正体=動揺
元の格好へ戻り、わざわざ大回りをして風町の部屋に入った。先の強襲でぐちゃぐちゃになった熱川の部屋は、腰を落ち着けてご飯を食べることができない。だから仕方なく隣人の部屋にお世話になることにしたのだ。ヒーローグッズで溢れる風町の部屋だが、十分にスペースがある。ヒーロー一色の空間における特異点とでも言うべきコタツテーブルに着くと、風町が簡単な昼食を運んできた。
「ん? これは?」
「ああ。食べて食べて」
労いの気持ちだろうか。にっこりと笑顔で差し出された皿に載っていたのはハムとレタスとチーズとを挟んだ簡単なサンドイッチである。久しぶりに激しく動いたので腹がいつになく食事を求めていた。
サンドイッチを口に運んでいる間、テーブルを挟んで向かいに座った風町はそわそわと何度もこちらに目線を送る。いつもなら感じないはずの奇妙な緊張感に居心地をよく感じず、熱川が一つサンドイッチを食べ終える度に、彼女は姿勢を変えた。正座をしたり体育座りになったり、胡座になったり。落ち着きがない。
その理由は明白だった。
皿に盛られていた全てのサンドイッチを手に取っては元に戻し、口元も緩んだり締まったりと、一時たりとも気の休まる気配が無い。何かを言いかけては憚られて口を噤むといった感じだった。
「言いたいことがあるならいくらでもいいぞ」
囓り掛けのハムサンドを皿の上に置いて熱川の方から促した。ばれてしまった正体を今更隠す意味もない。
「サイン下さい」
狭い四つ足テーブルの上に彼女は額を打ちつけた。額の肉を木目でそぎ落とすかのように、土下座に似た体勢でもう一度同じセリフを繰り返す。
「サインお願いします」
てっきり期待はずれの正体に落胆させてしまうのではないかと恐れていたものだから、風町のその言葉にいささか拍子抜けしてしまう。
「いくらでもやるよ。そんなもん」
「ほんと!? やったぁ!」
風町は熱川の方へと身を乗り出した。ガラス玉のような瞳が、じっと熱川を見る。剥き出しになった両目は後頭部を叩いてやればぽろりと眼窩を転がり出そうだ。
そこら辺に散らばった紙にでも書き殴ってやればいいか、と一瞬思ったがやめた。ふと視界の隅に例のガラスケーズが過ぎったからだ。あそこまで自分を好いてくれている人間にそんな雑な対応はできない。きちんとした色紙を買ってきて書こうと決めた。
「はぁー夢みたいだ……」
指を組みながら、風町は我を忘れたような呆け顔で宙を見つめる。うっとりとした表情の彼女に、熱川は一応の忠告をしておいた。
「分かってると思うけど、このことは誰にも言うなよ」
「うん」
「サークルのデータベースに追加したりもするなよ?」
「うん」
「ほんとに?」
「わ、分かってるよ! それにあのデータベースにアクセスできるのはサークルの幹部陣だけだし。一年生の私じゃ情報を追加するどころか、見せても貰えないんだってば」
「じゃあその幹部陣にもうっかり漏らしたりするなよ」
「しない。しません。誓います」
「ならオーケー」
残ったサンドイッチを口に押し込み、熱川は首に付けたチョーカー型のデバイスを指でなぞった。一筋の溝が施されただけの、およそヒーローにとって必須の道具だとは思われないデザイン。恐らくは狙ってのことだろう。指で触れた表側はまだほんのりと熱を持っている。久しぶりに付けたせいで少し息苦しかった。
食器を片付けるために熱川は流し台に立つ。彼女はお礼を言いつつ、話を続けた。
「昨日の帰りにした話の中じゃ、いさっちはヒーローなんか全然知らない人だったのにな」
「そういうことにしてるんだよ、俺は。下手に詳しいキャラでいると、うっかりして重大な情報を漏らしたりするかも知れないしな」
「へえ。例えば?」
「ばかめ。俺はそこまで単純じゃない」
