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正義=終結

「冗談だよ」


 走り出した足を思わず止める。ラピッド・ファーストは掲げでいた三本指をすいと下ろした。


「なにがだ?」

「安心していいよ。この事務所にはもう僕と嵐以外の人間はいない」

「は?」

「そのまんまの意味さ」

「なら俺たちを襲いに来た奴らはどうしたんだ? この時のためにわざわざ育ててきたっていう連中を、まさか今更手放すわけがないだろ?」

「手放したよ。せっかく一年掛けて育てて来たのに、最後の最後で僕の計画に賛同しかねるとか言い出したからね」


 ラピッド・ファーストは首を振って、ため息でも吐くような素振りをする。


「ヒーロー研究会って言うから少しは期待したんだけどね。結局はただ明確な意志も正義も無しに、ヒーローに憧れを抱いているバカどもの巣窟だった、ってことだね」

「……何を言い出すんだ? ヒーロー研究会だって?」

「そうだよ。知ってるだろ? なんってったってキミの友達、風町爽奈も所属してるんだからね」


 突然な告白にクリムゾン・ノヴァは何も言葉が見つからなかったが、一つだけ思い当たる節があった。


「裏番長」

「そうさ、そうだよ、そのとおり! よくよく考えてご覧よ! どうしてしがない大学サークルにあれだけの情報が集まる? 一般人しか集まり得ないようなあの場所に? ヒーローの詳細な個人情報なんて機関の上位数%くらいしかしらないのに! どうしてただの学生サークルが知っているよ!?」

「何のために情報を流した?」


 平静を保たせ、一語一語はっきりと口にする。

「何のため? 僕の力になってもらうためさ。そのためには正確なヒーローの情報を知り、その正確さに違和感を抱き、僕に直接コンタクトをとってくるような人間が欲しかった! そしたら案の定何人もの人間が僕に直接連絡を取ろうと試みたようでさ。そりゃあインカレサークルでいろんな大学から人が集まってくるから気付くヤツは気付くよね。キミのお友達は違ったみたいだけど」

「つまり、俺たちを狙ってきた面の人たちは、元々はH研に所属してた各々の大学の学生って事か?」


 ラピッド・ファーストは大仰に頷いて見せた。


「そういうことだよ。彼らもあの事件の結末には違和感を持っていたみたいでね。僕が親切に情報を開示してあげたら、打倒クリムゾン・ノヴァの為に立ち上がってくれた。勿論能力開発の脳波解析手術を施した上で、ね」


 奥歯を噛み、拳を握りしめた。ラピッド・ファーストの言う脳波解析手術は、彼自身やクリムゾン・ノヴァの持つものとは違う。どこからか漏れ出し、世間の裏側へと蔓延した非合法の手術。金さえ払えば適性如何に関わらず施術してもらえるが、成功失敗や、生死の行方については保証がない。機関としても違法手術の大元を探っている最中であり、本来ならばヒーローたるラピッド・ファーストが推奨していいはずのないことなのだ。


「本当にバカなのはお前の方だよ、力丸」

「どうしてさ?」

「全てを知った挙げ句に捨てられた学生や、そしてさっきの発言を世界へ垂れ流しにしていることが機関に知られたらどうする? 間違いなくお前は無事では済まないぞ」


 クリムゾン・ノヴァがそう言い放った後、しばしの沈黙が訪れた。二人のヒーローは互いに睨み合い、やがて青い装甲の方が含むような笑いを溢す。それは段々と騒々しさを増し、最後には高らかな勝利宣言ともとれる笑いに変わった。


