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始まり=急襲

 翌朝、目を覚ますと時計の針はすでに十一時を過ぎていた。昨夜本を読むために三時ごろまで起きていたせいか、寝起きもさっぱりとせず、わずかに頭が重い。夜更かしはするものじゃないと眠い目をこすりこすり思う。


 掛けていたバスタオルを投げ、薄っぺらい敷布団を三つ折りにしてベランダの柵にひっかけた。十一時とあって日はすでに高い位置にある。寝起きには燦々と照りつける陽光がいささかつらい。寝間着とバスタオルをまとめて洗濯機に放り込み、昨夜切り忘れた日めくりカレンダーを一枚ちぎった。


「六月二十三日、か。もうそんなに経つんだな」


 誰もいない六畳一間でぽつりと呟いた。開け放した窓の向こうから、賑やかな子供の声や自転車の走り抜けていく音が聞こえる。爽やかな初夏の風もそよりと流れ込んできた。穏やかな日常の光景を体で感じる。しかし熱川には寝起きの怠さとは違う、重々しい感情があった。


 部屋の真ん中で佇み、右手に握った昨日のカレンダーを乱暴に丸める。


 史上に類を見ない大量殺人事件から、あと一週間ほどで二年が経とうとしていた。コープス・マンと名乗る犯罪者による関東全域を巻き込んだ無差別殺人事件、及び彼に触発された狂信的な人々による全国規模の殺人事件は、通称関東事件と扱われる。死傷者の数は全国で十万人に及び、その七割近くがコープス・マン一人によるものだった。


 昨日見た夢の光景がありありと浮かんでくる。崩落した遊園地で相対する自分と、相手。人を超えた異能の力同志がぶつかり合い、間違いなくその場所において冷酷非情の大量殺戮者は灰となって事件は終息した。瓦礫の山の中から一人立ち上がったのは今でも鮮明に覚えている。ヒーローの殺人はご法度とされている中で、あの日熱川は初めて人を殺めた。例えそれが人ならざる力を秘めた殺人鬼だとしても、人を殺したことに変わりはない。自らの手で人の命を奪うあの感覚。コープス・マンの首に手をかけた瞬間のあの感触が今でも嫌なくらいはっきりと手に残っていた。


 淀んだ気持ちを晴らそうと、熱川はベランダに出る。どっかりと雲の居座る青空を見上げつつも、胸の中で渦巻く重く黒い感情はなかなか解消されなかった。


 コープス・マンを殺した以上に重くのしかかる事実があの事件には存在する。協会側が揉み消した真実は、関東事件に深く関与していた数人のヒーローと協会の上層部しか知らない。そして決して誰にも漏らしてはいけない、ヒーロー協会最大のタブーである。目の前に広がる平和を絵に描いたような風景も、二年前の凄惨な事実の上に成り立っているのだと思うと素直に眺めることができない。どうしても無数の見えざる手に体を引かれる気がする。


 再び部屋の中に戻って、握りっぱなしにしていたカレンダーをごみ箱に投げた。上手く入らないでわずかに横を逸れた。捨てなおそうとはせず、そのままにして熱川は洋服ダンスに向かう。適当なシャツとズボンを取り出して、下着一枚の身に纏った。ボタンを閉め、ズボンのチャックを上げていったん強く息を吐く。気持ちを変えようと声も一緒に出したのだが、そううまくもいかない。中途半端な気持ちになったまま今度はキッチンに立った。


「何を作ろうか」


 誰もいないが声を出してみる。気持ちを切り替える意味でもそのほうがよかった。しばしガスコンロの点火口を眺めながら冷蔵庫の中身を思い出す。遅めの朝食、早めの昼食として食べるには何がよいだろうかと考え、とりあえず先週のセールで買い込んでおいた卵を割ることにした。


 茶碗に生卵を落とし、箸でとく。無心で徐々に黄身が広がっていくのを眺めた。ちょっとした拍子に浮かび上がるいらない考えを振り払うように、箸で茶碗一杯の黄身を切る。更に三個ほどとき、並々となった卵から箸を抜いた。


