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ポイ活ライブで、夫だと思っていた男のもう一つの家庭を見つけました

作者: 熾星
掲載日:2026/06/21

 

 1.一円ライブの中の結婚写真

 神谷怜司への誕生日プレゼントを選ぶため、私はさまざまな割引ルールや一円セールの攻略法を紹介している、節約系インフルエンサーをフォローした。

 そのアカウント名は「節約妻リノ」。アイコンは、甘い笑顔で上品な暮らしをしていそうな女性だった。彼女は毎日、InstagramやTikTokでポイント還元、タイムセール、抽選販売、そして信じられないような「一円戦利品」を紹介していた。一円の純金ブレスレット、十円の高級ホテルのアフタヌーンティー。さらには港区の高級マンションに置かれていそうなインテリア雑貨まで、彼女は“魔法のような方法”で手に入れていた。


 私はもともと、その方法を真似して、怜司がずっと欲しがっていた腕時計を取ってやろうと思っただけだった。けれど、試しに注文しようとしたその時、彼女が突然、謝罪ライブを始めた。画面の中の白石莉乃は、柔らかなベージュのニットワンピースを着て、日当たりのいいリビングに座っていた。背後には大きな窓があり、外には東京・港区の夜景が見える。彼女は涙を拭いながら、配信画面の向こうのファンたちに頭を下げていた。


「本当にごめんなさい。実は、あの“一円で手に入れた”と言っていたもの、私は一度も自分で取れていなかったんです」


 コメント欄が一瞬で荒れた。

 彼女は目を赤くしながらも、隠しきれない幸せをにじませて言った。

「全部、夫が定価で買ってくれて、それを私が一円で取れたように見せてくれていたんです。私がポイ活を好きなことも、欲しいものを安く取れたら喜ぶことも知っていたから、ずっとそうやって遊びに付き合ってくれていたんです。だから、私が毎回手に入れるものは、ちょうど欲しかったものばかりだったんですね」


 配信画面は羨望で埋まった。夫がロマンチックすぎる、この世にこんな男がいるのか、と誰もが言っていた。

 私は画面を見つめながら、胸の奥がひどく酸っぱくなった。

 私と神谷怜司は九年一緒にいた。九年のあいだ、私は何百回も自分の好きなものを口にしてきたのに、彼はいつも私への誕生日プレゼントを間違えた。去年は私がアレルギーを起こすネックレスをくれたし、その前の年はまったく使わないコーヒーメーカーをくれた。それでも、彼が申し訳なさそうに「俺はロマンチックなことが分からない」と言うたび、私はどうしようもなく心が軟らかくなった。

 白石莉乃は鼻をすすり、笑いながらスマホを持ち上げた。


「お詫びとして、今日この部屋にあるものを全部、一円で皆さんにお譲りします。早い者勝ちです。今まで応援してくれたお礼だと思ってください」


 コメント欄では、彼女の幸運を羨む声と、「欲しい」「リンクください」という声が入り乱れていた。

 私もライブの購入ページを開き、神谷怜司がずっと欲しがっていた時計を見つめた。いざ取ろうとした瞬間、カメラがリビングの隅をなぞった。その一瞬、テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入った。

 写真の新郎は、冷ややかな眉目をしていて、右手の骨ばった指がよく目立っていた。

 それは神谷怜司だった。

 九年間同棲し、私は事実婚の夫だと思い込んでいた男だった。


 指先が画面の上で固まり、全身が少しずつ冷えていった。配信では、ちょうどファンが彼女と夫の出会いについて質問していた。


「莉乃さん、お義兄さんとはどうやって知り合ったんですか?」

 その時、玄関からドアの開く音がした。白石莉乃の目が一瞬で輝いた。まるで少女のように振り返って叫ぶ。

「あなた、ファンの方が私たちの出会いを聞いてるの。あなたから話して」


 男が画面の端に入ってきた。顔は映らない。ただ、手だけが伸びて、彼女の頭を撫でた。その手を、私はあまりにもよく知っていた。数えきれない深夜、その手は私を抱き寄せた。残業帰りの私の涙を拭ったこともあった。

 すぐに、神谷怜司の声が画面の外から聞こえた。彼はとても優しく、やっと実った悲しい初恋を語るように話した。


「大学の頃から、彼女が好きだったんです。でもその時、彼女は俺の親友を選んだ。だから俺は、祝福することしかできなかった」

「その後、彼女がその男に傷つけられたと知りました。それから毎月、彼女のいる街へ通いました。一緒に食事をして、病院にも付き添って、生活の面倒も見ました。八年かかって、ようやく彼女の隣に立てたんです」


 八年。

 私と神谷怜司が一緒にいた時間も、たった九年だった。

 白石莉乃は甘えるように彼を見た。


「彼、私を傷つけたあの最低男を懲らしめるために、自分がICUに入るほどのけがをしたんですよ。もう、これからはそんな無茶しちゃだめだからね」

 私は、神谷怜司がICUに入った出来事を知っていた。

 あの年、彼は少しでも早くお金を貯めて、私と正式に婚姻届を出したいからと、建設現場で夜間の交通誘導のアルバイトをしていたと言った。そこで資材が落ちてきて、胸をひどく打ったのだと。あの時期、私は心配で気が狂いそうだった。昼は仕事をし、夜はコンビニの夜勤に入り、親戚中に頭を下げて、入院保証金や差額ベッド代、リハビリ費用をかき集めた。

