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あめおんな

作者: まめ太


「うん、大丈夫だから。大丈夫。心配ないよ。もう気にしてないって言えば、嘘になるけど……。」

 友達からの電話には判で押したみたいに何度も同じ言葉を繰り返している。わたしは大丈夫だと。かなり手厳しい恋の終わりを経験したわたしを心配して、代わるがわるで友人たちは電話をくれる。よくある結末だと思うのだけど、自分で思うより堪えているのかも知れない。知人たちにここまで心配されるくらいには、落ち込んでいると見えるのだろう。

 確かに、頭ではこの現状を理解していても心は納得していなくて、つい昨日までは泣き通しだった。見えてきた本当の事が、あまりにも夢見ていたものとはかけ離れていたから。優しい男の優しさを他の女に取られたら、残ったものは男の身勝手な棄てゼリフだけだったから。薔薇色の人生を無邪気に信じていたわたしに突き付けられた無情な現実という奴だろうか。

 引っ越したばかりの賃貸マンションの一室が、そんなわけでひどく陰気に目に映っていた。


『新しい部屋はどうなの? 少しは気分転換になってる? 今度、皆でお邪魔しに行こうかって相談してるんだけどさ、それまでに荷物は片しといてよね。』

 笑い声が受話器の向こうからこぼれる。無理に明るい話題を振ってくれて、やっぱり気を使ってくれているのが声の調子だけで解かってしまう。見えもしないのに何度もわたしは頷いて、引き攣るような笑みを唇に浮かべて、ついでに涙も両目に浮かべてしまう。今は誰かの何気ない優しさでさえ心を直に叩く。

 見回した室内は陰気な夕日を赤く宿して、赤黒く染まる四方の壁は汚れた体内のようで、心がおぞ気立って落ち着かない。段ボール箱の積み上げ方までがなんだか無造作で、要らない物が投げ込まれた廃墟みたいだった。廃墟の中でうずくまる棄てられ女がわたしだ。

 壁の一つにぴたりと貼りついて小さくなるわたしを、残る三つの壁と天井とが黙って見下ろしている。わたしが見返すと、ぐにゃりと歪んでせり出してくるそれらは、わたしを取り囲んでじわじわと近寄ってくるように見えた。わたしを押し潰そうとしているんだ。また少しにじり寄ってきた前方の壁に遠慮して、わたしは足を抱え込んだ。

 耳に押し当てた受話器から聞こえてくる、知っている人の優しい声だけが今のわたしの味方だった。明るさを装う笑いの混じった音声には、わたしを温めようとしてくれる気遣いが滲んでいる。その温度がじわりと部屋にも広がって、迫ってくる壁を押し戻してくれていた。

『明日、二限の授業は出てくる? 一緒にお昼食べようよ。大学の近くに美味しいカフェ見つけたからさ。絶対に出て来なさいよ、モーニングコールで叩き起こすからね。』

「解かった。ありがとう、ちゃんと明日は出るから。単位落としそうだもん、ちゃんと出るって。」

『そうよ、レポートもまだでしょ? 今夜は徹夜で上げて来なさいよ! じゃあね。』

 電話が切れる。ツーツー、と電子音が静かな室内ではよく響いた。床に直接で置いた電話に受話器を戻す。会話が途絶えると、この部屋は静寂に包まれてしまった。何の音も聞こえてこない、外からの音も、内側の音も。またじわじわと狭まりだした四方の壁に追いやられるように、わたしは立ち上がって慌ててこの部屋の明りを燈した。

 部屋が明るくなると、迫ってくるような圧迫感も消えた。四方の壁も元通り、少し離れてそっくり返っている。窓の外は暗闇を映し、よほどに防音がいいのか、耳を澄ませても音はなかった。

 以前とは違いすぎて戸惑ってしまう。前に住んでいた場所は、下町のごみごみした通りに建つ安いアパートだったから、隣近所の住民が立てる生活音も、窓の外に広がる街の喧騒も、煩いくらいに賑やかだったのに。ここは随分と寂しい。


