嵐を巻き起こす人物の登場です
◇
それからまた数日が過ぎた。
社の家にきてもうすぐで2週間。父親に大人しくしていなさい、と厳命されている身としては何もできないけれど、いい加減外に出たくてたまらない。
けれど、社がいまだに頷いてくれないので、今日も今日とてご飯をつくって、洗濯をして、掃除をして、テレビを見て、最近はじめたマフラーを編んで、またご飯を作って、とつまらない日常を繰り返している。
「・・・つまらない」
はあっとため息がまた出てきた。
「外出たいよ~、せめてコンビニ行きたい~」
日に当たりたいならベランダに出ればいいといわれたけれども、そういうことじゃない。
とりあえず、社会に出たいのだ。別に社といるのが不満なわけじゃないけれど、彼以外の人ともしゃべりたい。
「いらっしゃいませ」とかでもいいから。
人間ってこんなことでもストレスを感じるんだなーと考えながら、紗枝がぽてっとソファに頭を預けたときだった。
突然、部屋の電気が消えて真っ暗になった。
「て、停電っ?!」
懐中電灯の場所もわからない(むしろあるのかも知らない)家での緊急事態に、紗枝は一瞬パニックになった。
「ろ、ろうそく・・・えっと、えっと・・・」
自分がキャンドルを持っていたことを思い出して、紗枝はそろそろと壁伝いに自分の部屋へと戻ろうとする。するとまたしても突然がしっと腕を掴まれた。
「ひっ!」
引きつった声をあげて紗枝は自分を捕まえた手を必死に振り払おうとする。だが、逆にぎゅっと腕の中に抱き込まれてしまった。
「落ち着けって」
「・・・・社さん?」
暗くて顔が見えないけれど、確かに社の声だった。
いつ帰ってきたのだろう。
音がしなかったし、大体、最近は帰ってくるとちゃんと「ただいま」と言ってくれていたのに。
だが、背の高さや体に回された腕の感触は覚えがある。だから、紗枝はほっと息を吐いた。
「おかえりなさい。これ、停電でしょうかね?」
「・・・・・・」
「社さん?」
問いかけに答えが返ってこないのが不思議で、紗枝は首をかしげた。
「どうかしたんですか?」
顔を上げようとすると、ぐいっともっと強く抱き寄せられる。その力の強さにびくっとした。それだけではない。社が何か変だった。
お酒の匂いはしないけれど、何か、違う香りがする。
「・・・紗枝」
「ど、どうしたんですか?」
だが、社の声だ。おかしいと思うのに、疑いきれない。
眉を寄せていると、ふと顔を上げさせられた。しかも、片手はご丁寧に紗枝の視界をさえぎって。
「お前が好きだ」
「え・・・っ」
一体何を言われたのかわからなかった。思考も動きも固まった紗枝の唇に、ふっと息がかかる。またびくりとしたところで、がんっと何かを殴りつける音がした。
「祭っ!なにしてやがるっ!!」
「えっ!?」
また、社の声だ。しかも近くではなく遠くから聞こえる。紗枝は咄嗟に自分に触れている手を振り払った。視界が一気に明るくなる。まぶしさに一瞬目がくらんだ。
「なんだ、もう来たのか?」
「てめえ、殴られてぇのか!?そいつから手を離せ!」
「そんな怒るなよ、ちょっと手伝ってやろうとしただけだろ」
「何言ってやがる!」
「わ・・・っ」
ぐいっと別の方向に引っ張られ、紗枝はよろめきながらまた他人の腕の中に抱かれていた。
「や、社さん?」
顔を上げると、確かに社がすぐそばにいる。例にないほど怖い顔をしていた。
あれ、と思い、彼がにらむのと同じ方向を振り返ると、そこにいたのはにやにやと笑う金髪の青年だった。
でも、顔が社と同じ・・・。
「えええっ?」
紗枝はびっくりして目を丸くした。
雰囲気は大分違うが、顔のつくりはそっくりだ。
ただ、金髪の彼のほうには、左目の下に数センチほどの傷が刻まれている。
「お、いい反応」
「祭」
「怒るなって。からかっただけだろ」
「たたき出すぞ、てめぇ」
