706 旅立ちの時、独り立ちの時
「お別れの、時が来た」
エミーがドクゲーゴンにそうつぶやいた、その日の夕方。
西日をその背に浴びながら、地を蹴り、大樹の幹を跳ね、エミーは......猛スピードで森の中を疾走していた。
大樹、と書いたが。
それは、常識的なサイズの大樹だ。
外界と巨獣の台地を遮る切り立った崖から【黒翼】を使って滑空し、着地後は一心不乱に走り続けて3時間。
彼女は既に、半年以上の時を過ごした台地から、遠く離れた場所にいた。
その傍らに、毒を操る紫の鳥はいない。
エミーは、独りだ。
「ミギャ......?」
と、ここで。
不運にもエミーの進路上に、低木の茂みから一匹のトポポロックが飛び出した。
黄色と黒色からなる虎のような模様のトポポロックだ。
体長1メートル程で背中に一列のトゲが生えた、毛のない三つ目の鶏のような魔物である。
「............」
エミーは猛烈な速度を維持したままトポポロックに駆け寄り、その長い首をいきなり掴んだ。
「ミッ......」
そして徐々に、速度を落とす。
全力疾走から、駆け足に。
駆け足から通常の歩行速度へ移行し、静止。
完全に立ち止まったその時、エミーの手に首を掴まれたトポポロックは既に死亡していた。
次にエミーは何の躊躇もなくトポポロックの長い首を手刀で切断すると、切断面に口を当て、そこからあふれ出す血液をごくごくと飲んだ。
さらには骨ごと首の肉をかみ砕き、腹の中に収める。
常人が決して真似をしてはいけない......ワイルド栄養補給!
血と肉をある程度経口摂取した後、エミーはトポポロックの死骸を宙に放り投げた。
そしてそれを、肩から伸ばした【黒触手】で突き刺す。
【黒触手】はトポポロックの死骸から魔力を吸い上げ......それをボロボロの、黒い塵へと変えた。
トポポロックは、そのほぼ全てをエミーによって奪われた。
エミーの魂は、また少しだけ大きくなり......世界はまた少しだけ小さくなった。
<いやあ、すっかり大きな魔物に慣れてしまいましたから......こういう小さなサイズの魔物を見ると、なんだか逆に違和感を感じますね!>
すっかり立ち止まり、うっすらと星が瞬き始めた空をぼーっと見上げるエミーに、オマケ様が明るく声をかけた。
「............」
<それにしても、良かったですね。あれから精霊神の動きは感じ取れませんし......エミーの存在には、おそらく気づかれていないと見て良いでしょう>
「............」
<まあ、あのクジラとか、ドクゲーゴンとか......他の神の関係者と関わってしまったのは予想外でしたが......>
「............はあ」
<もう、エミーったら!>
何を話しかけても返事をせず......しまいにはため息をついてうつむいてしまったエミーに対して、オマケ様は心配そうに......しかし語気を強めた。
<そもそも、あなたも納得していたじゃないですか!ドクゲーゴンとは、別れなければいけないって!>
「うん......」
エミーはぼんやりと、そうつぶやいた。
エミーも、理解している。
彼女がドクゲーゴンと別れなければならない理由は、いくつもある。
まずドクゲーゴン自身が、十中八九転生者だ。
その知能の高さから薄々感づいてはいたが......陸クジラの肉を食らっているときに発生した、突然の【進化】。
そしてその時湧きあがった、黄金色の神気が......。
その事実を、エミーにしっかりと確信させていた。
転生者の背後には、彼ら彼女らの人生を『視聴』する神々がいる。
未だエミーの力ですら抗えぬ、理不尽な存在が。
そんな厄介な『視聴者』に目をつけられないために......できれば、転生者とは距離を置くべきなのだ。
そして、さらには。
「ドクゲーゴンを、これ以上不幸には、巻き込めない......」
少しでも誰かと親しくなると湧きあがる、この思い。
黒髪黒目は、不幸を招く呪い子。
アーディストの世界中どこにでも伝えられているこの伝承は、決して間違いではないと、エミーは確信している。
それだけ、彼女は......毎度大事件に巻き込まれている。
今回戦った陸クジラだって、あれは絶対に転生者であるドクゲーゴンの『物語』の敵役として現れた存在ではない。
ドクゲーゴンの敵にしては、強すぎるからだ。
あの陸クジラは、自分が招き入れてしまった不幸だ。
エミーはそう、思っている。
だから。
「......殺すわけには、いかない。仲間を、私のせいで」
それだけ言うとエミーは、口をつぐんだ。
そして前を向いて、目的地のない旅を再開した。
今彼女がいるのは、比較的木々の少ない、開けた森の中。
春が始まったばかりの今、下草も伸びておらず移動は容易い。
彼女は西日に照らされる......長い長い、真っ黒な己の影をじっと見つめながら、歩き続けた。
一度も、後ろは振り返らなかった。
縁は、もう切れたのだ。
切らなくてはならないのだ。
◇ ◇ ◇
「ンエ......」
気づけば毒の湖を、西日が黄色く染めていた。
仰向けになって呆然と、ただぷかぷかと、キラキラとした輝きで闇を覆う湖面に浮かんでいたドクゲーゴンは、ようやくぐるりと体をひねり、動き出した。