「オムレツ、かな」


 茶碗の縁からぽっこり盛り上がった溶き卵を見て熱川はそう確信した。レパートリーの少ない彼は、これだけの量の溶き卵を活かす術を持ち合わせていない。オムレツですらようやく形になり始めたのはここ数週間のことだ。


 適当に頭に流れた歌を口ずさみ、再び熱川は冷蔵庫の中身を想像した。先ほど見たときにはタマネギとハムがあったのは覚えている。


「ごきゃぁああああああああああ」


 後は何があっただろうかと記憶を辿っていると、突然薄い壁一枚隔てた隣の部屋から叫び声が聞こえてきた。甲高い女声は間違いなく風町だ。一度ならず、二度三度と絶叫があった。手に持った箸を台所に放り投げ、サンダルを足に突っかけて熱川は即座に部屋を飛び出した。


「大丈夫か!」


 鍵の掛かっていない不用心なドアを思い切り開け、隣の部屋の中へ転がり込む。


 同じ六畳一間の部屋において、部屋着の半袖短パン姿である風町はこれでもかというくらいに部屋の隅っこに縮まっていた。白塗りの壁にへばりつき、必死の形相で部屋の中央を睨んでいる。


「……どうした?」


 気が動転していたのか、部屋に入ってきた熱川には気がついていなかったようで、突然上から降り注いだ声に彼女はびくっと肩を振るわせた。


「いさっち! あいつを! お願い!」


「あいつってなにさ」


 無言で風町は部屋の中央を指差した。細い人差し指の先は少しだけ震えている。


 そこでカサカサと蠢く黒い物体。主を追い払った畳の上を、一匹のゴキブリが我が物顔で闊歩していた。


「まあ部屋に入った時点で大方予想はしていたけどな」


「お願いします神様仏様熱川様! 新聞紙ならここにあるから! いくらでも使っていいから! よろしくありがとう!」


 頭を何度も下げて彼女は立ち上がる。急ぎ足で部屋から出て行こうとするその背中

を熱川は呼び止めた。


「どこに行くんだ?」


「いさっちの部屋! そいつやっつけたら教えて! お礼にお昼ご飯でもおごるから!」


 早口でそう言い残して風町は消えた。二人の部屋を隔てるのは防音仕様でも何でもないただの薄っぺらい壁であるから、すぐに風町が転がり込むように熱川の部屋に入る音が聞こえてきた。


 やれやれといった調子でため息を吐き、足下に積まれた新聞紙の束で即席の棒を作る。片手で感触を確かめてから、相変わらず堂々たる様子で部屋を這い回るゴキブリへとその先端を向けた。


 勝負は一瞬。垂直に振り下ろした新聞紙の棍棒は、破裂するような高い音共に人様を侮っていたゴキブリの息の根を完全に止めた。


 そのまま丸めていた新聞紙を広げ、潰れたゴキブリを包み込んでごみ箱へ投げ捨てた。染みが残らないよう側にあったティッシュで丁寧に畳の上を拭いておく。


 後始末までしっかりと終えて、ふと熱川は風町の部屋を見渡した。四月に大学の授業で知り合ってから二ヶ月。考えてみれば彼女の部屋に入るのはこれが初めてだった。


「まさかゴキブリ退治で初入室とは」


 丸めたティッシュをごみ箱に放り込み、腰に手を当てた。


 さすがヒーロー研究会所属の女の子、といったところか。六畳一間の狭い部屋の中、至る所にヒーローのポスターやらフィギュア、グッズの類が飾ってある。見知った顔がちらほらと見えたが、一番飾られていたのはクリムゾン・ノヴァ、自分自身だった。いつ取られたのか分からないスーツ姿の写真や、激しい戦闘を想像した躍動感溢れるイラスト。大きいものは三十センチ、小さいものは五センチくらいのものまでいろいろなサイズの、クリムゾン・ノヴァのフィギュアも飾ってある。ただの樹脂製の人形とは言え、大小様々な自分に囲まれている状況は落ち着かない。