 その借金を、私は今も少しずつ返している。

 でも本当は、彼はお金に困ってなどいなかった。ただ私を馬鹿にしていただけだった。


 配信の中で、白石莉乃は婚姻届受理証明書を取り出し、きらきら光る指輪をかざした。

「でも、もう全部過去のことです。私たちは婚姻届を提出しました。彼が買ってくれた五カラットのダイヤの指輪も、今日届く予定です。結婚式ももうすぐなんですよ」


 画面いっぱいの祝福が、細かい針のように私の目を刺した。

 その時、私が住んでいる東京・北区の古いアパートの呼び鈴が鳴った。

 ドアを開けると、配達員が金庫のようなギフトボックスを抱えて立っていた。宛名は白石莉乃。けれど住所は、私の部屋になっていた。箱には高級ジュエリー店のロゴが印刷されていて、中に入っているのは、彼女がライブで言っていた五カラットのダイヤの指輪に違いなかった。

 配達員は誤配に気づき、慌てて謝って回収しようとした。

 けれど私は、箱を押さえた。


「大丈夫です。そこは、私の事実婚の夫の、もう一つの住まいです。私が届けます」


 北区から港区白金台まで、私はずっと震えていた。怒りが胸を焼いているのに、タクシーがその低層高級マンションの前で止まった時、逆に全身から力が抜けた。

 この建物を、私は見たことがあった。


 ある夕食後の散歩で、私と神谷怜司はここを通りかかった。彼は私の肩を抱き、いつか自分の力でこんな家に住ませてやると言った。その時の私は、彼が気の毒で、あなたと一緒にいられるなら一生古いワンルームでもいいと答えた。

 今思えば、ただ滑稽だった。

 エレベーターが最上階で開いた。呼び鈴のあと、白石莉乃が自らドアを開けた。ライブで見るよりもきれいで、肌は白く、目元には疲れの影ひとつない。私より一つ年上のはずなのに、毎日早朝から深夜まで働き、必死にお金を貯めてきた私より五歳は若く見えた。

 彼女は私の手の中の指輪ケースを見るなり、驚いて口元を押さえた。


「あら、どうしてあなたのところに届いちゃったの? わざわざ届けてくれたなんて、本当にありがとう」

 彼女は部屋の奥へ振り返り、声を弾ませて叫んだ。

「あなた、あなたが買ってくれたダイヤの指輪、届いたよ!」


 次の瞬間、神谷怜司がリビングから出てきた。左手には八歳くらいの男の子をつなぎ、右腕には三歳くらいの女の子を抱いている。女の子は首から哺乳瓶を下げ、彼の肩に頬をこすりつけていた。その光景はあまりにも温かく、まぶしすぎて、刃のように私の心臓へ突き刺さった。

 神谷怜司は私を見た瞬間、目の奥に動揺を走らせた。けれど、それもほんの一瞬だった。



 2.事実婚の妻は、ただの他人になった

 白石莉乃は彼の異変に気づかず、待ちきれない様子で指輪ケースを開けた。ダイヤは照明の下でまばゆく光った。彼女は指輪をはめ、神谷怜司の前に差し出す。声は蜜のように甘かった。


「あなた、すごくきれい。私、すごく好き」

 神谷怜司はごく自然に彼女の腰を抱き、頭に口づけた。

「言っただろう。君が欲しいものは、全部一番いいものをあげるって」

 三歳の女の子も彼の首に腕を回し、頬にキスをした。

「パパ、かっこいい」


 よだれが神谷怜司の顔にべったりついた。潔癖気味だった彼は、それを避けることもなく、ただ優しく笑った。

 目の前の光景は、私のすべての問いを喉の奥で塞いだ。

 私と神谷怜司にも、かつて一人の子どもがいた。あの時、彼は私の前にひざまずき、経済的な余裕がない、子どもが生まれてから苦しませるくらいなら、この世界に来させないほうがいいと言った。私はそれを理性であり、責任であり、子どもを苦しませたくない彼の優しさだと思っていた。

 でも本当は、私との子どもが欲しくなかっただけだった。

 私は急に力を失い、そのまま帰ろうとした。けれど白石莉乃が私の手を引き、無邪気で親しげに笑った。


「あなた、私のファンですか? アカウントを見たことがある気がします。あの時計、私から買ってくれた方ですよね?」

 私は答えなかった。彼女は何も気づかないふりで、私を部屋の中へ引き入れた。

「今日は娘の三歳の誕生日なんです。わざわざ指輪まで届けてくれたんだから、よかったら一緒に食べていってください」


 私はその手を振り払いたかった。けれど神谷怜司はリビングに立ち、一言も言わずに私を見ていた。その目には警告と懇願があった。彼は私が騒ぐのを恐れていた。けれど、子どもの前では私が何もできないと確信していた。

 私は急に、彼がどこまで取り繕えるのか見てみたくなった。白石莉乃は私をリビングへ連れていき、親しげに尋ねた。


「なんてお呼びすればいいですか?」

「七瀬晴香です」

「晴香さん、私と同じくらいに見えますね。彼氏はいますか?」

「九年一緒にいる男がいます」


 私は神谷怜司を見た。彼は視線をそらし、何も言わなかった。白石莉乃は面白い話を聞いたように、目を輝かせた。


「九年の恋愛って長いですね。じゃあ、どうしてまだ結婚していないんですか? 長く付き合いすぎたカップルって、かえって結婚できなくなるって聞きますけど」

 彼女は頬に手を当てて笑った。その声には隠す気もない優越感があった。

「私と怜司は違います。私たち、スピード婚なんです。彼は八年も私を追いかけてくれて、告白だけでも九百回以上してくれたんですよ。私を追いかけるために使ったお金なんて、札束を数える機械が百年動いても数えきれないくらいじゃないかな」


 喉の奥に鉄の味がこみ上げた。

 九年のあいだ、神谷怜司はいつもお金がないと言っていた。神谷家はとっくに破産して、家は借金まみれだと。借金を返すまでは私を不幸にしたくないと。もう少し待ってくれ、九年同棲しているのだから夫婦と変わらない、婚姻届なんてただの形式だと。