 閑静な住宅街の、築十年ほどの賃貸物件を見つけられたのは幸運だったけれど、そこまでで運を全て使い果たしてしまったのかも知れない。彼とあんな別れをする事になったのは、そのせいかも知れない。色んな事柄が、考えても考えても、すべて彼との別れに関連付けられていく。その度に、彼に捨てられた事がわたしには酷い衝撃だったのだと気付かされる。忘れていたい理由を思い出す。惨めな気分になる。

 床をねじくっていた手を洗おうと思い立つ。掃除も行き届いていないのに、わたしはもう長時間立っている気力もなくて、ずるずると床へへたり込んで電話を床に仮り置きにしている。お蔭で、履いていたジーンズもシャツも手足も細かな埃で白く汚れた。この物件の管理会社が一応の掃除はしてくれているだろうが、拭き掃除まではサービス外のようだった。

 前の住民が綺麗に住んでいてくれたのか、キッチン周りは清潔だった。錆もないシステムキッチンに、真新しくピカピカに光る蛇口。最近に付け替えたのか、新品みたいだった。シンクも綺麗で、コンロも換気扇も油汚れ一つ見えない。充分に満足のいく新居のはずなのに、心は晴れなかった。明りを落としたキッチンも、居間と同じでどこか陰気に感じて憂鬱だった。

 手だけ洗うより、いっそお風呂に入ろう。気が変わって、わたしは回れ右でキッチンを出る。気が変わっただなんて、ただの言い訳かも知れない。憂鬱さがいや増して、手を洗うことさえ億劫になっただけかも知れない。廊下もトイレも風呂場も、この部屋はどこもかしこも陰気に思う。明りが点いていないからか、夕闇がそろそろ黒くなり始めているからか、墨色に染まったマンションの一角は海の底みたいに冷えびえとして、空気が重苦しかった。

 水族館で泳ぐ魚の気持ちで廊下を進んで行く。貼りつくように重い空間を掻き分け掻き分け、ようやくバスルームの扉にタッチした。お風呂も清潔なまま、少しだけ古いタイプの浴槽が目に飛び込む。やっぱり蛇口だけは真新しい物に変えられていて、シャワー器具はピカピカだった。

 明りを燈す。オレンジ色に包まれて、バスルームは温かみのある空間に変化した。無性に悲しくて、浮かんだ涙がその景色をすぐに歪めた。明日、髪を切りに行こうと思った。


 朝の目覚めは友達が宣言していたモーニングコールからだった。

『もうっ、寝坊助ねぇ。何回、コール音が鳴ったか解かってるの? 18回だよ、18回。』

「ごめんって。ちゃんと起きたから、もう大丈夫。今朝は良い目覚めよ。ありがとう。」

『遅刻しないように出てくるのよ。いつもの所で待ってるからね。じゃあね。』

 まるで母親みたいな事を言って、彼女からの通話は切れた。ベッドの横手にある大きな窓から朝の光が差し込んでくる。すがすがしい朝。なんだか直前まで夢を見ていたような気がするけれど、夢の内容は思い出せなかった。ふいに、指の感覚がおかしいと感じた。

「やだ、なにこれ、」

 指が動かしにくいと思ったら、髪の毛が一本、人差し指と中指に絡まっていた。夜中に抜けて絡んだのだと思う。いい加減、伸びた髪の毛は鬱陶しさを感じ始めていたから、この事で余計に嫌気が増した。午前中にマンションを出て、美容室を探してみよう。食い込むくらいに巻き付いた髪の毛は、縛り上げるような執拗さで、なかなか外れない。駅前の商店街の店をあれこれ思い浮かべながら、髪の毛を爪先で引っ張ってみたりを繰り返す。苛立って、結局は鋏で切った。

 ここ最近は本当にツイてない。溜息で、切れた髪の毛をゴミ箱へ捨てる。ひらりと舞った黒いひと筋は、ゴミ箱の中には納まらずに床へと落ちた。それを見て、ささくれ立つような苛立ちが打ち寄せた。



