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過去=告白

 電車がホームへ滑り込み、気の抜けた音を立ててドアが開くと、熱川は心臓の鼓動が早まるのをしかと感じ取った。乗り込んでくるサラリーマンの流れに逆らいホームへと降りる。駅名の書かれたというプレートを見て、今から向かおうとしているところの見当は付いた。


「ついてこい」


 それだけを短く告げて静音はずんずんと先へ歩いて行く。駅に着いたことで静音の向かう先を察した風町も、何も言わずに後を付いていった。ただ熱川だけが足を踏み出せず、ホームの人波の中で立ち止まっていた。自分の時間だけが止まってしまったかのように、ただ視界の端で忙しなく歩いて行くスーツ姿のサラリーマン達を捉えるのみ。息苦しさすら覚える。地下の湿った空気が鼻を通ってきて、吐き気すらも覚えた。歩け。静音についてけ。何も怖くない。さっき大学で静音が教えてくれたじゃないか。お前は正しいことをした。何も悪くない、と。


「いさ……」


 一人欠けていることに気がついた静音が、数メートル先で振り返る。前から引っ張るように「いさお」という形に口を開きかけ、しかしそっと閉じた。


「今行くよ」


 歩いた。呼ばれるよりも早く、熱川はその足を小さく一歩前へと踏み出した。長いホームの、たったタイル半枚ほどの距離だが、確かに足を動かした。後ろ手を引く負の感情を引き摺りつつも、ゆっくりと静音の方へ歩いて行く。


 口の端を上げて静音は笑みを浮かべた。安心したような顔だった。


 すぐに合流した三人はそのまま階段を上がって改札を抜ける。少し複雑な駅構内を歩き、地上へと出た。時刻は午後五時半を回っているが、三〇分かそこらでは日は落ちない。駅前の大歩道橋を越えて、三人はすぐ上を走る首都高速の高架下を水道橋方面へと歩く。


「何も飯田橋で降りなくてもよかったんじゃないか?」


 意見をする程度の余裕は熱川に生まれていた。


「新宿乗り換えでってことか? そうするとてめェら定期圏内じゃねえだろ。私なりの配慮だよ」


 振り向かず片手を挙げただけで静音は答える。ひらひらと振られた手を見て、つい熱川は金銭的なもの以外の理由を考えた。案外に答えはすぐ出た。駅から数百メートル歩いただけで、ホームに着いたばかりの頃からすれば大分気持ちの余裕が生まれている。確かに別の経路で行っていれば目的地は駅のすぐ側だ。だが、心のゆとりをもたないままに二年前の惨状と再び向き合ったのならば、恐らく熱川は何もできなくなってしまう。心が空っぽになってしまうだろう。


「ありがとうな」


 熱川は呟くように言う。少しでも彼に心の余裕を与えてから目的地に着きたい、そう思ってわざと静音が遠い方の駅で降りたのだと思うと、ありがたさが胸に響いた。ヒーローとしては同輩だが、人生を生きていく上では彼女の方が先輩。たった二年の違いだが、前に立つ彼女の背からは親のような強さや大きさが伝わってきた。


 拳を握り、口をきっと結んだ。覚悟を決める。


 今から自分は現実と向き合わねばならない。二年間逃げ続けてきた現実と。それはこの道を進んだ先にある。


 かつてそこには東京ドリームタウンという都市型の総合商業施設が存在した。


 平日休日問わず家族連れや恋人達に人気を博していた都心の人気エリアだ。巨大観覧車に急傾斜のジェットコースター。温泉施設やショッピング施設も備えた、幸せな声が絶え間ない娯楽施設だった。


 二年前までは。


 静音が足を止めた。つられて後続の二人も歩くのを止める。


「……」


 拳を握る力を込め、唾を一つ飲んでしっかりと立つ。


「いさっち、大丈夫?」


 心配そうな顔で風町はこちらを覗き込んできた。二年前の出来事は知っていても、彼女は二年前の真相を知らない。なぜここまで熱川が自分を失いそうになるのか、風町には理解ができないだろう。できれば理解をして欲しくはない。真相を知らないで欲しい。だから少しでも彼女に不審な思いを抱かせないよう、熱川はできる限りの笑顔を作った。