唸るような声を出す社は、紗枝を自分の体の後ろに隠した。
「わかったよ。手ぇ出さなければいいんだろ」
「お前は約束をすぐに破る」
「まあ、職業柄な」
「・・・そういうことじゃない」
怒っているのに一切悪びれる様子がない彼に、社はついにあきらめたようにため息をついた。そして紗枝を振り返って、ぽすぽすとその頭を撫でる。
「悪かったな。驚かせて」
「あああの、社さん・・・この人・・・」
「ああ。蒜生祭。俺の双子の弟だ」
「双子っ?」
初めて知る衝撃の事実に、紗枝はひっくり返った声をあげた。するとそんな紗枝を祭が覗き込んでくる。
「へえ、よくみりゃ結構いけてんな。うちの店で働かせても上位いくんじゃねえ?」
「殺すぞ」
「だから冗談だって。すぐマジになりやがって。必死だねぇ」
胸倉をつかみかけた社から一歩引いて、祭はおかしくてたまらないとばかりに笑う。
笑い方はあまり社と似ていない。
彼にはどことなく軽薄さがついてまわった。
「帰れ」
「別に挨拶くらいいいだろ。さっきはからかって悪かったな。紗枝だろ?祭だ、よろしく」
「祭さん・・・って、男の人だったんですね」
紗枝が漏らした言葉に、祭はははっと快達に笑った。
「ああ、女みたいな名前だからな。字はな、お祭と同じ字だぜ。陽気な感じだろ?」
「紗枝、こいつと話すな」
むっとした社の声が聞こえてきて、紗枝はすぐに口をつぐんだ。
すると、祭はやれやれとばかりに肩をすくめる。
けれど、話しかけるのを止める気はないようで、一方的に紗枝に説明を始めた。
「親父がさ、昔テキ屋にあこがれてたらしくてよ。笑っちまうだろ、この辺一帯牛耳るやくざの親分が、一介のテキ屋になりたかったとは。で、それを子供の名前にしちまうところが、また笑える。社なんて、御輿って名前付けられるところだったんだぜ?」
そういえば、社のことを見て、蒜生組の若頭と似ている、と近所の人たちが噂していることを思い出した。
それに、紗枝の家に押しかけてきたチンピラたちが「蒜生の片割れ」と称していたことも。
もしかして、この人が蒜生組を継ぐ人なのだろうかと紗枝は思う。
偏見はやっぱりいけないとは思うけれど、「店で働かせる」とか、蒜生という大きなやくざの生まれてあることを誇示している発言とかからも仲良くなれそうにない、と紗枝は思う。
決定的にしたのは、次の一言だった。
「まあ、社って地味な名前だしな。祭なんて、女みたいだけど、派手っぽいだろ。社よりはまだマシだっての。名前は人をよく表すっていうしよ。社みたいな地味な堅実派にはぴったりだったよな」
かちん。
見下したような言い方に、紗枝は他人事ながらむかついた。だから、つい口が出てしまう。
「人の名前をそういう風に言うのってよくないと思いますけど」
「うん?」
「いいじゃないですか、社ってしっかりしていて、いい名前だと思いますよ。社には似合ってると思います。それを地味とか、いくら兄弟でも失礼でしょう。いい大人が、恥ずかしくありませんか?」
にらむと、祭が目の前で軽く目を見開いた。それから、へえ、と興味深そうにじろじろと紗枝を見る。
「紗枝」
社がやめろとばかりに、紗枝の肩を横から抱いた。
しかし、紗枝は止まらなかった。
「社さんに謝ってください」
「噂どおり気の強い子猫だな。俺がどんな人間か知ってんのか?」
「私の予想が正しければ、蒜生組の若頭でしょう?でも、そんなことどうでもいいです。あなたがそれより偉かろうが偉くなかろうが、社さんに対する失礼な言動は変わりません。むしろ立場を嵩に着て何もかもが許されると思っているのなら、私はあなたを軽蔑します」
「これは、また・・・。爪を立てるのはいいが、その相手を間違えると痛い目みるぞ。世の中には逆らっちゃならない相手もいるってこと教えてやろうか?」
「祭、やめろ。紗枝もだ」
「それでも前言は撤回しません。謝ってください」
