真相=対峙
翌、金曜日。
東京屈指の繁華街は平日の昼間なれど多くの若者で賑わっていた。喧噪が右から左へ流れていく。固まった集団が足並み揃えて一方向に向かっていくのは、昔何かの番組で目にしたヌーの大移動を思わせた。そんな状態が先ほどから途切れることなく繰り返されるのだから、如何に池袋が休める手もない街かがよく分かる。これだけ盛んならばそこら中でひっきりなしにトラブルが起こっているのだろう。力丸がこの街に拠点を構えたのはヒーローとしてよい選択だ。
宝くじ売り場脇のガードレールに腰掛け、熱川はひっきりなしに駅から吐き出される集団の流れの中に人を探していた。例によって待ち人は静音である。約束の時間まではまだ余裕があるが、彼女が来るのはいつも集合時間丁度。常に十分前行動を心がけている熱川としては、遅刻されている気分だ。
再び駅から吐き出されてきた集団の中に一際目立つ一角を見つけた。黒と茶色のツートンカラーで染まる波の中に、蛍光色甚だしい髪の色が浮かぶ。それが待ち人かと思いガードレールから腰を浮かせたが、似たようなサイケデリック極まりない髪色が後ろに幾つも続いていたので腰を元に戻した。
「静音ちゃんじゃなかったね」
「そうだな」
熱川達の前を通って後ろ抜けていったファンキーヘアの集団は、見るからに中高生と思しき少女達だった。髪に留まらず化粧も服装も派手派手しい彼女たちはこんな時間からどこかのライブハウスにでも駆け込むつもりなのか。学校はどうした学校は、と言いたくなるも、生憎熱川にそうやって窘める権限はない。何せ自分も授業を切り捨ててここに座っているのだから。
授業をサボったことに一抹の罪悪感を感じてため息を吐き、そこでようやく隣に風町がいることに熱川は気がついた。
「何でお前がここに!?」
「え? だっていさっち今日の十時に池袋駅前集合、って言ってたたじゃん!」
「確かに言ってたけど……静音一人に向けていたつもりだったんだけど」
「声大きいから私にも言ってるのかと思った」
理解した、という風に熱川は拳を掌に打つ。
「なるほど。そういう訳か。まあでも家に一人でいるよりは安全かもしれないな」
「でしょ? ってことだから!」
随行を許されたのがそんなに嬉しいのか、風町はガードレールから跳ねて人通りの激しい歩道へと飛び出る。途端に通行人に背中で体当たりをかまして彼女は前のめりにすっ転んだ。
「どこに目ェ付けて歩いてやがんだカス」
同時に辺りを氷漬けにするような冷徹な声が聞こえた。それ当事者でない熱川ですら一瞬震える程の冷酷さを孕んでいたが、白昼堂々不良に絡まれた友人を助けるべく即座にガードレールから立ち上がる。
「す、すみま……あ、静音ちゃん」
震える声で謝罪の文句を搾りだそうとした風町の声が、途中で親しい人間へ向けるそれに変わっていた。
「んだよ。爽奈か。ちゃんと前見てあるけ。通行人の邪魔だ」
鋭い調子は変わらぬが穏やかな内容の文句を言って倒れ込んだ風町を立ち上がらせたのは、待ち人の今岡静音だった。周囲の度肝を抜く赤と紫とピンクの混じった奇抜な髪色は、先ほど同じ場所で見かけた女子集団とは迫力も年季も違う。明らかに違う、どこか威厳のようなものが滲み出ていた。
「待たせたな」
「丁度、だね。行こうか」
人の波に乗るように三人は歩き出した。
「……相変わらずの混み具合だね、こりゃ」
少しばかり弱った素振りを見せながら風町はごった返す人の歩みを見て言う。
「繁華街だしな。これがいつも通りだよ」
「いやあ、よくこれだけ人がいる中で偶然力丸さんに出会えたもんだよね」
ひっきりなしに擦れ違う多様な風貌の群衆を見れば、この広大とも言える駅前広場で旧友に再会できたのは奇跡の産物より他に呼びようがない。草むらの中に一本、色の違う別の草を見つけることよりも遥かに難しいだろう。まず何より人は草と違い、滅多なことでもない限り留り続けることなく現れては消えてしまうのだから。
「んだ、お前ら力丸に会ってたのか?」
「ああ。それで静音の連絡先教えてもらったんだよ」
熱川の言葉を聞いた静音はあからさまに顔をしかめ、唾を吐くように口を鳴らした。
