に入るくらいまでは喧嘩だって俺の方が勝ってたかもしんねえよ。けどよ、それ以上は俺はお前に勝てる気なんてしなかった。お前の方がずっと強いし、いざってときの機転も利く。俺みたいに他人に興味持てない奴より、慕ってくる仲間が多くてその仲間を大切にする祭のほうがよっぽど人の上に立つ資格があるんだぜ?」

「・・・俺は、ただの・・・サル山の大将にすぎなかった。馬鹿ばっかやってただけだ」

「まあ、やってたことは馬鹿だったとは思うが。だが、お前は言い訳をしなかった。どんな奴が相手でも理不尽には絶対に従わない一本筋の通った奴だった。俺はそれがうらやましかったよ。いろんなしがらみにがんじがらめになっている俺には、それから抜け出す勇気もない俺には、自分を通し続けるお前の強さがうらやましかった。そんなお前になら全部安心して任せられる。だからあのとき、そう言ったんだ」

「けど、俺は一度だってお前に勝てたためしがなかった!」


急に感情を爆発させた祭に、それでも社は穏やかな笑みを絶やさなかった。

いや、どちらかというと少し呆れた表情に変わっていたかもしれない。

わがままな子供に言って聞かせるような。


「だから馬鹿だっていうんだよ。お前、一度だって俺に本気でかかってきたことねえじゃねえか」

「本気だったに決まってるだろ!」

「本気じゃねえよ。無意識に手加減してたんだろ。言っとくけどな、お前が喧嘩ふっかけて勝った相手に、俺は勝てなかったことだってあんだぞ?ぼろぼろで帰ったときだって何回もあっただろうが」

「・・・それはお前が油断してたからだろ」

「してねえよ。負けたくはないからな。それに、傍で見ててもお前の方が強いって何度も思った。そのくせ俺とやりあうときだけ、何を遠慮してんだかちっとも本気じゃねえ。なあ、お前どっかで俺に勝ったらいけないって思ってたんじゃねえのか?」

「そんなわけねえ!なんで俺がお前に遠慮しなきゃなんねえんだよっ!?」


「・・・・祭さん、社さんにあこがれていたかったんじゃないですか?」


激昂した祭に答えたのは、紗枝だった。

え、と二人分の視線が紗枝に集まる。

一瞬それにおののいたけれど、紗枝はそれでも思ったままを最後まで口にした。


「祭さんは・・・社さんが目標だったんですよね?いつか追い越してやるって、ずっと思ってきた。だから、勝ちたくなかったんじゃないですか?いつまでも社さんに自分の前にいてほしかったんじゃないんですか?」


だが、しん・・・と訪れた静寂に、結局紗枝は慌てる。


「あのっ、その、な、なんとなく、思っただけなんですけど。すすすみません・・・っ」


おろおろと視線をあちこちにさまよわせている紗枝の頭のてっぺんに、ぽん、と手のひらが乗った感触があった。

それは社で、そちらへ顔を向ければ、同時に体が浮いた。

紗枝を抱えたまま社が立ち上がったのだ。


「っやしろさん?!」

「ほら、落ちるからつかまってろ」


とりあえず言われたとおりに彼の首に腕を回すと、社は呆然と立ち尽くしている(ように見える)祭に言葉をかけた。


「祭。お前がどう思ってたかは知らねえよ。けど、これだけは言っておく。俺はお前を恨んじゃいない。お前に対してあったのは昔から罪悪感ばっかりだった。組のことも、美江子のことも。こうなったのは、俺たち両方がガキだったからだ。だから、どっちが悪いんじゃねえ。両方とも悪かったんだ。だから俺のために、お前が自分を責める必要なんてこれっぽっちもない」

「・・・・俺は・・・。・・・けど、美江子は・・・もう、いない・・・あいつに謝れない・・・」

「美江子のことを話したのは、お前をもう解放してやりたいと思ったからだ。お前も苦しんでたと知ったから。だから、美江子に今更とらわれる必要はないだろ。美江子だってそんなこと望まないだろう。お前を苦しめてるって知ったら、あいつは悲しんでるだろうよ。もう、いいんだ。前を見ろよ。俺なんかにこだわらずに、お前の道を行けばいい」