「いい度胸だ」
社が仲介に入ろうとしたが、二人は止まらなかった。
祭がすっと目を細め、紗枝をにらみつけた。
その迫力は並々ならなくて、紗枝はじとりと背中に汗をかく。けれど、絶対に負けるものかと意地で睨み返してやった。
それから少しの間にらみ合っていた。
結局終結させたのは社である。
「やめろと言っただろう?目つきが悪くなるぞ」
ぐきっと顔ごと社のほうを向かされて、そのままぽすりと胸元に押し付けられる。だって、と恨みがましく社を見れば、向かい側で祭がくっくと笑った。
それがむかついてまたキッと振り返れば、祭は今までとは違う、心底楽しそうな顔で笑っていた。
「本当に気が強いんだな。面白いが、損な性格なもんだ。もうちょっと可愛げがあったほうが楽に生きられるぞ。うん、だがまあ社が気に入るのもわからんでもないな」
「祭」
「はいはい、黙ればいいんだろ」
「ついでに帰れ。誰が上がっていいなんて言ったんだ」
「ひでぇな、久しぶりにあった兄弟に向かってその言い草かよ」
「お前と会っても嬉しくない、むしろ迷惑だ」
「これだよ」
祭は肩をすくめて、社に抱え込まれている紗枝を覗き込んだ。
「こいつがうるさいから帰ることにするわ。からかって悪かったな、紗枝」
「・・・勝手に名前呼ばないでください」
気に入らない人に呼び捨てにされるいわれはない。紗枝はますます眉間のしわを深くした。
「お堅いねぇ。紗枝って男いたことないだろ?その性格じゃあな」
「だ、だからってあなたには関係・・・っ」
「紗枝、挑発にのるな。こいつはこういうのが得意なんだ。おい祭、黙って帰れと言っただろうが」
「お前のお気に入りと仲良くしよーとしてるだけじゃねぇかよ。そうにらむなって」
軽薄に笑って、祭はぽんぽん、と社の肩を叩いた。
そしてようやくくるりと踵を返す。
「あ、そうそう。紗枝に礼言い忘れてたわ」
だが、祭は再び振り返り、紗枝を見た。
「礼・・・・?」
「おう。お前のおかげで、裏切りモンの目星がついたんでな。まあ、安心しろよ。馬鹿な奴らに極道の掟ってヤツをよぉく身に染みてわからせてやるからよ。もう少ししたらお前にちょっかい出す奴もいなくなるさ」
にぃっと笑った祭に、紗枝は今までで一番ぞっとなった。内容もだが、赤く光った瞳が肉食獣のようにぎらぎらして見えたからだ。
そうだ、社と双子ということは、この人も鬼の血を引いているということだと思い当たる。
だが、すぐにそれは消え、祭の顔には今までどおりの楽しげな笑みが浮かぶ。
「で、うちのが迷惑かけた詫びをかねて、これでも食ってくれ」
「・・・どれで・・・、・・・っ?!」
突然、祭の背後から黒スーツの男が現れて、紗枝はびくりと身を揺らした。そんな紗枝の背を、社がなだめる。
「安心しろ。祭のボディーガードだ」
「そうそう。俺ってば窮屈な身の上なんだよ。ん。ほれ」
男が黙って差し出した白い箱を、祭が紗枝の目の前に差し出してくる。
「甘いもん好きだって社が言ってたからよ。このあたりじゃあちったあ評判の店らしいぜ」
「え・・・ロブゾだ・・・っ」
紗枝は箱に記された店名を、嬉々とした声で発音した。高級ホテルで修行した一流パティシエが万全を持してオープンしたとテレビで言っていた店だ。
「おお、そんな感じの名前だったな。なんだ、チェック済みか?」
「これ、評判で、最近よくテレビで特集組まれてて・・・予約もできないし、すごい行列って・・・」
「やー、女はそういうの好きだよな。情報に踊らされるっての?まあ、俺の知り合いも美味いって言ってたから、味は保障するぜ?あいつの舌はむちゃくちゃ肥えてるからな」
紗枝の手にぽんと渡された箱は、ドライアイスが入っているのかひんやりとしていた。
もはや容易に手に入らないと名高いケーキの箱に、紗枝はついつい感動で、じぃっと見入ってしまう。
なにせケーキ好きにはたまらない一品だ。
