おくすり
「おはようございま」
教室のドアが開く。と、同時に湖上の視界に映った光景に。湖上は鮮やかに逃亡という手段を選択したのだが。
「……逃げるな、麗」
「ひえっ」
ドアの内側から、手が差し込まれる。それはがしり、と湖上の腕を掴んだ。ドアの隙間から、いつになく憔悴しきった様子の松太郎が覗く。火事場の馬鹿力というやつなのか、振りほどくのがいささか面倒な程度には強い。心なしか濁って見える碧眼が、じろりと湖上の瞳に目を合わせる。
「お、俺実はー、ちょーっと用事が」
「助けてくれよ!?」
「嫌だよなんかさっき地獄が見えたじゃん!?俺進んで自殺行為やる程好奇心で生きてない!」
「そう言ってあげはにも逃げられたんだよ!」
「そりゃ誰だって逃げるでしょ!」
湖上がドアの外から見てしまい、今も視線を逸らし続けているもの。それは……
「彼岸花はゆっくりだから岬なんだよ。でも、探すとパンケーキが車にシャーペンだから遊んじゃうよ。それって悲しいでしょ、花畑で」
「……」
「いあんせりあん平方根ゆぃとぉしりあんぬこんどえんぬりぁんりあんと。けぇゆーにでいよ醤油あけみすりでりに上向き黒三角りあん。をけん、りあんりぁんおゅんは集合りあんでんげーせんけいりあん」
「ひぃーっひーっひっ!ひゃっ、ひーぃっいっ!」
言語の形を保っているというだけでまともに思えてくる静、何故か無言で壁をカリカリと爪でひっかき続ける暗之雲、最早何を言っているのかまるでわからない桐子、ずっと引き笑いしている樹懸。なお確認できない暗之雲以外、全員目の焦点があっていないものとする。……いや暗之雲もガスマスクを外したら目がイっている気がするが、積極的に見なかったことにしておこう。
「実験行ってた俺より大惨事なのなんで……?」
「なんか突然やってきた研究員が」
「聞きたくない!俺巻き込まれたくない!」
全力で耳を塞ごうとした、その隙に松太郎に教室内へと引き込まれてしまう。音もなく、無慈悲に閉まった扉を睨みつけるという形で視線を逸らす間にも、松太郎は語り続ける。
「なんかやばそうな薬を口に突っ込んできたんだよ!でなんかあげはが『あたし巻き込まれたくない』とか言って逃げた!初はなんか元々いない!」
「そっかあ大変だねえ……俺帰る」
「帰らないでくれよお!」
「ていうか、なんで松太郎はラリってないの?」
「俺ほとんど薬効かないんだよ!だから1人だけ残っちまったんだよー!」
……桐子がやられている時点で、投与された薬物は異能薬物ではないと考えられる。つまり、松太郎は一般人なら問答無用でアウトになるレベルの薬を服用しても正気を保っているというわけで。そんなものに耐性があるということは、松太郎は耐性を得るほど薬物を服用させられてきたということだと思うのだが。彼の、未だ不明だという異能のおかげオチでなければ、の話である。
「そっかー……」
「だから後ずさるな!」
「いあんびぇーゆん薙、髷れいはじめめぐみりあんぬあぃゆんご上向き黒三角りあんを」
湖上と松太郎が騒いでいると、桐子がまた言語とも思えない何かを発音しながら、手を振っている。その手は、静と繋がれていた。
「普通だよねえ。アルトがりんご幸先。常々キリンで鉄道、行きたいのに肢体だし」
なお、静は常にこのようなことをぶつぶつと呟き続けている。つまり、桐子は静の異能の発動を止めている、とでもアピールしたかったのだろうか?だとしたら、言語が不明瞭なことを除けば中身は正気、なのかもしれない。
「たぼ、ぜんふおなぎ下向き矢印あーんぼいりあんりぁんおんゆんくどゆんかみどゆんなぎ上向き矢印りあん!」
まあそれはそれとして本当に何を言っているのかよく分からないから若干怖いのだが!反論は全体的に真っ白で包帯ぐるぐる巻きの幼い少女が、焦点の合わない赤い目を晒しながらそんなことを言っている場面に遭遇してから言って欲しい。本当に怖い。
「これ本当にどうすればいいの?研究員に助け求めてどうにかなるの?」
「それがわかんねーから助け求めてんだよー!」
「俺だってわかんないよ」
そもそも、この状況を作り出した者自体、研究員らしいのに。助けを求めて解決するともあまり思えないのだが。むしろ実験体になるだけでは?