 それらを一つ一つ眺めていって、ふと彼の足は部屋の一角で止まった。あらゆるグッズがひしめき合う部屋の中で一際異彩を放つものがそこにあった。


「すげえな、これ」


 思わず感嘆の声が漏れる。


 それは精巧に再現されたクリムゾン・ノヴァのマスク。持ち主である熱川自身本物と見紛うようなクォリティでそこに存在していた。色の塗られ方も、光沢の放ち方も、頭頂部に隆起した二本の流線型の角も、何もかもが本物そっくりである。触り心地も確かめてみたかったが、生憎ガラスケースに収められているため叶わない。装甲の質感から見てそれさえも再現されていることは間違いがなかった。


 ケースを覗いていた熱川は、そこに反射する自分の顔が知らずのうちに綻んでいることに気がついた。ヒーローとしての自分がここまで人に愛されている、そしてそれが友人であるということが、知らずのうちに彼の中にあったつっかえを外してくれた。一時的ではあるが、いつも抱く漠然とした不安感や恐れといったものを今は感じない。


「……まあゴキブリ退治くらいいつでもやってやるか」


 最後にマスクをいろいろな角度から眺め、部屋に戻ろうとした。バイザー型の視覚部を覗き込み、首を縦に振る。


 と、固いものが壊れるような荒い音がして、ガラス窓の割れる音が聞こえてきた。そしてすぐさま引きつった女の子の叫びが耳に届く。考えずとも隣の自分の部屋が音と声の発信源だと分かった。叫び声は風町に違いない。


「どうしたッ!」


 ばっと畳を蹴って部屋を飛び出す。激しい物音は、ゴキブリやネズミだと言った騒ぎではない。確実に何か異常な事態が起こっている。心臓がうるさいくらいに鳴る。気味の悪い寒気が身体を突き抜けた。


 開け放されたドアから部屋に身を滑り込ませると、熱川は即座に部屋の中の光景を目の当たりにした。


 ぴっちりした黒の半袖シャツに迷彩ズボンといった出で立ちをした、二メートルは優にあろうかという巨躯。肩幅の広い体格からして男だろうと思われる人物が、小柄な風町の首を締め上げ、高く吊るしていた。ガラス窓は突き破られ、奥に見えるベランダの柵も強引にへし曲げられている。忍び込もうなどと言う気は毛頭なかったに違いない。よほど力に自信があるのか、それとも一人暮らしの女性を襲うのに凶器の類は必要ないと考えたのか、白昼堂々強盗に押し入った男は素手である。


 口で交渉するよりも、出来るだけ穏便に場を終わらせようと考えるよりもまず、熱川は強盗へ向けて飛び出していた。玄関口から部屋の中央まで廊下を挟んで五メートル弱。一歩でその距離を越え、渾身の飛び膝蹴りを男の顔面に叩き込んだ。


「……重っ」


 岩山を相手にしているようだ。いくら生身とは言え、ヒーローとして格闘技経験も少なくない熱川の膝が、難なく跳ね返される。


 硬い膝の一撃にびくともせず、山のように不動の男は熱川の方へ身体を向けた。片手で締め上げていた風町を離し、玄関の方へと投げる。


 すぐさま彼女の元へ駆け寄り、耳元に呼びかけた。激しく咳き込み、むせ返った声で彼女は何度も大丈夫と告げた。熱川は彼女の目の端に溜まった涙を指先でそっと拭ってやった。