「ンエ......」
そして湖を満たす毒液の一部を触手のように動かして......自分の体を高く高く、持ち上げる。
視界に広がるのは、巨獣の台地の広大な森。
どこまでも続いていると錯覚する程に広い。
エミーはこの台地の端には崖があるのだと言っていたが、その端の崖とやらは、遠すぎて見当たらない。
エミーは......きっともう、そんな見えない台地の端よりも、もっと遠くに行ってしまった。
「ンエ......」
そう考えると、寂しくて......ドクゲーゴンは毒液の触手をしなしなと萎びさせ、ぽちゃりと湖面に着水した。
「お別れの、時が来た」
頭の中に何度も繰り返し響く飼い主の言葉は、いつも通り唐突で、一方的な宣告だった。
ドクゲーゴンは、抗議した。
羽をばたつかせ、喚き散らし、全身全霊をもって抗議した。
いかに言葉が伝わらなくとも、あれだけやって彼の気持ちが伝わらないわけがない。
エミーはそんな彼の大暴れをじっと見つめ......口を開いては閉じ、開いては閉じ......何やら言葉を選んでいるようだったが。
しばらくして、ようやく。
「だってお前......最近大きくなって、そろそろ、おいしそうだよね......?」
と言った。
......それが冗談なのか、本心なのかと言えば......冗談めかして言ってはいるが、いくらかは本心なのだろうとドクゲーゴンは思った。
だって、エミーの食欲は異常だ。
あの巨大な陸クジラの肉だって......干からびて縮んだとは言え、相当な量があった。
ドクゲーゴンもついばんではいたが、それをこの人型の魔物は、ほぼ一人で食らいつくしたのだ。
その様を見ていたが故にドクゲーゴンは、彼女が彼を“肉”としてみなし始めたというその言葉に、感じたくない説得力を感じてしまった。
それと同時に。
だからこそ、別れようと。
そう言ってくれるエミーの優しさも、強く感じたのだ。
......ドクゲーゴンは、何も言えなくなってしまった。
ただうつむいて震え、ぽたぽたと涙をこぼした。
「............」
エミーはそんな彼の頬に両手をあて、むにむにと、静かになでた。
すると、エミーの手にドクゲーゴンの涙が落ちて......その部分を、赤く腫らした。
「............!」
彼女の自己治癒力はすさまじく、その腫れもすぐにひいてしまったが......。
エミーは無表情のまま......しかしじっと、腫れていた手を見つめてから。
「強くなったね、ドクゲーゴン」
そう言って、大きくなった彼の頭に、ぎゅっと抱き着いた。
◇ ◇ ◇
その後、エミーは旅立った。
それ以上の言葉は、なかった。
ただ小さく二度ほど、胸の前で手のひらを振って。
その次の瞬間には。
ダン、という音と小さなクレーターをその場に残して、エミーは消えていた。
離れるのが嫌で、追いかけるとか。
そんなことは、物理的に許されなかった。
エミーの隔絶した身体能力が、それを許さない。
移動を目で追えないのだから、追いつけるわけがなかった。
一方的に『もうお別れ』と宣言して、有無を言わさずいなくなる。
本当に、最後まで話を聞かない......自分勝手な飼い主だった。
(......最後?)
と、ここで。
沈み始めた夕日を眺めながら、ドクゲーゴンはふと思った。
(もう会えないなんて、誰が決めた)
それは、エミーだ。
エミーが決めた。
人間だった頃の彼なら。
晴馬情なら。
『捨てられた』と傷つき、心の殻に閉じこもり、いつまでもすねていただろう。
でも、今の彼はドクゲーゴンだ。
わがままで、自分勝手で、暴力的な飼い主エミーの、ペットの鳥だ。
(なんでそんな言葉に、従わなくちゃいけない!)
彼は、“変わった”のだ。
あえて“成長した”とは言うまい。
しかし間違いなく、この世界で“生きていくために”、彼は変わった。
良かれ悪しかれ。
変えてくれたのは、エミーだ。
......あんな飼い主のペットが、大人しく言いつけを守るお利口さんになる?
なるわけがない!
(そもそも、飼っていたペットを捨てるだなんて!それがどれだけペットを傷つけ、そして生態系を破壊する愚かな行為なのか......エミーは理解してないよぉ!)
ようやくここで、ドクゲーゴンの心の中には......沸々と怒りすら湧き始めた!
その怒りに連動して、風もないのに彼の周囲の湖面が揺れ、ぶくぶくと泡が弾ける!
波と波がぶつかり、弾けた泡からしぶきとなって毒液が舞い散る!
そして!
(......ボクは、もっと強くなるから)
突然そんな風に荒れ狂っていた湖面は、凪いだ。
......巨獣達を、エミーのようになぎ倒せるくらい強くなって。
エミーが『食べたい』と思えなくなる程、毒も強くして。
周りを汚さない、完璧な毒の制御を身に着け。
(そしてまた......エミーに会いに行くから!)
森の端に沈んでいく真っ赤な夕日を見つめるドクゲーゴンの瞳は、既に毒で湿ってはいなかった。
この別れは、断絶ではない。
体が遠く、離れていても。
きっとこれからも、ドクゲーゴンの心は、エミーのそばにあるだろう。
絆は、そう簡単に切れないのだ。
切れるものではないのだ。