「あのカス……人の断りもなく勝手にモノ教えやがってよォ」
「まあいいじゃないか。相手は俺だったんだしさ」
「フン……てっきり私はお前らがずっと連絡を続けてたのかと思ったよ」
「生憎、俺はこの二年間誰とも連絡を取ってなかったよ」
「いさっちと力丸さんはそんなに仲良かったの?」
ひょい、と横から風町が首を出す。
「そりゃあ気持ちの悪いくらいにな」
静音はため息混じりに言った。肩をすくめ、本気の嫌悪が見て取れるような苦い表情をする。
前回同様人の通りから僅かに外れた通りに入って数十秒も歩けば、力丸のマンションに辿り着いた。
高級ホテルと見紛うような豪勢な概観の前で足を止める。石造りの頑丈そうな門の前に立ち、熱川は艶やかな壁面をなぞるように見上げた。十五を数えたところで視線を定め、カーテンの下ろされた窓をみる。ちらりと、人の影が蠢いた気がした。
「これがあのクソ野郎の家か。業界トップクラスの金持ちとは聞いていたが、ここまでとは思わなかったぜ」
顎を上げたまま口笛を吹いて静音が言う。恐らくは初めて来たのだろうが、それに相応しい感想だった。静音の暮らすマンションも、熱川や風町の安アパートからすれば十分立派なマンションだが、力丸のもの比べてしまえばどうしても見劣りする。
「なんでこんな稼いでやがんだ? あいつ石油王か?」
「ヒーローだよ静音ちゃん」
口調は落ち着いていても、内心の驚き具合が言葉の端から漏れでていた。これまでの根底を尽く覆すような静音の言葉に、熱川は苦笑する。
「しかも力丸さんは、マンションの階をまるまる一つ買い取って生活してるんだよ!? 学生なのに!」
「けっ……いけすかねェ奴だな」
金文字イタリック体でマンション名が刻まれた壁をぎらぎらと鈍く光る両眼で凝視し、ややあって静音は、
「まあ私は城に住んでるヒーローを知ってるからな。そいつに比べりゃ、あいつは平民だ。ど平民だ」
どう解釈してもただの負け惜しみにしか聞こえなかったが、歯を磨りつぶす程に噛む静音にそれを指摘すれば後はどういう結末が待っているのかは考える前でもない。明日になれば池袋のキャラクター、いけふくろうの像と変わって熱川の裸体が飾られることにでもなるだろう。
門を通って、インターホンで力丸へ来たことを告げると、相変わらず調子の高い声で『待ってたぜ』という言葉が返ってきた。久しぶりに池袋で再開したときとも、彼の大学で会ったときとも、昨日電話で話したときとも、何も変わらない。
慰霊碑の名前を見た瞬間、正直なところ熱川の胸中には僅かながら嫌な予感が芽生えた。死んでいるはずなのに、生きている野道嵐という女性。あり得ない現実が、矛盾が、ただの慰霊碑への彫り間違いという簡単な結論で片付けて良いはずのものだとは思えない。その真実には何か大きな闇が口を開けているのではないか。不安とも恐怖とも感覚が、ぞわぞわと広がりつつあった。
恭しく開いた自動ドアをくぐり、エレベーターを使って十五階へ。静まりかえった廊下は、当然の如く住人が一人しかいないからだろう。床もカーペット敷きのせいか、三人がどれだけ足音を立てたとしても柔らかな毛糸の間に吸収されてしまった。
階に一つしかないインターホンを押すと、ドアがばっと開いて力丸が顔をのぞかせた。
「よっ。ちゃんと部屋覚えてたみたいだな」
「一つしかねえからな」
並べてあったスリッパに履き替えて力丸に一番奥の部屋に案内される。廊下の一番奥、玄関の真正面に位置する部屋だ。
広々とした部屋、あるいは殺風景な部屋である。特徴と言えば天井に煌々と白い光を放つ蛍光灯がずらりと並んでいるくらい。七〇畳はあろうという大部屋に、据え置かれた家具は豪奢な書斎デスクと、ベッドのようなソファが二つ。そして縦長の本棚が一つ。それら全て部屋の中央に寄せられる形で、残りのスペースには空の事務机が三つに事務用本棚が幾つか。持ち主もなく、中身もなく並べられている。何をする部屋なのか、何のためにこんなに広い空間を家の中に持っているのか。
「まあ座れって」
並べられたソファに三人横並びになり、力丸と向かい合わせで腰を下ろした。