「なーんにも! なーんにも問題はないね! なぜなら僕がキミを殺すのは最終目的ではなくて、あくまで過程に存在する壁の一つに過ぎないからさ」

「なら最終目的ってのはなんだ?」

「機関の掲げる偽りの正義を崩壊させ、新たな正義の名の下にヒーロー機関を再構築すること。そのために死んでいった連中は大義のための礎だ」

「手放したってのは、殺したって事か?」

「ああ。僕の最終目的を話したら、怖じ気づいて降りるとか言い出したからね。機関そのものに手を出すのは怖いらしい」

「お前……!」

「なんだい? 自分が正義のために大量殺戮を行ったことは棚に上げて、ボクが正義のために行った数人程度の殺人を咎めるって言うのかい?」


 ラピッド・ファーストはわざとらしく首を傾げて見せた。言いかけた言葉を、クリムゾン・ノヴァは喉の奥に追いやられる。


 押し潰すように迫ってくるラピッド・ファーストに、圧迫され彼はその場から足が動かせない。距離なく向き合ったラピッド・ファーストは太いナイフを差し込んでいくように言葉を口にした。


「たったの悪一人のために一般人を何百人と殺さざるを得なかった軟弱なヒーローしかおらず、そしてそれを命じた機関の考え方は腐っているだろう?」

「だけど……あの時にはあれが最善の選択肢だったんだ! あそこでコープス・マンを止めてなければもっと多くの人が死ぬハメになってたんだよ!」

「その考えが腐っていると言ってるんだッ!」


 ラピッド・ファーストの怒りや絶望が、咆哮となって事務所全体に響き渡った。


「あの場にいた数百人と全国の一億人を天秤にかけて! イカれた天秤に命を載せてろくすぽ考えもせずに計ったんだろ! 命の価値は平等さ! 平等だとも! だから数が多い方に天秤が傾くって、そう考えたんだろォ! 違ェんだよ! 全ッ然ちげェ! 命は幾つあっても一つなんだよ! 一億の命も百の命も同じ一なんだよ! 同じなんだよ! 百個集まろうが一億集まろうが命の価値は同じなんだよ! 天秤にかけてどちらかに傾くってことはねえんだよォ! そもそもなァ、天秤にかけること自体が間違ってるんだァッ!」


「じゃあどうすればよかったんだよ! あの絶望的な状況下で! 俺はどうすればよかった!?」


 反論の代わりに飛んできたのは真っ青な拳だった。脳天が揺さぶられて、クリムゾン・ノヴァはどっと後ろへ転がり飛ぶ。


「全員助ければいい話じゃねェか!」


 拳を握りしめたままに、ラピッド・ファーストは怒鳴った。


「嵐や、あの場にいた人も、日本全国の人も! そのためのヒーローなんだよ! 俺やお前はただの人間じゃない! 人を助けるためのヒーローなんだよ、勇雄ォ! 何のためにお前はその身体を持って生まれてきたんだよ! その身体が受けた使命を全うしねぇでヒーロー名乗るなんてのはおかしいだろうがァ! なんで殺した! なんで嵐を助けてくれなかったんだよォッ…………!」


 返す言葉がなかった。魂をぶつけるような叫びは、永遠とも思える間部屋に響き、力丸の言葉は熱川の頭の中で途切れることなく反響し続けた。無茶なことを言うんじゃない、とは言えなかった。生まれながらにしてこの能力を、身体を爆発させ、それでいてなお生き続ける、人の枠を飛び出した力を持って生まれた人間なのだから。自分が生まれたときから無茶な存在なのだから、無茶なことを成し遂げられなければ無茶な人間に生まれてきた意味は一体どこへ行くのか。


 握りしめたままの拳は開けず、俯いたままの頭を相手へ向ける事はできなかった。


「ここで言い争ってても、終わっちまったものは帰ってこないさ。嵐だって、いくら俺が完璧に作り上げたところで身体は樹脂だし、中身は機械。心や感情なんて寄せ集めたデータの塊。野道嵐は帰ってきやしないんだよ……二度とな。だから俺はお前を殺さなきゃ気がすまない。これまで気付いてきたお前との仲は偽りじゃない。この事を知るまで俺は心からの親友だって思ってたさ。もしかしたら今でもそうありたいと、心の底では思ってるのかも知れない」