「社・・・」

「ていうか、俺に面倒かけんな。いつまでもガキじゃねえんだ。ああ、まあでも、お前が頭下げて協力してくださいっていうなら、それ相応の報酬で働いてやらんこともないがな」


わざと煽るような社の言い方に、祭は一瞬黙り込んで、それからいつもの調子で言った。


「うるせえ!二度とてめえになんか頭下げるかっての」

「ああそうかよ。まあ、今回のことはこの後始末でチャラってことで、面倒だろうが頼んだ。じゃあな、祭」


社もさらりと言い捨てて、外に歩き始めた。


「・・・社!」

「んだよ?」

「・・・・・・てめえの顔は当分見たくない」

「同感だ」


祭の言葉に、何故か社は急に楽しそうに笑った。

腕に抱えられた状態の紗枝は疑問符でいっぱいになる。

倉庫の外で直立して頭を下げている蒜生の組員たちの間を抜け、社の車に乗せられた時点でようやく尋ねた。


「あの・・・なんで、笑って・・・?」

「ああ、あれはあいつなりの礼みたいなもんだ」

「お礼?」

「俺に図星を指された照れ隠しだ。恥ずかしいから会いたくないんだろ」

「は、はあ・・・」


紗枝には良く分からなかったが、とりあえず仲たがいで終わっているわけではないらしい。

そのことにほっとしていると、ふと真顔になった社にどきりとした。


「それよりお前、本当にひどいな。病院に行ったほうがいい」

「いえ!そんな、ちょっと腫れて痛いくらいですし、その、あんまり、大袈裟にするのも、ちょっと・・・」


どうしたのだと聞かれたら答え方がわからない。

そのまま話したら警察沙汰にならないわけがないのだから。


紗枝はぶんぶんと首を振る。


すると眉を寄せた社はため息をついて、「俺らのためにか」とつぶやいた。

それを否定することもできず、曖昧に笑う。


「お前は本当、人のことばっかりだな」


そう言って、助手席のシートベルトを締めてくれた。


「とりあえず、俺の家に行くか。手当てはしなきゃならんだろ

「あ・・・え・・・っと、あの・・・」

「後から文句はいくらでも聞くから、今は黙ってついて来い」

「は、はい・・・」


これ以上の面倒をかけさせてしまうことが申し訳なくてどうしようか戸惑った紗枝に、社は難しい顔をして言い付けた。

とっさに頷いてしまったが、そういえば祭に出て行けといわれた以上、この申し出がなければ帰るところがなかった。

あるとすれば、ほったらかしの自分の家くらいだ。


そもそもこんなに色々なことがあって、あの家はどうなっているのだろう。


(ウィンドウ以上は、壊れてませんように・・・)


