婚約者を奪った妹が、「お願いだから返品させて!」と泣きついてきました。
「お姉様! お願いです! 私にジュリアン様を譲ってください!」
妹のミレーヌが、私の前で泣き崩れた。
ジュリアン様とは、私の婚約者である。
金色の髪に青い瞳。整った顔立ちに、穏やかな物腰。伯爵家の嫡男で、社交界でも評判の美青年だ。
そして何より、愛情深い。とても、とても愛情深い。
「ミレーヌ。あなた、ジュリアン様を愛しているの?」
「はい! 心から愛しています! ジュリアン様も、私を愛してくださっています!」
「そうなのね」
私は紅茶を一口飲んだ。
「それなら、どうぞ」
「……え?」
「婚約を解消して、あなたにお譲りするわ」
ミレーヌがぽかんと口を開けた。隣に座っていた父も、驚いたように私を見た。
「クラリス。本当にいいのか?」
「ええ、お父様。お二人が愛し合っているなら、私が邪魔をする理由はありません」
「お姉様……!」
ミレーヌの顔がぱっと輝いた。
「ありがとうございます! 私、絶対に幸せになります!」
「ええ。お幸せにね」
私は心から祝福した。本当に、心から。
だって、これでようやく、毎月第一日曜日のあの行事から解放されるのだから。
◇
ジュリアン様は、詩を愛する男性だった。
それ自体は、何も珍しいことではない。貴族の男性が愛する女性に詩を贈るのは、立派な求愛の作法である。
ただし、ジュリアン様には一つだけ、少々変わったところがあった。
詩は、朗読してこそ完成する。
そう信じていらっしゃるのだ。
初めて詩を贈られたのは、婚約して三日目のことだった。
『暁に咲く一輪の薔薇よ』
そんな題名だったと思う。
ジュリアン様は我が家の庭で、朝日を背にして朗読してくださった。
とても素敵だった。最初の五分間は。
十五分が経過した頃、私は少し足が疲れてきた。三十分が経過した頃には、庭師が仕事を始めた。
一時間が経過した頃、ようやく朗読が終わった。
「クラリス! 君への想いを込めたんだ!」
「ありがとうございます。とても情熱的でしたわ」
「よかった! では、明日も楽しみにしていてくれ!」
「……明日?」
「もちろん! 愛は毎日育むものだからね!」
私はその日のうちに、ジュリアン様と話し合った。
愛情表現は嬉しい。詩を贈ってくださるのも嬉しい。ただ、毎朝一時間の朗読は、少々生活に支障がある。
「そうだったのか! すまない、クラリス!」
ジュリアン様は素直に謝ってくださった。
そして私たちは、月に一度、第一日曜日の午後に朗読会を開くことで合意した。
一回の朗読は三十分以内。雨天の場合は室内。朝の六時以前は禁止。
これで万事解決した。
……と思っていた。
翌月、ジュリアン様は三十分ぴったりの詩を披露してくださった。翌々月も三十分。その翌月も三十分。
私は気づいた。
この方、毎月三十分の詩を新しく書いていらっしゃる。
しかも、一度も原稿を見ない。すべて暗記している。
恐るべき情熱だった。
私には、その情熱を受け止めるだけの才能がなかった。
だから婚約を解消できたとき、心の底から安堵したのである。
◇
婚約解消の手続きは、驚くほど円滑に進んだ。
ジュリアン様も、ミレーヌとの結婚を望んでいたからだ。
「クラリス。君には申し訳ないことをした」
「お気になさらないでください」
「君は素晴らしい女性だった。僕の詩をいつも静かに聞いてくれた」
「ありがとうございます」
「だが、ミレーヌは違うんだ!」
ジュリアン様の瞳が輝いた。
「彼女は言ってくれた! 私なら、あなたの詩を毎日でも聞きたい、と!」
「まあ」
「しかも、朝一番に愛の言葉を聞いて目覚めたいそうだ!」