 支度を終えてマンションを出る時にもちょっとした出来事があった。玄関のドアを開けると、お隣さんがちょうど通路を掃除している最中だった。おはようございます、と挨拶を交わし、ついでに一言二言とたあいない天気の話を交えた。

 わたしは愛想笑いと相槌に気を割いていて、お蔭で戸締りの動作に手間取ってしまっていた。まだ近隣住民とは遭遇したくなかったのに、予定外だった。越してきたばかりで、あまり話をしたくはなかったのに。何を話せばいいのか解からなくて困るし、この緊張感に耐えるだけの心構えもまだ出来てはいない。

「あの、あなた、昨日、お隣に越していらしたのよね?」

 遠慮がちな言葉と、何かを探る眼差しでお隣さんはわたしの顔を見た。何かを訴えかけるような、それでいて秘密を隠してこちらの反応を楽しんでいるような、そんな微妙な笑みがお隣さんの中年女性の顔には浮かんでいた。

「昨日、お荷物が来てたみたいだけど。それで、あの、昨夜はお泊りになったのよね? ああ、昨夜は晴れていたし、何もなかったんじゃないかとは思うんだけど。何か、気になることとか、ありませんでした?」

 ねっとりとした口調、厭らしく細められた両の目が、言いにくそうにしながら何かを言おうとしている。それでいて意地悪な口元は、理由を話す気などさらさらない事を教えていた。彼女の視線が下を向いた拍子に、わたしもまた発見してしまった。お隣さんとわたしの部屋の境界線あたりに置かれた白い小さな丸皿には、綺麗に盛りつけられた塩の塊が乗っていた。

「ごめんなさい、おかしな事を聞いちゃって。何もなかったならいいの。本当にねぇ、おかしな事を言うおばさんでごめんなさいねぇ。」

 何か都合の悪い物を見られたとばかりに、お隣さんはそそくさと会話を切り上げに掛かった。ほうきと塵取りを持ち直し、慌てた素振りで自分の家の玄関を開けて中へ入っていった。なんだか気分が悪い、何か言いたい事があるなら言えばいいのに、と腹立たしかった。


 しん、と静まった朝のマンションの廊下。喧騒は遠く、朧に色んな音が混じりあって微かに響いている。誰かの泣き声と自転車か三輪車の車輪が軋む音も、ずっと向うで起きている出来事のように遠い。子供の笑い声がとても遠くから響いた。マンションは閑静な住宅街に建っているけど、街のあらゆる音が雪崩れて来るかのように、玄関通路は密やかに騒がしかった。幻のように微かな音が遠く滲んでいる。

 廊下の柵ごしに見た空は、落ちて来そうなほど低く、雲が垂れ込めていた。傘を忘れないようにしないと。きっと今日中に一雨くるだろうと思った。マンションのロビーを出た辺りで、すでに小粒の雨がぽつぽつと降り始めていた。バス停はすぐ正面にあるけれど、バスは遅れているようだった。時刻表ではもう見えてこないといけない時間なのに、マンションの前を横切る道路には車一台通りはしなかった。

 誰かがわたしを見ている気がした。振り返ってみたけど、誰も居なかった。嫌だ、気持ち悪い。あのお隣さんが悪い、先ほどのやり取りを思い返して一層気分が悪くなった。バスの遅れは日常茶飯事なのだろうか。どんよりとした低い曇り空と、当てにならない時刻表と、自身の腕時計とを交互に見比べる間にも、どこかからねっとりとした視線がわたしを見つめているような気がして落ち着かなかった。



 髪を切り、その足で大学へ向かい友人たちと合流。ひと時、嫌な事を忘れて楽しく過ごした後には独り、電車に乗って寂しく帰路に着く。結局のところ、バカ騒ぎもただの気休めで、何の解決にもならなかった。時が解決してくれるからと。それまでは毎日でも付き合ってあげるからという、友人たちの言葉に救われなければ、きっとこのまま電車に揺られていつまでも環状線をぐるぐると回っていただろう。

