表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/17

調査=疑問

 翌六月二十八日、木曜日。


 大学の正門を入ってすぐの図書館の向かいにあるベンチに腰掛け、熱川は人を待っていた。正門の方へ目を向け、翻って背中側の校舎に目をやる。いまだそれらしき人影は見当たらない。すなわち風町爽奈と今岡静音である。風町は授業が終わり次第校舎から出てくるだろうし、静音は駅の方から大学へ歩いてくるはずだ。正門の方にはちらほらと学生の姿があるが、静音の姿はない。あんな髪色をしている彼女であるから、いくら大勢人がいたところで見間違う筈もないだろう。


 今日三人が集まることになったのは、風町のサークルに用があるからだ。『明智大学ヒーロー研究会』通称H研。その名の通りヒーローを趣味とする学生が集まって日が暮れるまで語り合うサークルである。本当にただそれだけのサークルだと熱川は思っていた。しかし風町に聞いたところによると、どうやらそれだけに留まるサークルではなく、想像しているよりも遥かに謎めいた活動をしているよう。


 まず一番熱心な活動をしている人が、月例のミーティングに姿を見せない。にもかかわらず毎度大量の情報を載せた研究報告書を届けてくる。裏番長と囁かれるその人物の存在だけでも十分謎めいているが、さらにヴェールに包まれているのが、その情報量の多さである。情報の主はヒーロー自身のデータ。身長体重、能力の系統、主な活動地域、過去の業績、本名、住所、恋人の有無など、真偽判定のし難い情報たちだ。ただの大学サークル内での話であるから、出任せに過ぎない可能性の方が高い。だが、もし蓄えられたそれらの情報が真であるなら、それはヒーロー機関の設ける二級以上の情報を握っていることになる。今回起きている一連の事件における大きな手掛かりになり得るはずだった。


 時計に目を落とす。時刻は午後二時二〇分。そろそろ三限の講義がまとめに入っている頃合いだ。あと一五分もすれば風町はやってくるだろう。熱川は『H研』というサークルが自分の大学に存在し、友人である彼女がそこに所属していることしか知らない。風町がいないとサークルの部室まで辿り着けないのだ。約束の時間にはまだ余裕があるというのに感じ始める焦りを、首を振って払う。しばらくは姿を見せられないであろう風町を心配しているのでは埒が明かないので、熱川は時計から顔を上げて正門の方に向き直った。


 早めに三限を終えた学生と、早めに四限の講義に向かう学生とが群れになって正門前の歩道橋でひしめき合っている。ラグビーにおけるラインマン同士の攻防を思わせる光景だ。正門前にたったの一本しかない歩道橋は、毎度毎度授業の合間の時間になると行き来する学生で埋まる。本格的な授業終わりの時間には及ばないが、それでも数十人規模の集団から特定の個人を見つけるのは困難に思えた。


「さすがにこの中から探すのはなー……あっ」


 ため息を吐きかけ、途中で閃きの言葉に変わった。心配は無用のようだ。黒と茶色の頭がざわざわと流れていく内に、一際目立つ色彩を熱川は見つけた。余りにも周囲とかけ離れていて、見つけるなと言われる方が難しい。石ころの密集する中に鮮やかなガラス石を見つけたかのよう。熱川の焦点は真っ直ぐにサイケデリックな色へと吸い込まれるように一致した。


