↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

婚約者を奪った妹が、「お願いだから返品させて!」と泣きついてきました。

作者: よみなぎ
掲載日:2026/10/17

「お姉様! お願いです! 私にジュリアン様を譲ってください!」


妹のミレーヌが、私の前で泣き崩れた。


ジュリアン様とは、私の婚約者である。


金色の髪に青い瞳。整った顔立ちに、穏やかな物腰。伯爵家の嫡男で、社交界でも評判の美青年だ。


そして何より、愛情深い。とても、とても愛情深い。


「ミレーヌ。あなた、ジュリアン様を愛しているの?」


「はい! 心から愛しています! ジュリアン様も、私を愛してくださっています!」


「そうなのね」


私は紅茶を一口飲んだ。


「それなら、どうぞ」


「……え?」


「婚約を解消して、あなたにお譲りするわ」


ミレーヌがぽかんと口を開けた。隣に座っていた父も、驚いたように私を見た。


「クラリス。本当にいいのか?」


「ええ、お父様。お二人が愛し合っているなら、私が邪魔をする理由はありません」


「お姉様……!」


ミレーヌの顔がぱっと輝いた。


「ありがとうございます! 私、絶対に幸せになります!」


「ええ。お幸せにね」


私は心から祝福した。本当に、心から。


だって、これでようやく、毎月第一日曜日のあの行事から解放されるのだから。


◇


ジュリアン様は、詩を愛する男性だった。


それ自体は、何も珍しいことではない。貴族の男性が愛する女性に詩を贈るのは、立派な求愛の作法である。


ただし、ジュリアン様には一つだけ、少々変わったところがあった。


詩は、朗読してこそ完成する。


そう信じていらっしゃるのだ。


初めて詩を贈られたのは、婚約して三日目のことだった。


『暁に咲く一輪の薔薇よ』


そんな題名だったと思う。


ジュリアン様は我が家の庭で、朝日を背にして朗読してくださった。


とても素敵だった。最初の五分間は。


十五分が経過した頃、私は少し足が疲れてきた。三十分が経過した頃には、庭師が仕事を始めた。


一時間が経過した頃、ようやく朗読が終わった。


「クラリス! 君への想いを込めたんだ!」


「ありがとうございます。とても情熱的でしたわ」


「よかった! では、明日も楽しみにしていてくれ!」


「……明日?」


「もちろん! 愛は毎日育むものだからね!」


私はその日のうちに、ジュリアン様と話し合った。


愛情表現は嬉しい。詩を贈ってくださるのも嬉しい。ただ、毎朝一時間の朗読は、少々生活に支障がある。


「そうだったのか! すまない、クラリス!」


ジュリアン様は素直に謝ってくださった。


そして私たちは、月に一度、第一日曜日の午後に朗読会を開くことで合意した。


一回の朗読は三十分以内。雨天の場合は室内。朝の六時以前は禁止。


これで万事解決した。


……と思っていた。


翌月、ジュリアン様は三十分ぴったりの詩を披露してくださった。翌々月も三十分。その翌月も三十分。


私は気づいた。


この方、毎月三十分の詩を新しく書いていらっしゃる。


しかも、一度も原稿を見ない。すべて暗記している。


恐るべき情熱だった。


私には、その情熱を受け止めるだけの才能がなかった。


だから婚約を解消できたとき、心の底から安堵したのである。


◇


婚約解消の手続きは、驚くほど円滑に進んだ。


ジュリアン様も、ミレーヌとの結婚を望んでいたからだ。


「クラリス。君には申し訳ないことをした」


「お気になさらないでください」


「君は素晴らしい女性だった。僕の詩をいつも静かに聞いてくれた」


「ありがとうございます」


「だが、ミレーヌは違うんだ!」


ジュリアン様の瞳が輝いた。


「彼女は言ってくれた! 私なら、あなたの詩を毎日でも聞きたい、と!」


「まあ」


「しかも、朝一番に愛の言葉を聞いて目覚めたいそうだ!」


「まあ」


「僕は、これほど理解してくれる女性に出会ったことがない!」


それはよかった。本当によかった。