実際本人を目の前にしても少しも変わった様子は無い。いつも通りの爽やかな表情に、熱川はここに至るまでに絡まって来ていた緊張の糸が解れていくのを感じて、一息吐く。
そこへ身体の斜め上から伸びてきた手が、コトリと熱川の正面に麦茶の注がれたグラスを置いた。白く細い指を追っていくと、その先には柔らかな笑みを浮かべる女性の顔があった。精巧に作られた人形の様な整った顔立ちの美人。力丸を含めた三人にも同様にお茶を並べていくと、清楚な雰囲気の艶やかな黒髪を垂らし、彼女──野道嵐は小さく頭を下げる。
「ああ、嵐さんもいたんだ」
「だってよ、お前が嵐のことを聞きたいって言うから。本人がいた方が何かと都合がいいっしょ?」
「確かにそうかもな」
淑やかな動作で力丸隣に座った嵐は、彼の方を向いて微笑む。力丸も嬉しそうな笑みを返している様を見れば、どこからどう見てもお似合いとしか思えない美男美女のカップルだ。このまま話を聞くことなくお茶だけもらって帰る、そうするのが最良の選択肢なのかもしれない、と熱川は密かに思ったりもする。
「ちッ……」
傍らでふんぞり返って座った静音は、舌打ち混じりに麦茶のグラスを一気に煽った。苛立ちの対象は仲睦まじいカップルが目の前にいるからではなく、嫌いな種類の人間がまた一人女の子をたぶらかしていると思っているからだろう。
野道嵐という女性を目の前にし、動いているをこの目で確認した今、記憶の引き出しから顔を覗かせるのは昨日の慰霊碑。あそこに刻まれたたった漢字三文字は目の前の二人に関係のあることなのか、それともこれから影響を及ぼすのか。関わっていなければいないで、それでいい。しかし関わっていたらどうなる。今、今まさに目の前で微笑む野道嵐という一人の女性の存在は。消えては新たな疑問が次から次へと浮かび上がってくる。螺旋に流れていく疑問は尽きることを知らなかった。
「それで。何が聞きたいんだ?」
何でも聞いてくれ、と付け加えてに力丸は手を広げた。
「ああ。勿論聞くよ」
緊張で早まった鼓動を、麦茶を流し込むことで宥める。力丸は二年前に起きた事を知らない。期間の隠し続けてきた秘密を、当時前線で戦っていなかった力丸は知らないのだ。今慰霊碑の建っているあの場所で、野道嵐という女性の名前が刻まれているあの慰霊碑の足下で何が起きたのかを。熱川は全てを話す覚悟で今、この空間にいる。ソファに座り、力丸の対面に並んだ。
「昨日、俺たちは後楽慰霊公園に行ってきた」
「……そろそろ関東事件から二年経つもんな」
「そこで野道嵐という名前を見た。慰霊碑に今お前の隣にいる彼女の名前があったんだ」
眉をピクリと。澄ましていた力丸の表情が一瞬だが、確かに険しく皺を寄せた。当の嵐本人は寸分たりとも顔を変えず、綺麗に口元に弧を描いた笑みをずっと浮かべるだけだった。
「見間違えじゃないのか?」
再び爽やかないつもと変わらない表情に戻って力丸は問う。
「最初は俺だってそう思った。でも何回も見直したし、静音と風町もその目でちゃんと確認した」
「人違い、って言うのは?」
「田中花子さんとか、山田かおりさん、なんて名前だったらその可能性もあるだろうけどな。野道嵐、なんて名前そう頻繁に見かけるような名前だと思うか? それに、
慰霊碑には享年も記されてた。正直に答えてくれ、嵐さん何歳だ?」
指を絡め合わせて、力丸はいよいよ真剣な眼差しになった。いつもの面影は消え、細めた目でグラスに波立つ麦茶を凝視する。
「一八歳だよ。同い年だからな」
「慰霊碑に刻まれていた野道嵐さんの享年は一六歳。二年前、俺たちは一六歳だったよな」
長い間言葉を発さなかった。発せなかった。何を言っていいのか、悪いのか、それが分からなかったのだ。下手な言葉を口にすればたちまちにこの空間が崩壊してしまう、そんな気がしてならかった。他の四人は分からないが、少なくとも熱川にとっては。
殺風景な部屋の中のどこかにある時計だけがカリカリと止まることなく針を回し続け、何周と盤の上を回った後で、熱川が沈黙を破った。