 階段を下り、堂々たる足で今岡静音は正門を潜った。神の使いが大海を割る、あるいは魔王に道を譲るような。何人たりとも寄せ付けない颯爽とした歩みで彼女は真っ直ぐとこちらへ向かってくる。擦れ違う学生達が皆振り返り二度三度と静音を見直す。キャンパス内でおよそ見かけることはないであろう派手な髪色もそうだが、彼女の大学生とは思えぬ服装も人々の視線を存分に集めた。下はカーキ色のカーゴパンツに、ミリタリーブーツ。上着と言えば黒迷彩のノースリーブシャツ一枚。それも極端に短く、へその上の辺りまでしかない。露出した腕と腹には無駄のない筋肉が、パズルがはめ込まれたかのような美しい形に掘り出されている。そこら辺でだらしなく歩いている男子学生よりは明らかに筋肉量で勝っているように思えた。そんな人間が肩で風を切って、派手に染まった髪の下から白刃煌めくかの眼光を覗かせているのだから、自ずと人が避けるのも無理はない。浴びせかけられた視線に睨みを返しつつ、彼女は熱川の前に立った。


「よォ。待たせたな」


 風貌に似合った低い声。同僚であるはずの彼女に思いがけず背筋が立った。


「爽奈は?」

「まだ。授業中だよ」


 時刻を確認する。午後二時二八分。もう片付けの段階に入っているのかも知れない。風町が来るのももうすぐだろうと思えた。


「もう少し早く着くつもりだったんだがよ。予想外に電車で時間を食った。けどまだ爽奈が来てねえならちょうどいいな。少し話さなきゃならねえ事がある」

「ここでか?」


 問うと、静音は素早く周囲へ鋭い視線を走らせた。彼女の格好に引かれてこちらに注目してくる姿が幾つかあったが、一睨みで逃げ去っていく。ベンチの側にも人はいない。声量を極限まで下げれば、いかなる話題とて自分たち以外の耳に入るとは思えなかった。


「三日前にお前の所に現れたピエロの面をつけた野郎は、確かに二年前のタブーに触れたのか?」


 押し殺した声で静音はそう言う。


「ああ。間違いない」

「どうやって知った?」

「……わからん」


 掌で額を押さえ込む。頭の奧で封じ込めようと努めてきた二年間の記憶が暴れていた。脳ではないどこか頭の奧が鈍く痛む。


「アレを知っている人間が、一般人の中にいるはずはねェ。昨日爽奈の言っていたとおり、機関内部の、それも上層部の人間という可能性が十分すぎるほど高ェってことだ。そのヒーロー研究会というサークルが握っているとかいう情報にはたいした期待はしちゃいねェが、藁にもすがる状況とは今みてェなことだ。少しでも二年前に関する情報があったらとりあえず引き抜いとけ。何らかの手掛かりになるかもしれねェからな」


「……ああ」 

「黒幕は確実にアレを切り札、何か最終的な手段として使ってくるはずだ。世間に知らしめるとか、な。それだけは阻止しなきゃなんねェ。ヒーロー機関最大の禁忌だから、てのもあるが、私ら自身の安全のためにもだ」

「……ああ」


 静音が一言一句話題を続けていくにつれ、頭のどこかを締め付ける痛みが増していく。何度も脳内に純白の光が明滅し、二度と見たくない凄惨な光景を痛みが引き連れてきた。頭が描きだす景色は、黒と赤の絵の具をバケツごとぶちまけたような、えげつないもの。脳裏に焼き付いたその光景は、いくら強く瞼を瞑ったところで消えはしない。終いには音とも声とも似つかない阿鼻叫喚が耳の内側をがりがりと掻きむしっ

た。腕で頭を抱え込み、膝の間に頭をしまい込むように俯いた。


「勇雄」


 鋭さと温もりとを共に孕んだ呼び声に、熱川の中から嫌なイメージが消え去る。脳裏に染み込もうとしてい景色も、耳に響かせ続かせようとしていた悲鳴も逃がれていった。それまで荒れ狂っていた感情の海が、たった名前一言呼ばれただけで、一瞬のうちにして凪いだ。


「あの時お前がしたことについて私らは何も言えねえし、言う資格もねえ。ただ何もしねえで床に転がってただけだったからな」

「でも、俺はお前らも……」

「そうするのが最善だったんだからしょうがねえんだよ。私らにはスーツがあった。てめェがいなかったら間違いなく今の生活はねえ。てめェは爽奈とも出会えなかっただろォな。あの時のてめェは機関の下した決断に従った。そうするのが最善だと分かっていたからだ。実際そうだった。私だってあの状況なら従った。あの時やったことは何も間違っちゃいねえよ」


