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現在=平穏

 目が醒めた。

 

 ゆっくりと瞼を押し上げていくと、先ほどまでのくすんだ空は、真っ白な雲の漂う広い青空へと戻っている。風に乗って流れていく羊のような雲たちを少しの間ぼんやりと眺めていた。

 

 最後の小さな雲が視界の端に消えてからのんびりと上体を起こす。ぐるりと周囲を見渡してみても、血なまぐさい景色はどこにもない。木立の影で休んでいたり、ベンチで談笑したりする学生の姿があるだけだ。凄惨の夢の景色とはかけ離れた、大学の穏やかな日常風景に熱川勇雄は安堵の息を吐いた。

 

 大きく伸びをして固い石のベンチから腰を上げる。どれくらい寝ていたのだろうか確認しようと腕時計に目を落とした。針はすでに午後二時半を回っている。昼食を終えてすぐに横になったから、二時間近くは寝ていたことになる。長い昼寝のせいか少しばかり頭が重かった。


 「これ、いさっちのじゃない?」

 

 歩き出した熱川を、明るい女の子の声が呼び止めた。彼が振り向くよりも早く声の主は正面に回り込み、手にした本を差し出す。

 

 古ぼけて黄ばんだ本に似合わない、軽やかな笑みを浮かべるのは友人の風町爽奈だった。くりくりとよく動く大きな目が特徴的で、少し丸みを帯びた鼻が彼女にマスコットのような可愛さを与えている。色を抜いた明るめな髪は肩の辺りで切りそろえられ、熱川よりも頭一つ分ほど低い位置で、日の光にちらり反射していた。快活さだとか元気という単語が似合う彼女は、純真な笑みを浮かべたままもう一度古ぼけた本をこちらに押しやった。


 「ありがとう。どこに落ちてた?」

 

 受け取った本を鞄にしまいながら尋ねる。


 「ベンチのとこ。今まで読んでたんじゃないの?」


 「そう言えばそうだった」 

 

 ちょっと記憶の糸を手繰ってみれば、自分が活字を追っている内に睡魔にやられたことがすぐに思い出された。風町は「ばかだねえ」と言いながらけらけらと笑う。


 「その本古そうだし高そうだし、もっと丁寧に扱いなさい」


 「借りた本だしな。危ない危ない」

 

 申し訳程度に本の表紙を払い、今度こそ鞄の奥にしまい込んだ。チャックを引き、それからすぐに去っていかない風町に熱川は尋ねた。


 「なんか俺に用事?」


 「ううん。これから私帰るところだから」


 「どうせ帰る場所は一緒だ、と」

 

 風町は大きく頷いた。

 

 二人は何も同棲している恋人同士というわけではない。ただの仲の良い同じ大学の学生同士だ。少し普通と違うのは、彼らは同じアパートのそれも隣同士の部屋に暮らすご近所さん同士でもあると言うことだ。あまり学生のいない古ぼけたアパートだが、何の因果か同じ学校の学生が隣の部屋に居合わせた。加えて片方は明るい性格の風町であり、熱川も別段人見知りというわけでもなく、人付き合いは得意な方であったから仲良くならないはずがなかった。学年的には風町が一つ下ではあるが、彼女は浪人生であり、年齢的には変わらない。寧ろ早生まれなぶん、熱川の方が年下である。学部も異なるから、二人の間には先輩後輩という概念ははなから存在しない。そのせいもあってか、打ち解けるのは随分と早かった。

 

 自分の数歩先を行く隣人は、アスファルトの溝をなぞるようにバランスを取りながら歩いて行く。背中の赤いリュックサックがその動きに合わせて左右に揺れた。


 「そういえばなんで土曜なのに学校にいるんだ? 授業?」

 

 

 揺れるリュックを目で追いかけながら尋ねる。


 「それはいさっちも一緒でしょ。なんで学校に?」


 「俺は図書館でレポートの続き。来週提出の授業があるからな」


 「ふーん。まあ私は授業でも何でもなくサークルだけどね」


 「あー、例の卑猥なサークル」


 「卑猥って言うな! ほんっとあの略称つけた人を見つけたら絶対説教かましてやるからな!」

 

 振り返って風町は大声で抗議した。拍子にリュックが横に揺れて小柄な彼女の身体は若干振り回される形となる。


 「だってヒーロー研究会、略してH研。十分卑猥な名前じゃん。Hな研究会」


 「ほんと嫌な思考回路。活動内容はまともなのに! とてもまともなのに! 略称のせいで人が増えないって新歓の時に会長が嘆いてた」


 「でも最初は戸惑ったでしょ? H研」


 「ぐっ……」


 「インカレなんだっけ、H研」


 「一応ね。会長はうちの大学の人だけど、実質一番力があるというか、研究熱心なのは外の人。誰も会ったことないんだって、その人には。二年生らしいんだけど毎月一回のミーティングには膨大なヒーローの研究結果とか材料をデータとして送ってくるみたいで。みんな影では裏番長って呼んでるみたい」