 私は信じた。

 白石莉乃は頬を赤くし、ふと声を潜めて私の耳元に寄った。


「でもね、結婚式が今まで延びた理由、分かります?」

 彼女は恥じらうように、それでいて得意げに笑った。

「怜司が私にべったりなんです。お腹が大きくなったり戻ったりで、なかなかちょうどいい時期がなくて。今回はまだ目立たないうちに、慌てて式を決めたんです」


 そう言って、彼女は軽く神谷怜司の足を蹴った。神谷怜司は彼女の足がつったと思ったのか、すぐにしゃがみ込んで揉み始めた。

「どうした? またつったのか?」

 白石莉乃は私と目を合わせ、ぷっと笑った。愛されている証拠を私に見せつけているようだった。私も唇だけを引き上げたが、どうしても笑えなかった。


 その時、玄関のドアがまた開いた。

 神谷怜司の両親、友人、そして数人の取引相手が次々と入ってきた。手には高価なプレゼントを提げ、身につけているのは雑誌でしか見たことのないブランド品ばかりだった。かつて私の前で貧乏だ、家が苦しい、怜司を分かってやってほしいと泣いた人たちが、今は本物の上流階級のように身なりを整えていた。

 私を見た瞬間、全員が一瞬固まった。けれど神谷怜司はすぐに口を開いた。その声は恐ろしいほど平静だった。


「彼女は莉乃のファンだ。今日は子どもの誕生日会に来てくれたんだ」

 皆はすぐに笑ってごまかし、何事もなかったかのように振る舞い始めた。見覚えがあると私を褒める人、適当に座ってと言う人、お茶を飲むかと自然に尋ねる人までいた。その瞬間、私はようやく理解した。

 彼らは全員、白石莉乃の存在を知っていたのだ。


 子どもがまだろうそくを吹き消している最中だったから、私は結局、誕生日会の席で騒ぐことはしなかった。食事の途中で立ち上がり、帰ると言った。白石莉乃は大げさに引き止め、次の配信ではいいものを取っておくからとまで言った。

 マンションの玄関まで歩いた時、神谷怜司が追いかけてきた。手には、あの腕時計を持っていた。


「晴香。莉乃が、これは君が買ったものだと言っていた」

 私はその時計を見つめ、急に馬鹿馬鹿しくなった。

「あなたへの誕生日プレゼントだった。でも今となっては、笑えるでしょう?」


 神谷怜司はうつむき、何も言わなかった。私はついに耐えきれず、声が震え始めた。

「こんな時計、あなたならいくらでも持っているんでしょうね。でも私は、それを取れたと喜んで、馬鹿みたいにはしゃいでいた。神谷怜司、存在もしないあなたの家の借金のために、毎日朝から夜まで働き続ける私を見て、そんなに優越感があった?」


 九年間積もった委屈、怒り、悔しさが、この瞬間に決壊した。神谷怜司は私を抱きしめようと手を伸ばした。私はその手を思い切り払いのけた。



 3.港区の玄関前で受けた平手打ち

 神谷怜司は私に押され、一歩よろめいた。目に傷ついたような色が浮かぶ。けれど私はもう、その表情に騙されなかった。


 彼は長い沈黙のあと、ようやく低く言った。

「晴香、君が考えているようなことじゃない。この世界は複雑なんだ。人を値踏みするような連中ばかりだ。俺はただ、君が傷つくのが怖かった」

 私は怒りで笑った。

「傷つけたくないから、別の女と婚姻届を出したの?」

「傷つけたくないから、別の女との子どもを作ったの?」

 神谷怜司の顔が白くなった。


「違う。あの頃、莉乃は俺の友人に傷つけられて、何度も自分を消そうとしていた。あんなに明るかった彼女が壊れていくのを見て、放っておけなかった」

 彼は苦しげに、けれど真実を語っているつもりで言った。まるで、自分は責任を引き受けざるを得なかった聖人だとでも言うように。


「晴香、信じてくれ。彼女に対してあるのは同情で、愛じゃない。子どももただの事故だった。あの時は二人とも酒を飲んでいた。彼女は体が弱くて堕ろせなかった。俺は責任を取るしかなかったんだ」

 私は彼を見つめ、涙がこぼれた。ようやく、過去九年の自分がどれほど惨めだったかを悟った。

「神谷怜司、知ってる? あの時、あなたが子どもを諦めようと言ってから、私はすぐには病院へ行かなかった。どうしてか分かる? 産みたかったからよ」


 神谷怜司の呼吸が止まった。

 私は続けた。

「お腹が少しずつ大きくなっていけば、あなたもきっと手放せなくなると思っていた。でも、あの子が最後にどうなったか知ってる? 医者は、私が長いあいだ昼夜逆転で働きすぎて、体が妊娠を続けられる状態じゃなかったと言った」

 自分の声とは思えないほど震えていた。

「その時、私は何を考えたと思う? これでよかったのかもしれないって考えたの。手術代が浮けば、あなたの起業資金が少し増えるって」

「しかも、私はもう妊娠しにくい体になったことも、あなたに言えなかった。あなたが自分を責めるのが怖かったから。あなたが心配すると思ったから。でも今は思う。私は本当に畜生だった。まだ世界を見てもいないあの子を、私の手で犠牲にした。あの子に謝っても謝りきれない」

 神谷怜司の目が赤くなった。

「ごめん、晴香。知らなかった。本当に、知らなかったんだ……」

 彼はまた私を抱きしめようとした。


 その時、背後から鋭い女の声が飛んだ。

「二人で何してるの?」


 神谷怜司は顔を上げて白石莉乃を見た瞬間、ひどく慌てた。彼はほとんど反射的に私を押しのけ、彼女のほうへ走った。

 だが白石莉乃はすでにこちらへ駆け寄り、私の頬を思い切り平手で打った。


 ちょうど近くの子どもたちが下校する時間だった。高級マンションの前には人通りが多かった。その平手打ちの音はやけに澄んで響き、周囲の人たちが一斉に足を止めた。頬が焼けるように痛み、口の中が切れて、すぐに血の味が広がった。白石莉乃は私を指差し、涙を自由自在にこぼした。

