692 【醜い魔物の成り上がり】曇天の中、降るのは森
未だ、陸クジラは遠い。
数百メートル......なんて距離じゃない。
もっと遠くにいる。
それなのに、あんなにも大きく見える!
まるで、山!
(ひえ......やっぱり、大きいよぉ......!)
常軌を逸する程の巨体を持つ魔物がひしめくこの巨獣の台地。
その中でも、群を抜いて巨大な、陸クジラ。
その威容によって視界が塞がれた彼は、恐怖のあまりガタガタと震えた!
しかし。
しかし彼は、絶望はしていなかった。
何故なら、彼は今、飼い主エミーの胸に抱かれているから。
このエミーは巨大な狼だろうが、虎だろうが、蛇だろうが。
有無を言わさず殺してきた少女だ。
ならば、今回だって、きっと!
「ドクゲーゴン」
そこまで楽観的に考えていた彼は。
次の瞬間、唖然とした。
「......逃げるよ」
何故ならば!
あの、エミーが!
一当すら、することなく!
......逃走を、口にしたからだ!
「ボアッ!!ボアアアアアーーーーーーッ!!!」
しかし、踵を返す暇すら与えず、陸クジラが動く!
再び大地を揺らすような雄たけびをあげたかと思うと......陸クジラの苔むした全身にポツポツと、赤い光が灯った。
「ンエッ!?」
「......!!」
その光の正体は、何か。
彼の視力では、判別できなかった。
しかしエミーは......違った!
エミーのファンタジー視力は、陸クジラの皮膚の、赤い光が灯った部分に何があるのか......しっかりと視認していた。
それは、無数の、巨大なフジツボだった。
陸上に生きる、フジツボ!!
そしてエミーはこれまでの経験から、この世界のフジツボは決して侮ってはいけない危険生物であるということを、しっかりと理解していた。
......故に!
「らあッ!!」
次の瞬間!
陸クジラにへばりついた巨大フジツボ達が放った、赤い光線を......【ブレス】......いや、【ブレス】とは似て非なる種族特有の魔導、【フジツボビーム】を!
エミーは類稀なる戦闘勘に従い横跳びに跳躍することでもって、回避することに成功したのだ!
「ンエーーーッ!?」
ビッ!!
ビッ!!
ビッ!!
エミーに抱きかかえられた彼が悲鳴をあげている間も、フジツボ達は絶え間なく光線を放ち続ける!
「らッ、らッ......らああーーーッ!!」
それをエミーは、走り、しゃがみ、時には飛び跳ね......動き続けながら回避し続ける!
まるで未来が見えているかのような動き!
彼女の保有する常軌を逸したスタミナも相まって、本来であれば一撃必殺であるはずの【フジツボビーム】は、エミーにかすりすらしない!
しかし......!
「ン、ンエ......」
「!!」
エミーの周囲は【フジツボビーム】に焼かれ、大地は融解し、空気は高温で揺らめいている......。
そのような環境に......エミーはともかく、彼は......ドクゲーゴンは、耐えることができなかった!
(あ、熱いよぉ......苦しい、よぉ......)
彼は高温に苛まれ、朦朧とする意識の中。
(どうして、ボクばっかりが......いつもこんな、苦しい思いを......)
ぼんやりと、苦難に満ちた己の生を、嘆いた。
すると、その時だ。
ふと、周囲が暗くなった。
その異常に、エミーは彼の容態に気を取られていたため、気づくのが遅れた。
何が起きたのか?
その答えを、エミーは、頭上を見あげることで理解した。
彼女の頭上にあったもの。
それは、初冬の曇天すら覆いつくすほど広大な。
森。
陸クジラのあまりにも巨大な背中に繁茂した、森!
......海に住まうクジラ達は、時折海面から跳びあがるようにジャンプし、その巨大な体を水面に打ちつける。
その行動を、【ブリーチング】と呼ぶ。
そんなことをする、理由?
それはね、よくわかんないけど。
大事なことは!!
今まさに、陸クジラがその力強い四本の足で、自らの巨体を宙に跳ね飛ばし!
その背を、地面に叩きつけることで!
エミーを......押し潰そうとしているという、事実なのだ!
「ち......」
落ちてくる、陸クジラの巨大な背中を見て。
エミーは無表情のまま......しかし小さく、舌打ちをした。
「ンエーーーーーーッ!?」
そして即座に、彼の体を、真横に放り投げた!
(え!?え!?え!?)
周囲の熱のため朦朧としていた彼は、突然のこの行動に大いに驚いた。
くるくると回転する彼の視線が一度、エミーのそれとかち合う。
エミーの顔はいつも通り無表情ではあったが。
その瞳に浮かんでいたのは。
間違いなく......安堵の色。
(え!?......え!?)
彼は、刹那に垣間見たその色の意味を理解する間もないまま、エミーから遠ざかる。
そして、次の瞬間!
ズガアアアアーーーーーーンッ!!
エミーの上に......森が降ってきた。
(え......?)
辛うじて潰されずに済んだ彼は、風圧でコロコロと転がり、そして。
大地にしがみつく大樹の根に受け止められ、その動きを止めた。
土煙がおさまりぎゅっと閉じていた目を開けると。
(え......)
視界を塞ぐは、途方もなく大きな陸クジラの体。
苔とフジツボに覆われ、そして巨大クジラジラミがのそのそと這いまわる、壁のような巨体。
(え)
エミーは。
(え?)
エミーは?
(......)
......エミーは!
陸クジラの......巨体の下。
「ボアアアアアーーーーーーッ!!!」
陸クジラは勝利の雄たけびをあげると、ダメ押しとばかりにその背中を大地にこすりつけた!
メギョッ!!
ボキボキボキッ!!
陸クジラの背中の上で生態系を形成していた森が、ついでにすりつぶされていく音を聞きながら、彼は呆然と目を見開き、固まっていた。
だって。
だって、エミーが。
絶対的な強者であるはずの、彼の飼い主が。
あまりにもあっけなく、潰されてしまったのだから。
彼は、待った。
エミーがその常軌を逸した膂力で、山のような陸クジラの巨体を持ちあげ、這い出てくるのを待った。
しかし残念ながら、そんな時はどれだけ待っても、訪れはしなかった。




