8話:反則級の魂乃炎《アトリビュート》
「“時賭け三鐘”」
この言葉を聞いた直後、すぐには何が起きたのかわからなかった。
ボクの顔面にめり込んだと思った拳が、何故か目の前でピタリと止まったのだ。
止まったその拳をギリギリで避け、浅い呼吸と共に足を止めて周囲の様子を伺う。
(これは……?)
赤い大地と黒煙だらけだった風景が、いつの間にかモノクロに染まっている。
眼前に迫っていた十王の拳は無論、今はその十王自身も彩度を失って石像の様に動かない。
『世界扉』を守っていた他4人の十王も、赤い塀の中や外で忙しそうに走り回っていた鬼の管理者も、地面からモクモクと立ち昇っていた黒煙も、地獄のあらゆる全てが動画の一場面を切り取ったかのようにピタリと止まっていた。
“地獄の時間が停止”したのだ。
事前に話を聞いていても、なお理解に苦しむこの状況下で動けるのはボクだけ。
後ろを振り向いても既におじいちゃんの姿は見当たらない。
「凄い、あのおじいちゃん本当に時間を止めちゃったよ……。こんな反則級の“魂乃炎”を持っていたなんて」
“魂乃炎”。
『AtoA』に生きる人間、その魂から稀に発現する「人知を超えた力」だ。
ほんの一握りの人間だけが扱える非常に稀有な能力であり、何を隠そうあの怨敵ジーザスもこの力に恵まれていた一人だった。
(ボクにも“魂乃炎”があったらなぁ……そしたらジーザスに抵抗出来たかも知れないのに――)
そんな思考を始めた直後、何処からともなく「ゴーン」と鐘の音が聞こえてくる。
ハッと顔を上げ、始めたばかりの思考を頭から振り解いた。
「物思いに耽ってる場合じゃない、早く『世界扉』を使わないと」
『鐘の音が3回鳴ると再び時間は流れ出す。やることはさっさと済ませるのじゃ』
作戦説明の際におじいちゃんはそう言っていた。
地獄の時間が止まったからといって悠長にしていられる暇は無い。
相変わらず静止している、名も知らぬ十王の突き出した拳。
その横を恐る恐る通り過ぎ、続いて『世界扉』を守る4人の十王達に近づき、これまた横を通り抜ける。
この止まった時間の中でボクに気付くことも無く、ましてや動ける訳も無く、難なく『世界扉』まで辿り着けた。
呆気なさ過ぎて逆に吃驚する。
それから唯一の彩度を保っていた『世界扉』の青い光に触れると、『A』~『Z』までの馴染みある26文字のアルファベットが宙に浮かび上がった。
各世界の名前とリンクしているこのアルファベットを押せば、その世界に渡航出来る仕組みだ。
「えっと、『Lawless World (無法世界)』に行けって話だったよね。頭文字の『L』は……あった」
ここで「ゴーン」と2回目の鐘が鳴り響く。
あまり長くは時間を止められないみたいだけれど、後は触れるだけなので問題無い。
まぁ本音を言えば『L』ではなく『A』に触れて、『After World (はじまりの世界)』に戻りたいところだけど、約束を違えば地獄に連れ戻すと脅されている。
下手に逆らっておじいちゃんを敵に回すより、ここは素直に従った方が身の為だろう。
覚悟は決まった。
早速ボクの腕が『L』に伸びて――
「私は“こっちの世界”が良いかな」
「え?」
一体いつからそこにいたのか、ボクの隣に見知らぬ少女がいた。
珍しい白桃色の髪と天使族みたいな衣を纏い、どういう訳かその身体は妙にテカテカとした光沢を放っている。
そしてその見知らぬ少女が、ボクよりも先に『世界扉』へ手を伸ばす。
『A』でも『L』でもない、『F』の文字へと――。
■
気が付いた時、地獄だった景色は一変していた。
ボクの瞳に映るのは神秘的な光を放つ3つのお月様と、夜空を埋め尽くさんとする幾千万もの星々。
それら夜の光を受けて存在を顕わにするのは、雲のように空へと浮かぶ無数の大地。
その“空島”からは惜しみなく水が流れ落ち、受け止める広大な大地に大きな湖を形成していた。