「……! ならまだやり直せるだ」

「けどな。お前のしたことは俺の中に深い爪痕を残した。一生癒えることのない深くて大きい爪痕さ。もう戻れないんだよ。どれだけ願ってももう俺たちは元の関係には戻れない。もう引き返せなくなっちまったんだよ」


 寂しそうにそう告げ、力丸は腰を落とした。膝を浅く曲げ、青く細い上体を一本槍の様に前へと突き出す。対して熱川の方は呆然と立つのが精一杯で、これから力丸が全力で自分に突撃しようと受け止めることも、跳ね返すことも出来ないだろう。無様に正面からぶつかって反対側に吹っ飛ばされるのは目に見えていた。


「……静姐さんの能力もそろそろ切れる頃合いだろ? もう時間がない。全力で行かせてもらうよ」


 張り詰めた糸が引き絞られるような音が聞こえてきた。それは正面からで、対峙したラピッド・ファーストの身体、青い装甲の周りには得体の知れない靄が渦巻いている。本気で挑むことの証しか。肉体も能力もスーツも、全てを使い切る覚悟で彼は目の前に立っていた。


 その時、怯むような爆音が外から立て続けに聞こえ、思わずクリムゾン・ノヴァは身を震わせる。しかしラピッド・ファーストはそんな轟音などいとも介さない様子。またしても小さな爆発が起きたかと思うと、彼の足下の床板が宙に飛び出すのが見え、引きちぎれたカーペットの灰色が映り、姿が見えなくなった。肩が深く自分の腹に食い込むまでは。


 肺の中の空気がどっと逃げていく。痛みよりも息苦しさが上回る。次いで浮遊感。コンマ数秒の世界が、映像フィルムを眺めるように一つ一つ刻々と目の前を流れていく。生じた痛みに悶える間もなく、ラピッド・ファーストは追い打ちを掛けてきた。


 どこに何が当たり、入れられ、ぶつけられるのか。手なのか足なのか頭なのか。四方八方からやってくる打撃の連続は激しくクリムゾン・ノヴァの脳を揺さぶる。一度大技を喰らって吹き飛ばされる形で相手から距離を取ったが、反撃に踏み込む余裕もなく腕を立ててガードの構えに入るのが精一杯だった。


 攻撃が見えない。致命的であった。ラピッド・ファーストの放つ拳も足も、そもそも出だしがわからない。ぴくりと震えるように四肢が動いたかと思うと、次の瞬間には衝撃に変わって自分の身体に飛び込んでくる。戦い慣れして平均値よりも高い動体視力を保持している身としても、それを回避、防御することはおろか、認識することすら出来ない。


「……!」


 相手の肩が痙攣するように動く。パンチがくるのを予測し、ガードをそちら側へ寄せた。が、ガードを固めるよりずっと速く、ラピッド・ファーストの神速の右フックがクリムゾン・ノヴァの左顔面を捉える。間もなく続く左フック。片方ずつ喰らったのではなく、両拳に顔面を挟み込まれたかのように感じた。

 持って行かれそうになる身体を、踏ん張ってその場に留める。歯を食いしばり、反撃することに意識をかき集め装甲で覆われた拳を固めた。崩れた体勢から放つ一発だが、肘の骨肉を絶って付け加わった速度が存在し、並の人間には避けられない。並の人間には。


「意味ねえんだよ!」


 青いマスクが怒鳴る。威力の増した拳も、彼の装甲に辿り着く前に軽々と弾かれる。軽やかに振ったかに見えた腕が、拳を外側へ逸らした。顎へ飛んでくる掌底。衝撃が波となって頭に浸透する。体重が頭一点に集約されたかのような、ずしりとした重みを覚える。視界に稲妻が散って、意識が肉体を離れていく気味の悪い浮遊感がクリムゾン・ノヴァを襲った。ここで意識が飛べばもう勝算はない。


