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帰りたい、ただそれだけ

家に帰りたい。


そう思うようになったのは、結構早い段階だった。

やはり環境に慣れなかった。やくざに偏見があるからということではない。

ただ、この家にいると始終見張られているような居心地の悪さを感じてしまうからだ。

もともと、家事を一手に引き受けていた紗枝は何もしないということ、何より人に何もかもを世話してもらうということに苦痛を感じた。

世話をやくより、むしろやいている方が性にあっているのだ。かといって、この家の手伝いをするわけにもいかないという現状があった。

一般人でありたいと思うなら、こっちに手を出すな。祭にそう言われた。

お茶出し一つにしても組の顔としての役割を担う。

だから、紗枝は表には出たら駄目だと。

かといって食事は大所帯なのでまとめて作っているし、裏方として掃除を手伝おうとしても広すぎる屋敷であることや客人がいる場合もあるから勝手に出歩かないよう言い含められているし、洗濯は若いお嬢さんにやさせれませんや、と強面のお兄さんに拒絶された。


「お客様ですから、何もなさらなくてよろしいのですよ」


知り合いということでなにかと話しかけてくれる大森はそう言うけれど、何もしないということが苦痛なのだ。

お買い物でもしてみては、と業者が家に来てくれたこともあったが、紗枝は別に着物とか宝石とかそういうものにはたいした興味がないので、とりあえず呆然と見て、それだけで終わった。

むしろそのせいで、激しく疲れただけだった。

庶民な紗枝を気にしてなのか、祭はよくおやつを差し入れてくれるが、それだけで顔を見せにくることはない。

せっかくくれたので、ちゃんとありがとうと言いたいのに、それは伝えておくから、ということで終わる。そもそもその差し入れが気に入ったかどうかも興味がないようで、一度味見くらいするかと聞いたら、「甘いもんは嫌い」と一蹴された。

まずかったら捨てとけ、気に入らなかったら買いなおさせとけ、と。

興味がない祭は、何を差し入れるのかさえも、他人任せなのだ。

結果はどうでもよくて、ただぽんぽんと物をくれるだけ。

好きなものをやっているのだからいいだろう。そう言っているように思えてしまう。


(・・・別に、欲しいものがあるわけじゃないんだけど・・・)


なにかを貰うのが嬉しくないわけがない。

でも、それは気持ちがこもっているからじゃないのか。いや、祭に気持ちがないわけじゃないと思う。

紗枝がふさぎこみそうなのを、なんとなく手助けしてくれようとしている。

でも、たくさんの物を貰えばそれでいいというわけではないのだ。

たくさんの物を与えてくれなくていい。くれなくたって全然かまわないのだ。

ただ、せめて紗枝の反応くらいは気に掛けて欲しかった。

あげっぱなしじゃなくて。あげればそれで終わりじゃなくて。

そんなのでもらっても何か空虚だ。もらえばもらうほど、その空虚さは増す気がした。

かといって、いらないと言えば、「もらえるもんはもらっとけ」とそう切り返されてしまう。

多分、価値観の違いというやつだ。言っても仕方がない気がして紗枝はため息をついた。


(・・・こんな落ち込みたくなるのは、ホームシックだからかな)


何品目もある豪華な和食に箸をつける手が止まった。

振り返れば40代半ばの和装の女性がいる。

祭が紗枝の世話を頼んだ女性で、牧野といった。いわゆる仲居のようなもので、ここにいると旅先の旅館にでもいる気がする。

一人旅はいいとよく言うが、紗枝は一人旅だけはすまいと心に決めた。

一人は、こんなにも寂しい。

人がいるのに、その中で一人だと余計に。


「もうよろしいのですか?」

「・・・あ、いえ。ちょっとゆっくり食べようと思って・・・。あ、でも、おかわりとかはいいんで・・・食べ終わったら呼びます」


暗に一人にして欲しいと牧野に言えば、彼女はすぐに意を汲んで頭を下げた。


「そうでございますか。では、お食事が終わりましたらお呼びくださいませ。どうぞごゆっくり」

「すみません・・・」


彼女がいなくなってほっとする。もちろん嫌いなわけじゃないし、感謝しているが、どうも『仕えられる』という状況が落ち着かないのだ。

食事中に行儀が悪いとは知りながら、紗枝はかばんからスマホを取り出した。

開いてみるが、新しい連絡は何もない。

ピ、と履歴を振り返れば、「あの日」の日付がたくさん並んでいた。全部社からだった。

出たくなくて出なかったのに、紗枝はそれを消せない。

メモリーすらも消していない。

消してしまったら、すべてなくなってしまう気がして。


(なくなって・・・って、最初から何もなかったけど)