 ぽん、と音がした。確かな温かさを持った掌が頭の上に乗せられた。女性らしい細くてしなやかな五指が優しく頭頂部を撫でる。


「てめえがなんで二年も引きこもってたのかも、アレの話題が出ると発作を起こしちまうのも承知だ。けどいつかは乗り越えなきゃならねえ。ヒーローとしてやっていくならな。今回の相手が二年前と深く関わっていると知って、それでいてなおてめェはここにいる。戦う覚悟を持っている。ってことはつまり、今がてめえにとって乗り越える時なんだよ」


 髪の毛をぐしゃっと掴まれた。そのまま髪型が変わるくらいに撫でられる。目の奥にじんわりとした熱を感じた。本当は二年前にこれを伝えたかったんだけどな、と静音は微かな声で付け足した。


「……ありがとう」


 未だ自分を捕縛する罪の意識や凄惨なイメージを払拭することはできない。もしかしたら一生できないのかも知れない。けれども、それを乗り越える強さは僅かだが取りもどした。後はいちいち足を取られずに前進するのみだ。


「もう十分だろオラ」

「ああ。大丈夫だ。ありがとう」


 冷たい石のベンチから尻を上げた。静音と視線を並べ、小さく笑う。彼女は笑いこそしなかったが、満足そうに鼻を鳴らした。


「っつーわけだから、今回で二年前の奴にもケリをつけるってこった。些細なことでいい、とにかく今日でできる限りの情報を集めろ」

「わかってる。お前も頼むぞ、静音」

「言われるまでもねェ。誰に口きいてやがんだ……と。来たぞ」


 言われて振り返ると、校舎に入っていく生徒の間を掻き分けてこちらへ向かってくる一人の姿があった。七分丈ズボンにシンプルなプリントTシャツという出で立ちで、ハイカットスニーカーを履いてこちらへ駆けてくる。相変わらず機能性を重視したファッションだ。


「ごめんごめん。教室最上階の上に授業長引いちゃってさ。教授の話が終わんなかっ

たんだよ」


 一番上の階から急いでここまでやってきたのがわかるくらいに、彼女の方は上下していた。浅い呼吸を繰り返し、息を整える。


「そう慌てなくていいさ。しばらく休んでから行こう」

「いや、もう大丈夫! 回復した! 行こう!」


 額に浮いた汗の粒を一払いして彼女はすぐに歩き出した。熱川と静音も後ろに並んで付いていく。歩き出した視界に入った時計は二時三七分位を指している。あと三分ほどで四限が始まるからか、キャンパス内はやや急ぎ足の学生達が行き交っていた。その流れに逆らいつつ、学生生協と食堂が並ぶ間を抜けて、部室センター棟が並ぶ区画に入る。キャンパスの暗部といった出で立ちでひっそりと佇むこの区画にやってくるのは、熱川にとって入学以来二回目のことだった。入学してすぐの頃に一人でこの辺りまで散策に来たことはあるが、建物の中から昼間のものとは思えないような騒ぎ声叫び声が聞こえてきたので、そうそうに退散してしまったのだ。


 薄暗い階段を下り、A棟と書かれた建物の一階に入る。湿気が多いこの季節特有なのか、苔むした緑が建物の入り口付近にまで居を構えていた。


「……ひょっとしてここうちのアパートよりも汚くないか?」


 履いていたスニーカーの底が柔らかな音を立てて小さな苔の塊を潰す。余り気持ちのいい感触ではない。


「そういう場所なんだよ! 気にしないで!」


 首だけを後ろに向け、平然と風町は言った。その足が黒ずんだ得体の知れない物体を踏みつぶすのを、熱川は見た。彼女にとってそれは砂利道に転がっている石を除けるのと同じ感覚のようである。