「なんだ、機嫌直ったのか?やっぱまだガキだなあ」
「子供じゃありませんけど。でも、ありがとうございます」
一瞬むっとしたが、初めて紗枝は祭に笑いかけた。すると、祭はぐしゃぐしゃと紗枝の頭を撫でてくる。
「笑うと可愛いじゃねぇか。てか、こんなことでそんなに喜ぶなんてな。社は気ぃきかねえもんな。甘いもんが好きだって知ってるなら、これくらい買ってやれよ」
「・・・・・うるさい。用が済んだなら早く帰れ」
すると、社が祭の手首を掴んで止めさせた。頭上から降ってくる声も不機嫌だ。
そのことに紗枝はびくっとしてしまう。
「ああ、ほら。怯えてんぞ、お嬢ちゃん。お前、もう少し器用になれよなぁ。そんなんじゃ・・・」
「祭!」
「わかったっての。あ、紗枝。食いきれなかったら、そこの甘党の大食漢にやれよ。喜んで食べんぜ?」
「え、そりゃあ、社さんと分けるつもりですけど・・・?」
にやにやとからかう笑みを見せる祭に、紗枝はきょとんとして聞き返す。今度は、祭が一瞬きょとんとなった。
「・・・ああ、なんだ。知ってるのか。つまんねぇなあ。社の趣味聞くと、ギャップに引く女は多いんだけど」
どうやらまた社への嫌がらせ(?)だったらしい。仲が悪いのかな、と社を見ると、彼はいらいらとした様子でドアを指差していた。
「か、え、れ」
「はいはい。じゃあ紗枝、またな」
「またはない」
社の冷ややかな声から逃れるように、祭はひらひらと手を振ってボディーガードと一緒に部屋から出て行った。扉が閉まると、途端に社がはあ・・・とため息をつく。
「悪いな、あんな奴で」
「え、い、いえ。その・・・ユーモア・・・がある人ですね」
「無理に取り繕わなくていい。人の迷惑を顧みないマイペースな奴なんだ」
苦々しげに呟く社はやはり祭とそんなにも仲が良くないのだろうか。一人っ子の紗枝にはよくわからなかった。
「なんにせよ、関わっていいことはない。あいつには近づくなよ?」
「はい」
「本当に大丈夫か?お前、しっかりしているようで、案外抜けているからな」
「な・・・、平気ですよ!」
「とりあえず、あの調子じゃまたここに来るかもしれないから、来たら追い返せよ。何を言われてもいいから、さっさと追い返せ。ドアを開けるな」
「は・・・はあ・・・」
どこかのおとぎ話に出てきたような台詞だ。やたら紗枝を心配する社が、やぎのお母さんのように思える。紗枝はくすっと笑った。
「なんだ?」
「いえ、社さんって心配性だと思って。お母さんみたいだなって」
「・・・・・・・」
思ったまま言葉にすると、社は途端にむっと口を引き結んでしまった。
機嫌を損ねたかと慌て、紗枝は「それよりケーキ食べませんか?」と話題を変えてみた。
「せっかくいただきましたし。私、ここのケーキ、一回でいいから食べてみたかったんですよ。この頃テレビばっかりみていたから、ホントによく特集をみていて。ホントにホントにおいしそうなんですよ!こんなすぐ願いが叶っちゃうなんて、ラッキーです」
祭さんには驚きましたけど、いいこともありました。
明るい声でそう言うと、社はますます無表情になった。
浮かれてるから怒らせた?と紗枝はびくつく。
次の瞬間、ぐいっと両頬を掴まれた。
「そんなのが欲しかったなら、いくらでも買ってやったのに。欲しいものがあるなら言えと言っただろうが」
「・・・え?」
「何で言わないんだ?」
間近に覗き込んできた社は何か、怒っているようだった。
けれど、発言内容を聞いてみても何に怒っているのかよくわからない。
「え・・・っと。べ、別に、そんなどうしても欲しいってわけじゃなかったですよ。そんな、これはただのわがままの域に過ぎませんから。社さんには本当によくしてもらってるし、こんなくだらないことお伝えするなんてとても・・・」
ここの暮らしに不満を持っているわけではないと紗枝は必死に伝えようとした。
