6話:4000年越しの願いがようやく叶う時
獄卒に向けてボクはナイフを構えた。
その意図を汲み取ったらしく、獄卒が静かに腰の金棒を右手に取る。
「受けて立つど」
ジーザスの姿と被るこの3メートルの体躯を真正面から見るのも、既にこれで8回目だ。
地獄を一つ終える度にボクは獄卒へと勝負を挑んできたけれど、これまでの7回は全て負けている。
4000年もの時をかけて、わかったことはただ一つだけだ。
この獄卒はべらぼうに強い。
ただただ強い、それだけだ。
しかも達の悪いことに、ボクが八大地獄を耐えつつ習得した“あらゆる技が通用しない”というオマケ付き。
この獄卒を倒すには、純粋なスピード、もしくはパワーで獄卒を凌駕するしかない。
地獄に入る前のボクだったら、絶望的過ぎるこの条件に心を打ち砕かれていただろう。
しかし、地獄を一つ終える度にボクだって確実に強くなっている。
動きはより素早さを増し、並大抵の相手なら瞬殺出来る力を持っている。
そしてそれは、最早この獄卒といえども例外ではなかった。
「“鎌鼬”」
獄卒が金棒を振り、風の刃を繰り出す。
これまでボクを7回も殺した獄卒の技だ。
――瞬殺だった。
獄卒が乱暴に叩きつけてきた金棒を躱し、その軌道で生まれた風の刃:鎌鼬を躱す。
躱した先に置かれていた2撃目の金棒も躱し、その軌道に隠されていた2発目の鎌鼬も躱した。
それからボクは、獄卒の喉元に、静かにナイフを突き刺した。
「ゴフッ……」
獄卒が鉄臭い真っ赤な血を吐き、ボクよりも大きな金棒をドスッと地面に落とす。
ボクのスピードが獄卒を上回った瞬間だ。
喉元からナイフを引き抜くと、力を失った獄卒は重量に逆らうことなくドスンッと地面に倒れる。
懐に入っていたらしい数枚のお札と小銭が落ち、獄卒の周囲を僅かに賑わせた。
そのお金で傷の治療でもすれば“まだ間に合う”かも知れないけれど、生憎とここに病院は無い。
獄卒は慌てる素振りも無く、満たされた顔でもう一度血を吐き出す。
そして、大きな獄卒が小さなボクを見上げた。
「……随分、強くなったど」
「それはどうも」
ボクの返事が獄卒に届いたかどうかはわからない。
獄卒は静かに目を閉じて、そのまま息を引き取った――。
(勝った。本当に勝ったんだ……これでようやく脱獄出来る)
4000年越しの願いがようやく叶う時が来た。
こんなボクでも念願が叶って、もっと喜びが爆発するものかと思っていたけれど……いざこうなってみると笑い声も涙も出て来やしない
そもそも笑い方なんてとうの昔に忘れているし、流すべき涙は地獄の熱さで枯れてしまった。
ただ、それでも忘れていないことがある。
枯れ果てていない想いがある。
“ジーザスに復讐を”。
ボクをこんな目に遭わせたあの男に、獄卒同様にその首へボクのナイフを――想像しただけでゾクゾクする。
ここから無事に脱獄出来ればそれも決して夢ではない。
その為にもまず、ボクは獄卒の首から鍵を奪った。
そして4000年もの間ボクを拘束し続けた硬くて冷たい首輪を、今更になって襲って来た得体の知れない緊張感で震える手を使い、外した。
――瞬間。
けたたましいサイレンが鳴り響く!!
『緊急事態発生!! 緊急事態発生!! 阿鼻地獄の咎人が首輪を外した模様!! 咎人の名はドラノア・A・メリーフィールド。動ける十王は至急集合せよ!! 繰り返す、阿鼻地獄の咎人が――』
「……えっと、これはマズくない?」
冷や汗が垂れた。
心臓がバクバクと高鳴っている。
まさか首輪を外しただけで緊急警報が鳴り響くとは……ッ!!
しかも、首輪を外したのがボクだとバレている。
加えて、追ってくるのが十王達――つまりはボクに罰を与えた閻魔王や、ボクを魂から人間の姿に戻した秦広王をはじめとする地獄のボス軍団だ。
4000年かけて何とか赤鬼の獄卒を倒せたけれど、それらを束ねる十王達に今のボクが勝てるかどうかはわからない。
わかっていることがあるとすれば、ここで捕まったらアウトということだけ。
もしも十王に捕まれば、脱獄犯のボクに対してどんな仕打ちが施されるのか……想像するのも憚られる。
獄卒と共に散ったお金を“餞別”だと都合よく解釈して拾い集め、ボクは我武者羅に走り出した。
(今後のことを考えるのは、地獄から脱出した後だ。まずは『世界扉』を探さないと……ッ!!)
――『世界扉』。
新世界『AtoA』に生きる者なら誰でも知っている、26世界を渡るための扉。
元々は管理者用の道具だったけれど、今ではお金を払えば一般の人々でも利用できるようになっている。
『全世界管理局』の各支部にはまず間違いなく配置されているので、十王がいるこの地獄支部にも当然『世界扉』がある筈だ。
(問題なのはその十王だけど……地獄で他に『世界扉』がありそうな場所も知らないし、仕方がない。管理局の地獄支部を目指そう)
これでも素早さには自信がある。
「逃げ」に徹すれば十王相手でも脱獄は不可能ではない、と思いたい。
「おっと!」
阿鼻地獄から支部の建物へと向かう道で、こちらへと走ってくる二人の人影を見つけた。
赤と黒を基調とした制服を着ており、『H』の文字が記された紋章もある。
頭には角が生えているので、地獄支部に勤める鬼族の管理者なのは間違いない。
ボクは慌てて近くの岩場に隠れ、二人が通り過ぎるのを待つ。
すると、二人が通り過ぎる際にこんな会話が聞こえて来た。
「なぁお前、脱獄人がどんな奴か知ってるか?」
「あぁ、一度だけだが見たことあるぜ。チビでひょろっとした奴だったのに、赤鬼を倒すんだからすげぇよな。赤鬼は地獄で4万年も殺し合いをし続けたバケモンだったのに」
「ははっ、どうせ卑怯な手でも使ったんだろ。脱獄なんか企てても失敗するってのによ」
「ん? どうして失敗ってわかるんだ?」
「そりゃわかるだろ。地獄から出るには支部の『世界扉』を使うしかねぇってのに、その『世界扉』を今は5人の十王が守ってんだぜ? 十王一人で赤鬼1000人分の強さがあるって話なのに、それが5人だ」
「あー、そりゃご愁傷様だな。そんなの他世界の覇者でも勝てっこねぇ」
――二人が過ぎ去り、しばらくしてからボクは岩陰から姿を出す。
(よし、作戦変更だ。『世界扉』は諦めよう)
って、いやいやいや。諦めてどうする?
他にこれといった逃げ道は無い。
やるしかないのだ。
十王が守る『世界扉』を、何としてでも無理やり突破するしかない。
ボクは半ばやけくその気持ちで、管理局の地獄支部へと足を向けた。