自分に笑ってしまう。

最初から全部嘘だったと、ああやってお店に来てくれたのも、紗枝の人形を褒めてくれたのも、全部嘘で、都合よく利用するつもりだったのだと知って、紗枝はひどいショックをうけたし、悲しかった。


もちろん、社には社なりの都合があって当たり前で、それを責める権利は紗枝にはない。

まして、社は何一つ紗枝に不利益になることはしていない。でも、利用される材料になるかならないかの選択権は紗枝にだってあるはずだ。

だから、紗枝は社を許さない。許したくない。

けれど、憎めはしなかった。

紗枝はスマホをカバンにしまうと、再び箸を持った。

食欲があまりにないと、心配される。こんなどうしようもない自分を面倒見てくれている祭に迷惑をかけるのはよくないと思った。

しばらくもくもくと食べ物を口に運んでいたが、煮物に手を伸ばしたところで再び手がとまった。


(・・・丸々しいたけ・・・)


しいたけのかさに十字のバッテンがついたものが入っていた。それを見てふと思い出す。 


紗枝が同じようなものを出したとき、基本的になんでも食べる社がめずらしく箸でしいたけだけをつついていた。

“あ、嫌いでしたか?”

“・・・・形が”

“え、形?しいたけの?味じゃなくて?”

“細くなってれば食べられる”

“へえ?噛むのがいやなんですか?”

“というか・・・嫌なことを思い出すからだな”

“嫌な思い出・・・ですか?”

“ああ。昔、俺たちがまだちびだった頃に、しいたけ狩りに何故か行ってな。何でそんなところに行ったのかはまったく覚えていないんだが。しいたけって、菌を種木に植え付けると生えてくるんだろ?”

“そうみたいですね”

“その栽培してるところは結構気味が悪くてな。腐ったみたいな木にきのこがびっしり生えていたことはしっかりと覚えている。そこで俺が転んだんだよ。そうしたら祭が、きのこ菌が入ったからお前の足からもあんな風にきのこまみれになるぞと、脅してきて・・・”

“信じたんですか?”


あまりに微笑ましいエピソードに紗枝はくすりと笑った。子供心に気味が悪かったのだろうと思うと気の毒だが、なんだか可愛かった。けれど、さすがは社のトラウマで。そんな生易しい話でもなかったようだ。


“ほんのガキの頃の話だからな、まあ、少しは疑った。だが、祭は嘘ばかりつくからほとんど信じてはいなかったんだ。心配して大人に聞いたら負けだろうと思って、誰にも確かめないでいた。そうしたらある日、とんでもないいたずらをしやがったんだ”

“とんでもないいたずら?”

“冷蔵庫からしいたけを出してきて、寝てる俺の脚に接着剤でくっつけやがった”

“!!?”

“さすがにパニくった。多分、生涯で一番慌てたのかあのときだな。あんの馬鹿、アロンアルファーでくっつけやがったから、とれねえし。やられたのは俺なのに、食べ物を粗末にするなとあいつと一緒に怒られたし。・・・それ以来、しいたけそのものの形が駄目なんだ”


なんとも悪質ないたずら話に紗枝はあっけにとられるしかなかった。しかしその驚きが去ると、嫌そうにしている社に笑いがこみあげてきた。 


“じゃあ、これからはちゃんとスライスしたものを出しますね。・・・ふふ、社さんにも弱点があったなんて”

“別に弱点ってほどでもないだろう。なんというか、むずかゆくなるんだよ、見てると”

“そういうの弱点っていうんですよ。わかんないですよ、私が社さんになにか怒っていて、テーブルの上にしいたけかご盛にしたあげく、しいたけ尽くしにするかもしれないじゃないですか”

“・・・・・・”


そのとき社の、思い切り嫌そうな眉の寄った顔は、怖くなくて、むしろ可愛いと思ってしまった。


“本当にはやりませんけどね”