 「へえ。変な人もいるもんだな」


 「そうだよねえ。でも! その研究報告書に書かれてることは凄いんだよ。どこでこんな情報手に入れてるんだ、って感じでさ。私も入会するまでは博識を自負してたけど、その人の情報はオタクとかマニアのレベルを超えてるよ!」


 「それは博識っていうのか……?」


 「博士的な知識。これからは風町博士と呼びなさい」

 

 博学多識の略称である、とは指摘しないでおいた。


 「で、例えばその報告書にはどんなことが書いてあるんだ?」

 

 校門を出たところの歩道橋階段を登りながら風町は口元に細い指を当てる。少し考えてから指折りに答えた。


 「身長体重、能力の系統、主な活動地域、過去の業績、本名、住所、恋人の有無」


 「割と知られちゃいけない情報まで握られてるんだけど」


 「でも別に全員の情報を把握してるわけじゃないよ。細かいところまでわかってるのはほんの一握り。しかもどうでもいい下っ端ヒーローが大半だしね」


 「それでも機関にばれたら抹殺されるかもな」


 「わ、私はあくまでそういう情報を集めたものがサークルの中にあるというのを知っているだけであって! 私自身が集めた情報ではないわけで!」


 「別に俺はヒーロー機関の回し者でもなんでもないしな。見て見ぬふりだ」

 

 慌てたように否定した風町に笑って見せる。


 「しかしそんなに面白いかね、ヒーローは」


 「あたりきしゃりきの車引きよ! ……ふふふ、それは私にとっては愚問以外の何ものでもないね」


 隣を歩く彼女は一瞬だけ足を止め、周りの目も気にせず堂々と言い放った。すぐまた熱川の隣に並んで深く息を吸い込むと、


「現代社会における警察消防軍事のどれかも離れた治安維持の存在国の組織ではなくヒーロー機関の定めた特定の試験をパスすることで誰でもなれるんだよ非合法の能力者たちもだいぶ増えてきて能力者を人員として採用していない警察消防機関よりヒーローのほうが信頼に足るとも言われてるしね活躍が認められれば協会から莫大な報奨金ももらえるから生活も安定できるし二年前の関東事件以来ヒーローに対する信頼は高まってきて去年の子供が将来なりたい職業ランキングで二位に入ってるんだからよくヒーローは人命救助やトラブル解決の点では素人だろうがとかなんとか仰る方がおりますが私に言わせればそんなことを言う人はぬ る い し あ ま い その問題を易々と乗り越えてみせるのがヒーロー個人の持つ特殊能力でしょ最近は裏のルートで非合法の脳波解析手術が蔓延ってるらしいし図に乗った違法能力者たちがしょっちゅう犯罪に関わっててヒーロー無しじゃ今頃私たちの住んでる町だって犯罪者の巣窟になる可能性だってあるんだよそれに大半のヒーローは本業ではなく副業半ばボランティアの精神でやってるから政府に飼い慣らされた警察や軍隊なんかよりよっぽど役に立つんだよ! はぁぁぁ! ヒーローってやっぱりいいわぁぁああ……」


「あ、ああそうだね……」


 機銃掃射を髣髴とさせる語り口に圧倒され、熱川は少し引き気味で小さく頷いた。関東事件、という言葉が彼の胸を突いたが風町には関係のないことである。何も言わずに流した。


「ま、とは言っても誰でもなれるけど、誰でもなれないほど機関の試験は難しいんだよねえ……」


「へえ。やっぱり能力の関係とか?」


 さも何も知らないかのように熱川は尋ねる。


「そうそれ。やっぱりどこかヒーローって対能力者用って役割があるから、能力を持ち合わせてないと難しいんだよね。脳波解析の手術を受けたところで、一〇〇パーセント能力が顕現する、ってわけでもないし」


「風町は手術受けたいとは?」


「思わないよ。というか私はヒーローになるというよりは、ヒーローを見ていたいから資格受験をするつもりはないんだ。あくまで一般論としてね」


「野球中継が好きなオヤジと一緒か」


「喩え方もうちょっと何とかならないの? 仮にも文学部でしょ?」


「文学部がみんな日本語に長けていると思うなよ」


 熱川は不満気に口を鳴らした。いつの間にか二人は大学の最寄り駅まで来ていた。改札を抜け二階にあるホームへと向かいながら、二人は会話を続けた。


「ああ、でも私がインボーンだったらヒーローになってたかも!」


「手術じゃなく生まれつき能力を授かった人、だっけ?」


「そうそう。世界に十人しかいない天性の能力者。私の憧れるクリムゾン・ノヴァ様みたいな!」


 とぼけた調子で会話を繋ごうとしていた熱川は、変化球のような突然の言葉に思わず咳き込む。出かけた言葉が喉の奥で絡まった。そんな彼を下から覗き込むようにして、風町は心配そうな顔を見せた。


