希死念慮
「あっおかえりー」
薄暗い部屋の奥。たくさんの本に埋もれたそこで。まくり上げた指定制服のスカートから覗く太ももから、さりげなく血を垂れ流して。天使の羽を模した髪飾りをつけた少女は、何気なくそう言った。
「……ただいま」
その異様な光景こそが、遺肢瓦縁と夕顔葉澪の日常なのだから。
「縁ちゃん、クラスはどうだった?」
つうと太ももを伝い続ける血液を他所に、彼女は微笑んで縁にそう問いかける。その様子を、縁は厳しい目付きで見つめていた。
「どうもこうも、普通だよ。誰かが実験で体を壊して、それだけ。それより葉澪、止血するから」
「えー。もうちょっとよくない?」
「だめ。貧血にでもなったらどうするの」
「むー。どうせ死ねないんだし、良くない?」
「良くない。私は葉澪に死んで欲しくないから」
話しながらも、馴れた手つきで縁は部屋の明かりをつけ、救急セットを用意する。もう、慣れたものなのだ。葉澪のリストカットも、恍惚と流れる血を眺める彼女を眺めることも。全くもって気分は良くないが、慣れてしまったのだ。
「シャワーで傷洗ってきて」
「はあい」
不服そうに着替えを抱えて、シャワールームに消えていく葉澪を見送る。その間に縁は葉澪の散らかした本を片付ける。縁自身元々そこまでそういったことに几帳面な質では無いのだが、そうも言ってはいられない。昔はものぐさな縁の部屋を葉澪が掃除していたというのに、今では完全に逆転している。それに対して思うところが無いと言えば嘘となるが、言ったところで何も変わらない。もう何もかもが手遅れなのだから。
葉澪の周囲にあった本は、総じて主人公が救われない、陰惨な物語である。彼女は常に、鬱屈としたバッドエンドを好むのだ。何時だったかに何故なのかと問いかけたことがあるのだが、主人公に自己投影するのだと穏やかに答えられて以来、縁は問いかけることをやめた。
「上がったよー」
のんびりとしたいつもの調子で、葉澪は縁を呼んだ。縁が救急セットを抱えてシャワールームの前に行けば、下着姿の葉澪が洗面所兼脱衣所で座っていた。縁は無言で座り込み、救急セットから軟膏と包帯を取り出す。
「染みるよ」
「むしろその方がいいから、大丈夫」
「……葉澪に、痛い思いはなるべくして欲しくない」
「わたしはしたいから」
狂った発言は聞かなかったことにして、葉澪の白い足に軟膏をできるだけ優しく塗布する。真新しい傷口以外にも、大量の傷跡で見るも無惨な有様になっているそこを、睨みつけるように縁は見ていた。きっと葉澪は、自分が死ぬまで太ももを、手首を切り続けるのだろう。それこそ、たとえ縁が先に死のうとも。
葉澪は少しだけ顔を顰めていたものの、ほとんど痛そうにはしていなかった。むしろ、即座に処置をされてしまったことに対する不服を隠そうともしていない。
「死にたいなぁ」
「私は葉澪に生きてて欲しい」
「……縁ちゃんはそう言うけど、本当はわたしは生きてちゃいけないんだよ?」
「そんなことは無い」
「むー。まあでも、どうせ死ぬなら吸血姫さまに血を吸われて死にたいなあ。そしたらわたしなんかでも、誰かの役に立てるのに」
そんな世迷言を、まるで恋する乙女のように吐く少女を殴りたい衝動に駆られたものの、堪える。生きてるだけで葉澪は私のためになってるよ、という言葉も飲み込む。
傷口に軟膏を塗り終われば、ぐるぐると包帯を巻き付けて止血する。たまに深く傷ついていた場合、また流血してからだ。そんな縁の対応に、葉澪はいつも言うのだ。
「縁ちゃんは心配性だなあ」
血の気の薄い、顔で。心の底から笑うのだ。
「……だって出血したら大変でしょ」
「そうかなー。わたしなんていう、いつ死んじゃっても誰も困らない人間に、ここまでする必要なくない?」
「……ほら、これで終わりよ。早く服着なさい、風邪ひくよ」
「そういうとこだよー」
逃げるように縁は洗面所から去る。そして、洗面所へ続く扉の前に座り込んだ。きっと今の自分は、他人には到底見せられない表情をしているだろう。
「何が、生きてちゃいけない、よ」
それを本来言うべきなのは、縁だと言うのに。
事故だった。近頃話題の高齢者の運転によって下校途中の学生が撥ねられた、といういかにもなやつだ。縁は丁度葉澪と共に歩いており、向かってきた車に対し、咄嗟に葉澪を庇ったのだ。
当然縁は、見るも無惨な姿になった。普通に記憶が無い上精神衛生上がどうたらで、詳しい状態は今なお知らされていないのだが、少なくとも五体不満足ではあったらしい。しかし現在の縁には健康な両手足がある。当然移植や義手義足ではない、縁本人の物だ。
つまり縁は、異能によって欠けた五体を再生してしまった。
異能【修復】。即死しなければ、どんな状態からでもゆるやかに再生する異能。それはあまりにも分かりやすく、監獄の目に止まってしまった。欠損した体が再生する、そんな現代医学ではありえない奇跡を起こしたのだ、当たり前である。しかしただそれだけであったのなら、縁はここまでの後悔を抱かなかっただろう。現実はいつだってろくでもないものだと、監獄は縁に突きつけた。なにせ、監獄は縁の周辺にまで探査範囲を広げたのだ。そしてただそばに居ただけの、本人すら自覚していなかった異能者である葉澪をも標的としたのだから。
縁が、異能を持っていなければ。持っていたとしても、即死できていれば。そもそもあの日あの時あの道を通らなければ。葉澪は今も、あの日常の中にいられたはずなのだ。だから。
「私が死ねばよかったのに」
そう、呟いた。
「縁ちゃんは優しいなあ」
葉澪は思う。葉澪が死にたい、死ななくてはならないと言う度に縁はそれを否定する。生きて欲しいと懇願する。しかし葉澪は、死なないといけないのだ。
あの日あの時、葉澪は縁に庇われた。咄嗟のことで動けなかった葉澪の代わりに、車に轢かれた。そして目の前で、ぐちゃぐちゃになる様を見届けた。肉塊が蠢いて縁を形作る光景も、葉澪は見ていた。
そして、この場所に連れ去られた。
葉澪が、あの時轢かれていれば。縁の異能はきっと、一生日の目を見ることは無かっただろう。せいぜい、傷の治りが少しだけ早い人間で済んだはずだ。ずっと、楽しいことも嫌なことも等しく起こる平穏の中にいられたはずだ。だから。
「わたしが死ねばよかったのに」
そう、願った。




