二年前=惨劇
半分以上がえぐり取れた顔の中で、目玉が一つの自立した生き物の様にぐりんと動いた。純粋な黒に染まった瞳孔が開かれる。弾け飛んだ頭蓋の隙間から薄く桃色づいた脳がだらりと流れ出てきた。下顎が引き千切られた状況で、上唇だけが薄気味の悪い笑みを作った。
頭が頭としての楕円形を成していないのに、目の前の相手は生きていた。
コープス・マン。
世間にそう名乗ったこの男は、単独で史上類のない大量無差別殺人を行って見せた。重火器の類は一切用いず、ただ己の肉体と神に見初められたかのような異能の力のみをしてである。幾人ものヒーローが駆り出されたが、数え切れないほどの一般人が無残に殺された。
日本全部が総力を上げて狙っている敵が今、目の前にいる。それも十分過ぎるほどの傷を負った状態でだ。ここまで来て状況逆転を成されるのであれば、それは国の崩壊を意味する。どんなことがあってもこの場でコープス・マンを仕留めなければならない。その絶対の使命がクリムゾン・ノヴァにはあった。
しかし常人の人間からすれば既に死んでいる筈の傷を与え、尚且つ膝頭を相手の肩に当てて馬乗りになっているというのに、クリムゾン・ノヴァはまるで優勢に立っている気がしない。先ほどから神経を張り続けている。一瞬でも気を緩めれば、この構図は簡単にひっくり返されるだろう。そして、次に脳漿を掻き出されるのは自分の番だ。
今すぐ殺そうにも、その手段がない。こうしている間にも、コープス・マンの顔は徐々にだが元へ戻りつつある。飛び出した脳みそが這って頭蓋の内へと戻り、下顎は上顎から植物のように生えてくる。あと数分もすれば完全に快復し、敵は本領を取り戻すに違いない。
過酷な環境下で研ぎ澄まされた意識がこの場におけるありとあらゆる情報を引き寄せる。瓦礫の塊、生き物のように蠢く幾つもの火炎、黒煙の立ちこめるくすんだ空。耳に流れ込んでくる逃げ遅れた人々の悲鳴。眼球が目まぐるしく回り、声のする方を片っ端から捕らえていく。逃げ場のない建物の二階から腕を伸ばす人、線路上で緊急停止したジェットコースターで怯える人、酷い怪我で動けずにうずくまる人。数時間前まで繰り広げられていた休日の遊園地という光景は、どこを見渡しても存在しない。血と炎と瓦礫にまみれた地獄のような景色がただ広がるのみである。
どこかで爆発の音がし、振動でビル壁が崩れた。大人が十人集まっても抱えきれないような大きなコンクリート塊が、ボロボロと落ちていく。その衝撃で今度は観覧車が大きく揺れた。頑丈なはずの青い鉄骨が頼りない木片のように軋み、ぶら下がるゴンドラが大きく煽られる。咄嗟に視線が観覧車へと向く。ゴンドラの一つに閉じ込められた幼さの残る女の子。取り付けられたガラスを懸命に叩き、こちらに向かって何かを叫んでいる。
マスクの下で唇を噛んだ。自分には目の前の敵にこれ以上の破壊を許さないように動きを封じ込めるのが精一杯。助けを求める人は全てを片付けてからでなくてはならなかった。居合わせた仲間は全てコープス・マンの手によって戦闘不能に追いやられた。この戦場でこの敵と対等に戦えるだけの可能性が残っているは自分だけなのだ。
「どうした? 殺さないのか?」
冷たい声がクリムゾン・ノヴァを呼んだ。血を含んだ不明瞭な声だが、身の凍る恐ろしさがあった。犯罪者と対等に渡り合い、制圧する立場にあるはずの自分が、明らかに相手の迫力に呑まれてしまっていた。
「おもしろくない。なにもおもしろくない。私はヒーローが怯える国に産み落とした母親を許さない。その母親から生まれた自分も許さない。私を殺せないヒーローも許さない。そんなヒーローにすがるしかない無能な人間も許さない。今す」
最後まで言い切らせずに、クリムゾン・ノヴァは己の能力を用いてコープス・マンの頭を吹き飛ばした。間歇泉のように血が噴き出し、粉砕されて飛び散った頭蓋骨の欠片が、硬いクリムゾン・ノヴァのマスクに降り注ぐ。
さっきからその繰り返しだった。相手が快復した頃を見計らって頭を吹き飛ばし、状況を振り出しへと強引に巻き戻す。一進もしなければ一退もしない。ただひたすら、自分が優勢にある現状にしがみつき、いつやってくるとも知れない応援を待つばかり。自分以外にコープス・マンへ立ち向かえる者がいない今、そうするほかに方法がなかった。
助けを求める人がこうしている間にも一人また一人と死んでいく。だがここで彼らを助けるためにコープス・マンを見放せば、あっという間にこの場にいる全員が死ぬ。頼れるものなどない戦場で、敵はコープス・マンだけではない。孤独と絶望の二つが内側からクリムゾン・ノヴァを追い詰めた。
無へ向かって心が急速に閉じようとし始めたとき、マスクに内蔵されたスピーカーからノイズが走った。
『聞こえるかね。クリムゾン・ノヴァよ』
マイクを通して聞こえてきたのは老人の声。聞いたこともない声の相手だが、咄嗟に口を噤んでしまうほど、威厳と迫力に満ちていた。スピーカーの向こうに佇む老人の姿を想像し、思わず背筋が伸びる。
『私は日本ヒーロー機関東京支部戦闘作戦長の日向だ。この場を終息させ、永らく続いたコープス・マンによる無差別殺人事件を終えるために機関の決定した事項を伝える。反論は認めない。これは既に決定したことだ』
返事を待たず、老人とは思えない明瞭な物言いで声の主は決定事項の内容言い切った。あまりに簡潔なそれに様々な思考が頭を巡ったが、見た事もない老人の重い刀のような言葉の前に、反論する余地などない。反論しようと思わなかった。ただ『はい』と一言頷くのがやっとで、それ以上の言葉を紡ぐことは出来なかった。
『では健闘を祈る』
短く言葉を残し、あっさりと通信は切れた。
クリムゾン・ノヴァは真紅の装甲に覆われた腕をコープス・マンの首へと伸ばす。文字通り皮一枚で繋がっているような彼の首をがっしりと掴み、きゅいっと捻り上げた。
「そんなことをしたところで私には何の意味もないことぐらいわかっているだろう」
弾けた頭も、締め上げられる首も意に介さず、他人の怪我を眺めるように悠長な口調でコープス・マンは言った。余裕のある笑みがこちらを見上げる。
言葉は返さず、ただ無言で彼の細い喉首を両手で締め上げた。骨を折らんばかりの勢いで締めるが、顔色一つ変えない。
「何を考えている?」
だが、さすがの彼もクリムゾン・ノヴァの様子の異変に気付いて声を上げた。圧倒的力の差の前に何も出来ずにいるだけだった彼の中に、覚悟の炎を感じ取ったのかも知れない。
「これが機関の決断だ」
それ以上は何も言わず、クリムゾン・ノヴァは全身に力を込めた。
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