 この憂鬱は、棄てられ女の惨めさだけのものではなくなっていて、せっかく替えた新居までがわたしの期待を裏切って、何か曰くありげな予感がしたからかも知れない。結局のところ、わたしの運の悪さが彼にあの女を引き合わせたのかも知れなかったし、あの気味の悪い部屋を引き当てさせたのかも知れなかったし、当面の問題は、今ではあの部屋に戻ると考えるのさえ憂鬱で仕方ないという事だった。

 気分が少しでも晴れたのは、結局、友達と飲んでいる間と、髪を切った後の自分を鏡の中に発見した瞬間だけだった。


 電車を降りて、バスに乗り、最寄りのバス停を降りてすぐに見える新居のマンションは、やっぱり静かな街並みの中で黙ってわたしを出迎えてくれた。昼過ぎ頃には雨脚が強まり、曇天の空は、夕暮れ時にはすっかり日を隠して、街を夜の暗さに染めている。銀糸のように、降り落ちる雨の粒だけが白く光って、他はすべてが黒い景色に沈みこんでいた。

 電車とバスを乗り継ぎ、アーケードの商店街で用事を済ませた頃には、普段でも真っ暗になる時刻になっていた。駅から商店街までの短い時間だけ差していた雨傘は、さほど濡れてはいなかった。交通の便が良いから、わたしも雨の被害に遭わずに済んでいる。残る機会はマンション前のバス停からロビーまでの距離だけで、これも少し雨脚が緩んだ今ならさほど心配は要らないと思えた。バスを降りる際で傘を差し、わたしはマンションのエントランスに向けてゆっくりと歩き出した。

 ふと、今朝の会話を思い出したのはこの時だった。境界線に置かれた丸い皿。お隣さんは、雨の日ではないから、なんだと言っていたっけ。傘の隙間から、どんよりと黒い雨雲を見上げた。

 お隣さんの、好奇の目が思い出された。閑静な住宅街の、立地条件にしては破格の家賃の部屋だった。いいや、何か問題があるなら告知義務があるはずじゃない、と自身に言い聞かせた。真新しく替えられた洗面台やキッチンの蛇口と、風呂場のシャワーは、なぜだったんだろう。まさか。今朝は思いもしなかった懸念が、唐突に湧き上がってきた。

 濡れるのも嫌でしぶしぶと潜ったマンションのロビーは、わたしの他には誰も居なくて、心細さは募るばかりだ。誰かが一人でも居てくれたら、少しは気が紛れるのに。

 陰気なマンションホール、大理石は模造品で全体は暖色系に纏められているのに、やけに冷たい感じがした。ガラス張りの玄関ホールの向こう側にある外界は、墨色に塗りたくられている。雨にけぶる街並みと、ぽつんと佇むバス停の標識。ずぶ濡れの木製ベンチが雨を吸って黒く染められている。外灯が一つきり、三角に切り取った陣地を懸命に照らしている。陰気な景色だった。

 わたしは逃げるように足を速め、ロビー奥にあるエレベーターへ向かった。何度も住居の階数ボタンを押して、催促するように登りのボタンを叩いた。得体のしれない不安が背中を這い登るようで、ここに居るくらいなら、あの部屋の方がずいぶんとマシだと思っていた。


 ベルの音が鋭く、短く鳴る。到着を知らせる音と同時にエレベーターのドアは開いた。

「すいません、」

 さっ、と後ろから影が走り込んでわたしの乗った箱内に飛び込む。眼で追うと、それはずぶ濡れになった男性だった。竦み上がるような恐怖の感覚は、彼のお蔭で少しだけ和らいだ。けれど、それは本当に一瞬だけの事で、またじりじりと不安が心の隅から沸き出してくる。ぬぅと立っているこの男性をわたしは見知ってなどいない。