(ここは……『Fantasy World (幻想世界)』か)
一目見て理解する。
太陽が昇らない常夜の世界にして、『AtoA』26世界の中で最も幻想的と評される『F』の世界:『Fantasy World (幻想世界)』。
名画の中に迷い込んだのではないかと、そう錯覚しても不思議ではない美しい風景の中で、現在ボクは「空」にいる。
より具体的に言えば、隣で「いゃぁぁぁぁああああ~~~~ッ!!」と絶叫している少女と共に、“空を落下している”真っ最中か。
「ちょっとキミッ、どうにかしてよ!! このままじゃ死んじゃう!!」
「……だね。これは何とかしないと」
今回の渡航は“正規の手順”を踏んでいない。
本来は文句を言える立場ではないけれど、流石に出現場所が悪過ぎたと言わざるを得ないか。
落下地点から遠く離れた場所には人工的な街の灯りも見えるけど、ここから叫んだところで聞こえないだろうし、聞こえたところで救助は間に合わないだろう。
(幸か不幸か真下は湖、上手くやれば即死は免れる……筈)
悩んでいる暇はない、今は行動あるのみだ。
「ボクに掴まって」
「何するの!?」
「いいから早くッ」
「わ、わかった!!」
まだ死にたくはないのか、彼女は落下しながらも縋るようにボクのお腹へ手を回す。
対するボクは、後ろからギュッと抱きしめられたまま腰のナイフを抜いた。
(赤鬼の極卒には“炎”が効かなかったから、コレを使うのは久しぶりだね。ちょっと消耗が激しいけど……四の五の言ってる状況じゃない)
眼下には目前に迫った湖の水面。
ボク等の命を奪い兼ねない、ある意味では地獄の底がキラキラと月明かりを反射している。
その美しい水面がグングンと迫る中、ナイフを真下に向け、全神経を集中し、“放つ”。
地獄の業火を!!
「“火葬地獄”」
眩い光を放ちながら、ナイフの先端から噴き出した赤黒い炎が湖上で踊る。
時を同じくして覚えた一瞬の浮遊感と共に、ボク等の落下スピードが減速。
背中から「きゃッ!?」と悲鳴が聞こえたものの、悲鳴があったということは無事である何よりの証拠だろう。
ただし、ボクがまともに覚えていたのはここまで。
落下速度を落としても、尚も激しく水面に叩きつけられたボクの身体。
バシャンッと盛大に水飛沫を上げ、更にゴンッと水中の岩場に身体をぶつけ、意識が半分飛ぶ。
だからこそ――。
ここから先、しばらくの間は記憶が曖昧で、十中八九ボクは夢を見たのだと思っている。
夢でなければあり得ないような出来事だった。
その夢をあえてここに記すなら、それは“黒ヘビの夢”となる。
――――――――
――――
――
―
始まりは痛みだ。
湖に落ち、岩場に身体を打ち付けたボクは、全身を鞭で打たれた様な衝撃に襲われていた。
今にも意識が飛びそうだ。
地獄で4000年も鍛えたお陰か、即死していない事に安堵しつつも、しかし意識は朦朧としている。
どちらが上でどちらが下か。
どちらが水面でどちらが水底かもわからないまま、気に掛けたのは一緒に落下した少女のこと。
ボクがこの様では彼女が即死していても不思議ではなく、霞む視界の中で早急に生死を確認しようと、周囲を見渡し――見つけた。
“助けて!!”
声の届かぬ水中でこちらを見つめる彼女が、口をパクパクと動かしながら必死に助けを求めている。
奇跡的にも一命は取り留めたみたいだけど、水底から伸びる背の高い水草に彼女の長い髪が絡まり、自力で浮上する事が出来ないらしい。
このまま放っておけば溺死するのは必至。
助けなきゃと思いつつも、しかし朦朧とした頭と痛む身体では何をするのもままならない。
口から大量の気泡を出し、彼女に手を伸ばしたところでボクは水中に漂った。
「ゴボボ……ッ」
更に気泡を吐き出し、益々酸素を失う。
いよいよ頭が回らなくなったボクの身体、その口から――“ぬるり”。
気泡ではなく“真っ黒いヘビ”が姿を現した。