“脅かすなよ”


ほっと息を吐いた表情もいつもより無防備だった。いつか一度やってみたいとついつい思ってしまうような、気安さが生まれた。それが許される気がした。だが。


(・・・しいたけかご盛する暇もなかったな)


現実は、そんな他愛もない冗談がそぐうようなレベルでの話ではなかったのだ。

ぱたり、とテーブルに水滴が落ちた。ぱたた、と何粒かそれが続く。


(やだ・・・、泣きたくないのに・・・)


けれど、涙は止まることを知らない。紗枝はもうそれ以上、箸を動かすことができなかった。

ただ、肩をちいさくしゃっくりあげるだけだ。

お人よしの紗枝は、嘘をつかれることには慣れていた。

裏切られることにも慣れていた。それでなにかを失うことだってあった。

今回は、何もなくしていない。

苦境を救ってもらっただけ。その動機が信じたものと違っただけ。まだ、なにも失っていない。

むしろ客観的にみれば、社が近づいてきてくれてから、紗枝の運命は好転した。

けれど、こんなにも悲しい。痛い。笑えない。

・・・あきらめれない。

どこかで、社が説明してくれることを望んでいる。聞きたくないのに、聞いたらなあんだってなることを期待している。そんな自分が嫌でたまらない。


(誤解とか・・・そんなわけがないのに・・・)


この耳ではっきりと聞いた。それに、あれ以上の説明があるのなら、彼は弁明しようとし続けてくれるはず。

けれど、もうずっと着信は鳴らない。

それは、あの夜知ったことが真実のすべてであり、社がもはや紗枝に興味をなくした何よりの証拠だった。



「なによ、あんたまだいたの!」


祭がいない時間を見計らって、紗枝には来客がある。これで3度目の訪問だ。

普段は某お嬢様学校の寮にいるという瑠璃は、何故か休みでもないのに外出届けを出して、平日にもやってくる。門限があるらしく数十分の滞在なのだが、そのすべてを紗枝への悪口に費やしているのだ。

前は祭からもらったカードで街を出歩いて、無茶苦茶な放蕩をしていたらしい。

紗枝が前に聞いた“2日で500万”を使ったというつわものはこの瑠璃なのだ。

そんな貴重なショッピングの時間をあんたのせいで潰される、と理不尽な怒られ方もされた。が、それでも瑠璃はやってくるのだ。

175センチの紗枝に対して、瑠璃は151センチ。どうしても見下げる状態になるのが、瑠璃にはなおさら許せないらしいので、彼女の前ではなるべく立たないようにしている。


「ずうずうしいのよ!出て行きなさいよ!」

「・・・ごめんね。あの、でも他の行き場がなくて・・・」

「だからってここにいないでよ!」

「うん、そうなんだけど・・・わたし、お金もないし、アパートも簡単に借りれなくて」

「そんなの知らないわよっ!」

「だ、だよね・・・」

「とにかく祭に言われなくても、出てきなさいよ」

「・・・できれば、そうするのがいいとはわかってるんだけど・・・」

「わかってるなら、やればいいじゃない。甘えてるんじゃないわ。こんなのどうせ祭の気まぐれなんだから、いい気にならないで」


キッと敵意に満ちてにらまられるのは、さすがにつらい。

瑠璃は、祭が紗枝を特別に扱っているようなのが許せないらしい。確かに、祭の婚約者を自称するのであれば、紗枝の存在は目障りかもしれないと思う。ただ。


「祭はあんたみたいな一般人とつりあう人じゃないのよ。わかってる?この蒜生の天辺ってことがどういう意味か、どれだけすごいのかわかる?わかってないでしょ?だからそんなにのうのうとしているのよ。祭は、そんなこともわかんないあんたがそばにいていい人じゃないのよ」