「お前に大学で会ったその日、俺たち三人はまた例の奴らの襲撃にあった。三人共だ。無関係なはずの風町までな。二年前に自分たちの最も信奉する人間を殺された奴らは見境がない。もはや俺たちだけじゃなく俺たちの周りの人間すら襲う対象にしてるんだ。力丸、そのうちにはお前だって狙われることになる。いや、お前だけならまだしも嵐さんだって奴らの手は及ぶことになるかもしれない」
力丸も嵐も熱川をじっと見たまま、顔色を変えない。
「慰霊碑に名前が刻まれていて、だけど今こうして目の前にいる彼女について何か教えてくれないか? それが今回の事件を何事も無く、これ以上何事も無く終わらせるための一つの大きなきっかけになるかもしれないんだ」
麦茶を飲む。喉が渇いたわけではないが、身体が何か刺激を欲していた。何もせずにただじっと力丸の返事を待っているだけというのは、早まった心臓の脈動が自分を落ち着かせない。何もしないでいるのがこれ程までに苦痛と感じたことはなかった。
「そう……だな。今回の事件は全て二年前の出来事が絡んでいると、お前は考えるんだよな、勇雄」
首を縦に振る。
「わかったよ。俺はその慰霊碑に刻まれた嵐の名前が意味する事を知っている。それが今回の事件とにどう結びつくのかも、全てな。お前がこの事件に臨む理由に、そこにいる爽奈ちゃんを守るためというのがあるのなら尚のこと俺の分かっていることは全て話す」
「……ありがとう」
熱川は小さく顔を綻ばせた。全て話す、という言葉に心のつっかえがとれ、安堵の感が息となって漏れる。両脇に座った二人も抱く気持ちは同じようで、風町は言うまでもなく静音でさえ薄く口の端を開き、微笑を浮かべていた。ただし、突き刺すように向けた両眼に変わりは無かったが。
「けどその前に一つ」
すっ、と静かな動作で力丸の腕が上がる。
「俺は一度言ったことはちゃんとやる。知ってる全てのことを話す。だがそれよりもまず、お前が話そうとしているもう一つの事について教えてくれないか?」
どきんっ、と心臓が跳ね上がった。頭のなかに閃光が迸って白く染まる。テーブルを挟んで対面に座した力丸は、若干の前のめり姿勢で熱川からの返事を待っていた。
「どうしてまだ俺に話すことがあるって?」
「さっきからお前の挙動を見てればそれはな。嵐の事を聞きに来ただけだったら、お前は明らかに怯えすぎだ。何かもう一つ伝え忘れていて、あるいは伝えられなくて、それを言い渋っている、そんな感じがしたんだよ」
「……やってらんねーな」
知らずの内に溜め込んでいた息を吐き出して、熱川は苦い笑い声を上げる。何もかも見抜かれていた事に動揺を隠せなかったが、いずれは口にしなくてはならなかったことだ。そしていつ言うべきか、果たして言うべきなのか渋っていたのも事実。それが力丸によって吐き出しやすくなったことには感謝こそすれである。
また麦茶を飲む。飲まなければ静けさに呑まれそうだ。静音も風町もすべてを熱川に託し、ただ見守るのみで一言も発しない。力丸の隣に寄り添う嵐は、ここに現れてから一切表情を崩すことなく何も言うこともなく場の流れを見守っている。実質この部屋にいるのは力丸と熱川、その二人だけであるようにすら感じた。
「あるんだろ? 話すことが」
「ああ」
膝の上で握った拳に力を込める。心配そうにこちらを覗き込んだ風町に、大丈夫だと目で合図を送った。
小さく息を吸い込む。喉の奧に絡まった思いも一緒に吐き出すよう、熱川は全てを語った。二年前、力丸の知らない所で何が起きていたのか。ずっと、二年という長い間機関の奧の奧に秘匿され続け、決して表に出ることがなかった国内最大級事件の真相を。自分のした全てのこと。熱川勇雄、クリムゾン・ノヴァというヒーローの弱さ無力さがもたらした凄惨な結末。罪のない人々を巻き込み、二度と帰らぬ灰にしてしまったことを。
熱川が話し続けている間、力丸は何も言わなかった。驚くことも、怒り出すことも、呆れることもなく、黙々と熱川の目を見つめていた。
「これが全てだよ。機関の上層部と、俺や静音、当時コープス・マンと対峙した四人のヒーローしか知らない事実。もっとも、今は二人のヒーローがいないけどな」