けれど、社の表情は緩まない。紗枝は曖昧な笑みを必死で浮かべ続けた。
すると、不意に社の手が離れていく。
「・・・もういい。悪い。大人げなかった」
「え、あの・・・すみません、私こそ。ご不快にしたみたいで」
「・・・・・・いつまでも、そうなんだな」
「え?」
よく分からないままぺこりと頭を下げた紗枝にかけられた低い呟きは良く聞き取れなかった。
「なんでもない。それ、食うんだろ」
聞き返したが、社はふいと背を向けてしまう。スーツを緩めている彼を見遣って、紗枝はダイニングテーブルに箱を置いた。
「わ、たくさんありますよ。社さんはどれ、食べます?」
「どれでもいい」
「でも、本当にたくさんあるので・・・。食べきれるかな?いくつか明日にとっておきましょうか」
「好きにしろ。着替えてくる」
「あ・・・じゃ、じゃあ、飲み物用意しておきますね。何がいいですか?紅茶で?」
「任せる」
言葉少ないまま、社はネクタイと上着を放り投げて自分の部屋に入ってしまった。明らかに怒っているとしか思えない様子に、紗枝は悲しくなる。
祭がいたときも不機嫌そうではあったけれど、こんなには怒っていなかった。自分の言動の何かが気に触ったのだと知って、しゅんと頭を垂れる。
とぼとぼとキッチンに向かって、ケトルを火にかけ、そのまま立ち尽くしていると、「おい!」というはっきりした声が耳に届いた。
「湯、沸いてるぞ」
「え!ははははいっ・・・・あつっ!!」
はっとして見ればピーピーとやかんが鳴っている。慌てて火を消し、取っ手を掴もうとして本体に触れてしまった。
「馬鹿!触ったのか?」
カウンター越しに社が慌てる。紗枝はぱたぱたと体の前で手を振った。
「ちょっと触っただけなんで・・・なんてことないです」
「いいから冷やせ!ほら!」
するときつい口調と共に、正面側から手をつかまれ、そのまま流しで流水に浸けられた。腕が長いなぁと変なところに感心してしまう。しかし、その後で沸いてきたのは気恥ずかしさだった。
「だからお前は抜けているというんだ。俺だって、湯くらい無事に沸かせるぞ」
「す、すみません・・・ぼうっとしてて。あの、もう平気です」
「もう少しやっとけ。火傷はあとから痛くなるもんだ」
「はい・・・」
紗枝が頷くと、社はようやく手を離してくれた。それなのに、紗枝の心臓はまだどきどきと速いリズムを刻んでいる。うつむいたままじっと濡らした指先を見ていると、またしても声がかけられた。今度は後ろからだ。
「おい、これはどうするんだ?普通に淹れりゃいいのか?」
「え?あ、いいですよ!私やりますから」
社はキッチンに回りこんできていて、やかんを掴んでいた。
「いいから、冷やしてろ。あと、その辺に薬箱あっただろ。場所ならお前のが詳しいか。それ、出しとけ。手当てしてやるから」
「いえ、大丈夫です。こんなの大したことないですよ」
「いいからしろって」
きつい目つきでにらまれて、紗枝はすごすごと引き下がる。十分に指が冷えたのを確認して、整理したリビングの引き出しから薬箱を取り出した。
琥珀色の紅茶をポットごと持ってきた社が、ぐしゃぐしゃと薬箱の中身をかき混ぜて火傷の薬を塗ってくれる。
小さな水ぶくれのようになってきている火傷の部分を、さらに包帯で綺麗に巻いてくれた。その器用さに目を見張る。
「上手ですね・・・」
「怪我の手当てだけはな。祭がよく怪我作ってきたし、自分もな」
「そう・・・なんですか。・・・あの・・・もう怒っていませんか?」
おずおずと尋ねると、社はぴたりと手を止めた。
「俺は怒ってなどいないが?」
「え・・・でも、さっきから何か・・・そっけなくて怒っているみたいな感じだったから。すみません、私・・・」
「いや、怒ってなど・・・。ああ、くそ。そう見えたなら悪かったな」
舌打ちをされ、紗枝はますます落ち込んだ気分になる。そんな風に謝って欲しいわけじゃないのに。