「ミレーヌを幸せにしてあげてくださいね」


「ああ! 約束する!」


こうして、私とジュリアン様の婚約は正式に解消された。代わって、妹のミレーヌが婚約者となった。


その日の夕食で、ミレーヌは上機嫌だった。


「お姉様。ジュリアン様って、本当に素敵な方ね!」


「ええ。とても情熱的な方よ」


「聞いたわ! お姉様ったら、愛の詩を月に一度しか聞いていなかったんですって?」


「そうね」


「信じられない! あんなに素敵な方が、毎日愛を囁いてくださるのに!」


「そうねえ」


「私は違うわ! 毎朝、私だけのために詩を朗読していただくの!」


「まあ。素敵ね」


「お姉様にはわからないでしょうけど、愛される女性って、そういうものなのよ!」


私は微笑んだ。


「ミレーヌなら、きっと幸せになれるわ」


その夜、私は久しぶりにぐっすり眠った。


◇


三日後。


朝食の席に、ミレーヌが現れなかった。


「ミレーヌはどうした?」


父が尋ねると、侍女が困った顔をした。


「お嬢様は、少々お疲れのご様子で……」


「具合でも悪いのか?」


「いえ。ジュリアン様が、今朝もお越しになりまして」


私はパンにバターを塗る手を止めた。


「今朝も?」


「はい。昨日も、一昨日も」


なるほど。毎朝の朗読会が始まったらしい。


「何時頃に?」


「六時でございます」


私は静かに紅茶を飲んだ。やはり、六時なのね。


「それで、ミレーヌは?」


「先ほど、ようやくお休みになりました」


父が首をかしげた。


「しかし、詩を聞くだけだろう?」


「はい。ですが、今朝は二時間ほど……」


「二時間?」


父の声が裏返った。


「昨日は一時間半でございました」


私は少し考えた。


初日は一時間。二日目は一時間半。三日目は二時間。


順調に成長している。


愛が。


◇


一週間後。


ミレーヌが私の部屋を訪ねてきた。目の下に、うっすらと隈ができていた。


「お姉様……」


「どうしたの、ミレーヌ?」


「ジュリアン様って……毎朝、あんなに長い詩を読まれるの?」


「ええ。詩がお好きだから」


「でも、三時間よ?」


「まあ。三時間」


「今日なんて、三時間も窓の下に立っていらしたの!」


私は少し驚いた。


もう三時間。なかなかの成長速度である。


「お姉様は、どうして平気だったの?」


「私は月に一度、三十分だけにしていただいていたから」


「……え?」


「婚約した頃に、お約束したのよ」


ミレーヌが固まった。


「そんなこと、できるの?」


「もちろん。ジュリアン様は、お話をすれば理解してくださる方よ」


「そ、そうなのね!」


ミレーヌの顔が明るくなった。


「ありがとう、お姉様! 私もお願いしてみるわ!」


「ええ。そうなさい」


翌日。


ミレーヌは朝食に現れた。しかし、顔色は昨日より悪かった。


「……お姉様」


「おはよう、ミレーヌ」


「静かにしてほしいって、お願いしたの」


「そう」


「そしたら……」


ミレーヌは両手で顔を覆った。


「窓のすぐ外で、囁くように朗読されたの……!」


私は思わず目を瞬いた。


「まあ」


「しかも、聞こえるか聞こえないかくらいの声なの! だから耳を澄ませないと何を言っているかわからなくて!」


「それは大変ね」


「お姉様! どうして笑っているの!」


「笑っていないわよ」


私は口元を押さえた。少しだけ、笑っていたかもしれない。


◇


それから二週間。


私が自室で読書をしていると、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。


扉が勢いよく開く。


「お姉様ああああ!」


ミレーヌだった。


髪は乱れ、目の下には濃い隈。まるで何日も眠っていないような顔だった。


「ミレーヌ? どうしたの?」


「もう嫌ああああ!」


妹は私の足元に崩れ落ちた。


「お姉様! お願い! ジュリアン様を引き取って!」


私は本を閉じた。


「お断りします」


「どうして!」


「だって、もう婚約を解消したもの」