「大丈夫だよ。大丈夫」

「無理してない? 静音ちゃんは勿論頼りになるけど、私もいさっちが困ってたら助けるからさ。もし気持ち悪くなったりしたら言ってね。ゲ……エチケット袋くらいはいくらでもあるからさ!」

「その時はお世話になるよ。三枚重ねで頼む」

「……そんなに?」


 違う意味で心配そうな顔になった風町に、小さく笑みを返しておいた。口元だけを緩めた笑い。大分落ち着いてはいるが、心から笑うほどの容量が回復したわけではない。つい浅くなっていた呼吸を元に戻し、しっかりと正面を見据えた。


 以前、見上げたその場所には施設内への入り口があった。カラフルな文字が躍る看板の下を、父母に手を引かれた子どもたちが笑いながら歩いて行く。二年前のあの日も、きっと期待に胸をいっぱいにした子どもたちが何十、何百といたことだろう。


 浮かんだ色鮮やかなイメージはたちまち澱んでいく。ポップな色達は全て赤と黒とに変わっていく。笑顔を浮かべた子どもたちも血の滲んだ砂とも灰とも呼べる粒子になって、濁った熱風に流されていった。


 慌てて頭を振り、怒濤の如く脳へと流れ込んできた凄惨な想像をかき消す。


 一旦深呼吸をし、改めて眼前の景色へと目を向けた。


 二年後の今、そこにあるのは遊園地の入り口ではなく、深い緑が繁る桜並木。車よけのために子どもが腰掛ける程度の丸石が幾つか並び、後はずっと奧まで不揃いな石畳が続いている。そろそ日も傾き始めた頃とあり、先へ伸びる道に木々は薄暗い影を落としていた。


 道の脇には石造りの柱が立ち、こう記されている。


『関東事件後楽慰霊公園』


 風が吹いた。初夏と宵の冷たさを孕んだ風だ。髪を忙しなく煽り、心のざわめきをよりいっそう強める。なびいた髪を押さえつけ、早くなりかけた左胸に自らげんこつを入れた。


「行こう。何かここに手掛かりがあるんだろ」


 足にしがみついてくる迷いや罪悪感を振り切るよう、半ば駆け出すかの如く熱川は歩き出した。後の二人がついてきているかどうかなど確認することもなく、ただずっと石畳の奧だけを見て歩く。何度か地面の隙間につま先が引っかかったが、何とか踏ん張って転ぶのだけは堪えた。転んでしまえばきっともうそこから立ち上がれない。だから何があってもちゃんと歩く。そしてこの道の先にあるものを目にしても、現実として受け入れる。


「なんとか保ってるみてェだな、オイ」

「なんとかね」


 隣に静音が並び立つ。勢いの付いた掌で、ぱんっと背中を叩かれた。今までの優しく包みこむようなものは感じない。前に押し出すための力がこもった一発だ。


 しばらく歩いているとさらさらと流れる水の音が聞こえてきた。いつか山奥で清流に出くわした時を思い出す。耳に直接流れ込んでくるかのような水のせせらぎが、目指す場所がもうすぐだと言うことを伝えてくれていた。


 数百メートルの並木を行った先は、開けた円形の広場だった。半径数十メートルほどの広場の中央には小さな丸い噴水が一つ。先ほどから聞こえていた水の音はここから発せられていたようだ。広場の円周に沿って置かれた幾つかのベンチで老人たちが休んでいる。まだ辺りが見えなくなるほどの時間帯ではないから、ボール遊びにふける子どもたちもいた。かつて遊園地だった場所だ。二年間ひたすらに避け続けてきた場所が、形は違えど再び人の安らぎの場となっていることに、熱川は少しばかり安心した。