「私、変だと思っていたんです。どうして私のファンのふりをして、わざわざ娘の誕生日に家まで来たのかって。うちの夫を誘惑するつもりだったんですね。気持ち悪い」

 周囲はすぐにひそひそとささやき始めた。

「この女、恥ずかしくないの? 子どもまでいる家庭に割り込むなんて」

「神谷さんと莉乃さんって、有名なおしどり夫婦でしょう? お金目当てなんじゃない?」


「最近、こういう不倫女って本当に多いよね」

 白石莉乃は顎を上げ、神谷怜司の答えを待った。


 神谷怜司はその場に立ったまま、無意識に指先をこすっていた。彼が緊張した時に出る癖だった。けれど次の瞬間、彼は顔を上げた。私を見る目は、関係のない他人を見るように冷たかった。声もまた、淡々として、はっきりしていた。

「この方には、何度もお断りしています」

「どうか、これ以上私につきまとわないでください。妻は私の一線です。彼女をこれ以上悲しませるなら、私はあなたを許しません」

 私は呆然と彼を見つめた。


 白石莉乃の友人たちがすぐに駆けつけ、私を取り囲んだ。押す者、髪を引っ張る者、私の惨めな姿をスマホで撮る者までいた。白石莉乃は泣きながら神谷怜司の腕の中に隠れた。まるで、第三者に傷つけられた可哀想な妻のように。

 神谷怜司は止めようとしたようにも見えた。けれど白石莉乃が彼を一瞥すると、彼は沈黙した。彼は白石莉乃の頬を軽くつまみ、困ったように、そして甘やかすように言った。


「もう三人の子どもの母親なのに、こんな嫉妬をするなんて」

「分かった。誓うよ。俺、神谷怜司は永遠に君のものだ。誰にも奪われない」


 その瞬間、私はようやく完全に心が死んだ。

 最後は私が警察を呼び、ようやくその場から逃げ出すことができた。

 立ち去る時、頭には長い傷ができ、両頬は腫れて原形が分からないほどだった。肋骨は数本折れ、脾臓にも裂傷があった。病院の診断は明確だった。傷害罪として告訴できる程度のけがだった。


 けれど白石莉乃は、それだけでは満足しなかった。

 彼女はあの日の映像を都合よく編集してネットに上げ、私が夫を誘惑し、彼女の家庭を壊そうとしたと泣きながら訴えた。すぐに私の名前、住所、勤務先、SNSアカウントまですべて晒された。DMには罵倒が詰まり、血のついた布切れを送りつける者もいた。封筒の中にカッターの刃を入れて送ってくる者までいた。

 私は神谷怜司と過ごした九年の交際記録を出した。誰も信じなかった。自分は不倫女ではないと言った。誰も聞かなかった。



 4.私はネット中の“不倫女”になった

 弟の七瀬陽太は、怒りで震えていた。

 陽太は私より四歳下で、普段は誰よりも穏やかだった。けれどその日、病床に横たわる私を見た彼の目は、血がにじみそうなほど赤かった。彼は弁護士を探して白石莉乃を訴える準備をし、証拠を整理し、証人に連絡を取り、ネット上の誹謗中傷も一つずつ保存してくれた。けれど、その手続きはすべて神谷怜司によって握り潰された。

 ある深夜、病院から突然連絡が入った。陽太が薬を誤って飲み、ICUへ運ばれた。状態は非常に危険だという。医師は、できるだけ早く先進的な治療ができる病院へ転院させる必要があり、高額な保険外費用と差額ベッド代が必要だと言った。

 私はその場に崩れ落ち、スマホを落としそうになった。陽太はいつも健康だった。どうして薬を誤飲なんてするのか。

 その時、知らない番号から電話がかかってきた。出ると、神谷怜司の声がした。


「晴香、俺は言ったよな。莉乃は俺の一線だって」

 私の声は震え、別人のようだった。

「陽太に何をしたの?」


 電話の向こうで、数秒の沈黙があった。その沈黙こそが答えだった。私は歯を食いしばり、スマホを握り潰しそうになった。

「神谷怜司、どうして私はあなたみたいな人間を好きになったの?」

 彼の声は相変わらず平坦だった。

「無駄だよ、晴香。君の診断書も、集めた証拠も、監視カメラの映像も、全部こちらで処理した。これからは、あのマンション前で起きたことは、ただの口論だったことになる」

 彼は、どうでもいい商談のように軽く言った。

「大人しくしてくれ。もう騒がないと約束するなら、陽太を助ける」


 全身が冷えていった。彼はさらに続けた。

「それに、君がいい子にしてくれるなら、俺たちは昔の関係を続けてもいい。君、港区の部屋が好きだっただろう? 一つ買ってあげる。運転手も家政婦もつける。莉乃の前に出てこないなら、好きなだけわがままを言っていい」


 胃の中がひっくり返り、吐き気がこみ上げた。

「私を、外に囲う小鳥にしたいの?」

 神谷怜司は、聞き分けのない子どもをなだめるように、軽くため息をついた。

「晴香、俺がいれば、誰もそんなふうには言わない」

 陽太のために、私はすべての嫌悪を押し殺した。

「神谷社長。告訴は取り下げます」


 電話の向こうが明らかに固まった。私が初めて、そんな他人行儀な呼び方をしたからだ。

「ただ、弟を助けてください。あなたの小鳥になる件については、申し訳ありません。私には、その資格がありません」


 私は返事を待たずに電話を切った。告訴取り下げの書類に署名したその夜、私は深夜まで待った。けれど陽太の治療費は振り込まれなかった。神谷怜司に電話しようとした時、先に彼から電話がかかってきた。

