43 やたらとでかい蛇がいたから狩って食った
青白い霧が、あたり一面を覆っている。
その霧からぽつりぽつりと浮かび上がるのは、おそらく相当に古い樹木なのであろう灰色の木肌をした大木だ。
いずれもが天を目指して伸びているが、霧に阻まれ一体どれほどの高さなのかは判然としない。
地面に目を見やれば、そこかしこから水が湧き出しており、鏡のように美しい泉の縁には水芭蕉のような白い花が群生している。
幻想的、ともすれば神聖で侵しがたく、人によっては畏れを抱くかもしれないそんな風景の中を、一人の少女が進んでいた。
黒髪黒目、夏だというのに白い肌。
死神狼の毛皮で作られた黒く薄汚い衣服に身を包み、山中であるにも関わらず靴は履いていない。
薄汚れてなお美しいその顔立ちは、動くことのない表情もあいまって、まるで精巧に作られた人形のようにも見える。
彼女の名は、エミー。
亡くなった師匠の庵から旅立ち、あてもなくさまよい歩く6歳の少女である。
ぐぅぅ......。
「............」
鳥も獣も鳴かぬ霧の中、エミーの腹の虫だけが大声をあげる。
エミーは思わず腹をおさえ、立ち止まった。
この妙な霧の中に迷い込み、3日。
エミーはその間、水を除きほとんど何も口にしていなかった。
何しろこの霧の中には、数の少ない植物を除いては、不思議なことに全く生き物がいないのだ。
鳥もいない。獣もいない。虫すらいない。
このエミーという少女は、口に入るのならば虫だろうが何だろうがためらいなく食らうことができるのだが、そもそも獲物がいないのであればどうしようもない。
携帯していた干し肉は、とっくに食べきってしまっている。
それでも、彼女は泉の縁に生える水芭蕉のような白い花には、決して手をつけなかった。
あの花の名は、セレュ花。猛毒です。食べてはいけません。
エミーにのみ聞こえる声が、そう教えてくれたから。
もっとも、毒への耐性が向上している今の彼女の体であれば、セレュ花を食べても死ぬことはなかったのかもしれないが......エミーも、声の主も、そのことには気づいていなかった。
さて、しばらく腹を抑えじっと立ちすくんでいたエミーであるが、獣のように四つん這いになり、泉に口をつけ腹の中を水で満たすと、再び歩き始めた。
はやく、この霧の中を抜けなくてはならない。
力の入らぬ四肢に魔力を注ぎ、無理やりにでも歩を進める。
そうやってよろよろと、何とか力を振り絞り、歩き続けたのだ。
◇ ◇ ◇
それから、どのくらいの時間が経っただろうか。
どこまでも変わり映えのしない霧の風景を映すエミーの黒い瞳が、とある異物を捉えた。
石畳で作られた、細い道である。
普通なら人の踏み入らぬような山中であるにも関わらず、明らかに人の手によって造られているそれは、エミーの眼前を横切り霧の中をずっとずっと伸びている。
「............」
エミーはその道を、たどってみることにした。
もしかしたら、この道の先には人が住んでいるかもしれない。
食べ物を、分けてもらえるかもしれない。
もしも、黒髪黒目だ、呪い子だと言ってエミーを追い立てるような連中であれば、皆殺しにしてでも食べ物を奪い取ってしまおう。
そんな物騒な考えが表に顔を出すくらいには、彼女は追いつめられていた。
ぺたぺたと音を立てながら石畳の上を進むこと、数十分。
エミーが思っていたよりも早く、彼女はその道の終着点にたどり着いた。
残念ながら、この道は人の住処にはつながっていなかった。
そこにあったのは、おそらく祭壇と捉えて間違いないであろう、石造りの荘厳なステージである。
その周囲のみ、たちこめていた青白い霧は晴れ、天から暖かな光が降り注いでいる。
