曝し人
腐敗しない死体とはどういうことなのか?
エナンは歩きながら考えていた。
“声”は実際に見たわけでもないのに、事実として確信していた。
それほどまでに情報は確かだということなのだろうか。
死体は見たくない。
一度も人の死に直面したことのない少女には、とてつもなく恐ろしいものに思えた。
だが、見たくはないが、聞いたこともない現象が起きていることにエナンは強い好奇心を覚えた。
エナンは今までに、たくさんの本を読んできた。
少なくとも同じ年頃の子供たち以上には。
彼女は物語を読みふけることも好きだったが、世界の冒険家たちの旅行記や史実を何より愛している。狭い町しか知らないエナンには、彼らの探険は胸躍るスリルと自由に満ちたものだった。
いつか自分も冒険への旅へ出る。そして未踏の地や民族、財宝を見つけたい。
それがエナンの夢だ。
彼らの本を読むたび膨らむ胸を満たすため、度々友人たちを引きつれて、あるいは一人であっても町中を探検という名の下に散策し、悪戯し、駆け巡っていた。
それでも死んだ後に生き返ったという類いの話しはあっても(もちろんこれには薬や仮死状態という「仕掛け」なるものが存在したのだが)、何の処理も施されていないのに眠ったような状態のままの死体に出会ったという経験をした冒険家たちは、エナンの記憶のなかではいまだかつてない。
もしかすると自分は、彼らがまだ出会ったことのないものを発見できるのかもしれない。
そう思うとエナンは居ても立ってもいられなくなった。
エナンは引き返して戻ることにした。
幾分遠回りではあるが、知り尽くした道なき道を行けば、あの蠢く人の海を避けて広場に向かうことはできる。
さっきの失敗を繰り返さぬようエナンはこれまでの「探険」を生かし、人の庭先や枯れた排水路を通って処刑台のある広場近くまで舞い戻った。
先程の倍以上の時間をかけ広場へ続く道に出た時、真上にあった太陽は少し傾いていた。
あと数時間もすれば日没だ。
辺りを見回しても、やはり誰もいない。道の両脇に続く屋台も空っぽだ。
まだまだ照りつける太陽の暑さに、道の向こうに見える処刑台がゆらゆらと揺れている。
まるで誘われるかのように目を凝らせば、「彼」はそこにいた。
エナンは一歩、また一歩と足を進める。
額から大粒の汗が噴き出た。
静かな市場には、エナンの足が砂を踏みしめる音だけが響いている。
太陽にさらしている肌が痛い。
何もかぶっていない髪は、触れると火傷しそうな程熱くなっていることだろう。
処刑台の上に人が横たわっていることがはっきりと見て取れる距離まで近づくと、エナンは足を止めた。
木材でつくられた何の飾りもない祭壇のような場所に、白い物体が寝かせられている。
あれが曝し人だろう。しかしまだはっきりとは見えず、どんな姿をしているのかエナンには分からなった。
赤いものは見えないよな?
離れた場所からでも分かるほど血がついていたのなら、見るのをやめようと思っていたのかもしれない。そんな自分に気がついて、エナンははっとした。
自分は好奇心で死んだ人を見ようとしている。殺人を娯楽とする街の人と同じじゃないかと。
一番おぞましいと思っていた事を、いつの間にか自分も同じことをしようとしている。
後悔の念に襲われ、エナンは引き返そうと慌てて身を翻した。
その時。
「っ・・・・・・」
微かだがうめき声のようなものが聞こえ、エナンは足を止めた。
まさか、ね?
空耳だと思い込もうとするも、曝し人は生きているかもしれない、そう告げた“声”が蘇える。
まさか、本当に生きているのか?