「勿論爽奈ちゃんも知ってたんだよな?」
風町はこくりと頷いた。
「わかった。それが全てなんだな。数百人もの命を奪ったのは、本当はコープス・マンという犯罪者ではなく、クリムゾン・ノヴァというヒーロー。ならばやはり俺は……」
そこで一旦言葉を句切り、力丸は「嵐、あれ取ってくれ」と一言呼んだ。立ち上がった嵐が、ソファ脇すぐの事務机の上から持ってきたのは一台のノートパソコン。薄型のそれを丁寧に開くと、熱川達三人の方へと画面を向けた。
表示されていたのは世界規模でユーザーを持つ動画共有サイト。サイトの左半分ほどに動画画面が映され、その下には再生回数や評価、コメントを載せる欄が並ぶ。これを見せて何がしたいのか、見せられて数秒の間理解が及ばなかった。しかし、流れている映像に何か見覚えを感じ、一瞬の硬直を経た後熱川は小さく言葉を漏らす。
「おい力丸……これ……」
画面の枠内に収まるのは五人の男女。画面外まで更に床が続いていることが明らかに分かるほど広々とした部屋の真ん中で、二人と三人がテーブルを挟んだソファに腰掛けている。二人の方は男女。三人の方は男が一人に、女が二人。
そしてその三人はテーブルの上に置かれたノートパソコンをじっと覗き込んでいた。
紛れもなくそれは今熱川達がいる空間の光景。
「……ッ!?」
咄嗟に後ろを振り仰ぐ。画面上のアングルは熱川達を斜め上後方からのもの。何メートルと広がった部屋の端から端に視線を走らせ、今もなお自分たちを密かに録画し続けるカメラを探す。
「見つけてもらっても構わないけど、多分見つけられないって。結構カメラを隠すの苦労したんだから」
「お前ッ……」
思わずソファから立ち上がった。足を組み両手を広げて涼しい顔をしている力丸
を、熱川は睨むように見下ろした。
「いさっち、これ……」
いさっち、これ、という風町の言葉がやや遅れてパソコンからも聞こえてくる。呼ばれるままにパソコンの画面を覗き込むと、動画の中に映った自分もパソコンを覗き込んだ。
動画画面の下に表示された再生回数を示す欄が、次第に数字を変えていく。始めはデジタル時計が時を刻むように刻々と。しかし次第に移り変わる数字の速さは増し、スピードメーターが徐々に加速していく車を指し示すように、目まぐるしい速度で止まることなく数字を、桁を上げていく。十分すぎるほどに加速したその車が向かうのは、間違いなく崖。落ちれば死ぬことは免れない断崖絶壁だ。
「これはどういう事だ?」
こうして問いかける間にも、動画はネットの波にのって世界中へ発信続けられる。熱川が全てを明かした瞬間に見ていなかった人間にも、録画した誰かが別の手段を使って伝える。人から人への伝達がネズミ算のように走り抜け、二年も守り続けてきたはずの秘極があっという間に世界へと。
「どういうことも何もこのお前が見ていることが全てだよ、勇雄。関東事件の真相はこの部屋に隠したカメラが間違いなく記録し、こうして日本中へ、世界中へ発信している。ついでに言えば関東事件の真相だけでなく、クリムゾン・ノヴァの正体が熱川勇雄だという事も同時にばれてるよ」
「意味わかんねぇよ……なんでそんなことしてるんだよ、おい」
「それはとても簡単な質問さ」
くすり、と力丸は笑う。おもむろにテーブルの下へ手を伸ばすと、何かを片手に掴みこの上ないくらいにゆったりとした動作で顔へと近づけた。まるで何かの儀式を見ているようだ。さしずめ人が悪魔や化け物へと変化していく禁じられた儀式のような。
顔面を覆っていた手を外すと、先ほどまで熱川の眼前にいた力丸はいなくなっていた。見る女性見る女性を虜にするような美麗な顔も、人に安心さを与える爽やかな笑みも。
そこにあったのは淀みも濁りもない純白の面。片目は十字を描き、もう片方には煌びやかな星の模様が散らされる。笑みを作る引き裂かれた口元は、周りの白さ故に恐怖をかき立てるくらいに鮮やかな赤で、生きたままの人を食い散らかした後のような恐ろしさをもつ。
人を愉快にさせない道化師が、ソファの上に狂気に満ちた笑みを浮かべて座っていた。