祭壇を取り囲むように広がっている泉はその光を受け、きらきらと輝く。
そして......。
エミーは祭壇の上に鎮座するそれに、目が釘付けになった。
それは、美しい大蛇だった。
太陽の光を受けて輝く純白の鱗。
大人が抱えきれないであろうほどに太く、そして長い長いその体。
そんな巨大な蛇が、祭壇の上でとぐろを巻き、気持ちよさそうに眠っていたのだ。
圧倒的な存在感。
周囲の雰囲気もあいまって、荘厳、神聖、そういった言葉で形容するのがまさしくふさわしい、大蛇であった。
しかしながら、エミーは。
空腹にあえぐ、この旅の少女は。
そんな神聖さなど歯牙にもかけない。
意に介さない。
全く気にしない。
この少女の目に、美しい大蛇は。
食いでのありまくる、とてつもなく巨大なお肉、としか映っていなかった。
エミーは瞬時に全身に魔力を漲らせ、戦闘態勢に入る。
彼女の魔力量は、その年齢からしてみれば異常なほどに多いが、この3日間の絶食期間を経てかなり減少していた。
この狩りに失敗すれば、もう後がない。
先程までよろけながら歩いていたのが嘘のように、しっかりと大地を踏みしめたエミーは、次の瞬間には空高く跳びあがっていた。
【飛蝗】。
今は亡き彼女の師匠が授けてくれた、人外の跳躍を可能とする技術である。
大蛇の死角となる上空から奇襲をかけ、一撃でその首を刈り取る。
師匠の得意としていた狩猟方法を用いて、エミーは大蛇に挑んだ。
しかしながら、この大蛇。
そう易々とと狩られる存在ではなかった。
突然ぱちりとその赤い瞳を開き鎌首をもたげ、上から降ってくる黒髪黒目の少女を睨みつける。
まずい、そうエミーが思った時には、大蛇の尾が彼女の小さな体を吹き飛ばしていた。
「......ガハッ......」
エミーは十数メートルは吹き飛び、大木にその体を打ちつけられた。
大木はミシミシと音を立て倒れていくが、魔力を体に漲らせ強化を施していたエミーは無事である。
とっさのことで精度は荒かったが、衝撃を魔力に変換し多少は勢いを殺せたことも、エミーを助けた要因の一つとなっていた。
骨も折れていなければ、その白い肌に傷も出来ていない。
......しかしそのダメージは無視のできないものだ。
むせながら顔を上げる彼女の瞳に、自分に向かって突進してくる大蛇の姿が飛び込んできた。
大蛇の赤い瞳は、獲物を嬲り、追い詰める愉悦に歪んでいる。
狩る者、狩られる者が逆転したのだ。
「ッ!!」
跳びはねて体勢を整えたエミーは、地面を抉り取り、いくつもの土くれを大蛇に投げつける。
大蛇に向けて高速で飛来するそれはただの土くれではなく、魔力で強化された、そこらの小石など比べ物にならないほど硬質な礫だ。
しかし、それに当たればただでは済まないことを感じ取ったか、大蛇は器用に礫を避けながら、エミーに近づいてくる。
もはや、その距離は数メートル。
大蛇にとっては、ほんの一瞬でつめることのできる距離。
勝負はついた。
大口を開け、獲物を一呑みにしようと大蛇はエミーに飛びかかった。
......が。
ふと、大蛇によぎる疑問。
なぜ、この少女は、避けようとしないのか。
逃げようと、しないのか。
これほどまでに堂々と、自分を待ち構えているのか。
この少女のこれまでの体捌きを考えれば、跳びはねて逃げることくらい、できたはずだ。
なのに。
この少女は逃げもせず。
当たりもしない礫を無駄に投げ......。
無駄に?
無駄ではなかった?
まるで。
まるで、自分は。
まさか、この少女は。
自らを囮とし。
礫で、行く手を誘導して。
......自分を、ここまで、誘いこんだ?