「私ん所の部室棟もこんなもんだ。部屋の中はもっと荒れてるし、足の踏み場もねえ」


 隣を行く静音も特に気にしていないようだった。固いミリタリーブーツのそこで床に散らかったゴミやら苔やらを蹴散らしつつ、サクサクと歩いて行く。地雷原を歩くかのような足取りの熱川とは大違いだ。


「そりゃあ、お前の部活は格闘技という野郎臭いものだからさ想像はできるが」

「あん? 野郎くせェってのはどういうこったオイ。言っとくがよ、うちの部活は男女比五対五だっつーの。偏見か? あぁ?」


 胸ぐらをつかみかからんばかりにこちらに尖った視線を向けた静音と、先日彼女の大学の学食で見た屈強な男達とが同時に頭に入ってきて、熱川は小さく悲鳴をこぼす。あの場に居合わせた筋骨隆々の以下にも格闘家然とした人達。ヒーローであるとは言え、少々の身震いは仕方がないと言えた。てっきり熱川はあそこにいた者達全員が男だと思っていたのだが、


「も、もしかしてこの間学食にいた人達も男女比五対五」

「はぁ? てめぇの目は腐ってんのかボケ。どこをどう見たらあいつらが女に見えんだよ。男だよ、男。あそこにいた奴らは全員男。うちの幹部陣だ。やっぱ男女合同にするとどうしても男の方が強いからな。幹部が男だらけになるのは無理もねえ」

「男女合同なのか? 男子も女子も仲良くバトルロイヤルなのか?」

「ったりめぇのこと言ってんじゃねーよ。創会以来男女平等がモットーなんだっつーの」

「平等……なのか?」


 先天的に体力差のある男女を同じ土俵で戦わせるのは不平等なのでは、という疑問が一瞬頭に浮かぶ。だがしかし横を歩く同僚の面構えを見ると、すぐにそんな疑問は吹き飛んだ。きっとあの部活には静音のような屈強な女性陣が多く在籍しているに違いない。アマゾネスのような、くのいちのような。肩幅広く上腕二頭筋と腹筋が美しく盛り上がった女性達を想像して熱川は疑問の答えとした。


 建物に入って一度廊下を曲がり、その最奥部で風町は足を止めた。


「ここだよー」


 彼女の高い声が蛍光灯の切れかけた薄暗い廊下にこだまする。


 部室の入り口は塗装の剥げた鉄扉が設けられていた。建物と同じくらい汚く、スプレー書きの文字で『H研』と豪快に記されている。


「H研、て公式じゃん」

「うるさい」


 一見すれば不良のたまり場とも思えない入口だが、意外にもドアノブの上には電子ロックキーが設置されていた。どこからかテレビのリモコンを持ってきて、ガムテープで貼り付けたような銀色のキー。風町が慣れた手つきで数字の並んだキーに指を走らせると、小刻みな電子音と共にドアのロックが解除される音がした。


「そういや風町。見ず知らずの俺らが勝手に入っていいのか?」


 ドアが開かれる直前、熱川はふとそう尋ねた。というのも、上の方から軽快なギターの音が聞こえてきたからだ。ドコドコと重いドラムの音もする。それらに合わせて音のはずれたボーカルも聞こえてきた。熱川自身はどこのサークルにも入っていないが、部室は部員のたまり場である、という話はよく耳にする。上階での下手くそな演奏が示すように、授業が空きコマになっている学生は、行く当てがないからと自らの部室に暇を潰しに来るのだろう。それはH研とて例外ではないはずだ。