 噴水へと目を向け、決して目を逸らさずにそちらへと歩み寄る。ベンチでくつろいでいた老人方が突然現れた三人の若者へと不審の目を向けていた。恐らくは静音の外見がそうさせているのだろう。慎ましやかなこの場に彼女の奇抜なスタイルは不釣り合いだ。だが、それが静音なのだから仕方がない。彼女も熱川とは程度の差こそあれ、抱いている思いは同じだ。なぜなら二年前のあの場所に共にいたのだから。


 黒い御影石を磨いた石碑の前で三人は足を止めた。夕闇の朱色が黒の中に映える。慰霊碑の前では、小さな石台に乗せられた数本の線香が夕焼けの空に向かって煙を揺らめかせている。耳に届くのは、噴き上がり、爽やかに落ちていく水の音。それが不思議と熱川の抱く不安や恐怖、罪悪感や後悔を清らかに洗い流していくような気さえした。


「我々は決して惨劇を繰り返さない」


 石碑に刻み込まれた文字を指でなぞる。誰が考えたのかも分からないが、決して単一の意味だけが存在していない。あの日の自分、ヒーロー機関への戒めとしてたった一行のその言葉はあるように思えた。


 瞼を閉じ、短い黙祷を捧げる。はしゃぐ子どもの声や、語らう老人の声が遠くへ離れていき、清らかな水の流れ、跳ねる音だけが満ちる。現実が消えたような静謐な時間がほんの僅かだが訪れた。


 再び目を開いて現実世界へと心を戻す。線香も花も何も供えるものを持ってきてこなかったのを少し後悔した。目の前の黒い御影石を見つめて、せめて気持ちだけはと、深々頭を下げた。


「それで、ここに来た用事ってのは何なんだ?」


 隣に立った静音へ熱川は尋ねる。


「ああ。そいつは……」


 言いつつ彼女は慰霊碑に指を這わせた。碑文に書かれた意味を考えているのだろうか、と最初は思ったが、どうにもそうではない。彼女の指は何かを探していた。

「我々は決して惨劇を繰り返さない」という一行の脇には、この景色を作りだしたあの日の日付が記されている。


 二〇〇九年六月三十日。


 その日付は覚えていた。そして日付の記されたさらに隣には、犠牲者の数百人の名前が一人ひとり記されている。静音は誰かの名前を探しているのだ。数メートル四方の石に刻み込まれた名前の羅列に、少しばかり胸が疼く。だが目は逸らさず、静音の指が止まるのを待った。


「……あった。どうやら私の記憶は間違ってなかったようだな」


 細い静音の指は慰霊碑の丁度真ん中辺りを指し示している。ほんの僅かだがその指先は震えていた。何が原因かは石に刻まれた名前を見れば一目瞭然だった。彼女が示した名前はこう読めた。



 野道嵐 享年十六歳



 息が詰まった。何かの見間違いじゃないかと、そう思い何度もその名前を見直した。目を擦っても見た。しかし石彫りにされた名前が形を変えることはない。野道嵐、という一人の女の子の名前がしかと惨劇の碑に刻み込まれていた。驚いたのは隣にいた風町も同じで、口に手を当てはっと息を呑む音すらも聞こえてきたくらいだ。


「あいつのプロフィールに乗っていた彼女の名前を見て、思い浮かんだんだ。野道嵐、って名前はどこかで見たことがある、てな。そしたら真っ先に頭に上がったのが二年前の犠牲者名簿だったから、ためにし来てみたところ正解だったっつーわけだ」


 カーゴパンツのポケットに左手をしまい、静音は外に出した右手を「野道嵐」という名前の部分に突いた。


「じゃあもしかしてうちのサークルの情報は間違ってたってこと?」


 そう尋ねる風町の声は少し悲しげだった。絶大とも言っていい信頼を寄せていた裏番長の情報が間違っていたのだ。無理もない。熱川は目を伏せる。あの莫大な量の資料を読んだ二時間が無駄だったということがいよいよ明らかになった。


 しかし静音の答えは想像とは違っていた。慰霊碑から手を離し、両の手をポケットに突っ込んで彼女は言う。


「バカかてめェら。そもそもてめェらが力丸の彼女を知っている要因はなんだ? うちの大学に来たとき、実際に会ってるからだろ? 実物を見たことがあるから力丸の彼女を知ってんだ。つまり野道嵐が生きて動いている姿を目にしてんだろうがよ」