知恵ある大蛇は瞬時にそこまで思考を巡らせたが、遅かった。
もはやその巨体は勢いよく少女に向かい飛びかかっており、軌道は修正できない。
そして。
大蛇の大口は、少女を丸呑みにする、その1メートルほど手前で。
地面から垂直に伸びたような、目に見えない、何か“糸”のようなものに触れ。
真っ二つに、左右に分かれた。
頭部が裂かれた時点で大蛇の命は絶たれていたが、その突進の勢いは止まらず、体のちょうど半分ほどが二つに分かれた時点で、ようやく大蛇は動かなくなった。
すんでのところで跳躍し突進を避けていたエミーは、近くに生えている大木に張り付き、じっとその様を見つめていた。
大蛇の痙攣が止み、確実にそれが息絶えたことを確認してから、音もなく地面に飛び降りたエミーはおもむろにその死骸に近づく。
......もしも、彼女が冒険者であったならば、間違いなくこの大蛇の鱗や牙を喜び勇んで剥ぎ取っていただろう。
これほどの大物だ。
素材に含まれる魔力含有量は計り知れず、そこからどれほどの魔道具、武具、薬品が作られるかは想像もできない。
しかるべき場所に卸せば、間違いなく大金を得ることができるだろう。
しかし、彼女は冒険者ではない。
彼女はただの、空腹な少女だった。
流れ出るよだれをぬぐうこともなく、ふらふらと大蛇の死骸に近づく彼女の瞳に映っているのは、薄い桃色をした大蛇の肉。
ただそれだけであった。
エミーは大蛇の断面に、その生肉に夢中でかぶりつく。
常人には噛み千切ることが不可能であるほどの強度を持っているはずのそれは、強化された彼女の顎によってぶちりと音を立てながら引きちぎられ、咀嚼され、呑み込まれていく。
大蛇の生肉が持っていたはずの毒性など、これまた強化され、さらに毒への耐性すら備えている彼女の胃腸には何ら影響を及ぼさない。
その全てが栄養へと変換され、さらに余剰分のエネルギーは魔力へと変換される。
そしてそれだけではない。
長く生きた大蛇は、その肉自体にも大量の魔力を含んでいた。
彼女の体によってつくりだされた魔力、そしてもともと大蛇の肉自体に含まれていた魔力。
それらは、彼女の体にどんどんと蓄積されていく。
蓄積した魔力は体の変質を促し、その肉体はより強靭なものへと生まれ変わり、さらなる魔力の蓄積を可能とする......。
エミーは結局、3日かけて大蛇の肉の全てを食べきった。
その間、彼女の体の中で起きていたのは、概ね上に記したような変化である。
食べたら、強くなる。
この強化自体は、魔力の存在するこの世界アーディストにおいては、どんな生物にも起こりうるありふれた現象だ。
ただし、この現象により引き起こされる変化など、通常は微々たるものにすぎない。
しかしながら、今回の大蛇の肉は特に魔力を多く含んでいたため、エミーの体は著しく強化されることとなった。
このような大幅な強化は、実は彼女にとってこれで二度目の経験だ。
一度目は、かつての拠点であるナソの森、そこで狩った大きな梟を食べた時にもたらされている。
......もっとも、エミーは強くなった己の体、そしてその力については全くの無自覚であった。
素の身体能力がかなり向上していることも、己の魔力総量が相当に上昇していることも、その原因については『空腹が満たされたので本調子が出てきたのだ』程度にしか考えていなかったのだ。
ともかく。
こうして大蛇を完食したエミーは祭壇をあとにし、あてもない旅を再開した。
出発するころには、あたりを鬱陶しく覆っていた青白い霧はすっかり晴れ、夏の暑い日差しが木の葉の隙間を抜けそこら中を明るく照らしていた。
やはり、お日様の光は気持ちが良いですね!気分も晴れやかになります!
少し前まで飢えて死にかけていたのに、もう既にいつもの能天気な様子に戻っている脳内の相棒に心の中で苦笑しながら、足取りも軽やかにエミーは歩き出した。
祭壇から離れるにつれ、徐々に生き物の声も響き始める。
遠くから、ミョゴミョゴシュゴの鳴き声が聞こえてくる。
新緑の中に蠢く生命の気配。
己に向けられる、魔物たちの害意。
久しぶりに感じたそれらに懐かしい気持ちすら抱きながら、エミーはどこまでも、どこまでも、道なき道を進んでいくのだった。