「やあ、クリムゾン・ノヴァ。言ったろ? キミの方から僕の元へとやってくる、って」
「力丸……おまえ」
「おっと。やめてくれ。力丸、なんて呼ばないでくれよ。もう僕はキミと友好的な関係にはなれないよ、クリムゾン・ノヴァ」
「力丸、力丸! 答えろッ! お前は全てを話すと約束した。これはどういうことなんだ。お前が俺たちを襲い、俺たちの仲間を殺して回ったってのか!?」
「それ以外に答えがあるなら是非聞いてみたいね。僕のこの姿を見て、それでもなお違う答えが導き出せるというのならね」
ピエロの男──力丸は立ち上がり、張り付いた笑みで熱川を見下ろした。
「約束だからね。全てを話そう。まず最終的なことから言うと、今日ここで僕はキミたちを殺す。いいかい? キミたち、だ。クリムゾン・ノヴァ、キミだけじゃない。クリムゾン・ノヴァもパラレル・アサルターも、そして風町爽奈も」
「ふざけッ……」
テーブルを挟んで二人は相対し、互いの面を憎しみの籠もった視線で見た。一方は道化の下からではあるが、そんな隔たりは感じさせないほどに面の下から憎悪の感情が迸っている。
「いいのか? 俺たちを殺す、なんて言って。今この部屋の状況はどこかに隠したカメラで世界中に」
「そうさ! 今までのこの部屋の状況は全て、世界中に流れている! その意味を本当に理解していてそういうことを言うのか? つまりこの場所にいるのは数百人もの人の命を奪った大量殺戮者とその仲間、そしてもう片方はその殺戮者たちを倒そうとしているヒーローだ! この図式の上において、弱者はキミの方だよ!」
「だからといって人を殺すことが許されるわけッ……」
「許されるさ! 許されるとも! 許されないわけがない! キミが罪のない人々の命と共にコープス・マンという大犯罪者を殺したとき、世間はどういう反応を示した!? キミを責めたか!? 叩いたか!? 寧ろ称賛されただろう? 救世主だと、そう呼ばれたに違いないさ!」
罪のない人々共に。わざわざ修飾された言葉が熱川の首をきつく絞め上げる。肌が粟立つような笑顔が醸し出す有無を言わせぬ威圧が、憎悪が呼吸の仕方を忘れさせていった。このまま息が止められてしまうのかもしれなかった。
「……救世主なんて笑わせる。この殺人者が」
吐き捨てる。首についたチョーカーが苦しい。ヒーローとしての証しが、殺人者の首枷のように思えた。
「いい加減にしとけ、クソ野郎」
声は正面から聞こえた。隣に座っていたはずの静音が、いつの間にか力丸の隣にいた。正確には力丸の隣に座った嵐の隣。彼女を無理矢理立たせ、その腕を掴んだまま静音は怒りまじりの声を上げる。
「こういうことはしたくねェが、その辺にしておけよ。何があったか私は知らねェ。それ以上勇雄を追い詰めるってんなら、私もそれなりの対応はさせてもらう」
すでに静音の両腕はパラレル・アサルターの緑の腕へと変わっていた。固い装甲に覆われた片手が嵐の腕を掴み、さらにもう一つの手が彼女の頭の上に広げられる。
しかし静音に狙われている嵐本人は一切の怯えや驚きも浮かべずに、笑顔でピエロの面を見上げていた。力丸の方も、彼女の危機だというのに動揺の色は少しもない。それどころかこの状況を楽しむかのような、少し上機嫌な声になる。
「さて。肝心のことを話していなかったね。嵐についてだ。彼女は二年前も今も変わらずに僕がこの世で最も愛する人だよ。僕には彼女がいなければダメだ。野道嵐のいない人生なんて、何も無い。ただつまらない景色が目の前に流れているだけさ」
「私らはてめェののろけ話を聞きに来たわけじゃねェぞ」
「パラレル・アサルター。人の話は最後まで聞く方がいい。僕の嵐に対する思いは二年経っても変わらない。二年前も愛していたし、今も愛している。そうさ。あの事件で殺され、彼女がいなかった一年間もね」
何を言っているのか。息苦しさなどどこかへ行ってしまった。いつもなら多少のことに動じることなどない静音も、驚きのあまりか掴んでいた嵐の腕を放している。そんな二人の反応は余所に、力丸は平然と続けた。
「俺の最も愛する人は殺されたんだよ、お前に」