 今度は、電話口から荒く苦しげな呼吸音が聞こえた。


「晴……晴香、苦しい……うちに来てくれないか……」

 神谷怜司には喘息があった。何年も発作は起きていなかったが、その声は確かに窒息しかけているように聞こえた。私はスマホを握りしめ、声にも焦りがにじんだ。

「白石莉乃は? 彼女に連絡しなさいよ」

「彼女……電話に出ない……救急車も……なかなか来ない……」


 私は彼を憎みきっている。けれど九年の感情が嘘だったわけではない。目の前で死ぬのを見過ごすことはできなかった。さらに、彼が死ねば陽太の治療費はもっと遠のく。私はほとんど反射的に言った。

「持ちこたえて。すぐ行く」


 道中、気が狂いそうだった。タクシーが止まりきる前に、私は白金台の高級マンションへ駆け込んだ。エレベーターへ向かう途中で転び、膝から血がにじんだ。それでも走った。けれど、別荘のようなその部屋のドアが開いた瞬間、私は中から蹴り倒された。

 室内からどっと笑い声が上がった。リビングのソファには白石莉乃が悠然と座っていた。神谷怜司も何事もなく彼女の隣に座り、うつむいてリンゴをむいている。そばにはスマホが立てられていて、ライブ配信中だった。

 白石莉乃の友人が私の髪をつかみ、さらに平手で打った。


「まだ自分は不倫女じゃないって言うの? 怜司がちょっと呼んだだけで、すぐ騙されて来たじゃない。人の男を奪うのって、そんなに楽しい?」

「こういう女は顔に“不倫”って刻んでおけばいいのよ。二度と人前に出られないように」

 神谷怜司は果物ナイフを置き、指を立てて白石莉乃に誓った。

「ベイビー、これで俺と彼女には何もないって信じてくれただろう?」


 そう言ってから、彼は私を見た。その目は冷たかった。

「七瀬さん、何度も言いましたよね。私につきまとわないでください。あなたは本当に、安っぽい」

 ところが白石莉乃は、その時になって善人ぶった。私のそばへ来て、助け起こそうとする。

「もういいよ。これ、晴香さんだけが悪いわけじゃないもの。うちの怜司が魅力的すぎるのが悪いんだよね」

 彼女の手つきは優しかった。けれど声は、私にしか聞こえないくらい低かった。

「あのポイ活ライブの時から、全部私が仕組んだことだったの。分かった? 愛されていないほうが、不倫女なのよ」


 その瞬間、血が逆流したようだった。私はずっと、白石莉乃も騙されている被害者だと思っていた。けれど彼女は最初から私の存在を知っていて、最初から私を“不倫女”という汚名に縛りつけるつもりだったのだ。

 その時、病院から電話が入った。


「七瀬様、申し訳ありません。つい先ほど、弟様の七瀬陽太様が合併症により、救命できずお亡くなりになりました」

 手から力が抜けた。神谷怜司はまだ私を急かしていた。

「晴香、莉乃にひざまずいて謝れ。君がわざと俺たちの結婚生活に割り込もうとしたと認めれば、この件は終わる」

「弟は、まだ病院で治療費を待っているんだろう?」


 私は彼に返事をしなかった。体を支え、ライブカメラの前に座った。画面に映る私は髪が乱れ、顔には傷だらけで、口元には拭いきれない血がついていた。それでも私は画面を見つめ、ふっと笑った。


「こんばんは」

「私は今、ネット中から“不倫女”と叩かれている七瀬晴香です」

「今日は、私と神谷怜司の九年についてお話しします」



 5.ライブ配信で暴かれた九年の真実

 私がそう言った瞬間、配信のコメント欄は罵声で埋め尽くされた。

「不倫女が配信に出るな」

「こんな顔で神谷社長を誘惑できると思ってたの?」

「莉乃さんのほうがずっと綺麗。何を勘違いしてるの?」


 白石莉乃は隣に座り、勝ち誇った笑みを浮かべていた。神谷怜司は眉をひそめ、配信を切ろうとしているようだったが、大きく動けばかえって疑われると思ったのだろう。視聴者数は恐ろしい速度で増えていった。一万人、五万人、そして十万人へ。

 私は視聴者数が十万人を超えるのを待ってから、最初の証拠を取り出した。私は大学の頃から、カメラで日常を記録する癖があった。当時のスマホ画質はまだよくなく、私は中古のCCDカメラで多くの写真を撮っていた。写真には独特の淡い粒子感があったが、私と神谷怜司が互いを見る時の愛情は、どう見ても偽造できるものではなかった。


 私は一枚ずつ写真を見せた。大学の図書館、卒業式、借りた最初の部屋、コンビニの夜勤帰りに彼が迎えに来てくれた日、私が彼の誕生日に作った手作りケーキ。やがてカメラは高性能になっていったのに、写真は逆に少なくなっていった。最後の一枚は、私が妊娠した時のエコー写真だった。どれも、私と神谷怜司の九年を証明するものだった。


 コメント欄に、突然一つの書き込みが流れた。

「私は七瀬晴香の大学時代の同級生です。二人が大学の頃から付き合っていたことを証言できます」

 続いて、別の同級生も書き込んだ。

「私も証言できます。当時、二人がカップルだったことは学内ではほぼみんな知っていました」


 水軍だと疑うコメントが出ると、すぐに誰かが卒業時のクラス写真を投稿した。その写真を私は長いあいだ見ていなかった。画面の中で、私はカメラを見ていた。けれど神谷怜司は、無意識に私を見つめていた。当時その細部に気づいた私は、うれしくて眠れなかった。今見ても、心にはかすかな酸っぱさだけが残った。その酸っぱさも、すぐに消えた。

 私はカメラに向かって、証言してくれた同級生に丁寧に礼を言った。それから、一つの音声を流した。録音の中で、少し若い神谷怜司の声が響いた。


「晴香、俺たちは今、あまりにも貧しい。今結婚したら、君に不公平だ。もうこんなに長く一緒に暮らしている。俺の中では、これはもう事実婚なんだ。信じてくれ。金ができたら、必ず正式に君を娶る」