雲を握るかのように泡だったスポンジで平皿を擦りながら、彼はするりと言葉を返す。背中で風町がけらけらと軽やかな笑い声を上げた。
能天気な素振りを見せているが、彼女は意外なところで鋭いから怖い。とくにそれがヒーローの話題となればよっぽどだ。
「ちぇー。さすがはヒーローってことだね」
「お前のヒーロー判断の基準は結構低いんだな」
「そういう意味じゃないやい」
洗い終えた皿を端に寄せ、思い出したように熱川は言った。
「そういえばあのクリムゾン・ノヴァのマスク。あれ凄いな。一瞬本物かと思ったよ」
フィギュアやらポスターやらであふれかえる棚混じって並ぶガラスケースを熱川は指差した。高価そうな赤い布が敷かれたケースの中には、彼にとって見慣れた赤い頭がじっとこちらを見ている。
「ほんとに!? クリムゾン・ノヴァ様本人が見てもあれは忠実?」
「うん。かなり」
がたんとちゃぶ台を叩く音が聞こえた。そのままどたどたと畳を踏みならす音が続く。鼻歌交じりなのは踊りでも踊っているのだろうと、わざわざ見なくてもわかった。
「どうしたんだ? 急に」
「あれね、作ったの私なんだよ!」
風町の白い歯を見せた笑みが横から覗く。見上げるようにこちらに向く顔は実に嬉しそうだった。
「お前が? ほんとに?」
驚きで目を丸めた。がさつそう、と言うわけではないが、熱川の頭に描き出される風町のイメージは、あれほど精巧なレプリカが作れるほどに繊細ではない。彼女が作れば材料を切りすぎたり、色の塗り方にムラがありすぎたりと、出来上がったとしても歪なものになりそうだ。ヒーローが絡むとまるで別人だ、と改めて風町のヒーロー熱に感心する。
「ほんとだよー! 受験期にコツコツ作ってさ、完成したのは先月なんだ! 本当は全身作りたかったんだけど、頭だけで一年近くかかっちゃったから諦めたよ」
「勉強しろよ」
「息抜きですー!」
手がふさがっているのをいいことに、風町は熱川の尻を一発叩いた。そのまま飛び跳ねるようにちゃぶ台の方へ戻っていく。
「そういえばさー、もし、もしクリムゾン・ノヴァに会うことができたらどうしても聞きたかったことがあるんだけど、聞いてもいい?」
「分かる範囲、話せる範囲なら答えるよ」
考え込む声が背後から聞こえた。二枚目の皿を洗い終え、最後の皿に手を伸ばした時に風町は頷く声を一つあげて、こう言った。
「何で今まで姿を見せなかったんですか?」
濡れた指先が真っ白な縁をなぞる。右手に握ったスポンジの泡が空気を飛ばしながら萎んでいく。水道から一直線に流れ出る水道水が、ステンレスの流し台をうるさいくらいに叩いた。
「正確には、二年前から? コープス・マンを倒したことで、クリムゾン・ノヴァの実力が世間に広く認知されたって言うのに、急に姿をくらまして。一時はマスコミでも騒がれたけど、結局姿を現さなかった。かと思ったら、今日いきなり私の目の前に現れた。凄く気になって……どうしてですか?」
ただ単純に気になったから聞いているのだと言うことはすぐに分かった。こちらの傷を抉るような疑問をぶつけて追い詰めようとしているわけではない。そもそも彼女は熱川が二年間ヒーロー活動を控えていた理由を知らないから、追い詰めるなどとは思いもしないはずだ。
誤魔化すような、笑いともため息ともつかない音を漏らして頭を掻いた。意味もなく流し台のあちこちに視線を飛ばしてみる。心臓が駆け抜けるように鼓動していた。
「なんで、敬語なんだ、よ。たく」
両手でスポンジを揉みながら、無理矢理笑う。背後には瓦礫と血に塗れた光景が広がっていそうで、振り返ることができない。視線を排水溝に落としたまま、もう一度同じ言葉を呟いた。
「いや、まあ敬語なのはヒーローとしての憧れがあるからさー」
「だ、だよなあ、あは」