「隅にいろ。俺があの男を何とか引きつけるから、隙を見て部屋の外へ出るんだ」


「でも、いさっち」


「問題ないから。言うとおりにしろ」


 視線は男に向け、半ば怒鳴るように熱川は言う。いつもと違う彼の様子に戸惑いながらも風町は「わかった」と言葉を返し、彼を盾にしつつ部屋の隅へと寄った。


 男の顔を見上げ、そこで初めて彼は相手が鬼のお面を付けていることに気がついた。剥き出しになった牙に、皺の寄った眉間に、見るものを射殺す黄色い眼孔。おまけに天井に付きそうな程の体格が、まるで強盗の男を本物の鬼のように見せていた。


「お前は熱川勇雄か?」


 鈍い音の声がそう呼んだ。咄嗟に彼は腰を落として身構える。


「まさかその女が熱川勇雄の筈がない。答えるんだ。お前が熱川勇雄か?」


「そうだ」


 短く答えた。鬼の男はただの強盗ではない。ざわめきが身体全体に沸き上がる。


「お前を殺しに来た」


 それだけを告げると、その巨体からは想像も出来ない速度で男は殴りかかってきた。横から抉ってに迫る岩の如き拳を、転がって躱す。空を切ったはずなのに鬼の男の拳は鈍く弾けるような音を上げた。


 止むことのない殴打の嵐を全て紙一重で躱しながら、狭い部屋の中で熱川は絶妙に立ち回っていく。次々と繰り出される鋭い打撃に、ヒーロースーツの必要性を十分に感じた。機関から支給されるスーツ換装用のデバイスは部屋の端に除けてあるちゃぶ台の上だ。何とか攻撃の間を縫って手元に収めないとならない。普段から身に付けていなかったことが今悔やまれた。


 ちゃぶ台の方に相手を誘い込みつつ、上体を左右に振って攻撃を避ける。相手の連撃が途切れることはなく、一瞬だけ生じてしまったこちらの隙を突いて、角度の付いた左フックが熱川の胸の辺りを掠めた。それだけで身体が後方へと吹き飛ばされる。


「いさっち!」


 駆け寄りそうになった風町を手で制した。しこたま背中を壁にぶつけたが、おかげでちゃぶ台に手が届くところまで近づけたのだ。部屋が狭いことへの感謝と後悔を同時にしつつ、彼はチョーカー型のデバイスを手に取った。それとほぼ同じタイミングで振り下ろされた鉄の拳をすんでの所で回避する。ちゃぶ台の上にあったノートパソコンがガラス細工のように砕け散るだけで済んだ。


 畳を転がりながら、慣れた手つきでチョーカーを首に付ける。二年間使っていなかったが、自然と身体は覚えていた。


「部分換装:クリムゾン・アーム」


 呟くように唱え、いよいよ彼は反撃に出る。右腕が赤い発光に包まれ、一瞬凝縮された後で爆発するように赤光の残滓が散った。右腕だけが赤の装甲に覆われる。滑らかな強化素材の表面が注ぎ込む太陽に反射した。二年ぶりに装着した腕は、ちっとも変わっていない。素手と変わらぬ動かしやすさだ。


 哮りと共に打ち込まれた鬼の拳を完全に見切り、カウンターの一撃として装甲を纏った右ストレートで男の腹を打ち抜いた。


 重く鋭い音がして、素手ではビクともしなかった巨体が折り曲がって吹っ飛ぶ。ガラス窓を枠ごと破壊し、ベランダの手摺りを絡ませながらその身体は落ちていった。


「いさっち……?」


「詳しい事は後で話す」


 男の後を追って熱川も窓から飛び出す。二階分の高さを飛び降り、隣接した駐車場へと綺麗な着地を決めた。


 一瞬の間も空けず、着地と同時にアスファルトの上に倒れ込んだ男へと飛んだ。装甲に包まれた右腕を男の胸めがけて振り下ろす。しかし予想外に俊敏な動きで鬼の男は飛び起き、振り下ろされた拳は硬い地面と衝突して激しく火花を散らした。