 腕が引かれた。掌底を受け宙に浮いた身体を、ラピッド・ファーストの腕が地上へ引き留めた。まるでダンスのエスコートをされているかの緩慢とした時の流れ。


 続く重い打撃。


 装甲越しに伝わる膝の一撃が、クリムゾン・ノヴァを身体の底から震撼させる。飛びかけた意識は再び肉体へと舞い戻ってきたが、同時に死すら快く思わせるほどの激しい痛みを引き連れてきた。裸の臓器を直に押しつぶされるかの如く。声にならない苦鳴が奥底から溢れた。掴まれた腕はまだ離れない。手首を固く握りしめられ、いくら喚こうと固く閉じられた錠前のように、外れる気配を寸分たりとも滲ませなかった。相手の左手に封じられた右腕はそのままに、脇の下から空いていたもう片方の腕が添えられる。


 担ぎ上げられ、そして投げ飛ばされた。


 それは背負い投げの体を成していたが、背負い投げではなかった。投げ落とす先は真下の床などではなく、遥か先。もはや投擲の領分である。重心を崩すだとか、目一杯相手を引き込むだとかは考えていないだろう。純粋な力と速さだけを用いて放り投げたのだ。


 束の間の浮遊感。逆転した視界の中央に、ラピッド・ファーストの立ち姿を捉える。自我なき綿の人形同然宙を舞ったクリムゾン・ノヴァは、床を跳ね、激しく横転を繰り返した。数メートルと距離を置いて無様にうつ伏せで転がった彼は、蜘蛛の巣のように節々へと広がった痛みに歯を軋ませ、金物を打ち据えられたかのようにぐわんぐわんと響く頭を敵の方へと向けた。睨んでいるつもりの両眼も焦点が定まらない。耳鳴りが、魔物の叫び声のように神経を蝕む。ゆっくり近付いてくるラピッド・ファーストの姿はただの青染めの影であり、足音も聞こえない。立ち上がるだけの余力もなく、死にかけの虫けら同然。這いつくばって苦し紛れにカーペットを指先で削り取るくらいの抵抗しか許されなかった。


 左右のフックからここへ至るまでの時間は僅かに数秒と言ったところだろう。打撃が投げへと繋がった流れるような所作の中に、微かにも抵抗の余地や反撃の余地は残されていなかった。ましてやそれを意識することすらも。常人の三〇〇も先の世界を生きる相手にとって、クリムゾン・ノヴァなど抜け殻のようなものだ。挙動も思考もなく自分の力を真っ直ぐに受け止める質量を持った塊。

 勝てるはずがない。

 霞行く視界の中で、胸中に生まれた感覚は確証か。速さというものは突き詰めれば時へ干渉する。一方向性しかもたない唯一不変の現象に触れる者は、紛れもない人越の存在。クリムゾン・ノヴァが生まれながらにして人智を越えた力の持ち主であったとしても、そこには明確で越えることの出来ない境界線が引かれている。立ち入ることは禁忌。


 それでもクリムゾン・ノヴァは明瞭に働かない頭を動かし、答えを探った。己と相手との間に引かれた境界線を越えてゆくための答えを。


 微かに足音が聞こえ、すぐそこでラピッド・ファーストが足を止めたのを、気配で悟った。


「諦めろ。いくらお前がインボーンであろうと、覚醒した俺の力の前に出来ることは何一つない」


 冷めた声が降ってきた。はっきりと聞こえたわけではないが、言わんとしていることはわかった。そこいらにこぼれ落ちた勝利への欠片をつかみ取ろうとするように、クリムゾン・ノヴァは床に広げた手指を握り込む。


 一つ。状況を覆せる策が浮かぶ。それは唯一彼だけが成せること。自らの身体を捧げ、このマンションごと、否、この周囲数百メートル圏内をまるごと灰燼に帰す最後の手段。


「二年前と同じ事をしようとしてんのか?」


 冷酷さを孕んだ声が、自らを睨みつけるクリムゾン・ノヴァの気配から悟ったのか、先回りにそう述べた。


 そんな考えは追い払う。二年前と同じ事を繰り返すことはしない。今度は誰も殺さずに全てを終わらせてみせると。だが、そう思えば思うほどにラピッド・ファーストの能力が牙を鋭き瘤を剥き出しにした魔神のように思え、枷となってクリムゾン・ノヴァの思考や行動に制約を設ける。彼へ対抗する為の手段が端から消えていくのだった。


