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憑神小噺  作者: 紺青 いつる
1/1

虎と黒豹


 はっと目が覚めた。扇風機の風の音。着物の背中がじっとりと濡れている。薄暗く青味を帯びた部屋を、梁やふすまが額のように黒縁に切り取っている。


 私は縁側の板の上で体を起こした。横たわっていたところを手のひらで撫でると、汗を吸った板は生暖かく湿っていた。喉は渇き、少しひっつく。半開きの戸の向こうに見える空はすっかり青紫に染まり、遠くの山々の縁をさっと黄金色の雲がかすめている。


 私はあぐらをかき、引っかかり気味の戸を開けきった。ひぐらしの声と、山々をくぐって少し冷えた風が部屋の中に流れ込んだ。板の間を手で探ると指先にガラスコップが触れる。氷が解けてなお、まだ少し冷たさを残したわずかな水で喉の渇きを癒すと、思わず大きなため息が漏れた。


──ちょっと寝過ぎたかな。まだ夢見心地の頭を覚ますように、背後で振り子時計の鐘が鳴り、19時を知らせた。


 何か大切な事を忘れている気がする。はて、一体何だったか。冷蔵庫に貼っているメモを見にいくべく、体の節々に喝を入れて立ち上がったところで唐突に玄関から声が届いた。


「ちわっす!なおまっさーん!」


 よく通る、少ししゃがれた声。その声を聞いてはっと思い出した。


 私ははだけていた着物の襟を整え、玄関へと向かった。


「やあ、いらっしゃい」


「ちわっ!ちょっと早く着いたっすから外で待ってたっんすよ。てか、暗いっすね」


 暗いというのは、日本家屋がそういう作りだからではない。そもそも私が電気をつけ忘れていたからだ。どうもまだ寝ぼけているな、と虎模様の後頭部をこつこつ叩きながら私は玄関の電気をつけた。ぱっと柔らかい灯が広い土間の玄関を照らした。


 敷居の向こうに立っていた黒豹はひょいと土間へ足を踏み込む。


「すまないね、うっかり昼寝したらこんな時間だ」


「また昼寝してたんすね。んっ……てことは、飯まだ作ってない感じっすか……?」


 そうなのだ。今夜は息子のあきらが柔道合宿で家にいないので、彼を招き一緒に夕飯にするつもりであった。しかし後の祭りだ。


「そういうこと」


「うわーっ!めっちゃ腹減らしてきたのに!」


 彼は天井を仰ぎがっくりと肩を落とした。いささか大げさに見えるが、それが彼だ。


「じゃあナギスケ、たまには外に食べに行こうか」


 この黒豹は薙之祐と云う。私の愛弟子だ。人間の歳で言えば息子と同じ18歳くらいだろう。大柄でやや荒けずりではあるが、まだあどけなさ残る少年そのもののような綺麗な心を持っている。なので、外食の話を持ち出すと途端にパッと表情が明るくなった。


「えっ、マジっすか!いいんすか!」


「たまにはいいでしょう、今から作るのも面倒だしね」


 ナギスケは嬉しいとピアスのついた左耳がぴこぴこと動く。今もご多分にもれず、無意識のうちに跳ねている。


「じゃあ決まりっすね!早く行きましょ!」







 私たち憑神は人間と縁を結ぶことで天界の力を得、災厄を払う事を天命としている。この獣の容姿は憑主と呼ばれる人間たち以外には見えまいが、人間のすぐそばで暮らしている。


 化物を相手にする憑神達は生傷や心労が絶えないが、そんな我々が羽を伸ばすことのできる場所が人間界には点在している。


 ここ、松尾ジョウゾウことクスノカミ様が切り盛りなさる温泉宿「松尾」もその一つである。


 湯煙たちこめる温泉街の奥にある老舗で、古くから人間たちも身体の疲れを癒しに足を運ぶ有名な宿だ。しかしこの宿の本当の姿は、建物を取り囲む竹林を抜けた先にぽつんと現れる、古びた鳥居の向こうに現れる。