「どうしたの?」


「いや、なんでもない。好きなヒーロー初めて聞いたから。意外なヒーローが好きなんだな、と思って」


「意外? ヒーローの中のヒーローじゃないか! クリムゾン・ノヴァ!」


 黄色い声を上げ、風町はリュックの中をまさぐった。中から取りだしたのは自身が授業に使っていると思しき黄色い筆箱。女の子らしさのあるかわいらしい筆箱だが、彼女が手に持った途端、じゃらりと重い音が鳴った。音の正体は筆箱のチャック金具の部分にこれでもかと括り付けられた人形や缶バッジ、ストラップの類である。全てが赤で彩られた、クリムゾン・ノヴァ関連のグッズであった。その量の多さ故に、筆箱の方がアクセサリーと化している有様。


「これはガチャポンの景品で、こっちのストラップはヒーロー専門店ヒロメイト限定のストラップと缶バッジ。あとこれも、こっちもそう…………確かに関東事件以来全然活躍してないけど、コープス・マンを最終的に倒したのだって、ノヴァ様なんだよ!」


「……そうだね」


 風町が何も知らないのはわかっており、当然そうあるべきなのは承知していた。けれども少し前にあんな夢を見たばかりであるから、丸まった刃を剥き身の心臓に当てられているような感覚に落とされる。身体を強ばらせていないと、ふとした拍子に風町をホームから突き落とすかも分からない。わずかに持ち上がりかけた腕を必死に押さえつけた。


 そんなタイミングでけたたましい車輪の音と共に電車が滑り込んでくる。身体中に覆い被さるような騒音の塊が、都合良く熱川の不快感を取り去っていった。開いたドアをくぐり、車内に入る頃には胸に来る嫌な感覚もだいぶ和らいでいた。


「なんたってあの真紅のスーツがいいんだよね! ヒーロースーツがあるってだけで国内でも指折りのヒーローだっていうのに、さらに世界に十人しかいないと言われているインボーンの一人! 絶対無敗の最高なヒーローだよ彼は!」


 拳を握りしめて語る風町の横顔をチラリと流し見る。不思議と今は抱き続けている罪悪感よりも、ひたすら友人にヒーローの姿の自分を誉められている言い難い高揚感の方が勝っていた。ただのお世辞や生半可な好みではない。心の底から思慕の念を注がれているからだろうな、と熱川は一人口の端を緩めて思った。


「どうしたのにやにやして?」


「思い出し笑いだよ」


 窓の外を流れていく景色を見ながら熱川はもう一度だけ笑った。


 それから他愛もない話を続け電車に揺られること三〇分弱。二度の乗り換えを経て二人は自宅の最寄り駅に着いた。休日の夕方ともあって、部活帰りの中高生が改札の辺りにかたまっている。その間を縫うように通り抜けて帰路に着いた。日が落ち始めるこの時間帯、梅雨真っ直中の肌寒さが半袖には少しばかり堪える。アスファルトには前日に染み込んだ雨が濃淡をくっきりと作りだしていた。近所の幼稚園の軒先では園児たちの作ったカラフルなてるてる坊主が時折吹く風に踊る。


「それにしてもお前はヒーローの事となると随分と熱くなるよな」


「私はいつでも熱血キャラだよ」 


「お前の普段は熱血とは言わない。アホ元気という」


「なんだと!」


 風町は熱川の肩を軽く叩いた。不満げに頬を膨らませる。


「ヒーローはね、自然と人を熱くさせるのさ! 人智を超えた特異な能力、謎に包まれた正体、困っている人に手を差し伸べる正義の心! 憧れないわけがないでしょ! いさっちだって本当はクリムゾン・ノヴァの大ファンだったりするんじゃない?」


「まさかそんなわけない」


 自分で自分のファンになるヒーローがどこにいる、とは思っても口にはしない。隣で楽しそうにしている彼女の夢を壊しかねないとも思ったからだ。それにヒーローは自身の正体の守秘義務がある。よほどのことがない限り、ましてや日常の会話の中でさらりと自分の正体をさらしていいわけがない。


「うう、ノヴァ様の正体が知りたいよぉ! きっとヒーローの時同様めちゃくちゃかっこいいんだろうなぁ!」


「……もしかしたらヒーロースーツ脱いだらただのダサいやつ、だったりするかもよ?」


「そんなことは……むっ、いさっちは私のクリムゾン・ノヴァ様を愚弄するのか!」


「しないよ。断じてしない」


 首を横に振る。彼女の頭の中ではとんでもない想像が巡らされているようだった。軽やかなスキップで坂道を駆けていくその姿を見て、いよいよ自分の正体を知られるわけにはいかない。


 アパートの前までやってきた。不安定な階段を上がって、風町は二〇四号室、熱川は二〇三号室の前に立つ。


 鞄の中の鍵を探りつつ、風町はそれまでの会話を締めくくるように言った。


「要するにヒーローは最高なんだよ。私たちヒーロー研究会はいつでも新規会員を募集しているので、興味があったら隣の部屋の風町爽奈まで!」


 眩しいくらいの笑顔を放ってから彼女は部屋の中に入っていく。去り際に振られた手に答えながら、相変わらず人生が楽しそうなやつだなと熱川は思った。


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