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旅の果て  作者: 海之本
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葛藤

 何をどのようにして帰ってきたのか、エナンは気がつけば自分の部屋で息を切らして突っ立っていた。

 荒い息がやけにうるさい。唾を呑みこんで落ち着こうとするが、すぐに息苦しくなり再び肩を揺らした。

 石壁をくり抜いた窓から差し込む夕日は白い壁を染めている。見慣れた部屋に安堵するも、どっと疲れを覚えベッドの上に腰かけた。

 ふとエナンは右手に違和感を覚え見ると、袖の中に入れこんだ手が何かを握りしめていた。布越しに長細いものが浮かんでいる。無意識のうちに衣の袖で隠していたらしい。滲みだした血が麻衣にシミをつけ黒く滲んでいる。

 そっと中から右手をのばすと、やはり短剣が現れた。

 硬く冷たい感触と赤く汚れた刃が、さっきの出来事が夢ではないと告げる。

 見開かれた目の、深く濃い緑の瞳がエナンを襲う。


 生きていた、生きていた、生きていた!


 頭の中で連呼し続ける言葉に、エナンはまだ動揺していた。

 あの人は罪人。だからあの場所で、曝されていたのに。

 曝し人に触れることは禁止されている。この街の人間なら誰もが知っていること。だがエナンは右手の短剣を見下ろしながら、引き抜いた時の軽やかな感触を思い出していた。

 なのに生きていたなんて。


「エナーン!」


 エナンはびくりとした。台所から母親が呼んでいる。

 短剣を隠さなくては。

 考えるよりも早く、エナンは床に落ちたままの布切れを拾い、それに短剣を巻いた。


「な、なーに!?」


 声を張り上げ、部屋の外に向かって返事をすると、母親の足音が向かってくるのが聞こえた。

 エナンは急いで辺りを見回し、とっさに目についた枕の下にそれを入れ込んだ。と同時に母親が、


「いつ帰ってきたの?早かったわね」


 部屋の中へ顔を出した母親に向かって、エナンは出来るだけ自然に見えるよう強張る顔を無理矢理笑顔に変えた。


「い、今だよ?」

「そう?今日はあまりいいオヤツは売ってなかったの?」


 母親の言葉にエナンは、おつかいを頼まれていたことをすっかり忘れていたことに気がついた。だがありのままを話すわけにはいかない。


「それがね、今市場が移動してて、今日は凄い人が多くてお店にすら行けなかったんだよ」


 とっさに出た言葉だったが、嘘ではない。


「そうなの?じゃ、お酒も買えなった?」


 エナンは頷いた。


「困ったわ。何かないとせっかく楽しみにしてるお父さんが可哀相。ワインは諦めるしかないわね。エナン、悪いんだけど、すぐそこの屋台で安いのでいいから何か買ってきてくれる?」


 エナンは分かったと再び頷いた。その店なら家を出て、すぐの目と鼻の先だ。


「お願いね」


 そう言いながら部屋を出ていく母親の後ろ姿を見送ると、何も見とがめられなかったことにほっとした。

 ベットから立ち上がると、ポケットに入れたままのお金を確かめる。一つも落としてはいなかった。

 あのままちゃんと市場に行って入れば、今頃楽しみにしていた新書を読んでいたはずなのに。ちらりと枕を一瞥すると、頭をもたげそうになるあの姿を振り払い、エナンはお酒を買うため部屋を出た。


 家を出てすぐの角にある屋台で安い地酒を買い、それを家のテーブルの上に置くと母親から風呂に入るように言われた。

 熱い湯につかると、いくらか落ち着きを取り戻したが、あえて市場でのことを考えないようにした。


 風呂から出ると父親も帰っており、もう夕食も出来あがっていた。

 エナンは口数も少なく食事をかきこむと、もう疲れたからと言って早々と家族に挨拶をすませ、自分の部屋に引きこもった。


 部屋の中に入ると、窓の向こうはもう闇が広がっていた。しばらくすれば暗闇に目が慣れ、窓から差し込む月明かりの中、エナンはベットに座り込んだ。

 心がなぜか重たい。思わずエナンはため息を漏らした。

 あの人は、まだ生きているだろうか?