「・・・・・・瑠璃ちゃんは」

「気安く呼ばないでよ!私を誰だと思ってるのっ?本来ならあんたなんかが口を利ける相手じゃないのよ」


ぷん、と瑠璃はそっぽを向いた。せっかく見た目が可愛いのに、高飛車な態度が鼻につく。少し、悲しい気持ちになった。この人とは分かり合えないと思ったから。


「・・・瑠璃さんは、祭さんが好きなんじゃないの?それとも蒜生の若頭だから好きなの?」


紗枝は、平坦な声で聞いた。

すると瑠璃は一瞬黙り込み、見下したような眼差しを紗枝に向ける。


「は?何言ってるの?若頭の祭がいいんじゃない。私にはそれくらいの相手じゃなくちゃ」

「もし祭さんが後継ぎじゃなかったら違ってたの?」

「もし、なんて知らないわ。だって今は祭が後継ぎじゃない。だから私は祭がいいの」

「祭さんが、好きじゃないの?」

「好きよ。さすが当代一と名高い蒜生家の若頭らしく、気前よく何でも買ってくれるし、たいていのことは叶えてくれるし」

「言うこと聞いてくれるから・・・?」

「悪い?いいじゃない、あっちだって、高倉の娘を味方につけたらメリットたっぷりでしょ?それくらい当然の扱いよ。そうすれば関東が手に入るも同然なんだから。むしろ光栄でしょ?」

「・・・・・」

「私は一番が好きなのよ。一番こそが、私に良く似合うもの。だから、関東で頂点に立つ祭の女は私じゃなきゃいけないのよ。その祭にとっての一番は私じゃなきゃ許せないのよ」


瑠璃の言葉はどんどん紗枝を悲しくさせた。

祭が瑠璃を疎むのもわからないでもない。

こんな風に言われたら、いくら祭だって傷つくと思う。それしか価値がないみたいに言われたら。

だからそのままの言葉がポツリと出てしまった。


「・・・祭さんが可哀想・・・それじゃ瑠璃さんを好きになってくれないと思う」

「はっ!?」


瑠璃の表情が鬼気迫るものになったのを見て、紗枝は慌てて口を押さえた。

完全な失言。何もしらない部外者なのに、ただ思ったままを言うのはさすがにまずかった。


「何ですって?今、なんて?」

「な、何も・・・」

「聞こえてたわよ!祭が、私を好きにならないって・・・どういうつもりよ!?」


しかし、聞こえてしまったものはもう仕方がない。今更ごまかすのも意味がなくて、紗枝はこのまま怒られようが続けてしまうことを選んだ。

瑠璃に腹が立つ部分もないわけではなかったから。


「誰でも、そんな風にその立場だから好きだって言われても嬉しくないと思う。まして、祭さんは最初から後継ぎじゃなかったことを、気にしてるみたいだった。それだったらなおさら、立場だけで好きって言われても受け入れられないんじゃないかな?後継ぎだから選んでやったって、そんな言い方されたら、いい気分じゃないと思うよ」

「な・・・っ」

「祭さん言ってた。瑠璃さんは、蒜生の後継ぎだったら、俺でも社でもどっちでもよかったんだろう、って。瑠璃さんと話していると私もそう思う。あなたは人を見てないってことじゃないの?祭さんと社さんは別の人なのに、ただ蒜生の息子って同じくくりでしか見てないんじゃないかって。考えてもみて。瑠璃さんだって・・・お家の名前だけで見られて、瑠璃さん自身はどうでもいいって思われて顧みられなかったら悲しいって思・・・っ」


瞬間、びゅっと風を切る音がして、すぐに頬に激しい痛みがあった。

ばちんっとものすごい音がしたからそれも当然と思う。ついでに、瑠璃の長い爪が当たってひっかかれた傷がひりひりとした。


「何であんたにそんなこと言われなきゃいけないのよっ!なんの権力もないくせに!」

「・・・権力があるとかないとか、そういうことじゃないよ。ただ、それじゃ誰からも心から好きになってもらえないって、そうやって・・・」

「黙りなさいっ!!」


ぱんっ!と反対側の頬も殴られた。瑠璃は顔を真っ赤にし、肩で息をしていた。


「あんたなんかに言われる筋合いはこれっぽっちもないわ!それ以上無礼な口を利いたら許さないわよっ」


やはり分かってはもらえなかったようだ。

無理もない。彼女の価値観は紗枝とまるで違う。家の名前でちやほやされるのが好きな少女に、道理をとくのは無駄だった。だが、分かって欲しかった。祭が、地位に固執していると自認している祭が、それだけを望む瑠璃を受け入れられないことに。どれほど熱くなっても、このままの瑠璃じゃ祭をすさませるだけだということに。