「……!」


 絶望の淵を思い浮かべた時、不意にそこへ活路の橋が架かるのを見た。誰の命も奪うことなく、ラピッド・ファーストに対抗しうるたった一つの冴えたやり方。


 腕に、指先に力を入れた。まだ動く。ならば十分に勝機はクリムゾン・ノヴァの手中にあった。弱々しく震える右腕を伸ばし、力の入らない指へ力を込めて、彼は目と鼻の先にあったラピッド・ファーストの左足首を握りしめた。


「まだやるってのか? ここまで力の差を見せつけてなお」


 息を荒げてラピッド・ファーストは言う。能力と肉体の酷使のせいか、肩を激しく振るわせ上下させる様は、既に彼の身体が限界値に達しようとしていることを示していた。


「ヒーローは……みんなを助ける……存在なんだろ……? 強くなきゃ……諦めちゃだめなんだろ?」


「……今更ヒーロー面してんじゃねえよ。二年前に大量殺戮を犯した時点で……お前に、……お前にヒーローを名乗る資格はねえんだよ!」

「…………実は、俺もお前に言ってない能力があった」

「そんなもの今更聞いてなんになる! その手を今すぐどけろ!」


 クリムゾン・ノヴァの握りしめた左足を、ラピッド・ファーストは大きく蹴り上げた。抗う力の無いクリムゾン・ノヴァはあっけなく足を離れ、脱力したまま部屋の壁に激突する。背中をしたたかに打ちつけて、息の仕方を忘れる。剥がれ落ちた壁の破片が頭部の装甲に降り注いで、軽く音を立てた。


「もういい。お前は死ね。殺す。腐った正義に飼い慣らされたお前がヒーローである意義は、どこにも存在しないのだから」


 足に絡みついた右手を剥がすこともせず、身を屈め、ラピッド・ファーストはクラウチングスタートにも似た姿勢を取った。


 壁を背に寄りかかりながら、熱川は右腕に目を落とす。どくどくと血が脈打ち、灼けるようだ。視線の先は手首から上が存在しない。赤い装甲は途中で歯引きちぎれ、掌や五指はない。筒状に伸びた腕が血を燻らせているだけだ。


 蹴り飛ばされる瞬間、クリムゾン・ノヴァは能力を使用し、自らの右手首を切り離した。


「別に隠してたわけじゃない。言う必要がなかっただけさ」


 手首の先は何処か。答えは、彼が右腕からあげた視線の先にある。赤い装甲の手は、しかとラピッド・ファーストの足首を握り続けていた。


 低く身を屈めた彼がこちらへと飛び出す瞬間を、クリムゾン・ノヴァは克明に知覚した。脚に力がこもり、床上の塵が宙へと舞って、大きく腕を振りかぶったラピッド・ファーストが一歩踏み出すその瞬間を。彼の感じる三〇〇倍に拡張された世界の中に、極限状態のクリムゾン・ノヴァは、無意識のうちに身を投じていた。しかし哀しきかな、そこは本来ならば不可侵の領分。立ち上がり体技を駆使して敵を迎え撃つまでの力を、彼は余していなかった。出来ることなど手足を動かすくらい。


 だがそれで十分だった。


「……よく聞け……俺が爆発で切り離した部位はな、次が完全に再生するまで自分の支配下にあるんだよ」


 灼けるような痛みはもうない。右手の先に何かの蠢きを感じ、再生の兆しと取った。未だクリムゾン・ノヴァにとっての右手は、ラピッド・ファーストの足首にある。彼は肉体から離れた右手の指に力を込めた。