 エナンは枕の下に手を入れ、硬い手触りの物を掴むと取り出した。あのままこれが刺さったままなら、目を開けることはなかったのかもしれない。胸から抜かれて、あの人は痛かっただろうか?

 自分のしたことは、何とか生きていたあの人に致命を与えるものだったのではないか。そんな思いがエナンの心に渦巻く。それとも、短剣を抜くことで息を吹き返したのだろうか。

 自分のしたことが良かったのかどうかと何度も同じことばかり考え、それでも答えの出ない自問自答にエナンは嫌気がさした。例えまだ生きていたとしても、これ以上どうしたらいいというのだろう。


「あー!もう、知らない!」


 あとはもう自分の力で何とかしてくれ!そう祈るような思いで吐き捨てると、短剣を机の上の木箱へ放り投げるように入れ蓋をした。

 エナンはベットにもぐりこみ、目をつぶった。

 もう寝てしまおう。明日になれば忘れられる。そう呪文のように唱えながら何とか寝ようと試みた。だが頭は冴えるいっぽうでなかなか寝付けない。

 何度も寝返りをうち、眠ろうと意識を集中させる。そうしているうちにうつらうつらと微睡んだような気もするが、エナンはいつの間にかぼんやりと宙を見ていた。

 部屋の中は差し込む月明かりでぼんやりと薄暗い。窓の外に目を向ければ、星が幾つか瞬いた。

 あの深い緑の瞳も横たわったまま空を見ているのだろうか。そう考えたエナンの頭上には、あの罪人が今見ているのかもしれない煌めく星が広がり、静けさと闇が辺りを包んだ。

 死にゆく自分を感じながら見上げる星はどう映るのだろうか。


  ‘七日もの間、あの寝台の上で、何を考えているのだろうかと思うと……’


 ふいに蘇える“声”にエナンはがばっと体を起き上がらせた。頭をわしゃわしゃと掻き、「くぅ~」と唸り声を上げる。

 このままじゃ変になりそうだ。

 エナンは布団をはねのけ、底が木製のサンダルを履き、羊の皮でできた紐を足首できつく結んだ。安価で丈夫なため、ごく一般に履かれているものだがエナンはこの丈夫なはずの下履きをすぐにやわにするものだから、いつも母親に怒られる。今履いているサンダルも昨日買ってもらったばかりで、まだ足に馴染んでいない窮屈さが胸をもきゅっと締め付けた。

 それでもやはり確かめに行くしかない。良心に攻め立てられ苦しくてしょうがないのは、逃げてしまったからだとエナンには分かっていた。


 そっと部屋を出ると、もうすでに家族は皆眠りについているようで、家の中はすっかり暗く静かだ。

 忍び足で台所に行くと、水や食料を手に取った。衰弱した人間に何をすればいいのか分からなかったが、エナンはないよりはましだと、傷の手当てに使えそうなものや、目についたものは何でも手当たりしだいラクダの皮でできた鞄の中に詰められるだけ詰め込んだ。


「よし!」


 用意は整った。

 エナンは部屋の窓を開けた。昼間より暑さの和らいだ夜の風が肌を撫でる。

 空には大きな丸い月が明るく光り、その下で幾つもの四角い軒並みが連なっている。家々の向こうで、背の高い城壁が影のように浮かび上がっていた。見慣れたはずのその景色がいつもとは違って見えた。

 城壁の上で均等間隔に置かれたたいまつの灯りが小さく揺れている。

 エナンは大きく息を吸い、鞄を窓の外に投げた。草の上に落ちたのか、乾いた音が思ったよりも小さく聞こえた。

 二階建の家に住む友人をひどく羨ましく思っていたが、こういう時は一階建てなのも悪くはない。エナンは足をあげ窓枠に上ると、飛び降りた。地面に着地すると同時に足には硬い感触が伝わり、砂を踏みしめる音がやけに大きく響いた。思わず辺りを見回すが、どの家も明かりは消えたまま何の変化もない。すぐに静けさが満ちていく。

 エナンは身を起こすと、鞄を拾い上げ、肩から斜めにたすき掛けした。しっかりと掛かっていることを確かめると、誰もいない静かな道を走り出した。

 タッタッタッタッとエナンの足音が響く。

 遠くで犬が吠え、フクロウがどこかで鳴いている。

 エナンは無心に、横たわった美しい人の姿を思い浮かべながら走り続けた。



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