「ひぃーっひゃっは!ひーっひ!」
「いやマジで樹懸うるさい、黙って」
「むーっ!」
笑い続けている樹懸の口を塞ぐ。背後でずっと笑われるのは普通に騒音である。何やらもごもごしているが、暫くは静かにしていてもらいたい。
「ってあー!暗之雲だめだ!マジでやめろ!」
湖上が樹懸を黙らせている間に、松太郎が壁を爪でひっかこうとする暗之雲を取り押さえていた。見れば出血している。壁をひっかき続けていたからだろう。本格的に実害が出てきてしまったが、これでこの場所が動いてくれるとも思えないのが、本当にどうしようもない。
「む゛ー!」
「松太郎、俺変わった方がいいかな!?」
「いや俺でもどうにかなるから大丈夫だ!」
「それでも宝玉はあじさいにパンダ、幸先がコオロギだよ。不干渉だね」
カオスにもほどがある。暗之雲の抵抗は、なんとか松太郎でも抑え込める程度であったらしい。だからといって、事態は進展どころか悪化しているのだが。どうすればよいのだろう、と湖上が頭を抱えていたその時、ちょいちょいと袖を引かれる。
「譲けゆくふぁんすけほけんりあんりあんおゆんけぇゆんえいち?」
「いやだからなに言ってるかわから……ちょっ!?」
桐子が、相変わらず意味の通らない言葉を湖上に投げかける。それに湖上が言葉を返そうとした隙に、湖上から樹懸が逃げ出したのだ。
「離せって言ってるだろ、湖上」
「口塞いでたんだから伝わるわけ無いで、え?」
やけにしっかりと発されたその言葉には。はっきりと、湖上の名前を呼ぶものが含まれていた。先程まで焦点が合っていなかったその黒い瞳には、いつも以上に理知的な輝きが宿っている。
「き、樹懸、だ、よな……?」
「俺が俺以外の何に見えるんだっての。つか、そんなことよりそいつどうにかする方が先だろ」
「そのどうにか、が簡単に出来たら苦労しないんだけど……」
「んなもん、普裁でも呼んどけば十分だろ。それよりも根本的な解毒のが優先だ」
「いやだから、それをどうやってやるのって話で」
「今から説明してやるから、黙って聞いてろ」
おそらく普裁とやらに連絡しているのであろう、端末を操作しながら樹懸は解毒方法とやらを淡々と語っていく。途中でツッコミを入れるよりもメモを取った方が有益だろうと判断した湖上も、端末を取り出し淡々と打ち込んでいく。
「──と、まあこれでいけるだろ。なんか調合してあるっぽいが、少なくとも今よりはマシになる」
「……聞いていい?樹懸、なんでこんなこと知ってんの?」
湖上の知る限り、一般的な十代男子が知っているとは思えない情報だった気がするのだが。いくら樹懸の異能が毒関係とはいえ、知識面にまで影響を及ぼすとも思えない。半眼で問いかけられたそれに、樹懸はなんてことのないように答える。
「常識だろ?なんたって──」
「なんたって?」
「ひーっひゃっひゃっはっ、ひーぃっ!」
「ひっ!?……あのさあ!」
あとちょっとと言うところで、唐突に樹懸の目の焦点がまた合わなくなり、引き笑いが再開されてしまった。結局、先程の普段以上に正気の樹懸は何だったというのか。
「あひゃーっ!ひーっ!」
「素敵でぽわぽわでマッシュルーム、眼鏡だね」
「りあんりあんりあんL」
「ごめん松太郎抑えてて!俺ちょっとダメ元で樹懸が言ってたやつそろえてくるから!」
「逃げるなよ!?」
「………………逃げないよ!」
その後、樹懸が呼びつけた普裁情哉と名乗った少年がもう一人少女を連れてI配属の教室に現れたり、流石にマズいと思ったのかトンズラしたあげはが帰ってきたり、一瞬だけ正気に戻った樹懸が指定した材料でなんとか四人を正気に戻せたりと、大騒ぎだった。
なお、投与された薬の効果が消えた樹懸に先程のことを聞いてみたところ、何一つ覚えていなかったことをここに記しておく。結局、何だったのだろうか?