「でも! でも! あの方、毎朝来るのよ!」


「知っているわ」


「雨の日も!」


「ええ」


「風の日も!」


「そうね」


「昨日なんて雷雨だったのに!」


「まあ」


「雷が鳴るたびに、愛の詩の声量が上がるの!」


それは知らなかった。


「しかも、雷鳴に負けないようにって、声楽の先生まで雇ったのよ!」


私は少し感心した。


努力家なのね、ジュリアン様。


「もう限界なの! お願い、お姉様! あの方を返すわ!」


「ミレーヌ」


私は優しく妹の肩に手を置いた。


「婚約者は、品物ではないのよ」


「わかってるわよおおお!」


「それに、あなたが望んだのでしょう? 毎朝、愛の詩を聞きたいって」


「こんなに長いなんて聞いてない!」


「私だって、最初は知らなかったわ」


「お姉様はずるい!」


「どうして?」


「月に一度、三十分だけにしていたなんて!」


私は首をかしげた。


「それは、私がお願いしたからよ」


「私だってお願いしたわ!」


「何と?」


「もう少し短くしてって!」


「それで?」


「愛を短くすることはできないって言われたの!」


私は少し考えた。


「……なるほど」


「なるほどじゃないわよ!」


そのとき、窓の外から聞き覚えのある声が響いた。


「ミレーヌウウウウ!」


妹がびくりと震えた。


「ひっ!」


私は窓の外を見た。


庭に、ジュリアン様が立っていた。両手には分厚い本。顔には、輝くような笑顔。


「愛しいミレーヌ! ここにいたんだね!」


「ど、どうしてここが!」


「君を想う心が、僕を導いてくれたのさ!」


どうやら侍女に聞いたらしい。


「ちょうどよかった! 今日は君に素晴らしい贈り物があるんだ!」


ジュリアン様は本を高々と掲げた。


「君への愛を、一冊の詩集にまとめたんだ!」


「し、詩集……?」


「題名は『永遠に終わらぬ愛』!」


私は感心した。


立派な装丁だった。金箔で題名が刻まれ、表紙には美しい薔薇の模様が描かれている。


「全部で三百六十五篇! 一年のすべての日に、君への愛を捧げようと思ってね!」


ミレーヌの顔から血の気が引いた。


「さ、三百六十五……?」


「安心してくれ!」


ジュリアン様は胸を張った。


「これは第一巻だ!」


「第一巻!?」


「もちろん! 僕たちの愛は永遠だからね!」


妹が私の腕をつかんだ。


「お姉様……!」


「ミレーヌ?」


「助けて……!」


そのとき、ジュリアン様が朗々と声を張り上げた。


「では、さっそく第一篇を!」


「いやあああああ!」


「題名! 『君が眠るそのときも、僕の愛は目覚めている』!」


「眠らせてえええええ!」


私はそっと窓を閉めた。


しかし、声は聞こえた。


さすが、声楽の先生に鍛えられただけのことはある。


◇


それから数日後。


私は庭の東屋で、静かに紅茶を飲んでいた。


小鳥が鳴き、そよ風が木々を揺らす。誰も詩を朗読しない。


なんて素晴らしい午後だろう。


ちなみに、ミレーヌからは毎日のように手紙が届いている。


『お姉様! お願いです! もう一度だけ考え直してください!』


私は返事を書いた。


『お幸せにね。ところで、返品は受け付けませんよ?』


封をして、侍女に渡す。


私はもう一度、紅茶を口に運んだ。


ああ。


静かって、素晴らしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ジュリアンは、愛の詩を捧げる相手が欲しかったのかな。月1回じゃなくて、毎日聞きたいと言った妹に活路を見出した! だったら、詩人になって朗読会開く方向に向けてはどうだろう。 でも、対象は「愛するひと」な…
男婚約者が、これまでお目にかかったことのない類いの異常者だった‥(笑) 姉、これまでも色んな物を譲れ譲れ言われてきたとみた。 実は静かに怒ってたんですかね。。。 妹、一刻も早く同じ熱量で詩を愛する…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。