誘う声
「エーナーン!」
優しい面立ちをした美しい女性が、声を張り上げて叫んでいる。
彼女は部屋の入り口にある深緑色の垂れ幕をくぐりぬけた。
土色の狭い部屋。壁をくりぬくいて作られた窓から、太陽がスポットライトのように差し込んでいる。
床は本や衣類などが散乱しており、木製の机の上には使われた食器が放置されたままだ。
「エナン?あら、この子まだ寝てるわ」
あきれてため息をつきながらも、母親は笑った。
窓と向き合う位置に置かれたベット。そこにエナンと呼ばれた少女は寝ていた。
男の子のように短く切られた黒髪。布団からはみ出した四肢は、香ばしい匂いがしそうなほどよく焼けている。
「エナン!」
母親は物を踏みつけないよう気をつけながら部屋を横切りベットに近づいた。
うつぶせに寝ているエナンの顔に、窓から差し込む光が直撃している。
眩しさからか苦悶するように眉を寄せたそのは険しかった。
それでも目を覚まそうとはしない。
また夜遅くまで本を読みふけっていたのだろう。
母親はエナンの足をどけながらベットに座った。
「エナン、もうお昼過ぎよ?いい加減起きないと、目が腐っちゃうわよ?」
からかうように揺さぶる。
「ん―」
少女は眠りを妨げる母親へ抗議のうなりをあげる。
「ねえ、エナン。起きて?今から市場へおつかいに行って来て欲しいんだけどな?」
またエナンを揺さぶる。
何も反応はない。
それでも母親はじっと待っていた。
わが子を起こすには時間と辛抱が必要だと彼女には分かっていた。
長い間をおいてから、エナンは体をゆっくりと寝返らせた。
うっすらと目をあける。だが、光が眩しいのか、また閉じる。
片手をおでこの上にかざすように乗せた。
「今……から?」
まだ眠っている喉をゆっくりと動かす。
「そう、今から。早く行って来てくれないと売り切れてしまうもの」
母親は元気よくそう言った。
「な、に……買っ、て……きたら……いい……?」
「ママたちが飲むワイン!」
母親は茶目っ気っぷりに言った。
そんなものをわざわざ買いに行かされるのか。
エナンは起きるおっくうさを考えると、自分には関係のないお酒のためだけに暑い外へ出掛けるのは嫌だった。
しかし、母親直々の頼みだ。
母親の機嫌を損ねる怖さと起きる面倒臭さのどちらかを選ぶとしたら、もう答えは決まっている。
「わかっ……た……」
エナンは、ふーと息をつきながら、上半身をのっそり起こした。
「五百カレッラあげるから、ついでに何か好きなもの買ってらっしゃい」
そう言うと母親はエナンの頬にキスをした。
五百カレッラで何を買えるだろう。
エナンは頭の中でぼんやりと計算しながら、首をゆっくりと母親の方へ向けた。
まだ覚めぬ目がニコニコと嬉しそうに笑う母親をとらえる。
その瞬間、両手を広げ母親にとびついた。
エナンは深呼吸して肺いっぱいに母親の香りを吸い込み、その頬にこれでもかと言わんばかりにキスをした。
大好きな優しい匂いが肺いっぱいに広がる。
「エナン、ほら早く支度して?夕方までそんな時間がないんだから」
眠気眼のまま抱きついている我が子に、母親はまたキスをした。
それはエナンのいつもと変わりのない朝の(いや既に正午を過ぎていたが)光景だった。
「行ってきまぁぁす!!」
家中に響く声を残し、エナンは勢いよく家を飛び出した。
家の中から母親が何かを言っているようだったが、きっと何かまた別の用事を頼むに違いない。
これ以上面倒なことにならないよう、エナンは聞こえぬ振りをし外へ駆けだした。
もう彼女の頭の中はほかの事を割り込める余裕がないほど、出かける楽しさでいっぱいだった。
暑い日差しがなんだか気持ちいい。
久しぶりに外に出たためか、一段とエナンの心は湧きたった。
普段は走り回って遊んでいるエナンだが、学校も今は夏休み。そうなるとそのほとんどは家の中で本を読んで過ごしている。
今日も母親に頼まれなければ昼間まで眠りほうけているか、目が覚めてもひたすら本を読み漁っていただろう。
五百カレッラか……。
おやつを買うのもいいよな。
そういえば、本も買わないと。あれ、発売日とっくに過ぎてるんだし。
あー、なんだか、うずうずする!