「でもここには確かに名前が……」


 言って再び風町は慰霊碑を覗き込む。石に彫られた三文字の人名を声に出して読んだ。熱川も彼女の隣から覗き込んだが、案の定先ほどと変わりはない。名前がなくなっているとか、別のものにすり替わっているとか、そんなことはなかった。しっかりと「野道嵐」という名前がそこにある。


「どうなってんだ?」

「し、死んでるの? それとも生きてるの? でもこの前はちゃんと動いてたし話もしたし」


 二人とも事態が飲み込めずにいた。力丸の彼女が生きているのか死んでいるのか。慰霊碑に名前はあるが、つい数日前彼女が生きているのをしっかりと目にしている。


「だから最初にとんでもなく不可解だっつったろうが」

「も、もしかしたら別人って可能性もあるよ! 前の彼女と今の彼女がたまたま同じ名前だとか」

「同姓同名の違う女を見つけるのも難しいし、彼女にするならその何十倍も難しい。ほぼありえないだろうな」

「な、なら今の彼女さんを昔の彼女さんの名前で呼んでるとか!」

「んだよあいつそういう人間なのか。気持ちわりィな。反吐が出る」

「違う! 違うよたとえだよ静音ちゃん!」


 突然騒ぎ出した二人に、周りの人間がちらちらと目線を向けてくる。ただでさえ静音のせいで注目されているというのに、余計な誤解を招くようなことはしたくない。


「とにかく。今は力丸に事の真相を尋ねるのが先だ。何が起きているのか、もしかすれば奴が何か知っているのかも知れない」

「そうだよね! それが重要だよね」


 落ち着きを取り戻した風町が頷く。


 熱川はポケットから携帯電話を出して、電話帳を探し始めた。力丸の携帯番号はこの前会ったときに教えて貰っている。タッチパネルを下へ下へとスライドさせていると、不意に風町がトーンの低い声でこう言った。


「何がどうなっているのか詳しい事は分からないけど、もし本当に二年前の事件で彼女さんを殺されているなら、力丸さんかわいそうだよね。ここにあった遊園地ごと跡形もなく殺されちゃったんだもん。あのコープス・マンに」


 動かしていた指が、パネルの遥か上の宙を無意味になぞった。勢いの付いたスマートフォンの画面が、冷たい氷上を滑る板のように流れていく。熱川は画面を指で押さえることを忘れていた。次々に下から現れて上に消えていく沢山の連絡先の中に、力丸尚実という名のものがあったがすぐに画面上部へと隠れてしまう。熱川は動揺していた。


「絶対に許せないよ……」


 涙混じりの声が隣から聞こえた。熱川に隣を向く勇気はなかった。口を結び奥歯を強く噛み、亡骸も何も埋まっていないただの石碑をじっと睨みつける。


 黒いものが背中を這い上がってきた。 どす黒く重い塊だ。吐き気にも似た嫌悪感が渦巻き、手がじっとりと汗ばむ。一歩下がれば底深い闇の谷が口を開けて待っている気がした。のしかかる負の重みが熱川をじわじわと確実に後ろへと引いている。靴の踵が礫を弾く。さながら崖っぷちに踏みとどまるかのように。


 しかし同時に熱川の内には覚悟の火も灯されていた。降りかかる全てをはねのける覚悟。二年間も凍結していたヒーローとしての時間がようやく動き出したのだ。また薄暗い部屋に籠もるだけの生活には戻りたくない。戻るべきではない。いつまでも過去に縛られ、自分を責め続けるようなことは終わらせなければならい、と熱川は思った。それは二年前の全てを忘れるのではなく、受け止め乗り越えること。それが重要なのだ。