「いーのいーの。気にしないで。うち部員少ないしさー!」


 色の剥がれたドアを押し開けて迷うことなく風町は部屋に入る。すぐさま電気を付け、入り口の外で突っ立っていた二人を中に手招いた。


「基本的にここの部屋は誰もいないからね!」


 狭い部屋だ。といっても熱川の暮らす部屋よりは十分広い。床は茶色いリノリウム製で、中央に会議用の長机が二つ並べられている。あとは今にも潰れそうな、ひん曲がったパイプ椅子が五、六脚。コンビニ弁当のゴミだとか、ビニールが散乱しているような光景を想像していたが、意外にもシンプルで整った内装だ。


 と、思ったのは彼が部屋の中央だけに目をやっていたからである。もう一歩足を踏み入れて、部屋の四方を眺め見れば、H研がかき集めた莫大な情報を目の当たりにすることとなった。壁の三方を事務用ラックが我が物顔で占拠し、そのどれにも隙間なくファイルや書類書籍の類が押し込まれている。入り口の正面にはどうやら窓があったらしく、ラックの隙間からうっすらと外の景色が拝めた。幅も高さも二、三メートル近くに至るにラックにも関わらず、そこへ収まりきらなかったものは棚の上に摩天楼の用に聳えている。相当の重量があるのか、柔いラックの天板は少しばかり凹んでいた。一度地震でも起きればひとたまりもないだろう。


「誰もいないって、どういうことだ?」


 ラックに背を並べた書籍達を目で辿りながら、熱川は尋ねた。


「うちのサークルの総部員数は一〇人なんだよね。そのうち半分の五人が他大の人。他大の人はイベントとか、月例会の時は結構来るけど、後は全く来ないの。で、もう半分がうちの大学。でも四年生ばっかでもう殆ど活動には参加してないらしいんだよ。二年生と三年生が一人ずついて、その三年生が一応会長なんだけど、最近全然来ないし。二年生の先輩に至っては新歓でも一度も顔合わせしてないんだー」


 自分の勉強机から教科書を探し出すような感覚で、風町は膨大な資料の中から適当な物を選りすぐって事務机に並べていく。まだ入会して間もないであろうに、どこに何があるのかは完全に把握しているようだ。


 一通り出し終えたらしい彼女は、ラックに残った紙束やファイル達を整えて手を払った。


「ざっとこんなもん。ヒーローのプロフィールとかを纏めたものだよ」

「おまえすげーな。どんな暗記力だよ」

「いやーそんな誉められても困るなあ! というかね、ここの資料先輩達に黙って全部整理しちゃったんだよね! だから私が自分で保管場所を決めたから全部知ってて当たり前って事よ。整理する前はもう大変だったのね! ほんっと! 足の踏み場もないくらい! 紙だらけで床が見えなかったんだからさ!」

「ひ、一人で?」

「うん! だって先輩達来ないし! 一年私だけだし! そりゃあやるしかないっしょ!」


 得意気に風町は鼻を鳴らし、力こぶを作ってみせる。誰もいない部室で一人黙々と作業をし、資料を読んだりヒーローについて考えを巡らす彼女の姿が頭に浮かんできて、少し熱川は同情の念を駆られた。外からは楽しげな会話や音楽が聞こえてくるのに、自分の周りにあるのは紙束ばかり。想像上の風町は、いつもの明るい表情とは少し違う寂しさを漂わせていた。


「言ってくれたら手伝ってやったのにさ」

「あはは。ありがと! 一人でこの部屋にいるって寂しく思えるかも知れないけど、でも、大好きな物に囲まれるって最高だから! でも今度からはいさっちには無給無制限でこき使われてもらうかも!」

「……それはやめてくれ」


 頬を緩ませて熱川は苦笑した。それから思い出したように事務机の上の資料群に目を落とす。やたらに分厚い辞書級のファイルが一冊と、薄い青塗りのファイルが三冊、同じような厚さの黒いファイルが二冊。後は数十枚に及ぶA四サイズの紙が束ねられたものが二部ほどである。外から見るだけでも途方もなく莫大な量。積み重なった資料達はもはやバベルの塔だった。