「あの、私・・・ごめんなさい、社さんにはいつも迷惑ばっかりかけて・・・」
「だから怒っていないと言っている。謝るな」
「・・・・・・・・はい」
しかし、謝ったほうが社のイライラが大きくなるような気がして、紗枝は唇を結んだ。
そのままうつむいていると、手当てを終えた社が、紗枝に薬箱を差し出してくる。
「これは、どこにあった?」
「あ、しまいます」
「いいから、場所」
「・・・そこのラッグの2番目の引き出し、です」
言われたとおりの場所に薬箱をしまった社は、まだ下を向いたままの紗枝の頭を、何故か軽くかき混ぜた。
え、と顔を上げると、社がむっとしたような、困惑したような表情を浮かべていた。
「何でお前はそんなに気が強いくせに、時々俺にびくつくんだ?しかもわけわかんねえときに」
「え、びくついてるつもりは・・・」
「怒ってないと言ってるだろうが。なんだよ、やっぱり俺が怖いのか?」
その表情が自嘲的な笑みに変わるのを見て、紗枝は慌てて首を振る。
「違います!怖いんじゃなくて・・・社さんに、嫌われたのかと思って」
「あ?」
「社さん自身が怖いんじゃなくて。社さんに嫌われたり呆れられたりするのが怖いんです。お世話になってるし、居候だし・・・社さんに嫌な思いしてほしくないから・・・」
「・・・・・なんだ、そういうことか」
ぐしゃっと社の大きな手が、紗枝の頭を掴んだ。
「別にお前のこと、嫌ったりしねぇよ。むしろいてもらうほうが便利だしな」
「ホントですか?少しは役に立ててますか?」
ぱっと目を輝かせた紗枝に、社は一瞬不思議な表情を見せ、それからぽんぽんと紗枝の頭を軽く叩いた。
「ああ。かなり役に立ってる。だがな」
「はい?」
「言いたい事はちゃんと言え。くだらなくてもいいから、欲しいものがあるなら、俺に話せよ。祭にもらったもんでそんなに喜ぶんじゃない」
「・・・・は・・・、え・・・えっと、はい」
どうやら社は、紗枝が祭からケーキをもらって浮かれているのが許せなかったらしい。
仲が悪いから祭から物をもらったのが嫌だったのかな、と勝手に結論付けて、紗枝は何度か首を縦に振った。
社を不快にさせてまで祭と関わるつもりはない
。
「分かりました。これからは気をつけます。祭さんから物をもらわないようにします」
「・・・・本当に意味わかってんのかよ・・・」
はあ、とため息をつかれたが、社がかすかに笑ってくれたので(苦笑の気もしたが)、紗枝は浮上した。
明るい声で、社に誘いをかける。
「でも、ケーキはもう頂いちゃいましたから、一緒に食べましょう。いろんな種類があるんですよ?社さんもきっと気に入ると思いますよ。ね?」
「そうだな」
ソファから立ち上がった社はもういつもと同じだった。そのことにほっとして、紗枝は笑った。
「これ、美味しいですよ」
「・・・ん。さっきの方が好みだな」
「そうですか?あ、じゃあ、こっちの方がお口に合うかも」
「いい。紗枝が好きな方を食べろ。余ったら食ってやるから」
「せっかくですから、一緒に味見しましょうよ。その方が楽しいし、社さんの好みも分かってきたし。社さんは生クリームよりもカスタードの方が好きなんですね。果物が混ざっているよりも、ケーキは味がシンプルなほうがよくて、バニラの風味は好きだけど、シナモンは好きじゃない、違いますか?」
「・・・ああ、言われてみればそうかもな。よく分かるな」
「社さんを見ていれば分かりますよ。この間のパンケーキはシナモンつかってしまったので、また今度違う味のもの作りますね。こないだテレビ見ていて新しいレシピを覚えたんです」
「ああ、楽しみにしている」
「はいっ」
皿を交換し合いながら、たくさんのケーキを食べ、他愛のない会話を続けた時間は幸せだった。ケーキもとっても美味しかったけれど、何より、社が笑ってくれていたのが嬉しかった。