 この音声を、私は何年も大切に保存していた。神谷怜司の約束だと思っていた。今、それは私が不倫女ではないと証明するための証拠になった。配信画面は完全に沸騰した。


「神谷怜司って神谷財団の後継者じゃないの? お金がないわけないでしょ」

「わざと貧乏なふりをして、結婚を引き延ばしていたってこと? 気持ち悪すぎる」

「じゃあ、知ってて割り込んだのは白石莉乃のほう?」


 私は静かにカメラを見た。声に涙はなかった。自分でも不思議なほど平静だった。

「過去九年、私は神谷怜司と別れたことはありません。私は全財産を、存在しない借金の返済のために使いました。そのお金の一部は、白石莉乃のブランドバッグになり、一部は彼らの子どものミルク代になりました」

「そして私の弟、七瀬陽太は、この騒動のせいで、つい先ほど病院で亡くなりました」

 神谷怜司の手の中のグラスが床に落ち、破片が飛び散った。彼はようやく慌てた。


「ごめん、晴香。知らなかった……本当に、こんなことになるなんて思っていなかった」

 彼は私を見て、本当に後悔しているような苦痛を浮かべた。

「大丈夫だ。陽太の葬儀は、一番いい形で俺が手配する。俺たちはこれからも……」

 私は笑った。彼はこの期に及んで、まだ私たちに未来があると思っていた。


 白石莉乃はその瞬間、突然お腹を押さえてうずくまった。

「怜司、苦しい……本当に苦しいの」

 神谷怜司はすぐに彼女のほうへ振り向き、顔色を変えた。

「莉乃? どうした? 腹が痛いのか? 病院へ行こう」


 その時、玄関の外から救急隊員の声がした。

 私はここへ来る前、東京消防庁に電話をして、神谷怜司の救急要請記録を確認していた。相手は、そんな通報はないと言った。だから私は改めて救急車を呼んでいた。まさか、ちょうど使うことになるとは思わなかった。


 白石莉乃は救急隊員を見た瞬間、表情を変えた。けれどすぐに担架へ横になり、涙をこぼしながら言った。

「怜司、私、死んじゃうの? もうあなたに会えなくなるの?」

 神谷怜司は彼女を抱きしめ、痛々しいほど心配していた。だが救急医は検査結果を見て、表情をどんどん無言にしていった。

「ただの低血糖です」


 リビングは一瞬で静まり返った。医師は眉をひそめて続けた。

「こちらの女性、早く担架から下りてください。医療資源には限りがあります。こんな芝居で同情を引く暇に付き合う時間はありません」

 神谷怜司がはっと顔を上げた。

「何だって? 低血糖? 彼女はずっと胎児が不安定だと……流産すれば命に関わると……」

 医師はほとんど呆れたように笑った。

「この方は、ここにいる多くの方より健康です。医学的には、あと何人か産むことも問題ではありません」

 その言葉は爆弾のように、配信画面を粉々にした。



 6.崩れ落ちた節約妻の仮面

 神谷怜司の表情は、歪むほど精彩を欠いていた。彼は白石莉乃を振り返り、声を少しずつ冷たくした。

「俺を騙したのか?」

 白石莉乃の目が赤くなった。

「じゃあ、私はどうすればよかったの? あなたはいつもあの女を捨てきれなかった。だから、こうするしかなかったのよ」

 彼女は弱々しく泣いていたが、声には恨みが滲みきっていた。

「先に私を好きになったのはあなたでしょう。なのに、私が少しほかの人と付き合っただけで、あの女に横取りされた。そんなの、納得できるわけない」


 コメント欄は狂ったように流れた。

「じゃあ白石莉乃が小三だったの?」

「気持ち悪い。相手が追ってきた時は断っておいて、彼女ができたら奪うとか」

「節約妻の人設崩壊だね。知ってて割り込んで、しかも原配を陥れたんだ」


 神谷怜司の顔は鉄のように青くなり、突然、白石莉乃の首をつかんだ。最初、彼女は苦しそうに暴れ、長い爪で彼の手の甲に何本も血の筋を刻んだ。けれど途中から、彼女は抵抗をやめた。ただ真っ赤な目で、じっと彼を見上げた。

「怜司、あなたは私のことが一番好きなんでしょう?」

 彼女の声はかすれていた。それでもなお、可哀想な女を演じ続けていた。

「忘れたの? あなたは私をあんなに愛していた。私、ちょっと間違えただけよ。怒らないで。お願い。私だって、あなたを愛しているからしたことなの」


 神谷怜司はその言葉に刺されたように我に返り、勢いよく手を離した。白石莉乃は床に崩れ落ち、大きく息を吸った。もう一度甘えようとした時には、声は壊れたふいごのように、みっともなくかすれていた。


 神谷怜司は数歩後ずさった。

「白石莉乃、俺が最初に君と一緒にいたのは、君が俺の友人に傷つけられて可哀想だったからだ。大学時代の君に、まだ少し幻想が残っていたからでもある」

 彼は彼女を見た。初めて、その目からすべてのフィルターが消えていた。

「でも、君がこんな人間になっているとは思わなかった」


 白石莉乃の顔から、血の気が少しずつ引いていった。

 神谷怜司は続けた。

「弁護士から連絡させる。今日で終わりだ」

 白石莉乃は数秒固まったあと、急に狂ったように笑い出した。

「終わり? 私があなたの子を産んだのに、一言で捨てられると思ってるの?」


 彼女は私を指差し、悪意に満ちた目を向けた。

「ああ、分かった。あなた、まだ七瀬晴香と結婚してやり直すつもりなんでしょう? 夢でも見てなさい。あの女は一生あなたを許さない」

「神谷怜司、あなたも私から逃げられると思わないで。私は一生あなたを放さない!」


 神谷怜司は彼女の狂気に怯え、一歩下がった。彼はようやく私を振り返った。目には苦痛と悔恨、そして遅すぎた恐怖が浮かんでいた。私のほうへ歩き出そうとした時、私はすでに立ち上がっていた。