 試しに紙束を一つ取ってパラパラとめくってみる。目まぐるしい勢いで目の奥を駆け抜けていくのはひたすらに文字の荒波だ。それもやたらに細かい。ほんの流し読みでも視神経がつねられたかのような痛みを覚える。


「こいつら全部爽奈が集めたのか?」


 隣で黒いファイルを繰っていた静音が、視線を落としたまま問う。


「ううん。さすがに入会してこれだけの情報を集めるのは無理。私は今必死に情報収集中だよ。ここにあるのは先輩達の!」

「へえ……」


 熱川が文字の多さに知恵熱を起こし始めている傍ら、静音は真剣な眼差しで黒ファイルの中を読み込んでいた。数十秒同じページを眺め、ゆっくりとした手つきでページを捲る。幾度か繰り返した後、舌打ち混じりのため息を付きつつクリアファイルを机の上に放り投げた。


「おまっ……せっかく風町が出してくれたものを」


 投げられたファイルにぶつかって他のファイルやプリントの束が為す術なく机から落下していく。たちまちリノリウムの茶色がプリントの白に塗り替えられた。


「使えねェ。この資料はゴミクズだ」


 唾を吐き捨てかねない勢いで静音は言う。


「ここに載ってる情報はただのオタクの妄想だ。試しに何人か見てみたが、能力だとか活動地域だとか、全部うさんくせェ。デタラメすぎんぜおい」

「そこまでボロクソ言わなくてもいいんじゃないか?」

「遊びじゃねェんだよ」


 手にしていた最後の一冊までも机に放り投げた。適当なページをおっ広げて机を滑ったそれは、同じく机の上に載っていた一冊に当たって止まる。


 一際分厚いB五サイズのファイルだ。隣に広辞苑を並べてみても大差ないだろう。他のペラペラなファイルからは想像も付かない程莫大な情報量が、表紙の外からでも伺い知れた。静音も異様な厚さのファイルが放つ、ただならぬオーラを感じ取ったらしく、呆れたようにしていた目をきゅっと細める。恐る恐ると言った様子でその表紙を指の腹で撫でた。


「もしかしてこれが裏番町って人のやつ?」


 慎重にファイルを抱え上げた静音に代わり、熱川は尋ねる。


「そう。その人が集めた、ヒーロープロフィールのデータ。私も正直に言って他の先輩達が作ったのは静音ちゃんが言ったように、オタクの妄想だと思ってる。突拍子もないことが書かれてたりするし、浅いし、いい加減。書きたいことだけをただメチャクチャに書き連ねているだけ。でも、裏番長のファイルにあるデータってやけに現実味があって、本当の情報な気がしてならないんだよね」


 いよいよ唾の塊が咽頭を静かに降りていく。多大な期待を寄せてきたつもりはない。ただ、もし万が一情報が記載されていればちょっとは足しになるだろう、程度の気持ちだ。情報量などこんな一大学の一サークルよりも、公式の機関の方が優れているのは明らか。ここでの調べ物は時間の浪費で終わる可能性の方が圧倒的に高い。にもかかわらず、熱川は不思議なほどにはっきりとした期待感を得ていた。隣に立っている静音も同じ様子。表情に滅多に見せない緊張を滲ませて、ゴクリと唾で喉を鳴らした。


「勇雄。てめぇが見ろ」

「え?」

「いいからてめぇが見ろ。私は三年でてめぇは一年。後輩に譲ってやるってんだよ」

「ええ?」


 それ以上の聞き返しを許さないと主張するように、静音は六法全書と張るような厚さのファイルを熱川に突きだした。渋々受け取り、何枚かページを捲った。裏番長とやらの几帳面さを知らしめるかのよう、初っぱなにあったのは目次だ。ヒーローの名前とページ数とがきっちり記されている。適当に中身をパラパラとやってみると、外見から想像したとおりB五という限られたスペースに印字したような文字が緻密に書き込まれている。