「瑠璃さん・・・」

「な・・・によ、その目!あんたの方が祭を分かってるといわんばかりに・・・優越感にひたってるんじゃないわよ!庶民のくせしてっ!」


瑠璃は怒り狂って立ち上がり、紗枝の髪をひっぱった。

痛みに紗枝は顔を歪める。つかまれた髪を取り返そうともみ合っているうちに、紗枝は後ろに倒れ、瑠璃が上に乗る状態になる。

その際に脇にあった和机が倒れ、がたたん!と派手な音がした。


「私、知ってるのよ。あんた、社に捨てられたんでしょ?」

「―――!」

「朝丘の孫なんでしょ?それも駆け落ちした妾の娘のほうの。社は骨を折ってあんたを見つけた。それなのに、朝丘のご隠居様はお気に召さなかった。だから、社がもう要らないって捨てたんでしょ」

「わ・・・たしは・・・」

「そりゃあ、あんたみたいなのがあの朝丘の血筋にふさわしいなんて思えないものね。たいした美人でもなくて、可愛げもないくらいに大きくて。あそこは古い体質だから、あんたみたいなのは受け入れられないでしょうね。それに、後先考えず騒ぎを起こしたって。そりゃあ、朝丘のご隠居様もあんたを嫌悪するわけね。社だっていい迷惑だったと思うわよ。あんたみたいなの拾って」


今まで何を言われてもそんなに気にならなかったのに、今の瑠璃の言葉はぐさぐさと紗枝の心を傷つけた。


「社に捨てられたから、同じ顔してる祭に乗り換えようってわけ?いいご身分ね?」

「・・・っわたしは、別にそんなつもりは・・・っ」

「でもおあいにくさま。祭はただ社がかまっていたあんたが珍しくて、面倒見てやってるだけなのよ。昔から社のものを取るのが好きだったから。それを、いい気になってんじゃないわ!あんたなんて、誰からも邪魔にされて終わりよ!」


ひゅっと紗枝が息を呑んだ瞬間、ふすまが開けられる音がした。


「瑠璃お嬢さん・・・!?これは・・・っ」


どうやら中で音がしたのを不審に思った誰かが大森を呼んでくれたらしい。さすがに祭の腹心といわれる彼に見つかったのは罰が悪いらしく、瑠璃はぱっと紗枝の上からどいた。


「なんでもないわ。この人が勝手に転んだだけよ」

「しかし・・・」

「何でもないと言ってるでしょう?祭に言ったら承知しないわよ」


大森をにらんで、瑠璃はそのまま部屋を出て行った。のろのろと起き上がった紗枝の傍に、大森が膝をつく。


「紗枝さん、瑠璃お嬢さんは・・・」

「何でもないです。ちょっと転んだだけで」

「しかし、中から怒鳴り声が聞こえたと」

「すみません。私が失言をして、怒らせてしまったんです。本当にすみません」


紗枝が言わないのを知ると、大森はふうっとため息をついた。そして牧野に救急箱をもってくるように言う。


「手に怪我をなさっていますよ。文机を倒したときにぶつけたのでしょう。それに、頬にひっかき傷も。お顔ですから、傷が残っては大変でしょう」

「・・・・・すみません」


実際、髪はぐちゃぐちゃだったし、殴られた頬はわずかに赤い跡を残していた。すべて悟られていることは承知で、それでも紗枝は口を閉ざした。

つげ口をしたくなかったからじゃない。

ただ、今、瑠璃のために口を開いてしまえば、自分が泣いてしまうような気がしたのだ。


“あんたなんて誰からも邪魔にされておわりよ!”


そう罵った瑠璃の言葉が、あまりに胸に痛かった。


どうだったら、よかったのだろう。

母のように可愛ければ良かった?お淑やかな性格だったらよかった?

ないものねだりをしても仕方がないと知っていても、そう思わないわけにはいかなかった。

ずっと考えないようにしていたけれど、いい加減向き合わなければならないのだと悟ったから。

紗枝は自分の感情をきちんと整理することを決めた。


「祭さん、お願いがあるんです」

「うん?」


だから、紗枝は祭に頭を下げた。



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