天気の良さが、いっそうエナンの心を弾ませる。
太陽がきらきらと降り注ぎ、真っ青な空が何処までも広がっている。
何かいいことが起こりそうだと、そんな予感をエナンにもたらした。
市場に着くと、あまりの人の多さにエナンは絶句した。
いつにも増して市場の大通りは、あり一匹分のすきもないほどに人の頭が蠢いていてた。
「うわー、すごい人だかり……」
だが、おやつのため、本のため、エナンは覚悟を決め、水の中へ飛び込むかのように大きく息を吸い、人混みの中へ一歩踏み出した。
その瞬間、体臭にまみれた熱気と四方から押される力に襲われ、エナンは思うように動くことができなかった。
必死にもがいても顔すら思うように動かせず、同じように無我夢中の大人たちが我先にと周りを押しのけながら進んむ。
エナンは押し潰されないよう身構えることで精一杯だった。
「く、苦しい……」
泣きそうになりながらエナンは必死に耐え、人の流れのままに身を委ねるしかなかった。
後ろに前に押され、潰され、またどこかへ流されていく。
まるでこねくり回されているパン生地のようだと思いながら、足を踏み入れたことを後悔していた。
ぽんっと弾かれるようにしてやっとその蠢きから抜け出せた時には、体中の空気が出そうになるほど安堵のため息が漏れた。
「今日はなんでこんなに人が多いんだ?」
呟きながら辺りを見回すと、エナンは直ぐに自分が城壁の側へ来てしまっていることに気がついた。
辺り一帯は屋台が隙間なく密集し、ベニヤ板や垂れ幕の屋根がどこまでも続いている。
それにもかかわらず人の気配が全くなかった。
普段、城壁側の市場へ出かけたことがなくても理由はすぐに思いつく。
公開処刑があったんだ!
エナンは背筋が逆立つのを覚えた。
城壁側の市場は、公開処刑や曝し人が出るたび活気づく。
だが見世物が終わり、死体の状態が酷くなれば店も人々も中央広場へと移動する。
だから中央広場での市場はやけに人が多いのだと気がつき、エナンは自分の愚かさに嫌気がさした。
あの人の多さだ。きっと今回も相当な状態になっているのだろう。
「やばっ!戻らなきゃ」
そんなのは絶対に見たくないと、エナンはすぐに引き返そうと後ろを振り返る。
だが抜け出せたばかりの人の海が蠢いているのを見ると、再び飛び込む気力はすぐにどこかへ消えうせた。
どうすれば戻れるのだろうか。
エナンは無人の屋台群を見渡した。
炎天下の中でも風があるのか、軒並みの垂れ幕が揺れている。
「おお!?」
その時エナンはひらめいた。
屋台の中を通ればいいのだ。何だ、簡単なことじゃないか。
エナンは自分の思いつきに拍手しながら辺りを見回し、自分を見ている人間がいないか確認すると手前のテントの中へと入った。そして続く隣りの店にもぐりこみ、また次の屋台へ、またその次の店の中へと進んでいく。
中は日差しが遮られ涼しく、人ごみに押し潰されることもない。
まさに快適な帰路。
このまま城壁と反対の方向へ進んでいけば、いずれは市場を抜けることができるはずだ。
そうなれば少し遠回りにはなるが、人混みにもまれることもなく家に戻ることができる。
もちろん、悪戯なエナンとて普段はこんなことはしない。
だが今は、どの店もほとんど物品が置かれていない無人状態だ。
万が一見つかっても、大して怒られはしないだろう。
「楽ちん、楽ちん」
エナンはのんきに、次の屋台の垂れ幕の中に頭をくぐらせた。その時、
「この店に、何かご用ですか?」
突然、どこからか男の声に呼び止められた。
エナンはびくっと驚いて体を硬直させた。
人がいることなど夢にも思わなかったのだ。
店の者か?怒られるのか?
激しく打つ自分の鼓動を感じながら、エナンは冷や汗をかき始めた。
「今は罪人の衆前曝し期間ですから、市場は中央の方へ移動してしまっているのですよ」
男の声には、咎める響きはなかった。
それどころか、柔らかな物言いと穏やかな声質に心地好さを覚える。
エナンはほっとしながら、声の主がどこにいるのか目をきょろきょろとさせた。
他の店よりすこし大きい作りになっているそのテントの中は、ひときわ光を遮断しており、影が色濃く満ちている。
ぎらついた太陽の光に慣れていた目には、店の中が暗闇にしか見えなかった。
目を凝らしてみても、声の主がどこにいるのかまったく分からない。
だが、奥の方で人のいる気配がした。
その方向にむかって、何とか人影を捕らえようとエナンは目を細めた。
「ええと、あの、誰もいないと思って、その、通り抜けようかと……」
エナンがごにょごにょと言葉を濁しながらそう言うと、”声”はくすりと笑った。
「ああ、驚かせてしまいましたね。実は私も店の者ではないんです。この場所を拝借して涼んでいたところに、あなたがやってきたものですから。もしかしてこの店の方ならどうしようかと、内心焦っていたところです」
もしそうなら一目散で逃げるつもりだったと、悪戯気に”声”は言った。
「だから安心してください」
エナンは安堵が広がるのと同時に、”声”から伝わる品の良い雰囲気に好感を持った。