「すっご……」


 思わず驚嘆の声が見える。先ほどまで見ていたものとは明らかに次元が違っていた。書き込まれている量も内容も、どれもがまるで辞典の一項目のように詳細である。熱川は試しに『パラレル・アサルター』と記されたページへと飛んだ。


 B五二枚に亘って『パラレル・アサルター』に関する情報が書き込まれていた。文字だけでなくヒーロースーツを描いたカラーのイラストも添えられている。細かな配色や曲線まで、呆れるくらいに徹底して描き込んであった。


「静音。これからする質問には正直に答えろよ」

「ああ」

「身長は?」

「一七二センチ」

「体重」

「六二キロ」

「スリーサイズ」

「八八、五七、八七。死にてェのか?」


 金属のひしゃげるような音がして、前髪の奧にある目玉が凍る。犬歯をむき出し、唸るように静音は言った。


「てめェいい度胸してんじゃねえか、あァ?」

「ごめんごめん!」


 慌ててページを変え、今度は自分の項目へ飛んだ。上から下へ、並んだ文字列を流し見る。二度を程確認した後、熱川はファイルを閉じて机の上にそっと置いた。そうして静音のきつく細められた双眸を見つめながら念を押すように、


「で、さっきの答えに嘘偽りはないな?」

「ねェよ」

「だろうな。俺のも一切間違ってない」


 身長体重能力本拠地、そして本名。熱川はそれらをざっと読み流しただけだったが、全てにおいて正確な情報が記載されていた。疑問符が脳に浮かぶよりも先に、これだけ正確な情報を集めた『裏番長』なる人物の手腕に感服する。一体何者なのか。


「本物、っつーことか」

「おそらく」


 静音の目つきが訝しむようなものから警戒を孕んだものへと変わった。事務机の上に置かれたファイルを丁寧に開き、指でなぞる。


「どこのどいつの仕業かしらねェが、これは相当にアブねェ。今回ばかりは利用させて貰うが、役目を終えたらこれの本体と書き手とをまとめて機関に持って行く。人も物も普通の大学サークルにあっていい存在じゃねえからな」


「使うだけ使って、ってのは酷くないか?」

「勿論私らが使ったことは正直に報告するっつーの。簡単に一般人の目に付くような所に置いてあるのは、書いたヤツにとってもこの部室の住人にとっても、そして私らヒーローにとっても危険だと思うぜ」


 静かに言い放った静音の言葉に、「ノー」ということはできなかった。向かい合っていた熱川も、脇に立って会話を聞いているだけだった風町も一様に首を縦に振った。


「よし。ならこれから手分けして調べんぞ。これだけの情報量だ。何かしらの糸口があるに違いねえ」


 バインダー式だったファイルを、適当にばらしていく。たちまちに百科事典並の厚さを誇っていたファイルはただの薄っぺらいプラスチックファイルとなり、その代わりに机の上には紙束の塔が幾つも出現した。それらを分割し、三人は中身を調べ始めた。




 じっくり二時間ほど掛け、ようやく調べ物は終了した。

 事務用の長机には数千枚に及ぶB五用紙が散乱し、地の茶色が殆ど隠れてしまっている。壁の丸時計は午後五時を指しているが、まだ六月の夕方は明るい。

 軋むパイプ椅子の背もたれに身を投げ、間の抜けた顔で熱川は天井を見上げた。


「……目が痛い」


 喉も渇いている。二時間もぶっ通しで資料を読み漁る経験などない熱川にとって、この作業は拷問と言えた。少しばかり外の空気でも吸って気分転換がしたい。


 ファイルに収められていたのは、二七〇〇人分のヒーロー関係者のプロフィールだった。一人当たり九〇〇人を調べたことになる。全国にいるヒーローが一万人であり、それにヒーロー以外の機関関係者ことを鑑みれば、半分にも満たない数字ではあるが、それでも多すぎて目が回る。文字を追っている最中にひきつけを起こさなかっただけでも上出来と言えよう。