 油断のならぬ相手と悟ったのか、鬼の面は熱川から十分な距離を取る。巨体を丸めて構えを取った。文字通り鬼の形相が熱川を睨みつける。


 鬼に負けない鋭い目で彼も対峙する男を睨み返した。


 二年もの間使っていなかったデバイスは、たとえ右腕だけとはいえ正常に機能した。そうなれば全身だろうと関係はないはず。熱を持ち始めたチョーカーに指先を触れさせる。その瞬間、二年前の記憶が呼び覚まされた。辺りを焼いた火炎の幻が視界の中で揺らぐ。咄嗟に熱川は指を引き離す。嫌な記憶を払い落とそうと、首を振る。半ば強引に、喉奧に指を突っ込んで吐き出すように、彼は換装のための文句を口にしようとした。


「かっ……ん……」


 しかし出ない。過去がつっかえとなり、熱川にクリムゾン・ノヴァのスーツを纏うことを許さない。右腕の換装は正常に機能したというのに。これからヒーローになるのだと意識すればするほど、あの日の光景が色濃く蘇ってくる。


 言葉を搾りだそうと藻掻く熱川の意識は、突然遮断された。ほんの刹那の出来事ではあったが、視界がブラックアウトし頭に熱が籠もって衝撃が広がる。天地がひっくり返って暗闇の中にしたたか身体が打ちつけられた。


 意識が戻り視界が明瞭になると、目の前にまず映ったのは強く握りしめられた鋼鉄の如き鬼男の拳。逆光を浴びて黒い影となった男は、鬼そのものの様相で熱川を静かに見下ろしていた。


 口の中に鉄の味が広がる。まだ頭は、脳みそを直接握られたかのようにズキズキとした。


 立ち上がるよりも早く男の蹴りが飛んできた。地面に転がる空き缶を蹴り飛ばすように、勢いの付いた足の甲が顔面めがけて振り抜かれる。反射的に腕をガードに回し、顔への直撃は避けた。既に換装済みであった右腕の強固な装甲で蹴りを受ける。痛みは最小限に押しとどめられたが、衝撃は勢いの減衰を知らず、熱川の生身を吹き飛ばした。


 背中からしこたまコンクリートの壁を叩き、空気で満たされていた筈の肺が一瞬で空になる。膝から崩れて熱川は地面にへたり込んだ。危険信号の様に、目の前が明滅を繰り返す。  


「お前、本当にトップヒーローだったのか?」


 呆れすら孕まない無感情な声が半ば意識の飛びかけた熱川を呼ぶ。


「く……そ……」


「死ね」


 背中を壁に押しつけてよろめきながら立ち上がった熱川に、だめ押しの拳による一撃。コンクリと握り拳に挟まれて、熱川は自分の頭が圧搾されるかの如き感覚を味わった。


「お前はもういい。放っておいても直に死ぬ。今度はあの女だ。やはり殺しておく」


 沈黙した熱川を通り越し、鬼の男はコンクリート壁に手を掛けて一息に登った。熱

川の部屋の窓はもう手の届く場所にある。その先には何の対抗手段も持たない風町が

いる。一瞬で殺されるのは考えるまでもない。


「か……ぜ……まち」


 男が壁を登っていく足音だけが耳に届く。動け、と必死に自分の身体に呼びかけた。換装しろ、クリムゾン・ノヴァになれ。だがそう念じれば念じるほどに過去のトラウマがきつく熱川を縛り付ける。チョーカーに喉を潰される思いがする。


 その時熱川の脳内に、女の子の姿が蘇った。二年前のあの日、観覧車の中から助けを求めていた女の子だ。黒髪の綺麗な、あの日助けることの出来なかった女の子だ。あの子は死んだ。自分の弱さが招いた最悪の結末に巻き込まれて。まだ自分と変わらない、幼さを残した彼女の姿が二年たった今でも脳に焼き付いて離れない。助けられなかった後悔と、自分の無力さを今でも呪う。