「まあ」
「僕は、これほど理解してくれる女性に出会ったことがない!」
それはよかった。本当によかった。
「ミレーヌを幸せにしてあげてくださいね」
「ああ! 約束する!」
こうして、私とジュリアン様の婚約は正式に解消された。代わって、妹のミレーヌが婚約者となった。
その日の夕食で、ミレーヌは上機嫌だった。
「お姉様。ジュリアン様って、本当に素敵な方ね!」
「ええ。とても情熱的な方よ」
「聞いたわ! お姉様ったら、愛の詩を月に一度しか聞いていなかったんですって?」
「そうね」
「信じられない! あんなに素敵な方が、毎日愛を囁いてくださるのに!」
「そうねえ」
「私は違うわ! 毎朝、私だけのために詩を朗読していただくの!」
「まあ。素敵ね」
「お姉様にはわからないでしょうけど、愛される女性って、そういうものなのよ!」
私は微笑んだ。
「ミレーヌなら、きっと幸せになれるわ」
その夜、私は久しぶりにぐっすり眠った。
◇
三日後。
朝食の席に、ミレーヌが現れなかった。
「ミレーヌはどうした?」
父が尋ねると、侍女が困った顔をした。
「お嬢様は、少々お疲れのご様子で……」
「具合でも悪いのか?」
「いえ。ジュリアン様が、今朝もお越しになりまして」
私はパンにバターを塗る手を止めた。
「今朝も?」
「はい。昨日も、一昨日も」
なるほど。毎朝の朗読会が始まったらしい。
「何時頃に?」
「六時でございます」
私は静かに紅茶を飲んだ。やはり、六時なのね。
「それで、ミレーヌは?」
「先ほど、ようやくお休みになりました」
父が首をかしげた。
「しかし、詩を聞くだけだろう?」
「はい。ですが、今朝は二時間ほど……」
「二時間?」
父の声が裏返った。
「昨日は一時間半でございました」
私は少し考えた。
初日は一時間。二日目は一時間半。三日目は二時間。
順調に成長している。
愛が。
◇
一週間後。
ミレーヌが私の部屋を訪ねてきた。目の下に、うっすらと隈ができていた。
「お姉様……」
「どうしたの、ミレーヌ?」
「ジュリアン様って……毎朝、あんなに長い詩を読まれるの?」
「ええ。詩がお好きだから」
「でも、三時間よ?」
「まあ。三時間」
「今日なんて、三時間も窓の下に立っていらしたの!」
私は少し驚いた。
もう三時間。なかなかの成長速度である。
「お姉様は、どうして平気だったの?」
「私は月に一度、三十分だけにしていただいていたから」
「……え?」
「婚約した頃に、お約束したのよ」
ミレーヌが固まった。
「そんなこと、できるの?」
「もちろん。ジュリアン様は、お話をすれば理解してくださる方よ」
「そ、そうなのね!」
ミレーヌの顔が明るくなった。
「ありがとう、お姉様! 私もお願いしてみるわ!」
「ええ。そうなさい」
翌日。
ミレーヌは朝食に現れた。しかし、顔色は昨日より悪かった。
「……お姉様」
「おはよう、ミレーヌ」
「静かにしてほしいって、お願いしたの」
「そう」
「そしたら……」
ミレーヌは両手で顔を覆った。
「窓のすぐ外で、囁くように朗読されたの……!」
私は思わず目を瞬いた。
「まあ」
「しかも、聞こえるか聞こえないかくらいの声なの! だから耳を澄ませないと何を言っているかわからなくて!」
「それは大変ね」
「お姉様! どうして笑っているの!」
「笑っていないわよ」
私は口元を押さえた。少しだけ、笑っていたかもしれない。
◇
それから二週間。
私が自室で読書をしていると、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