 そして驚愕すべき事に、二時間という時間と脳みそを全力行使したにもかかわらず何一つとして手応えのある情報を掴むことはできなかった。


「おなかーおなかすいたーいさっちー……」

「まったくだ……腹が……」


 渦巻くような音が胃の辺りでなる。隣に額から突っ伏した風町は臨死の声でひたすら自らの空腹を訴えていた。しかし悲しいかなここは人の出入りが少ないヒーロー研究会。冷蔵庫もなければ、目の付くところにお菓子の類すらない。


「我慢しろカスども」


 向かいに立つ静音が、未だ念入りに資料をチェックしつつ切り捨てた。疲れなど知らぬ、と言い張るように作業に没頭している彼女。だが数分ごとに腹の虫が向かい側で鳴くのを熱川は聞き逃さなかった。それを注意しないのは、鳴る度に射殺すような視線を彼女が熱川へと飛ばしてくるからである。


「機関に任せる方が効率いいんじゃないか?」


 質問を投げかけると、静音は一瞬だけ風町の方へ目をやり無言のまま何も答えを返さなかった。ただ手元の資料を一枚一枚丁寧に確認しているだけである。彼女一人が働いているのを見ているだけではどうにも忍びないので、熱川も近くにあるもの数枚に目を通してみた。その中の一枚に目が止まる。


「力丸のじゃん。俺のとこには入ってなかった奴だ」

「力丸さんのは私が確認したよお」


 相変わらず突っ伏したままの風町が隣から言う。


 上から順に力丸尚実ことラピッド・ファーストのプロフィールを確認していった。一八六センチ七十五キロ。本拠地は池袋。ヒーロー暦は七年。専門分野はサイバー犯罪で、能力は『思考の加速』。


 力丸は数少ないヒーローの友人ではあるが、いくら熱川とて彼の正確なプロフィールを知っているわけではない。だが身長体重は見た目からある程度予測はつくし、本拠地や能力については既に知っている。自分と静音の情報だけでは正直なところまだ疑いの念は晴れていなかった。更にもう一押し、という風に力丸の情報も照らし合わせてみたが、目の前にある情報が不確かなものだとはとても思えない。


「……本当に恋人の有無なんか書いてあるのか。しかも相手の名前まで載ってる。野道嵐、さんね」

「のみちあらし……」


 静音が反復した名前を聞いて、野道嵐嬢の顔が浮かんでくる。滑らかな艶を放つ黒髪に、ハッキリとした目鼻立ち。日本画の中から飛び出してきたかのような大和撫子。先日大学のキャンパスで力丸の隣にそっと立っていた女性に間違いない。確かに彼はあの時「俺の彼女だ」と言っていた。こんな情報まで握られるとは。熱川の中ではもはや『裏番長』なる人物へ恐怖と尊敬の二つの気持ちが生まれていた。


「まて、勇雄。力丸の奴見せろ」


 ぶつぶつと「のみちあらし」という言葉を繰り返していた静音は、咄嗟に何かを思いついた様子で熱川の手元から紙をひったくる。鋭い目を紙の上に滑らせ、一点を凝視して止まった。


「どうしたんだ?」

「ひとまずもうここに用はねェ。移動すんぞ」

「移動? 用はねえってどういうことだよ」

「漢字見たらちょっと思い出した。私の記憶が正しければとてつもなく不可解なことが起きてやがる。いいからとっとと爽奈起こして動ける支度整えろ」


 散らばった紙を適当にかき集め、それらしい資料の山にして机の上に重ねる。即座に準備を完了させた静音がデコピン一発で突っ伏した風町をたたき起こすと、熱川と風町は共に静音の頑丈そうな腕に引かれるまま部室を後にした。


いつのまにかブックマークに追加されていてとても嬉しいです!ありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