「……風町」


 携帯電話をポケットにしまい、拳を固く握りしめた。うつむき、目元を擦っていた風町の方を向く。心臓が皮膚を破って飛び出しそうなくらいに激しく脈動していた。目を閉じて大きく息を吸う。いよいよ覚悟を決めた。心の中で頷きを一つし、慎重に言葉を紡いだ。


「違うんだ」


 口から出たのは単純な一言だが、それだけでもどっと疲れが押し寄せてくるかのよう。涙の滲んだ目をこちらに向け、不思議そうに風町は首を傾げた。


「おい勇雄」


 一瞬で熱川の意図を察した静音が、静音が出来る限り平坦な口調を装って呼び止めた。


 しかし構わずに続ける。


「違うんだよ、風町の認識は」

「おい! てめ」

「いいんだ!」


 怒鳴り声に怒鳴り声を重ねる。ありったけの、腹のそこからの声で静音の制止をかき消した。彼女の方には目を向けず、いいんだ、と残響のように口から言葉が漏れる。静音がどんな表情を浮かべているのかはわからない。激怒か、困惑か、焦燥か。振り向き、その顔を確認すれば固めた意志は脆く砕けてしまいそうだった。


「いいんだ。俺は前に進むって決めた。あの日のことを乗り越えるって決めたんだ、今。その第一歩として俺は全てを風町に話す。話して、共感を得て貰おうなんて微塵も思っちゃいないさ。ただ誰かに話すことで自分への戒めにする。俺の弱さが招いた最悪の正義の形を自分に思い知らせるんだよ」


「……勝手にしやがれ。私は何も言わねェよ」


 背中側から返ってきた声は言葉こそ呆れを表しはしていたが、声色にも口調にもそんなものは微塵足りと感じられない。静音自身も熱川が今から言わんとしていることがどういう結果を招こうと正面から受け入れる、その覚悟をしかと決めていた。


 風町は未だ言われていることが飲み込めない様子でありながら、しかしこれから語られる内容が冗談の混じらないものだと感じ取ったのか真剣そのもので熱川を見ていた。


「全てを話すよ」


 もう辺りも暗くなり始めていた。いつの間にかボール遊びの少年達も、ベンチで談笑していた老人達もいない。広い円形の広場に三人だけが残されていた。耳には流れる水の音と、風に揺れる葉の音だけが聞こえる。真実を打ち明けるのにこれ程絶好の機会もないように思われた。


「いさっち……?」

「二年前のあの日、六月二十三日」


 目を閉じ、思い出すように慎重に言葉を紡ぐ。


「俺が今立っているこの場所一帯は半径四百メートルに亘って、何も無いただの更地と化した」「数百人もの一般人の命と共に、娯楽施設がまるまる一つ消滅した」


 風町は何も言わない。真剣な眼差しで熱川を見据えた。


 喉の奥で言葉が張り付いた。思うように言おうとしたことが出てこない。しばらくの沈黙を経て震える唇をゆっくりと開き、


「それをやったのは事件の元凶たるコープス・マンじゃない。この俺だ。俺がコープス・マン一人のために数百人もの尊い命を奪ったんだ」




 ひとまず近くのベンチに移動することにした。


 腰を落ち着け、一息吐く。風町の反応は意外にもあっさりとしていた。叫びだすくらいの反応を想像していたのだが、ただ一言「そうなんだ」と言っただけであとは押し黙ってしまった。隣り合って座った二人は、重苦しい沈黙に俯いたまま。助けを求めて辺りに目をやったが、誰も頼れる人はいない。静音は先ほどの「勝手にしやがれ」という宣言通り、噴水の縁に腰を掛けて手元をぼおっと見ている。こちらの会話に入ってくる意志は微塵もないようだった。


「さっきのは、本当なの?」


 静かな風町の問いかけが沈黙を破る。


「本当、だよ。あの慰霊碑に刻まれた人達を殺したのは俺だ」

「詳しく聞いてもいい?」

「ああ。全部話すって言ったろ」


 鼻から吸って、口から吐く。声が少し震えていた。息苦しさも感じる。いつもなら逃げ出していた。だがもう逃げるという選択肢はない。恐怖と苦しみで潰れかけにも関わらず、熱川は口を開いた。あの日の記憶が、会話が、自分の口から吐き出した言葉によって鮮明に戻ってくる。機関がひた隠しにしてきたヒーロー業界最大の禁忌が。