 彼は、全身がずぶ濡れになっている様子だった。足元には小さな水たまりが出来ている。傘も持たずに出かけていたのだろうか。天気予報は朝から、今日は雨が降ると自信満々で言っていたのに。男性は目深に野球帽をかぶり、少し俯いてそれきり無言を通している。

 誰かと行き会わないかと願っていたのが嘘のように、わたしの心は落ち着きを失った。見知らぬ男と狭い箱の中で二人きりだ。嫌な感じ。お互いに目が合わないように俯きあって。エレベーターの速度が遅いと感じているのは多分、わたしだけじゃない。

 わたしが降りる階の真下の階を、男は指定してボタンを押した。しばらくの間、無言の気まずい空気が流れた。到着階を示すランプが、それでもこの時間は確実に終わるのだと教えてくれている事が救いのように感じていた。

 軽い振動の後にドアが音もなく開かれると、男は箱の外へ踏み出した。三歩進んで、こちらを振り返った。口元は最初から最後まで動くことなく、一言も発しなかった。エレベーターが閉じる瞬間まで、男はまっすぐにこちらを向いていた。嫌な感じがする。こちらからは見えない帽子の下の目が、何を観ていたのかは解からなかった。

 わたしは帽子をじっと見つめながら、手は焦った調子で開閉ボタンを懸命に押していた。ほんの数秒、それなのにまるで数十分もの間、男と見つめ合っていたような気がした。

 エレベーターは無音で扉を閉ざし、わたしを上階へと運ぶ。今の今までなんともなかったのに、室内灯がチカチカと明滅を繰り返した。嫌な感じがする。早く部屋に帰りたい。

 廊下には転がるように飛び出した。エレベーターのドアが開ききるかどうかの時点で、無理に身体を押し出していた。はっきりと、嫌な感じは恐怖に変わっていた。雨の日の湿度が、みっしりと身体を押し包む感じが嫌だ。雨の降りしきる音が、すべてのささやかな音響を消し去ってしまう感じが怖い。何もかもが雨に隠されて、危険が迫っていても解からなくなりそうで、不安が心臓を締め付けた。

 慌てて部屋のキーを外し、慌てて中に入って鍵を掛けた。キーチェーンなどこのかた使ったこともなかったのに、この日は当然のようにロックして、それでもまだ不安は消えなかった。

 怖い。何が。自問自答で、玄関のドアに背を預けた。



 雨音に混じって、室内から異質な水の音が聞こえる。ぴちゃん、ぴちゃん、と雫の落ちる音。わたしは手探りで玄関の電灯を燈した。靴を脱いで上がり込み、次にしたのは廊下の電灯を燈す作業だった。マンション中の明りを片っ端から付けて回り、風呂場を覗いた。真新しいはずのシャワーからは僅かばかりの水流が零れて、蛇口から落ちた雫がタイルの上で合流していた。ぴちゃん、ぴちゃん、と飛沫を微かに跳ね上げている。知ってみれば、何ともないような原因だった。わたしは怖れを抱いていた事に、無性に腹が立った。頭に来た。なんなんだろう、欠陥マンションかも知れないと、咄嗟には思っていた。さっさと蛇口をひねって水を止め、脅かしてくれたこの忌々しさに舌を打った。

 指に髪の毛が絡まっている事に気付いたのはその後だった。今朝は一本だった長い黒髪が、この時には三本くらいに増えた。絡みついている黒い糸は、まるで意思があるかのように食い込んで痛かった。わたしの髪の毛はもうショートカットに変わっている。明るい栗毛に染め変えたから、この髪はわたしのものではないと、すぐに理解が出来てしまった。そして。

 だったら、きっと、今朝の髪の毛もわたしのじゃない。ぼんやりと、連想が働いた。

 激しい水流が濁音を生み出した。咄嗟にわたしは走り、キッチンの流し台で勢いよく水を噴き出す蛇口をひねって止めた。右手にはごっそりと、誰かの長い黒髪が絡みついて束になっていた。悲鳴を上げそうだった。