「ありがとう。でもわたしも驚かせてごめんなさい。すぐに出ます」。
エナンが“声”に背を向けようとしたとき、「もしや」と声をかけられ、再び振り向いた。
「あなたも、ご覧になったのですか?」
エナンは首をかしげた。
「何をですか?」
「ハール、です」
“声”は大切な言葉を告げるかのように強調して言った。
「はある?」
だがエナンにはその言葉が、一体何を意味するのかさっぱり分からない。
「今、罪人として曝されている者の名です」
予想もしなかった答えにエナンは言葉を失った。
それを察知したように“声”は続ける。
「お気を悪くされたのなら申し訳ありません。ただ、こんな時期にこちらに来られるというのは、珍しいと思ったものですから」
誠実に謝る“声”の言葉を聞きながら、そう思うのも無理はないとエナンは思った。
「ただ買い物をしに来ただけで、その……今がそんな時だって知らなくて。ここに来て初めて気がついて……」
自分の無知さを人に告げるということに幾分恥ずかしさを覚え、エナンは言葉を濁した。
「そうでしたか。実を申しますと、私は……」
“声”は、話すべきかどうか思案するように、しばし沈黙した。
だが、すぐに言葉を選びながらゆっくりと続ける。
「彼が、ハールが、不思議な力で覆われた神々しいまでに美しい死人だ。そんな噂を耳にして、一体どういうことなのか調べたかったのです」。
つまりは、その噂を確かめるために曝し人を見ようとここへ来たのだというか。
エナンがそう思っているのを見透かしたように、“声”は一呼吸置いてから続けた。
「世の中には説明できない不思議なことがたくさんあると言いますが、実際、目にすることができる者は一握りだけ。だが好奇心は身を滅ぼすこともあれば、時に世界を変えることもある。だからこそ、私は噂ではなく真実を、この目で確かめたかったのです」。
“声”は、自嘲気味にふっと笑った。
「あなたは曝されている遺体が、時間の経過と共にどうなるかご存知ですか?」
エナンはもちろんだと答えた。
生まれてこのかた、エナンはずっとこの町に住んでいるが曝し人を一度も見たことはない。
母親が、そしてエナン自身がそれを望まなかったからだ。だがそれでも死んだ人間が熱い直射日光の中、長時間放置され続けるならどうなるかぐらいは知っている。
「ですが、死後7日経った今でも、彼の体は少しも腐敗していない」
”声”はまるで自分に言い聞かせるかのようにそう言った。
だがエナンは耳を疑った。
「腐っていない?」
「はい。まるで、生きているかのように。いえ、もしかすると彼は生きているのかもしれない……」
「えっ?」
エナンはさらに耳を疑った。
「ど、ど、どういうことですか?」
驚きのあまりどもってしまったエナンに、“声”は穏やかに、そして確信をこめて答えた。
「死んだ人間が何の処置もされぬまま、朽ちないでいるなんてことはありえません。自然の摂理に反する。ですが、現に多くの人が彼の体は今だ生きているようだと証言している。だとすればそのままを、つまり、生きていると考たほうが彼の身に起きていることの説明がつく。そう思いませんか?」
「だ、だけど、みんなの前で処刑されたんじゃ?」
「いいえ。彼は門から出された時、すでに死んだ状態だったそうです」
「でも死んだふりだったら、そんなのすぐにバレるだろうし。もしも生きてるんだったら、どうして逃げないの?」
エナンは思わず詰め寄るような声を出した。
「その通りです。だから私は彼が本当に死んでいるのかどうか、真実をこの目で確かめたかった。ですが……」
姿は見えないのに、エナンにはなぜか“声”がうな垂れていくのが分かった。
「見張りの者に見つかり、彼に触れるどころか近づくことすらできないまま追い返されてしまった。無念で仕方ありません」
悔しげな溜め息が、布張りの壁に響いた。
「彼は罪人として曝されている身。どちらにしろ、私にはなす術がないことは分かっているのです。ただ……ただ、ハールが万が一にも生きているのなら、七日もの間、あの曝し場で何を思い、何を考えているのだろうかと想像すると居た堪れなくなる」
“声”にはどこか悲しみがにじみ出ていた。
もしかすると“声”の主はハールと知り合いなのではないか?エナンはふとそう思った。
「まだお若いあなたに、変な話を聞かせてしまいましたね。申し訳ありません」
「そんなことは……」
エナンは何か言おうと思ったが、何をどう言えばいいのか分からなかった。
「それに急いでおられた様子。私はもう少しここで休んでいきますから、どうぞお先にお行きください」
エナンはなんとも言えないもどかしさを感じながら、残る理由も見当たらず、”声”に一礼した。
垂れ幕から外へ顔を出すと、照りつける日差しが目を突き刺すように眩しい。
と、生温かい突風がテントの中へ吹き込み、砂埃を巻き上げた。
エナンは思わず目をぎゅっと閉じる。
『彼を助けてください』
そんな言葉が聞こえたような気がした。
「え?何か言いました?」
エナンは“声”の方を振り返った。
だがさっきまでいたはずの気配は消え、その場所は真っ暗な影だけだった。