1 一度目の復讐
一面、赤色の世界だった。
両手も真っ赤で、なんだか現実味というものがない。だってそうだろう。ほんの少し前まで、ここでは人が当たり前に暮らしていた。とても小さくて、旅人だって滅多にやってこない村だったけど、みんなが仲睦ましく暮らしていた。
でも今、その日常は壊れている。
視界に入ってくるのは遺体だけだ。ある者は血塗れで、ある者は身体の一部を失って。抵抗を試みた者もいたようだが、呆気なく殺されてしまったらしい。
一人もいかすな――そう、大人たちの怒鳴り声が聞こえる。
混じって聞こえるのは女性と、子供の悲鳴だった。命乞いをする声まで聞こえるが、容赦なく途切れてしまう。きっと殺されてしまったんだろう。
もう、感情が出てくることはなかった。いや、出しちゃいけない。無力な自分がそんなことをしたって、一人分の命すら救えない。このまま小さい暗闇の中で、ジッとしていた方が安全だ。
そうしなければ殺される。
心の叫びを無視して、本能は命令してきた。動くな、余計なことはするな。このまま流れに身を任せていれば、お前はきっと助かる――
また、声が消えた。仲の良かった人たちが、突如として襲来した理不尽に殺されていく。……そうだ、理不尽なんだ。これはどうしようもない、運命なんだ。
「……」
拳を握って、歯を食い縛る。意識を別のところに持っていけば、現実の出来事から目が反らせると信じている。
でも声は途切れない。飛び散る紅い色も、消えない。
大切な人の亡骸を抱きしめた両手は、温かい鮮血で染まったまま。
――ああ、そうだ、その人は言っていた。怖いことがあったら、目を閉じて静かにしていろと。そうすれば誰かが助けてくれると、子供心に語って聞かせた。
目蓋を閉じる。
そうして外の悲劇は、穏やかに断絶された。
――――――
「これで何度目になると思う!?」
怒号と共に、握った拳がテーブルに叩きつけられる。
昼の日差しに照らされる彼の顔は、今の行動を証拠づける様に赤かった。まあ感情的なのはいつものことだし、今さら驚く必要はない。実際、成功するはずの計画が何度も何度も失敗しているのだ。冷静でいる方が難しいだろう。
「まあまあ、そう焦んなって」
テーブルを殴りつけた男に反応したのは、飄々とした雰囲気の中年男性だった。
重要な作戦が失敗しているというのに、彼は何ら焦った様子がない。逆に現状を予想していたような落ち着きっぷりで、正面にいる相方の神経を逆撫でしていそうだ。
お陰で怒鳴りつけていた彼は、更に激昂して言葉を放った。
「ミュトリオンよ、我々が何度この戦いを繰り返していると思う!? 我々に与えられた時間が実質的に無限とはいえ、失態を晒し続けるわけにはいかんのだぞ!! 帝国軍の誇りに泥を塗る気か!?」
「気持ちは分かるが、もう少し落ち着こうぜ将軍殿。相手は長年の宿敵だ。そう簡単に落ちちゃ、昔っから戦い続けたのはどうしてか、分からなくなるだろ?」
「くだらんことを……!」
それでも変わらず、ミュトリオンと呼ばれた中年は将軍を宥める。
しかし効果は上がりそうにない。二人の外見を見比べても、水と油のように相性が悪いのは想像がつく。
将軍と呼ばれた男は、帝国軍の制服である赤い外套をきちんと着ている。そこに一切の遊びはない。帝国人男性の礼儀として、髭もきちんと剃っていた。
対し、ミュトリオンの格好はいい加減さが目立ってる。なんと制服を持ち込んでいないのだ。普段着の質素なシャツとジーンズを、そのまま制服代わりにしている。
髭も長く伸びていて、帝国人の常識で言えば無礼なことこの上ない。真面目な人達なら、誰しも開いた口が塞がらないことだろう。これでも帝国軍では有名な剣の使い手なのに……そんな気配は微塵も感じさせなかった。加えて姿勢も悪ったりする。