 玄関のチャイムがタイミングよく鳴った。希望の音だとわたしには思えた。助けて、と叫んだかも知れない。絡みつく大量の長い髪を振りほどこうともがきながら、私はキッチンから走り出た。突っ切った居間の、半分引かれたカーテンの奥に窓がある。ガラスの向こうに街並みが覗いている。真っ暗な街を背景に、ちらりと見てしまった視界の片隅に、ずぶ濡れの女の姿を認めてしまった。

 べたりと両手を窓ガラスに貼り付けて、女は半開きの口と目で、わたしを眺めていた。廊下の電灯が明滅を繰り返す。誰かの、救いの神さまの押すチャイムの音が再び鳴らされた。

 恐慌を来たし、ほとんど意味の分からない言葉を発しながら、わたしは玄関のキーチェーンを外そうともがいた。チャイムはもう一度鳴った。間髪入れずに、もう一度。心が励まされた。

 玄関の外に立つ誰かの為に、わたしは大慌てでドアを開けなければならなかった。指先までが小刻みに震えるものだから、チェーンを外すことは少し難しくなっていた。先にドアの鍵を開ける事にした。外に立つ誰かが励ましてくれたなら、きっとすぐにでも落ち着きを取り戻せる。ドアの外に立つ誰か、チャイムをまた押した誰かの声を、心の底から期待した。

 内鍵のロックを捻って開錠した途端に、ドアノブがガチリと鋭い音を立てた。外の誰かが思い切り回したらしかった。続けて、ドアが勢いよく開きかけた。チェーンが引っ張られ、太い鎖が耳障りな音を発して、ぴんと伸びた。武骨な手が、ドアを掴んでいた。軍手をはめて、指先には力が漲っていた。

 視線を上へとずらしたわたしは、血走った眼と、眼が合った。わたしの見開かれた眼と同じくらいに、扉の隙間からこちらを覗く眼も、見開かれていた。


 わたしの背後に、ゆらりと女性の影が立っている。振り返って確認などしなくても、女が近付いてきたことは察した。ひやりとした白い手が、わたしの肩を掴んだと思う間に、わたしの身体を通り抜けた。彼女はドアの隙間から逃げていった。

「見たんだろ? 見たんだよな、そうだろ?」

 ぎょろりとひん剥かれた充血した両目が、にたりと笑う薄気味悪い顔の中で狂気を宿している。わたしは金切り声を上げて、ドアノブを掴み、懸命に押し込もうとした。がつん、と何かに当たってドアは閉じてくれなかった。下を見れば男が靴先をこちらに突っ込んでいた。

 わたしは無我夢中で叫び、喚き、何かを大声で怒鳴っていた。男が大きな鋏みたいな工具でチェーンを挟み込んだところが見えた。泣き叫ぶわたしは、自分でも何を言っているのかが解からなかった。


「なんだ!?」

「警察呼んで、警察!」

「誰かー! 誰か、来てー!」


 ご近所の人々が騒ぎ出すと、男は切断途中でチェーンを放り出して逃げた。ようやく玄関扉を閉じて、わたしはずるずるとその場にしゃがみ込んだ。放心状態で、誰かがまたドアを激しくノックしている事は解かっていたけれど、何も反応出来そうになかった。

 出ていったはずの、ずぶ濡れの女がキッチンの傍でうずくまっている姿が見えた。





 彼女が殺されていたのは、もう何年も前の話だそうだ。犯人は未だに捕まらず、ほとんど迷宮入りになっていたと、隣のおばさんが教えてくれた。逃げた男の行方もまだ解からない。だけど、これでやっと浮かばれるわね、とおばさんは言っていた。この部屋にはその後、何人もの住民が入り、いつの間にか告知義務は消滅していたらしい。

 事故物件だとは知らずに、わたしはこの部屋を借りていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] あめおんな、拝読しました。 雑感ですが、冒頭部である1のところが気になりました。 文の量や一段落の長さから、フラれた主人公の重苦しさを感じます。 反面、読みにくさも感じました。物事が進んで…
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