思わずエナンは再び後ろを振り返った。
さっきと何も変わらない、壇の上に横たわる白い人影。
ごくり。唾を呑みこむ音がやけに大きく聞こえるのをエナンは感じた。
まさか。そんなはずは、ない。
だが、炎天下に一週間も曝されたにしてはおかしかった。
この暑い日差しの下、数時間生肉を放置していれば異臭がするというのに。
エナンは迷いながらも、胸の中で騒ぎ立つものに追い立てられ、ゆっくりと踏み出した。
それでも曝し人を直視することはできず、エナンは俯いて自分のつま先を見ながら進んでいく。
空には小鳥の鳴き声が響き、わずかな風が汗ばんだエナンの首を撫でつける。
エナンは何て穏やかな日なんだと思った。すぐ近くに死体が横たわっていることが不自然なほど。
一歩、また一歩と曝し人へと近づくたび、鼓動が早くなっていく。
どくり、どくりと心臓が飛び跳ねているのが服の上からも分かる。
俯いた視線の端に、むき出しになった寝台の端の部分が見えていた。
エナンは足を止め、目を瞑った。
息を深く吸い込み、ゆっくりと吐きだしながら、汗でぐっしょり濡れている両手を握りしめる。
顔を上げ、恐る恐る目を開けた。
「!」
その瞬間、エナンは頭に痺れのようなものが走るのを感じた。
胸の高さまである囲いのない木製の寝台。そこに横たえられている一人の人間。
上等なミルクより白い肌は、所々茶黒く変色した血で汚れてはいるが、その下ではまだ熱い血が流れているかのように滑らかでうっすらと桃色がかっている。
絹のように緩やかな線を描く長い髪は、砂ぼこりにまみれてもなお黄金色の美しさを残しており、完璧なまでに計算され掘られた彫刻よりも整った顔は、男にも女にも見え、どちらでもないように思えた。
「き、れい・・・・・・」
口から感嘆が漏れていることすら気付かないまま、エナンは見入っていた。
吸い寄せられるようにおもむろに近づいて行く。
露わになっている平たく筋肉質な胸元には、柄に達するまで短剣が深々と刺さっている。もしもそれがなければ、まるで本当に眠っているかのようだ。
エナンは小さい頃読んだ、おとぎ話を思い出していた。
きっと眠ったままの美しいお姫様を見た王子は、自分のように驚き、そして抗えない魅力に惹きこまれたのかもしれないと。
物語では、王子が姫の指に刺さっていた毒針を抜きとると姫は目を覚ました。
エナンはもしかすればと思った。毒針のように、この短剣を抜きとればこの人はまた息を吹き返すんじゃないか。そんな考えがよぎる。
「なんて、ね?」
馬鹿な考えだと笑ってしまったその時。
短剣が僅かに上下したように見えた。
だがそれは気のせいだと言われればそうかもしれないと思える程度のもので、エナンは目の錯覚なのか実際に動いたのか自信が持てずにいた。
だが、見れば見るほど生きているように思えてならない。
やはり、生きているのか?
エナンはさっと辺りを見回してみる。
城壁にも門にも、見張り兵の姿はどこにもない。
ここには、自分とこの男だけ。
恐る恐るエナンは右手を伸ばす。
わずかに震えながら短剣の柄を掴んだ。
硬くざらついた無機質な感触が、手の平に触れる。
ぎゅっと力を入れて握りしめると、短剣の確かな感触が決意を固めていく。
エナンは左手を、右手の上から柄を握った。
力を入れ、思いっきり引く。
思っていたよりも簡単に、何の抵抗もなく短剣はすっと抜けた。
あまりにも容易く抜けたせいで、エナンは自分の力の反動で後ろへ少しよろめいた。
だが男は何も変わらなかった。その表情も変わることなく、今だ眠っているようだ。
胸元には短剣が抜けた代わりに、刃の形をした傷口ぱっくり開いている。
そこから白い肌の上に赤々と毒々しい血が溢れた。
たらりと筋をつくり、ゆっくりと脇腹へ流れていく。
色鮮やかな血が自分のせいで流れたのだと悟った時、エナンは急に恐ろしくなった。
短剣を握る両手が、がたがたと震えだす。
「ごめ、ごめんなさい」
エナンは思わず、横たわる人の顔を見た。
閉じられたままの長い黄金色のまつ毛に縁取られた目。おそらく、ここに横たわる前に飛び散ったのであろう血の汚れが頬や額までついていた。
血が通って見えたのは気のせいだったのだ。桃色のように見えた頬は、今や蒼白で、まるで人形のように微動だにしない。
彼はやはり、生きてはいないのだ。
そう思った刹那。
ぱちりと音が響くかのように、閉じられていたはずの瞼が開いた。
「ひっ!!」
驚きのあまりエナンはのけ反り、尻餅をついた。
い、生きてる!?
全身に鳥肌がたち、頭が真っ白になったエナンは、訳も分からず一目散に駆け出していた。