 そこは憑神と縁を結ぶ憑主ですら立ち入る事を許されない、神々の世界である。国中から癒しを求めて憑神や高天原の神々までもが集い、その身を秘湯に沈める湯屋なのだ。


 どっしりと大柄な人間の姿を借り、このあたりでは名の知れた名物爺さんと親しまれ、老若男女問わず「ジョーじい」と呼ばれる氏であるが、その真の姿はこの土地を治めるクスノカミという神様だ。私ですら見上げるような巨漢に猪の牙がむき出すその風貌は圧巻で、遠くからでも威圧を感じるほどである。もっとも、生活のほとんどは人間の姿で居るが。


 私も二百年近い付き合いのある神様である。


「美味かったっすね〜!」


 食堂で少し遅めの夕げを済ませ、私とナギスケは湯に身を沈めていた。漆黒の岩石で囲まれた露天の湯船で、目一杯手足を広げて空の星々を見上げる。


「そうだね。私も久々だったよ」


 息子のあきらは私の憑主とはいえ人間である。ここへ立ち入ることができない。今日のような機会がなければ、なかなか出向くことができないのだ。


「あきらには内緒だよ。また拗ねるから」


「あいつ、まーだそんな事で拗ねるんすか!」


 ナギスケはあきらの幼なじみでもある。小学生の頃に出会い、友達作りが苦手だったあきらを、兄のようにひっぱり出しては遊びに付き合ってくれていた。今では彼の憑主含め家族のように付き合いが続いている。


 それから私はナギスケと他愛もない会話を交わした。稽古や剣術のこと、彼の最近の悩みや私の話。何度か同じ話を繰り返しているかも知れない。それでも、彼はいつも初めて聞くかのように目を輝かせて聞き入ってくれた。


 それにしても、今日は珍しく客人は私たちだけのようだ。しばらく盛り上がった会話が落ち着き、少しの間が生まれた。湯のあふれる音と、たまに吹く風の音がやけに大きく聞こえた。