「悪いな、力丸。足はもらった」


 人差し指、中指、薬指。三本の指が内側から熱を持ち、幾度となく経験した衝撃が指の付け根からせり上がってくる。骨の粉砕し、破片となって肉を裂き、皮破って血を散らす感覚。慣れぬ激痛への叫びを喉奧に押しとどめる。爆ぜた三本指の破壊は手榴弾を遥かに凌ぐ。ラピッド・ファーストの強固な装甲を外側から突き破り、彼のアキレス腱を引き千切った。


「なッ……!」


 枷となって密着したクリムゾン・ノヴァの手を回避することは叶わず、ラピッド・ファーストは己の足を失い、勢いそのままにクリムゾン・ノヴァのそばへ倒れ込んだ。


 メートルもない狭間で、まだ彼は諦めようとせず、這いつくばって迫る。だがどれだけ足掻こうと能力を封じられたも同然の人間が出せる手は存在しなかった。


 力尽き仰向けになったラピッド・ファーストの装甲から青い光が散り、スーツが解けた。スーツの装着は肉体と精神に深く結びつく。それが解除されたと言うことは彼の身体が限界に達し、もう戦う必要はなくなったのだ判断し、クリムゾン・ノヴァも自らのスーツを解く。


「……くそが……痛ェ」


 困憊した表情で、力丸は辛そうに顔を歪ませた。彼の足からは血が線となって床に流れていく。左の踵は、半月状の跡を残して抉られ、その周囲には足首を握りしめるように手首から先の手が絡みついていた。


 赤く染まった手首の先に力を込める。離れていても動くというのは、いつ味わっても不思議な感覚だった。視線の先で数本指の欠けた掌が、そっと力丸の足首から離れる。争うつもりはもうない、という熱川なりの意思表示だった。


「……ふざけたことすんな」

「は?」


 苦痛に表情をしかめた力丸は、絞り出すような声と共に熱川を睨み上げる。


「殺せよ。俺の足はお前みたいに再生しやしない。加速を武器にする俺から足を奪えば、もう戦う術はないんだ。後はお前の一人舞台だ。好きに殺せ」

「何言ってんの?」

「……何言ってんの、だと? 俺はお前を殺しに来たんだ。くだらねえ情なんかかけんな。お前とはもう敵同士であり、助けられる義理なんかこれっぽっちもないんだよ」


 震える腕が熱川の足首を渾身の力で握りしめた。とうに能力を使い果たした挙動は、驚くほど遅くて、避けようと思えば容易に避けられたはず。だが、こちらを見上げる鬼気迫る力丸の表情に押さえつけられたかのようになって、熱川は一歩たりとも動くことが出来なかった。


「まだやり直せるとか不抜けたこと言うなよ。命を狙ったものと狙われたものが平然と付き合っていけるなんてこと、この世界には起こりやしない」

「わかったよ。けど、殺しはしない」

「あ?」

「俺はお前を殺さないぞ、力丸。お前がまだ芯から悪に染まりきっていないと信じているから、ここでお前を殺すことは正しくない。正義じゃない。もう、俺は俺の正義を犯しはしない」

「正義? 腐った正義に囚われてきた人間が今更何を言うって?」

「そうさ。腐った正義さ。今回お前が掲げた正義だって腐ってる。俺やお前だけじゃない。世界中で正義だと認識されている全てが腐ってるんだよ。正義なんてのは所詮正義側から見たものに過ぎないからな。絶対の正義はどこにも存在しない。人の数だけ正義はあるんだ」

「なら俺の正義は嵐の敵を取ることだ。そのためにはこの国の腐った正義を根底から覆す。機関の老害どもを一人残らず殺し、お前も必ず地の底に葬り去ってやる」


 歯を磨りつぶすように噛み、口の端をひくつかせ修羅の如き形相で熱川を見据える。力丸は憎しみ込めたその手で一際強く熱川の足を握りしめると、それきり気を失って動かなくなった。


「それでも俺はお前を殺さないよ。俺はまだお前とわかり合えるって信じてるから」


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