 あの女の子と同じ目には合わせられない。何としてでも風町は、自分が守らなくてはならない。


 強く思い、己に渇を入れるよう拳で壁を叩きつけると、瞬間消えかけていた意識の底に火が灯る。身体の隅々に力が流れていき、死にかけていた熱川を呼び起こす。


「ちょっと……まて」


 壁に張り付いていた鬼男の服を掴み、目一杯引き剥がした。男の身体は壁を離れてコンクリートの床に落ちる。意外そうな顔で立ち上がった所へ、換装した右腕による渾身のストレートパンチを叩き込んだ。男は身体を折って地面を跳ね転げ、熱川の正面へと引き戻された。 


「完全換装:クリムゾン・スーツ」


 今度ははっきりと声になった。つっかえもなく、流れるように文句が出てくる。二年ぶりに口にした言葉は懐かしく耳に聞こえる。先ほどは右腕を覆うだけだった赤い光が、全身を包み込んだ。生き物のように光は脈打ち、うねり、螺旋を描いて天を突くように登る。内側から盛大な爆発を引き起こすかの如く、まばゆい赤は周囲を一色に染め上げて膨れあがった。


 光の中で熱川はそっと目を閉じた。涼やかな風が肌を撫でる一方で、心臓はどくどくと熱く脈打っている。久しく味わっていなかったこの不思議な感覚を堪能するように彼は両手を広げた。


 肥大した赤い閃光は一瞬で弾け、景色を戻した。


 赤の晴れた青空の下、そこに熱川勇雄の姿は無い。


 真紅を基調とする、動きに特化したシンプルな装甲。頭部には流線型の角が二本走る。細いバイザーの視覚部に赤い線が流れ、正面の鬼を静かに見つめた。


「日曜の昼下がりから何の用だ?」


「それが本当の姿か、クリムゾン・ノヴァ」


 鬼の男は立ち上がり、身体を固めて構えた。激昂の表情をした鬼が、わずかに笑った気がした。


「何の目的かは知らないが狙いが俺だというのはわかった。たまたま俺と風町のいる部屋が変わっていたから間違えたというのもな。だが、無関係な友人に手を上げた事実に違いはない。今更無傷で帰れるとは思うなよ」


 クリムゾン・ノヴァも静かに半身の構えを取る。


 互いににじり寄り、距離を縮めながら攻撃の期を伺う。先に前に出たのは鬼の男の

方だった。体格からは想像の出来ない軽快なステップで一瞬にしてクリムゾン・ノヴ

ァとの距離を詰める。


 風を切っての刺すような連撃。適確に顔へと照準を合わせた打撃を紙一枚ほどの隙間で躱す。二連突きの終わりに生じた隙を狙い、クリムゾン・ノヴァは鋭い右フックを相手の脇腹に突き刺した。鉄の塊のような巨体がわずかにぶれる。そこへ更に反対側から、飛びながらの左ハイキックを重ねる。しなりの効いた一撃が鬼のこめかみを叩いた。


 だが膝を突かせるまでにはいかない。大きく傾かせただけで、決定打とはならなかったようだ。


「ちっ……」


 反撃は素早かった。舌打ちの時間すら無駄だと思わせるかのごとき速さで、男は肘を打ってくる。辛うじて躱したものの、崩れた体勢に合わせて続いた足刀がクリムゾン・ノヴァの腹を射た。


 波紋のように広がる振動が背に突き抜け、スーツで固めているというのにその身体は軽々と吹き飛ばされた。アスファルトの上を二転三転する。


「一つ確認する。お前、能力者か?」


「だとしたらそれがどうだと?」


「その答えで十分だ」


 言うが早くクリムゾン・ノヴァは跳ね起き、直線距離で一気に鬼の男へと迫る。半歩遅れて相手もこちらへとダッシュをかけてきた。お互いに拳を構え、力と力で決するためにそれを固く握りしめる。わずか一秒にも満たない時間の中で相手の隙を探った。


 しかし、二つの拳が衝突することはなく、交錯することもなかった。


 お互いの制空圏が触れ合う直前で、突如としてクリムゾン・ノヴァの足裏が爆発した。喩えでもなく、ただその通りに火を噴き、装甲を、肉を散らし、爆ぜたのだ。生じた強烈な爆風が彼の身体を上空へと飛ばす。