改めて彼の容姿を確認した将軍は、ワナワナと全身を震わせていた。
「まあ将軍さん、ここは次の報告を待つことにしようぜ? そろそろ回帰の時間だろ?」
「貴様から聞くと途端に怪しくなるな。……おいアルケイス、時間は合っているのか?」
「はい」
将軍が呼び掛けたのは、一人の少年だった。
二つの窓がついている部屋の入り口に立つ、17歳の少年。この辺りでは珍しい黒髪の持ち主で、将軍やミュトリオンとは少し違った顔立ちの少年だった。
アルケイスと呼ばれた彼は、将軍と同じく制服である。ただし、軍属を示すものは一つもない。
羽織っているのは、紫色の上着だった。帝国では最も高貴な色として、一部の人間にしか着用が許されない色。
無言でたたずむアルケイスは、どこか高貴な家柄の出身であることを匂わせる。瞳は濁りのない黒で、暗いというよりは深い色をしていた。
正反対な気質の軍人がいるこの部屋で、彼は中庸に近い存在感がある。二人が何もしても動じず、超人然とした姿勢を保ち続けていた。……天使がいるのだとすれば、アルケイスの雰囲気は限りなく近いだろう。地上に興味を持たない、冷酷な天使、としてではあるが。
――いや、天使などという表現は撤回したい。
アルケイスは別に、普段からこの様子ではない。今日は自分なりに、自分だけの緊張感を持って、この部屋に訪れているだけだ。
「回帰後の報告については、また頼むぞ。私はお前達のように付いていけんのでな」
「へいへい、分かってますっと」
大好物の葉巻を加えて、笑みを交えながらミュトリオンは頷いた。
将軍の方はとうとう限界に達したらしく、もう一度机をたたく。ただし今回は拳ではなく、手のひらで。口調も先ほどに比べれば、いささか理性的ではあった。
お陰で、背中は無防備だ。
「貴様、皇帝陛下の期待を裏切るつもりはあるまいな? 陛下がどれほど、貴様に期待しているか――」
知っているのか?
言葉は声にならない。
彼の身体はもう、会話に勤しんでいる場合ではなくなったからだ。
「――あ?」
アルケイスの手には、生々しい肉の感触。
将軍の心臓には、冷たい刃物の感触があるはずだ。……感じとれるだけの機能が、残っていればの話だが。
突然の出来事に彼は振り返ることしか出来なかった。無表情で自分の心臓を貫いている若造の顔を――途切れかけた命で、見つめることしか出来なかった。
人の身体が無造作に倒れる。
たったそれだけ。命を失った人間の必然的な結末だった。
両手を血で濡らしたアルケイスは、少し安心した表情で将軍を見下ろしている。殺しは何度も経験しているが、やはり肉を貫く感触には慣れない。正直、そんな甘い話をしてられる立場でもないのだが。
「やったか?」
目の前で凶事が起こったというのに、ミュトリオンは尚も平静だった。
そりゃあそうだろう。この殺人は、彼とアルケイスが計画したものだ。この直後に起こる出来事を利用し、完全犯罪を成し遂げるために。
復讐。
この男を殺したところで終わらない。まだまだ洗い出していない関係者は大勢いるのだ。明確な証拠を残し、軍に追われるわけにはいかない。
「……将軍は僕らのような能力者じゃありませんからね。回避は出来ないでしょう」
「そうか。……んじゃ、後の処理は過去の方からやるか」
「ええ」
頷きながらアルケイスがとり出したのは、懐中時計だった。
時刻は十二時を差そうとしている。将軍との話で出た、回帰の時間まであとわずか。針が真上を差した瞬間に、それは起こることになっている。
残り、数秒。
「――」
正午が訪れる。
直後のことだった。
時計の針が、過去に向かって動き始めたのは。