ぎゅっと両手を握り締めてしまうのは、この有難い申し出のあとに、帰れと言われたら困るからだ。

そんな紗枝を、社は隣で静かに見つめていた。



「・・・・散らかってない」


社のマンションに戻ってきて、開口一番に紗枝が発した言葉はそれだった。後ろで社が苦笑する。


「ほぼ帰って来てねえからな。あと、お前が来るって分かってたから、一応片付けた」

「まあ、違う部屋に突っ込んだだけだが」とあいかわらずの生活能力の低さを披露してくれたことには笑ってしまう。


「ほら、座れ」

「え、でも、私・・・汚いですから」


ソファを薦められたが、自分の身汚なさを思って辞退すると、シャワーを浴びて来いとタオルと前に社に買ってもらった服を放り投げられた。

荷物を引き上げたときに、買ってもらったものは綺麗に畳んでここに置いていったのだ。

とっくに捨てられていると思っていたのに、まだあったらしい

砂と埃まみれのままは嫌だったので、一応勝手知ったるで風呂場を借りて、あちこちが染みると涙目になりながらもこざっぱりとして出てくれば、社も部屋着に着替えていた。


紗枝をソファに座らせると、社はもくもくと手当てをしてくれる。

紫に腫れた唇の端に消毒薬をつけられたときには悲鳴をあげたが、それ以外は概して社の手際のよさに感心していた。


「ほら、あとはこれで冷やしておけ」

「すみません」


氷を入れた袋をタオルで包んだものを紗枝は頬とこめかみに押し当てた。


冷たさについ片目を眇めてしまい、社が覗き込んでくる。


「痛むか?」

「えっと、はい。でも、大分マシになりました。腫れているのもさっきよりよくなった気がするし」

「熱が出るかもしれないな。一応薬飲んどけ」

「あ、はい」

「横になるか?少しはいいかもしれない」

「いえ、それは・・・大丈夫です」

「・・・そうか」


だが、世話を焼き終わってしまえば、部屋には沈黙が落ちた。

お互い何を言えばいいのか分からないで、視線を合わせることができない。

それを打開してくれたのは、社の方だった。


「さっき・・・」

「はい?」

「・・・いや、俺のこと怖いか?」

「え?何で・・・ですか?」

「倉庫で。あんなところを見て」


苦渋に満ちた響きに、紗枝は目を丸くした。


「いえ!そんなことは・・・、すみません。本音を言えばその、やっぱり怖かったですけど・・・。でも、今も怖いってことはないです。というか、忘れてました。祭さんとの話もあったし」

「そうか・・・」


もしかして社は紗枝が車の中で一言も発しなかったことを怯えていると勘違いしたのだろうか。

それだったら申し訳ない。

紗枝はすっと息を吸うと、今までとは違うはっきりとした声を出した。


「あの!助けてくださってありがとうございました!」


勢いよくぺこんと頭を下げると、逆に社が驚いた気配がした。


「お前はただ巻き込まれただけだと言っただろう?逆に怒ってもいいくらいだ。いや、俺を詰るくらいがちょうどいい」

「そんな。社さんは悪くありません。さっきも言いましたけど。悪いことを考えた人が悪いんです」

「そんなことはない」

「もう!分かってくださいよ。いいじゃないですか。私が社さんは悪くないって思ってるんですから」


言い張ると、社がはあ、とため息をつく音が聞こえた。

やっぱりそれは心外で、紗枝はひそかに頬を膨らませる。

けれど、かなり痛かったのですぐにやめてしまった。

その様子を見ていたらしい社は目をすがめた。


「女の顔殴るってのは本当にゲスだな」

「女とか男とかの前に殴る人が悪いんだと思いますけど」

「それは。そうかもしれないが・・・跡が残ったら大変だろう」


せっかく綺麗な顔をしているのに、やっぱり()せばよかった。


紗枝の前髪をかき上げ、覗き込みながら呟かれた物騒な言葉に紗枝は赤くなったり青くなったりした。


「た、たいした顔でもないんで!そこまでお気になさらず!それよりもっ」


不意に思い出した疑問を話題転換にと口にする。


「何で助けてくれたんですか?」

「・・・は?」


だが、唐突すぎたのだろうか。社が理解できないとばかりに思い切り眉を寄せている。


もしかして聞いたらいけないことだったのかと一瞬、怯えたが、「どういうことだ?」と聞き返されたので、自分が疑問に思っていたことを口にした。


「だって、社さんにとっては会社がすごく大切で。会社を守りたくて、私を連れてきたんでしょう?なのにどうして、その会社を引き合いに出されて、私なんかのためにそれに応じようとしたんですか?」

「はあ?!」

「ご、ごめんなさい!」


だがやはり機嫌を損ねたようだ。

氷を持つ手をつかまれて、紗枝はびくっと体を震わせた。


「そ、そうですよね、あげる気なんかなかったんですよね。ちゃんと奥の手を用意していたんですね?すみません、馬鹿なことをききました。そうですよね、比べ物になるわけがないのに」

「ちょっと待て、お前、何言ってんだ?」

「社さん、優しいから。ちょっと関わった人間を見捨てるなんてできなかった・・・」

「紗枝!」


叱りつける声にぎくっと紗枝の動きがとまった。


「ちょっと黙れ。俺にしゃべらせろ」

「・・・はい」


紗枝はうなだれて自惚れるなと言われるその瞬間を待った。


「あのな、誤解しているようだが・・・いや、誤解させたのは俺か。くそ・・・、とりあえず全部説明させてくれ。いいか?」

「はい」


けれど社が困惑したような苛立ったような、そんな感じで許可を求めてきたので、もう一度居住まいを正した。

氷をおろし、両手を膝の上で重ね合わせる。


「どこから話していいのか、わかんねえから、最初から順番に話す」


こくんと紗枝が頷くのを見て、社は訥々と語り始めた。



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