「なっ……」


 唖然とした表情で鬼の面が頭上を越える熱川を仰ぎ見た。鬼の巨体を、身体を捻らせて飛び越え、その背後へと着地した。


 咄嗟に振り返った相手に合わせ、顔、鳩尾、金的の縦一直線に素早い左足刀を入れる。当然それが相手にとってさしたるダメージを与えられるとは思っていない。軽いジャブのようなものだ。怯ませることができればそれでいい。


 本命は三連撃の後に叩き込む右の中段回し蹴り。


「相手が能力者なら、こっちも能力を使わせてもらう!」


 腰の捻りを活かした蹴りだ。ただし、途中で加速する。それは人の動体視力を軽々と凌駕する程。クリムゾン・ノヴァの踵が火を噴き、爆風で伸びた足が一気に相手の相手の脇腹にヒットした。


 敵のガードを突破し、構えた腕の上から鬼面の男をアスファルトに転がした。拍子に細かな粒が地面から弾け上がる。


 だが二年というブランクは、一発で相手を伸すほどの力を熱川に残していなかった。ダウンはしたものの、間を空けずに立ち上がった相手を見て思わず舌打ちをする。相手のしぶとさと、弱くなった自分にだ。


 だがダメージは残っているようで、反撃として繰り出されたのは大振りのフックパンチ。どこを狙っているのか丸わかりのそれは、いくらブランクがあるとはいえ躱すのは容易い。いくらも動くことなく、身をわずかに逸らしただけで巨岩の如き拳は重い音を伴って空を切る。


 空いた脇腹に加速させた拳を二発入れた。拳先が固いものを砕く感触を得る。


 男は猛獣のような唸り声を当てて大きく後退し、脇腹抑えて片膝を地面に突いた。久しく得たことのないであろう骨のへし折れた痛みに歪む表情が、鬼面の上からでも読める。


「どれくらいの強化が施されているかがわからず不安だったが、どうやらたいしたものでもないようだな。俺の蹴りと拳三発で突破できる」


「お……まえ……」


 男は立ち上がった。膝は震え、声は途切れ途切れ。痛みになれていないのか、ただの骨折だというのに、さながら死の瀬戸際に立っているような姿である。もう勝敗は付いたようなものだった。


 雄叫びが駐車場に響き渡る。懲りずに鬼の面の男はこちらへと突進してきた。巨体を忘れるような身のこなしだが、骨折によるダメージの影響か、スピードは格段に落ちている。荒い息と声を巻いて繰り出してくる四肢による攻撃は、その全てが先ほどのようなキレを失っていた。ただ重いだけならばなんてことはない。子どもの戦いごっこのに付き合うかのようにクリムゾン・ノヴァがゆらりとその赤い身体をわずかに揺らすだけで、鬼男の打撃攻めは尽く逸れた。


 二発、三発と避け、続く四発目の蹴りを相手が繰り出そうと踏み込んだその瞬間に、クリムゾン・ノヴァは音に匹敵する速さで鳩尾へと横蹴りを打ち込んだ。足先がずぶりと鳩尾に沈んでいく。呻き声を漏らすことも忘れさせるほどの衝撃が相手の腹を突き抜け、二メートルはあるかという巨体が撃ち出された銃弾の如き勢いで飛んだ。もみくちゃになりながら固いアスファルトを抉って男の身体は転がる。雨霰のよ

うに細やかな粒が吹き上がって散った。


 クリムゾン・ノヴァから大きく離れた位置で鬼面の男の身体はようやく止まった。正確には止められていた。丁度立ち位置が正反対となる駐車場の入り口に、人が一人立っている。その足下に転がる鬼の男と比較すると、その姿は子どものように小柄に見えた。小柄な男は不気味に笑うピエロの面を付けている。