「二年前、ここで俺とコープス・マンは死力を尽くした一騎打ちをしていた。俺も向こうもその時に相手を殺す覚悟でな。まるで力が互角だったような言い方だけど、そんなことはなかった。圧倒的に俺の方が劣ってたんだ。こっちは静音や俺を含めた四人で挑んだというのに、全員が伸されて、最後に残ったのが俺。三人を倒してなお奴には十分な余力があった」


 あの時に感じた痛みや焦り、絶望感までもを身体は克明に思い出す。全てを賭し、己の持ちうる限りを出してただ相手をねじ伏せることだけを考えた。能力の使用が臨界を破り、頭の先から足の先までを死にたくなるような痛みが貫いていても。しかし。


「攻めても攻めてもまるで手応えがなかったよ。そんな時だ。切羽詰まって焦っていた俺に、連絡が入った。機関のお偉い方からの直々の連絡さ」


 一旦言葉を切る。不動の山を思わせる威厳のある老声が耳の奧に蘇った。


──被害の規模は問わない。貴様の能力の全てを以て目の前の敵を殲滅しろ。


 反論の余地もなく、ただ言われるがままの内容に頷くしかなかった。



──被害の規模は問わない



その言葉の意味することはつまり、喩え今貴様の周りで助けを求めている人間が死のうと生きようと、まずなによりもコープス・マンの殲滅を優先しろ、という事だった。


 その時の熱川は今思い出しても不思議なほどに冷静だった。自分の側で助けを求める数百人と、全国一億の人間。天秤がどちらに傾くのかは、試してみなくても分かっていた。


「俺の能力は自身の身体を爆破させること。指一本の爆発でも手榴弾一つ分くらいの威力は持っている。能力の全てを出すってことは、全身を爆破させることだ。そんなことやったことなんてなかったけど、とんでもない規模の爆発が起きるのはわかりきってた。遊園地なんかまるまる一つ吹き飛ばせるほどにね。あの時俺の周りで助けを求めている人は何十人、何百人といたんだ。逃げ遅れてしまった人が」


 不意に観覧車の中から助けを求める少女の姿が思い出される。聞こえるはずのない助けを呼ぶ声が頭の中で、脳みそをかき乱すほどに響いた。


 呼吸一つで気持ちを落ち着け、イメージを振り払う。


「自分の能力の規模と、助けを求めている人の存在を知っていて、それでも俺は能力の全力行使を選んだ。どうにかしてコープス・マンだけを殺すことは考えられなかった。俺は弱すぎたんだよ」


 その結果が今に繋がる。


 コープス・マンを捕らえ、もろとも自爆した。世界が白に染まり音が消え敵を掴んでいるはずの感覚も消え、白い無の中に溶けていくようだった。


 再び意識が戻り身体が動くようになって立ち上がると、そこには何も無かった。


 一面に平らな地面が広がっているだけだった。遊園地の乗り物も施設も何もかもが跡形もなく消え去り、全てが浄化されたようにただ黒く焦げた地面が自分を取り囲むように広がっているだけだったのだ。


「俺はインボーンだ。能力の制約がない代わりに、自分を犠牲にする能力を授かっている。そこにはある一つの原則がある。自分の能力じゃ死ねないんだ。自分の身体全体を爆発させてさえもな。この通り平気で動けるし、会話も出来る。それがインボーンの宿命なんだよ。自分も一緒に跡形もなく消えてしまえばよかったと、何度も思ったさ。自分が殺した人と共に死んでしまえば。でもできなかったんだ。そうして罪のない人々を殺したという罪を一生背負っていくことが、俺に課せられた罰なんだよ。二度と同じ事を繰り返さないために」