何も、ひらがな一文字さえも口にすることが憚られた。力丸の言葉には二年間溜め込んだ憎しみの全てが込められ、明らかな敵意が見て取れた。
唐突に脳裏に蘇るのはあの日の光景。
血に染まった遊園地。人々の悲鳴が雨となり自分へと降り注ぐ凄惨な光景。観覧車から助けを求める女の子。そこここで火が上がり、地面に染み渡っていく血の流れの先に立つのはコープス・マンだ。奴は辺りを歩き回り、助けを求める人達へとどめを刺していく。それまで辛うじて生きながらえ声を出し続けていた人間が、突然電波の途切れたラジオのように物言わぬ死体となり果てる。すぐにそれをやめさせようと熱川が藻掻くと、今度は鼓膜を破裂させるような轟音が内側から響いた。視界が何も映さない白に染まる。聞こえていた悲鳴も叫びもかき消え、静寂だけが訪れる。その白光の中にたった一人、観覧車から熱川を呼んでいた少女の姿だけが浮き彫りになった。
野道嵐の幻影が無言で熱川の身体を突き抜けていった。
「僕の思いはずっと変わらなかったが、嵐は変わったんだよ」
「変わった……?」
慎重に熱川は訊ねる。
「ああ。変わったんだよ、こういう風に」
突如として激しい物音がしたかと思うと、嵐の脇に立っていたはずの静音が数メートル離れたカーペットフロアに転がっていた。
「静音ッ!」
「何の問題もねェ」
額から垂れてきた血を拭いつつ、静音は立ち上がる。たいしたことはなさそうだった。何が起きたのかは考えるまでもなく理解した。傍らに立っていた嵐が静音をただ単純に殴り飛ばしたのだ。
「クソが…………こいつの正体は何なんだ?」
問いは力丸に向けながら、静音は嵐への警戒を怠ることはない。目を尖らせて睨む先には、先ほどから一片たりとも表情を変えることのない野道嵐の姿。拳を横へと突き出したその姿から、人間らしい気配を感じることがない。力丸の顔を覆う凝り固まった笑みと同じように、嵐のその顔も笑みが絶えないのだ。目の前で何が起ころうと、突然大きな物音が立とうと、野道嵐は平然と笑みを浮かべている。この部屋で彼女と会ってからずっと。思い返せば、柔らかく暖かだと思っていた笑みは永久凍土のように凍りきってしまっていたのだった。
「正体? 簡単だよ。そこにいる嵐は、僕が二年という歳月をかけて生んだアンドロイドさ」
「……ふざけんなよ。ここまで精巧なアンドロイドを作れる技術がどこにある? 笑わせんじゃねェ」
「ここにある」
そう言って力丸が指差したのは、自分の頭。指先を、面から飛び出た金髪の中へと深く埋める。
「思考の、加速」
熱川の口から言葉が落ちた。
「それだけじゃな」
言葉は途中で消えた。さらには力丸の姿も消え、
「……!」
驚いて横を振り向けば、背後から風町の首を押さえつけ、乾いた笑い声を上げる力丸の姿があった。
「やめろ力丸! 風町には……」
「手を出すな、だろ? キミの考えることは単純すぎて先読みするまでもないな」
感情のこもっていない笑い声と共に、力丸は一層の力を込めて風町の首を締め上げる。何の身構えもしていなかった風町は苦しそうに息を漏らした。
「てめえッ」
咄嗟に飛びかかって力丸を引き剥がそうとする。しかし熱川が風町の身体に触れたときには既に、力丸はその場所から消えていた。
「ふん。遅すぎて話にならないね」
再びテーブルを挟んで二人は相対する。
「足掻いたところで無駄だよ。僕はキミたちを殺すと決めたんだ。」
緩やかに両手を掲げた力丸は、その指先で首に取り付けたチョーカーを触った。優しい仕草で、銀色に光るそれを撫でつける。
「俺を狙っているのはわかったよ。だけどこの事件の始めから思っていたことだが、なぜお前は風町を狙う」
油断なく力丸を見据えながら、熱川は問う。
「なぜ? なぜ僕が風町爽奈を狙うか? 考えなくても分かることだろう! 僕は許さない! 嵐を、僕の愛する人を跡形もなくこの世から消し去り、そしてその事実を隠し続けてきたお前らを!」
固い音がした。パキッ、と眼前で笑みを広げる道化師の顔に、怒りの皺を刻むように幾本もの亀裂が走っていく。亀裂は亀裂へと繋がり、やがて顔中に蜘蛛の巣を思わせるヒビが広がると、尽く道化師の顔は崩れ落ちた。