扉が勢いよく開く。
「お姉様ああああ!」
ミレーヌだった。
髪は乱れ、目の下には濃い隈。まるで何日も眠っていないような顔だった。
「ミレーヌ? どうしたの?」
「もう嫌ああああ!」
妹は私の足元に崩れ落ちた。
「お姉様! お願い! ジュリアン様を引き取って!」
私は本を閉じた。
「お断りします」
「どうして!」
「だって、もう婚約を解消したもの」
「でも! でも! あの方、毎朝来るのよ!」
「知っているわ」
「雨の日も!」
「ええ」
「風の日も!」
「そうね」
「昨日なんて雷雨だったのに!」
「まあ」
「雷が鳴るたびに、愛の詩の声量が上がるの!」
それは知らなかった。
「しかも、雷鳴に負けないようにって、声楽の先生まで雇ったのよ!」
私は少し感心した。
努力家なのね、ジュリアン様。
「もう限界なの! お願い、お姉様! あの方を返すわ!」
「ミレーヌ」
私は優しく妹の肩に手を置いた。
「婚約者は、品物ではないのよ」
「わかってるわよおおお!」
「それに、あなたが望んだのでしょう? 毎朝、愛の詩を聞きたいって」
「こんなに長いなんて聞いてない!」
「私だって、最初は知らなかったわ」
「お姉様はずるい!」
「どうして?」
「月に一度、三十分だけにしていたなんて!」
私は首をかしげた。
「それは、私がお願いしたからよ」
「私だってお願いしたわ!」
「何と?」
「もう少し短くしてって!」
「それで?」
「愛を短くすることはできないって言われたの!」
私は少し考えた。
「……なるほど」
「なるほどじゃないわよ!」
そのとき、窓の外から聞き覚えのある声が響いた。
「ミレーヌウウウウ!」
妹がびくりと震えた。
「ひっ!」
私は窓の外を見た。
庭に、ジュリアン様が立っていた。両手には分厚い本。顔には、輝くような笑顔。
「愛しいミレーヌ! ここにいたんだね!」
「ど、どうしてここが!」
「君を想う心が、僕を導いてくれたのさ!」
どうやら侍女に聞いたらしい。
「ちょうどよかった! 今日は君に素晴らしい贈り物があるんだ!」
ジュリアン様は本を高々と掲げた。
「君への愛を、一冊の詩集にまとめたんだ!」
「し、詩集……?」
「題名は『永遠に終わらぬ愛』!」
私は感心した。
立派な装丁だった。金箔で題名が刻まれ、表紙には美しい薔薇の模様が描かれている。
「全部で三百六十五篇! 一年のすべての日に、君への愛を捧げようと思ってね!」
ミレーヌの顔から血の気が引いた。
「さ、三百六十五……?」
「安心してくれ!」
ジュリアン様は胸を張った。
「これは第一巻だ!」
「第一巻!?」
「もちろん! 僕たちの愛は永遠だからね!」
妹が私の腕をつかんだ。
「お姉様……!」
「ミレーヌ?」
「助けて……!」
そのとき、ジュリアン様が朗々と声を張り上げた。
「では、さっそく第一篇を!」
「いやあああああ!」
「題名! 『君が眠るそのときも、僕の愛は目覚めている』!」
「眠らせてえええええ!」
私はそっと窓を閉めた。
しかし、声は聞こえた。
さすが、声楽の先生に鍛えられただけのことはある。
◇
それから数日後。
私は庭の東屋で、静かに紅茶を飲んでいた。
小鳥が鳴き、そよ風が木々を揺らす。誰も詩を朗読しない。
なんて素晴らしい午後だろう。
ちなみに、ミレーヌからは毎日のように手紙が届いている。
『お姉様! お願いです! もう一度だけ考え直してください!』
私は返事を書いた。
『お幸せにね。ところで、返品は受け付けませんよ?』
封をして、侍女に渡す。
私はもう一度、紅茶を口に運んだ。
ああ。
静かって、素晴らしい。