 幼なじみの藤堂悠真は、私が連絡して呼んでいた。彼は玄関に立っていた。濃い色のコートを着て、手には予備の傘を持っている。私のぼろぼろの姿を見た彼の目は恐ろしく沈んだが、何も問い詰めず、ただ外套を私の肩にかけてくれた。

 神谷怜司は彼を見た瞬間、複雑な顔をした。

 私は説明する気もなかった。配信を切り、藤堂悠真について、その豪華で檻のようなマンションを出た。エレベーターの扉が閉まる直前、最後に見えたのは、神谷怜司がその場に凍りついたまま立っている姿だった。過去九年、彼は私を数えきれないほど待たせた。

 今度は私が、もう振り返らない番だった。



 7.東京で始まった新しい生活

 藤堂悠真の車に乗ると、彼は私のシートベルトを締めてくれた。

 その夜、私は大学時代の恩師に連絡し、東京の国立先端科学研究センターで働く誘いを受けると伝えた。本当は、その誘いはずっと前から来ていた。恩師はずっと私に材料工学の研究を続けてほしいと願っていた。けれど当時の私は、神谷怜司が一人で借金を返すのが心配で、どうしても決断できずにいた。

 今、私はようやく何にも縛られなくなった。


 飛行機が離陸した瞬間、窓の外で遠ざかっていく街の明かりを見ながら、過去九年は長い悪夢だったのだと思った。夢の中で、私は神谷怜司に近づきたくて、必死に勉強し、必死に彼を追いかけた。彼は大学の成績優秀者掲示板で一番輝いていた人で、私は彼の名前の隣に自分の名前を並べるため、毎日明け方まで机に向かっていた。


 彼が初めて私に言った言葉を、今でも覚えている。

「実は、ずっと君のことが気になっていた」


 その時、私の心は花火のように明るくなった。私たちは正式に告白したこともないまま、ごく自然に一緒になった。九年のあいだ、私は二人の絆は固く、金銭や身分で壊れるものではないと信じていた。けれど最後には、すべてが信じられないほど脆かった。

 神谷怜司が白石莉乃にどんな感情を抱いていたのか、もうどうでもよかった。愛だったかどうかに関係なく、彼は彼女のために私を騙し、辱め、私と陽太の人生を壊した。


 東京での生活は速かった。研究センターの仕事は密度が高く、厳密さも求められた。私は毎日、余計なことを考える暇もないほど忙しかった。藤堂悠真の仕事も東京にあり、彼は私をたくさん助けてくれた。引っ越しから陽太の葬儀の手続き、弁護士との連絡、警察署への追加資料の提出まで、ずっと付き添ってくれた。


 神谷怜司は何度かメッセージを送ってきた。藤堂悠真とはどういう関係なのかと聞いてきた。私は答える気にもならず、すべての連絡手段をブロックした。


 ある雨の午後、研究センターから車でマンションへ戻った時だった。神谷怜司がどこからともなく飛び出してきて、私の手をつかみ、そのまま胸に引き寄せた。あまりにも強く抱きしめられて、息が詰まりそうだった。彼の声は涙でかすれ、本当に崩れかけているようだった。


「晴香、やっと見つけた」

「俺が悪かった。許してくれ。俺と一緒に戻ってくれ」


 私は抜け出せず、彼の肩に歯を立てた。けれど彼は木のように動かず、避けもしなかった。歯が痛くなるほど噛んでも、彼は手を緩めなかった。


「何をしてもいい。殴っても、罵ってもいい。全部俺が受ける」

「でも、俺から離れないでくれ。晴香、俺は本当に間違っていたんだ」


 私は膝を上げ、彼の一番弱い場所を思い切り蹴った。彼はようやく苦痛で私を離した。

 私は数歩下がり、彼を睨みつけた。神谷怜司はまっすぐその場にひざまずいた。雨が彼の髪を濡らし、涙が頬を伝っていた。罪を認めてひざまずく犯罪者のように、ひどく惨めだった。彼は泣きながら顔を上げた。

「晴香、信じてくれ。俺は騙されていただけなんだ」


「白石莉乃があんなに悪質な女だとは思わなかった。あのポイ活ライブだって、君に手を引かせるために彼女が仕組んだものだった。俺が悪い。俺が人を見る目を間違えた」

「もう彼女とは離婚した。俺と戻ってくれ。すぐに婚姻届を出そう。結婚式も挙げよう。俺たちはまた子どもを持てる。今度こそ、俺はいい夫にも、いい父親にもなる……」

「もういい」


 私は冷たく遮った。

「神谷怜司、私たちはもう終わったの」

 彼の全身が震えた。

「二度と私を探しに来ないで」

 彼はその言葉をようやく理解したようだった。目つきが急に歪んだ。

「藤堂悠真のせいか?」

 私は彼を、哀れで滑稽な狂犬を見るように見た。


「神谷怜司。自分が下劣だからって、他人もみんな同じだと思わないで」

 彼の顔は一瞬で青ざめた。

 大学時代、藤堂悠真が私に告白したことは確かにある。けれどその時、私はきっぱり断った。好きな人がいると告げた。その後、私たちの連絡はほとんどなかった。一番多くやり取りしたのは、神谷怜司の成績に追いつけないとLINE VOOMに長文を投稿した時だった。藤堂悠真が、自分でまとめた受験ノートをくれた。あのノートのおかげで私は大学院に合格したし、神谷怜司もいくつかの難問を的中させることができた。