「なぜ僕はかけがえのない人を失ったというのに、キミはのうのうと! のうのうと爽奈ちゃんと暮らしている! なぜ僕だけが愛する人を失わなければならない!」
「まさか……お前、それだけの理由で風町を」
「それだけの理由とはふざけたことを! 僕は憎いッ! キミが! キミたちが! クリムゾン・ノヴァ、お前も味わえばいい! かけがえのない人を失う哀しみを! 人生に色のなくなる空虚さを!」
その奧に広がっていたのは、この世の憎しみ全てをかき集め凝縮させたような憤怒を抱えた男の、鬼をも圧倒するような形相だった。そこにもう力丸尚実という者の面影はない。ピエロの面を取り払ってなお、そこに熱川の親友であり、ライバルであった力丸尚実はいなかった
「完全換装:ラピッドスーツ!」
渾身の力で発声した直後、青い光が大海の荒波のように打って力丸を包み込む。渦巻き、飛沫を上げてとぐろを巻いて光の奔流が上へ上へと昇っていった。光の爆発じみた閃光の拡散が起こり、一瞬が青に染め上げられる。
眩んだ視界が徐々に色を取り戻していくと、その中心に立っているのは一人のヒーロー。青を基調とした装甲に覆われ、速さを追求したシルエットは全体的に細く随所随所が鋭く尖って飛び出ている。眼部はバイザー状に頭部へと刻み込まれ、揺るぎない視線を生身の熱川へと注いでいた。
「僕はラピッド・ファースト、神速の一番。全身全霊をもってキミを叩き潰す」
腰を低く戦闘態勢を取った相手に、熱川は一抹の油断さえも見ない。宣告通り、己の持ちうる全ての力で熱川たちを殺しに来るのは確実だった。
どう動くか、それを判断しかねていた彼から少しばかり離れた場所で、額から一筋血を流していた静音が手を一回叩く。掌同士が打ち合わさる軽やかな音が響いたかと思うと、今度は辺りのものが全て、その動きを止めた。
時は意識しなければ感じることの出来ないほど短い間だけ進むのを止め、再びこの部屋の中に据えられた時計が針を動かし始めた時、風町爽奈が消えていた。豪奢な机も、ベッドのようなソファも、無機質なスチールの事務机も元の場所を変えることなく留まり続けていたというのに、風町爽奈の姿だけはこの部屋のどこを見渡してもなくなっていた。
「ひゅう。初めて見たよ、パラレル・アサルターのその力。異次元の襲撃者、か。責めてお友たちは助けようという魂胆かい。結構結構。嵐、頼んだよ」
ラピッド・ファーストは、傍らで笑う恋人に向け、まるで夕食を作ってもらうかのように囁いた。すると先ほどまで笑っていた嵐の顔が豹変。眉間に皺を寄せた怒りの表情になって、目にも止まらぬ稲妻の如き蹴りの一足を静音の土手っ腹へと叩き込む。瞬きが終わるよりも先に間合いをゼロにまで詰めていた。
飛び込んだ嵐も、飛び込まれた静音も互いにもんどり打ち、団子と化して床上を転げ回る。埃どころか床板までもを宙に散らしてもつれ合った二人は、やがて嵐が上手を取って立ち上がる。そのまま静音の腰に腕を回すと、タックルの要領で一気に前へと踏み出した。後退せぬよう踏みとどまろうと試みる静音の足が、抵抗虚しくカーペットを削り上げてどんどんと下がっていく。しまいにはとんでもない速度になって壁際まで迫った。
「静音ッ!」
「るせェ! てめェは目の前の敵に集中しやがれェッ! このロボ女は私が引き受けた! 三〇分だ! 三〇分でケリつけろォ!」
それだけを言い残し、押し切られた静音の身体は嵐もろとも、あろう事か部屋の壁をスチロール板よろしく突き破り、十五階という部屋から外へと飛び出した。
「……まかせろ」
死んではない。奴は大気圏外から地表に叩きつけたところで死ぬような女ではないだろう。今現実に起こっている全てを飲み込み、整理し、立ち向かう覚悟が出来た。かつての親友はもういない。自分が崩壊させたのか、彼が崩壊させたのか。それは分からない。だがもう戻れないことは事実。ならば敵として。
じんわりと熱を持ったチョーカーへ指先を触れさせた。静かに、己を解き放つ一言を唱える。
「完全換装:クリムゾンスーツ」