「誰だ?」


 最初からそこにいたわけではない、と熱川は思う。だがしかし、いつどの時からそこに立っていたのか、それはわからない。今この時まで全く以て気がつかなかった。それほどまで戦闘に余裕がなかったのかと考えると、恐ろしさと苛立ちが同時に沸き上がってくる。


「誰でしょう? そんな簡単に名前を教えるわけないじゃないですかー! ねえ?」


 高めではあるが、声色からピエロ面の向こう側にあるのが男の顔だと分かった。


「その鬼の面の仲間か?」


「鬼の面? ああ! まあそうだよ。うん仲間! 仲間だね!」


「ということは」


「こいつはただの強盗じゃねえな、とでも言おうとしただろ?」


 熱川の言葉を遮って、突然ピエロの顔が眼前に現れた。二十メートルはあるかという距離を瞬間移動でもするかのように一瞬で詰めてきたのだ。


 咄嗟に拳を握る。しかしピエロの男はそれすらも予期していたかのように、そっとクリムゾン・ノヴァの固い拳を掌で包み込んだ。


「お前も能力者か?」


「さあ? どうでしょう?」


「空間移動、いや、身体強化か?」


「しーらないっ!」


「狙いは俺、てのはわかってる。目的は何だ?」


 手を離し、くるりとターンしてピエロの男は数歩熱川から離れる。まるで子どものように軽くスキップをしながら彼の前で行ったり来たりした。


「それにしてもさすがはクリムゾン・ノヴァってことだよね。世界に十人しかいないインボーンの肩書きは伊達じゃない! あいつをこれだけ滅多打ちにするなんてね! 気が向いて様子を見に来なければ殺されてたよ。危ない危ない。うーん、やっぱり強いっ! さすがは二年前にコープス・マンを殺して、関東事件を終わりに導いただけある」


 最後だけ嫌に静かで、冷たい口調。首元に尖ったナイフを突きつけられるようなそんな心地がした。スキップをやめ、ピエロは立ち止まる。首だけを熱川の方へ向け、その塗り固められた笑みでじっと彼を見つめた。


「お前ら、ひょっとして信者たちか?」


「さーて、どうでしょーか?」


 いきなりピエロ面はクリムゾン・ノヴァの両肩に手を乗せ、キスでも迫るかの勢いでぐっと顔を近づけた。視界いっぱいに広がる白い顔と派手な色使いが気味悪い。また気付かぬうちに間合いに入り込まれ、肩に手まで置かれたことで、熱川はごくりと生唾を飲み込んだ。


「ボクたちがどういう集団なのかは教えませーん。でもとりあえず狙いがクリムゾン・ノヴァ、うん熱川勇雄ってのは正しい! もちろん君一人ではないけれど!」


「俺一人じゃない? どういうことだ」


 熱川の問いなどないもののように、ピエロの男は自分の話だけを続ける。


「でもまあ目的くらいは教えてあげてもいいかな? ボクらの目的はね」


 一旦言葉が途切れたかと思うと、目の前にピエロの顔はなく、声は後ろからした。相変わらず掌の感触は肩にあり、わけもわからないままに背後に回り込まれたのだと知る。


「復讐だよ」


 冷たい声が、耳元に囁きかけるように告げた。粘っこい音にその言葉が鼓膜を揺する。振り返ると既にそこにはピエロ面の姿はない。肩に置かれた掌の感触も消えていた。


「ひとまず今日は帰ることにするよー! また会う機会はあるからね! その時を楽しみにしておこう! まったねー!」


 背後に密着するように立っていたはずの姿が、最初に立っていた駐車場の入り口にあった。不気味な笑顔のまま、転がっていた鬼の面の男を背負う。小柄なピエロ男の身体は巨体にすっぽりと隠れた。


 瞬き一つしてみれば、既に二人の姿はなくなっていた。


 後残ったのは抉れたアスファルトと、所々に散った鬼男の血。そして耳の中で反響し続ける鉄刃の如く冷たい「復讐」の一言だった。


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