 風町は何も言わない。黙って聞いていた。いつの間にか日は完全に落ちていて、空は濃紺に染められている。広場に備えられたベンチの上では、頭の丸い街灯がその足下を白く照らす。膝の上で指を絡めながら熱川は風町の言葉を待つ。話すべき事は話した。どういう言葉が返ってきても逃げずに受け止める覚悟はできていた。仮に非難されようとも、構わない。


「いさっち、私はただの一般人だよ」


 穏やかな声がそう告げた。


「あの事件の当事者じゃないし、関わってもない。被害を受けた人の気持ちだとか、遺族の気持ちなんてわからないから、私があれこれ言うことはできない」


 目を細め、柔らかな笑みを熱川に向けた風町は、


「でも間違ってなかったと思うよ。いさっちのおかげで一億人の人々が助かったんだもん。もしその時いさっちがコープス・マンを殺してなかったら、もっと多くの人が殺されてたかも知れない。私だって殺されてたかも知れないんだよ。だから胸を張りなよ。他の人がどう考えるか分からないけど、私はいさっちのやったことは正しいと思ってるんだから」

「……ありがとう」


 話してよかった、と思った。つっかえのようなものが外れた。夜の大気が鼻を抜け

て喉を通った。硬いベンチから腰を上げ、大きく伸びをする。会話の終わりを察したのか、噴水の所からこちらへ歩いてくる静音の姿が目に入った。


「もういいのか?」

「ああ。全部話した。もう俺は大丈夫だよ」

「これから日本中の人間に言って回んのか? 機関に何の連絡も入れずに。この独断行動はヒーロー資格の剥奪、最悪殺される可能性すらあるぞ」

「それはわからない。日本中の人間に言う、ってのもあるかもしれないな」

「そうかい。まあ自分のやりたいようにしろや。てめえの決めたことだ。私も出来る限りの手助けはしてやんよ」


 夜の広場を三人は来た方へと歩いて行く。並木の中程に差し掛かったところで静音が言った。


「あとは、野道嵐の謎についてだけだな」

「そうだ。まだそれが残ってるんだ」


 二年の間抱いていたわだかまりが解けて少しばかり浮かれていたのかも知れない。きつく縛り付けていた罪の意識が緩んで安心していたのだろう。熱川はもう今回の事件が全て上手く終局へと向かっている、そう思い込んでいた。事件の核心に迫るようなことは一切つかめていないというのに。


 ポケットから携帯電話を取りだし、熱川は画面をスワイプさせて電話帳から力丸の連絡先を引っ張ってくる。躊躇うことなく発信ボタンをタップし、耳に当てた。


 無機質なコール音が数度響き、ややあってガチャリと音がする。


『勇雄じゃーん。どうしたんだ? 急に』


 陽気な声が通話口の向こうから返ってきた。調子のいい力丸らしい。適当な挨拶を言ってから、熱川はすぐに要件を告げる。


「実はお前の彼女の事で話があるんだ」

『ん? 嵐のこと? あいつがどうかしたか?』


 嵐、と確かに言ったのを熱川は聞いた。


「少し聞きたい事があるんだけど、良いか?」

『どうしたよ? 言っとくけど、俺は嵐を譲る気はねーぜ?』

「こっちにもそんなつもりはないよ。明日、空いてるか?」

『明日か? ああ、空いてるよ』

「それはよかった。十時頃はどうだ?」

『いつでもいいさ。家にいる』

「じゃあそれで頼むよ」


 電話をポケットに収め短く息を吐く。力丸の声の調子は至って普通だった。野道嵐の名前を出しても、そして彼女について聞きたい事があると言ったときにもいつもの僅かにおちゃらけた調子を崩さなかった。


「どうした?」


 後ろから投げられた静音の声に、前を向いたままこう返す。


「明日十時に池袋駅東口だ。力丸のところにいく」

「何か変わった様子は?」

「電話からじゃ何も。いつも通りだったよ」


 力丸から何か有益な情報が引き出せる、その確信はあった。慰霊碑に刻まれた名前と、力丸の傍らにいる野道嵐との関係がこの事件の大きな糸口になる。根拠も理論も何も無いが、ただ感覚として確かな手応えが存在していた。


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