照れを隠すようにはにかむ彼女の声が、今は耳に棘を押し込むかの感覚を与える。思わずもう一度頭を掻きむしった。
「いさっち、頭に泡ついてるよ?」
「え?」
前髪の先から落ちた泡玉を目で追って、慌てて髪を手で払った。さらに泡が付く。焦りのあまり手を水で流すことすら忘れていた。
「ちょ、ちょ、頭洗ってどーすんのさ!」
「い、いや、ほら、朝シャンしてねーな、と思って」
泡の付いた手で泡の付いた髪を払う堂々巡りに、段々と熱川の黒髪は粟立つ食器用洗剤で真っ白になっていく。見かねた風町が駆け寄ってきて流れ出る水へ手を引っ張ってくれた。
「あ、わるい。ありがとう」
「ごめんね、いさっち」
「え? な、何が? 何も悪いことして、ないよ?」
手をハンドタオルで拭って風町の方を向く。彼女はややうつむき加減に唇を動かした。
「ちょっと気になったから聞いただけだったんだけど、こんなにいさっちを困らせるとは思わなくてさ。ここまで焦ったいさっち初めて見た。なんか悪いことしちゃったなあって」
「そ、そんな。まあ質問が俺にとっては結構際どいものだったのは確かだけど、別に風町が悪いわけじゃない」
「だってよく考えればヒーロー、それも名の知れたヒーローが理由もなく姿を隠すわけがないよね。なのに無神経なこと言っちゃって」
「いや、気にすんな。動揺したけど、もう落ち着いたから平気。それ以上言われると余計に思い出しそうだし」
落ち込む姿など滅多に見せない風町だが、今回ばかりは違うようだ。いつになく暗い表情でキッチン床の木目を見つめていた。
灰色の靄のような空気が部屋に漂う。険悪とも柔和とも言えない至極微妙で居心地の悪い空気だ。ゾウ鼻のような蛇口から雫が洗いかけの食器に落ちた。
全ての食器を流し台の端に寄せ、熱川は昼食の礼を言って部屋へ戻る。裸足のままで歩くコンクリートはやけに冷たい。廊下の途中まで風町は後ろを付いてきたようだったが、声を掛けることはなかった。
部屋の前で立ち止まった熱川は、駐車場で聞いたピエロの男の言葉を思い出す。復讐、という一言が今なお胸を刺した。
それが何を意味するのかはわからない。誰による誰の復讐なのか。ただわかるのは、これまで作り上げてきた日常があの男たちによって壊されていくということ。世間からも、ヒーローとしての自分からも逃げてきて作り上げてきた偽りの日常が壊される。それは同時に自分が再びヒーローとして表舞台に引きずりあげられることも意味していた。再び世間の注目を浴びることで、二年という歳月の中でゆっくりと溶かすように消していった関東事件の真相が蘇ることを熱川は何よりも恐れていた。しかし同時に、どこかで日常の崩壊を望んでいる自分もおり、もはや自分が何を考え、何を最良と考えているのかわからない。考えれば考えるほど暗闇の中にじわじわと沈んでいく気がする。
首降って何もかもを振り払い、意気込んで固いドアノブを回した。
「ああぁぁぁ!!」
「ええぇぇぇ!!」
部屋に入るなり突如としてあがる熱川の奇声。喉を絞り上げるような悲鳴が狭い部屋に反響する。気まずい沈黙が破られ、申し訳なさそうに彼の後ろで俯いていた風町が慌ててやってきた。
「ど、どうしたの?」
「うぅう……。忘れてた……」
涙声で熱川は畳部屋の隅を指差した。
この部屋にはちゃぶ台が二つある。四角い奴と丸い奴だ。丸い方は主に食卓として部屋の真ん中に居場所を定め、布団を敷くとき以外はずっとそこにいる。もう一つ、四角い方は部屋の隅、壁に面してひっそりと縮こまり、主に勉強机として使っているのだ。その四角い方のちゃぶ台。池袋の量販店で買ってきたその四角い方が、真っ二つに割れていた。しかも被害はそれだけに及ばず。台の上に載せていた、ノートパソコンも粉々に砕かれていた。
「あーあ……」