「そういえば」


 沈黙を破ったのは、ナギスケの方だった。


「なおまっさんって、好きな人とかいるんすか?」


 初めて聞く質問だった。私は少し考え込んでしまった。


「君はどうだい?」


「あっ、それせこいっすよ!質問に質問で返すの。やっぱいるんすね」


 バレたか。


「いないよ」


「うわっ、その顔は絶対いるっす!」


「いても教えない」


「いーじゃないっすか〜!じゃあ、好きなタイプとかは?」


 こういうところはまるで学生のようだ。多分、あきらともそんな話をしているんだろう。


 私は一呼吸置き、観念して答えた。


「色白で髪の長い人かな。君は?」


 間髪入れずに質問を入れることで、深堀りさせない。我ながら、ずるい大人だと思う。


「オレっすか?少なくとも、リオ以外のタイプかなぁ」


 リオとは彼の憑主である少女だ。あきらと同い年の高校三年生で、家がお寺である。


「リオちゃんもいい子じゃないか」


「いやいや、あいつなかなかポンコツっすからね!この前もーー」





 それからは、また随分と話し込んでしまった。もっとも、ナギスケが一方的に喋る方が多かったが。


 二人して大きくため息を吐くと立ち込めていた湯煙に風穴が開いた。


「そういえば」


 その切り出しに、私はちょっとだけ身構えてしまった。


「なおまっさんの師匠って、誰なんすか?」


 意表をつく質問だった。私は彼の師匠としてずっと剣術を指南してきたが、自分の師を尋ねられるのは初めてであった。


 その質問に呼び起こされたように脳裏を駆け巡っていく、遥か遠い昔の記憶を私は虎視淡々と見つめていた。


「なおまっさん……?」


 はっと我に返る。自分の虎模様の顔が湯の向こうで揺れていた。


「ちょっと聞いてみたかっただけなんすよ。変なこと聞いてたらすみません」


 ナギスケは肩をすくめ、申し訳なさそうに眉間にしわを寄せていた。


「私の師匠は——」


「おうおう!おめぇらまだ入ってやがったのか!」


 威勢の良いよく通る声が響き渡った。ナギスケはびくりと身をこわばらせ、声の方を振り返った。


「のぼせてぶっ倒れても知らねえぞ!」


 そう言って豪快に湯船に入ってきた大男こそ、ジョーじいことクスノカミ様だ。人間の姿ではあるが、憑神である私たちに劣らない体躯である。彼はナギスケの隣で体を沈めた。


「ジョウゾウさん、お世話になってます」


 私は会釈をする。


「別におめぇの世話なんざしてねぇさ。おう、黒いの、ちゃんとケツ洗って入ったか?」


 ガハハと大きく笑いたて、ナギスケの背中を丸太のような腕ではたくと鼓を打つような小気味のいい音が響いた。


「あいった!!洗ってるわ!」


 ナギスケは背中をさすりながらジョウゾウさんから距離を置いた。


「なら結構!しかし久々だなぁ直政、あきらは元気か?」


「えぇ、お陰様で。今日は部活の合宿で居ませんから」


 余談だが、ジョウゾウさんも地域の子供向けの柔道教室をうけもっており、息子が幼い頃はそこへ通っていた。


「そうか!最近とんと見ねぇからな、たまには顔よこさせろよ」


「今度連れてきますね」


 私も人の姿を借りることができる。次は人間側の湯船に浸かろう。


「おうよ!で、ナギスケ、ちったぁ剣は上手くなったか?」


 ジョウゾウさんは湯船の中に沈んでいたナギスケの尻尾を器用につかんで手繰り寄せる。


「痛い痛い!多分ね!痛いって!」


「多分ってなんだお前!師匠の前なら嘘でも上手くなったと言えバカヤロウ!」


 怒っているわけではない。その証拠にぐっと顔にしわを刻んで笑顔でナギスケの首を固めている。いつもこんな感じだ、安心して欲しい。


 私たち3人しかいない外湯であったが、久しぶりに賑やかな湯となった。





 帰り道。長湯でちょっと火照りすぎた体を、夜の空気がしんみりと冷やす。首をこきこきと鳴らしながらナギスケと人気のない薄暗い街灯の道をゆく。


「まーじ、あのじじい……手加減知らなさすぎ」


「人間のお姿だから十分手加減してくれてるよ」


 そうじゃないっすよ、とナギスケ。


「でも、楽しかったね。寝過ごしてよかったよ」


「あっ、それとこれとは別っすよ!」


「連れないなぁ」


 からからと私は笑った。田んぼ道に出ると街灯もなくなり、空いっぱいに星がまたたく。虫やかえるの声がまるで星の声のように聞こえた。


「私の師匠はね」


 静かに切り出すと、思い出したようにナギスケは背筋が伸び、耳をぴんと張った。


「秘密」


「えええー!なんすかそれ!」


 静かな田んぼ道ではナギスケの声は一際大きく聞こえた。


「今度の稽古、私から三本連続で取れたら教えてあげるよ」


 ナギスケの目がきらめく。


「まじっすか!じゃあ今日これからしましょうよ!」


「嫌だよ、もうお風呂入ったし」


「気になるっすもん!なおまっさん!」


「さっ、帰るよ」


 かじりつくナギスケをなかば引きずるようにして私は帰路についた。満天の星空に一筋、流れ星が尾を引いた。


 それにしても、もうどのくらい経つだろうか。私が師匠と最後に交わした言葉、その表情、その空気。幾年経った今でもまだ鮮明に鮮烈に思い出す。


 決していい記憶ではない。思い出せば、師を助けられなかった後悔の念に駆られる。


 まだどこかで生きているのではないか、そんな気さえしている。いつか会えたら、私は——





 終わり

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