 神谷怜司はそれを知っている。知っているからこそ、藤堂悠真の名前を出すたびに、ひどく卑屈になったのだろう。

 私はもう彼を見なかった。背を向けて歩き出した。

 その日を最後に、私は神谷怜司に会っていない。



 8.二度目の人生

 その後、親友から一つのニュースが送られてきた。

 神谷怜司が白石莉乃と離婚する際、彼女には一円も渡さなかったという。彼女の「節約妻リノ」という人設は完全に崩壊し、インフルエンサーとして稼ぐこともできなくなった。けれど彼女はすでに贅沢な暮らしに慣れていて、普通の生活に戻ることを拒んだ。やがて高額なギャンブル借金を抱え、借金取りに連れていかれたという。その後の行方は分からない。アカウントは削除され、身元情報もいくつもの調査に巻き込まれた。


 さらにしばらくして、私は自分で別のニュースを見た。

 神谷怜司が飲酒運転で、高架橋脇のガードレールに衝突したという。激しい衝撃で車の前部は完全に潰れていた。幸い、無関係な通行人を巻き込むことはなかった。

 ある人は、彼が借金まみれになって追い詰められたと言った。ある人は、後悔に病んで精神的に崩壊したのだと言った。真相が何だったのか、もう意味はなかった。


 私は無意識に「興味なし」を押し、そのニュースを流した。心には、一つの波も立たなかった。白石莉乃であれ、神谷怜司であれ、今の私の生活にはもう何の関係もない。私の仕事は再び軌道に乗り、毎日は忙しく、充実していた。その感覚は、長い溺水からようやく岸に上がり、もう一度息ができるようになったみたいだった。


 誕生日の日、友人たちが家にご飯を食べに来た。私は玄関で靴を履き替えていたが、リビングで彼らが小声で話すのを聞いた。

「藤堂がもう少し根性出していれば、ここまで長引かなかったのに」

「知らないの? あいつ、卒業後は本当は東京に残る予定だったんだよ。晴香が横浜で働くって聞いて、せっかくのいい機会を捨てて、わざわざ追いかけて小さな会社に入ったんだ」

「ずっと黙ってそばで見守っていたんだよ。何も言えなくてさ。見ているこっちが焦れったかった」


 私は玄関に立ったまま、靴ひもにかけた指を止めた。

 背後でエレベーターの扉が開く音がした。藤堂悠真が大きな食材袋を二つ提げて入ってきた。私を見るなり、ごく自然に尋ねる。

「どうして入らないんだ?」

 彼は手の中の食材を軽く掲げた。

「今日は君の誕生日だろう。今夜は俺が作る」


 友人たちは私たちが一緒に入るのを見て、意味深な目配せを交わした。けれど誰も何も言わなかった。

 私は藤堂悠真と一緒にキッチンで夕食の準備をした。彼はエプロンをつけ、うつむいて野菜を切っていた。動きは慣れていて、静かだった。鍋からはことことと湯気が上がり、窓の外には東京の平凡で明るい夜があった。

 ふと思った。今日、偶然耳にしなければ、彼はあの古い街での再会が偶然ではなかったことを、一生私に話さなかったのではないか。彼があれほど多くのことをしてくれていたことも、言わなかったかもしれない。二度目の告白ですら、このまま一生しなかったのかもしれない。


 けれど、再会してからの小さな出来事のすべてが、声にならない告白のようだった。彼は私が甘すぎるコーヒーを飲めないことを覚えていた。残業のあと胃が痛くなることも覚えていた。雨の日には車に予備の傘を用意していた。彼は私が好きな仕事に就くことを願い、私の体が健康であることを願い、私に明るい新生活があることを願っていた。ただ、自分の幸せだけを、その外に置いていた。

 夕食のあと、友人たちは私たちを家から追い出した。親友は笑って言った。

「食器は私たちが片づけるから、二人で散歩してきなよ」

 藤堂悠真の友人も彼の背中を押した。

「こっちはこっちで話してるから、急いで戻ってこなくていい」

 ドアが目の前で閉まった。藤堂悠真は少し気まずそうに、自分の耳を触った。私はそれを見て、思わず笑いそうになった。


「行こう」

 彼はうなずき、黙って私の後ろについてきた。

 私たちはマンションの外の道をゆっくり歩いた。東京の夜風は少し冷たく、街灯が二人の影を長く伸ばしていた。二人きりの時間は実はそれほど多くなかった。彼は突然、話題の探し方が分からなくなったように、やけに静かだった。


 私は深呼吸した。

「ねえ、悠真」

「うん?」

「あなたの作ったご飯、おいしかった」

 彼は一瞬固まり、それから真剣に答えた。

「ありがとう」

 私は足を止め、彼を振り返った。

「じゃあ、これから毎日作ってくれる?」

 街灯の下で、藤堂悠真の目が驚くほど明るくなった。彼はどうしていいか分からないように、まるで何年も前に初めて告白してくれた少年のようだった。声は少し震えていた。それでも、とてもまっすぐだった。


「晴香、君が好きだ」

「俺と付き合ってくれないか?」

 私は彼を見て、ようやく笑った。

「うん」

 彼はもう喜びを抑えきれず、そっと私を抱きしめた。その抱擁は急がず、強すぎもしなかった。私を驚かせまいとしているようで、同時に、ようやく待ち続けた答えを受け取ったようでもあった。


 藤堂悠真の愛は、冬の夜にずっと温めてくれていた湯のようだった。残業で遅くなった夜に、私のために灯っている玄関の明かりのようだった。雨の日に、黙って私の頭上へ差し出される傘のようだった。

 本当の愛は、人を灰になるまで燃やし尽くしたりしない。

 長い痛みのあとでも、もう一度明日を信じさせてくれるものなのだ。どうか、かつて傷ついたすべての人が、夜を歩き切った先で、あなたのために傘を差してくれる誰かに出会えますように。

 ――完――


 




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