畳の上に散った木片と金属片を両手で掬う。砂粒程までに粉砕された破片は指の隙間から溢れていく。
「あの時かぁ……あー……」
鬼の男の拳を躱し、デバイスを手に取ったときの光景が克明に浮かび上がる。パソコンとちゃぶ台とが同時に破壊されるその光景が、一枚一枚コマを区切ってみるビデオのように何度も頭のなかで再生された。
気休め程度に散った部品を一箇所に集める。積もった残骸部品の山に、これがつい数十分までパソコンであったことを忘れてしまう。肺の中に溜まった空気を悲しみと共に全て吐き出すほどのため息を吐く。
「げ、元気だしなよ……その、ドンマイ!」
「あんのクソ野郎がアアアアアア」
ひとしきりの喪失感を味わうと、今度は底知れぬ怒りが鍋に沸き立つ熱湯の如くやってくる。脳みそと心臓が怒りの熱で暴れ出しかねない。
「ほ、ほら! まずは落ち着こうか! ね! さあ落ち着いて頭のなかで素数を数えるんだ! いくよ、一、二、三、五……このパソコンの中に何か大事なものは!?」
背中をさすられながら熱川は思い出す。このノートパソコンの中に保存していたものを。記憶が昨日に遡り、図書館の固い椅子に座ってキーボードを叩く自分が俯瞰的に蘇る。軽快にキーの上を跳ねる指は、最後に大げさな動きでエンターキーを弾いた。記憶がその時の画面を見せる。保存されていたものを思い出し、熱川のマグマのような怒りが急激に冷め、砂塵の吹き荒れる荒野に佇んでいるみたいな喪失感が再び襲ってきた。
「レポートが……来週提出の、必修科目のレポートが……」
「あ、ああ〜……あー」
「序論、本論、結論、と書き進めて、後は結論に書き加えるだけだったのに……」
畳をげんこつで殴った。銀色のボディは中身のチップや配線を撒き散らし、見るも無惨な状態。ハードディスクの状態などいちいち調べなくても分かる。
「ほ、他には? 他にはもうないの? もっと命に関わるような! あ、為にためたエッチな動画とか画像とか」
「いや、他にはない。このパソコンにあったので一番大切なのは来週提出のレポートだけだよ……」
「ならよかったじゃん! レポートだけなら! いや、よくはないけど、でもレポートならまだ書き直すという選択肢が!」
励ましの言葉と一緒に風町は熱川の肩をぽんと叩いた。
「そうだな……」
「そうだよ! うん! 私も手伝うし!」
「お前学部も学年も違うじゃん」
「う、あー……うーん………あーそれなっ」
「でも、ありがとう。レポートは一人でできるから大丈夫」
指でつまんだ萎びた配線を部品片の山に戻し、熱川は立ち上がる。見下ろす先に映る残骸の影が悲しいが、壊れてしまったものは仕方がないと割り切った。
「それにしても、あの鬼面の野郎。部屋中ぼこぼこにしていきやがって」
腰に手を当てて、狭い部屋をぐるりと見る。比較的綺麗にしてあった部屋の中が、嵐でも通過していったかの如き荒れ具合だ。畳は泥だらけ、襖は穴が開くというよりむしろ太い線状に抉られている。窓ガラスが部屋の中に飛び散り、アルミの窓枠やベランダの手すりはひしゃげで外側に大きく飛び出している。大家さんが見たらなんと怒鳴り散らされるだろうか。
「大家さんが外出中だったのと、部屋自体が崩れなかったことを幸運とみなすべきだな」
「基本的に日中は私たちしかいないしね。もしご近所さんがたくさんいるマンションとかだったら、一発で強制退去だったよ」
「よかったよかった。本当に」
「片づけるでしょ? 手伝うよ」
「そうだな。ありがとう」
さっそく風町は自分の部屋に箒やらなにやらを取りに戻っていく。
ぱたぱたと忙しない様子で駆けていく小さな背中を見送りつつ、今は自分の中で渦巻くあらゆる思いは隅に寄せておくことにした。まずは猛獣が暴れたかのような部屋の片付け。詳しい事はまた後から調べるなり考えればいい。




