■第八章:潜伏の訪問者
眩しい光が、まぶたの裏を灼いた
湿った匂い。どこかで油の焦げる音。
湊はゆっくりと目を開けた。視界に映るのは、古びた天井と剥がれかけた配管の跡。
「……ここ、は……」
かすれた声が漏れる。隣で寝ていたサムが、寝言みたいに呟いた。
「……トラックの……次、どこだっけ……」
――川崎ロゼリアの地下拠点。その医療室だった。
点滴が腕に刺さり、胸の奥がまだ重い。
横ではつかさが浅い呼吸で眠り、サムは寝袋にくるまりながら「……ガイ・ヤーンが……絡まった……」と寝言を言っていた。
湊は微笑んで、小さく呟く。
「……帰って、これたんだな」
その静けさを――
“ガッシャーン!”
突然、金属音が引き裂いた。次いで、怒鳴り声。
「シャワーが熱湯しか出ねぇ! 誰だこんな狂気の温度設定にした奴はぁ!」
湊が目を瞬く。
「……え?」
つかさが寝ぼけ眼で顔を上げる。
「……敵、なの? 今の」
「敵が人んちで風呂入ってんのは嫌だな……」サムがぼそりと呟く。
奥の通路から、ゆっくりと足音が近づく。蒸気を割って現れたのは、上半身裸の男。
腰にタオルを巻き、水滴を飛ばしながら煙草をくわえている。
「おい、ここの給湯器は地獄か? 焼かれるかと思ったぞ!」
湊たちがぽかんと見つめる中、男は堂々と歩み寄ってくる。
その姿を遮るように――奥から低い声。
「……まあまあ落ち着きや、蓮」
薄暗い通路の奥から、キヨシが現れた。
細身のシルエット。静かだが、言葉には絶対的な力があった。
「ここやとお湯の加減も命がけなんやわ。文句言う前に感謝しぃ」
「おいおい火傷レベルの湯を浴びさせられたら、文句のひとつも言いたくなるだろ」
「そういう性格、治ってねぇな」
キヨシが口元を緩める。蓮はタオルで髪を乱暴に拭きながら、湊たちの前に立った。
「おう。お前らが噂のガキどもか」
「……誰だ?」
「誰って、シャワーの犠牲者だよ」
サムが間に割って入り、軽口を叩いた。
「湯加減ミスって怒鳴るおっさんって、世界でも貴重だぜ」
「おっさん…俺が…おっさん…」
キヨシが苦笑しながら言葉を挟んだ。
「――紹介しとこか。このおっさんは大杉 蓮。 元・アイスブラストの前線部隊。今はフリーで動いとる。まあ、なんやかんやで昔馴染みやわ」
湊の眉がぴくりと動いた。
「……アイスブラスト?」
その言葉に、つかさの表情もこわばる。
空気が一瞬、ひやりとした。
「敵組織の人間が、なんでここに」
湊の声は低い。
蓮は煙草をくわえ、マッチを擦った。
火がともり、橙色の明かりが頬を照らす。
「あぁ、あれだ。組織のやり方に納得いかなくなって抜けてきた。そんでもって知り合いを訪ねてきた。ただそんだけだ」
「……勝手な理屈だな」
湊の目が鋭くなる。
その緊張を、キヨシが軽く手を挙げて遮った。
「ええから落ち着きぃ。蓮は今、ここに味方としておる。俺がそう判断した。それで十分やろ」
湊は視線を逸らし、肩で息を吐いた。
蓮は煙草の煙をくゆらせながら、笑った。
「判断、ねぇ……そういや、そういうのは昔からお前の得意分野だったな、キヨシ」
「おしゃべりが大好きなやつやなぁ」
「そういうお前も、一度しゃべりだしたら止まんねぇじゃないの」
軽口を叩きながらも、蓮の目は鋭い。
湊たちを順に見渡し、そしてわずかに目を細めた。
「……にしても、よく生きて帰ってきたな。中南海の幹部を相手にしてあれだけやれりゃ上出来だ」
「……なんで、それを」
湊が顔を上げる。
「見てたんだよ。遠くからな」
湊は息を呑む。 キヨシが視線を動かし、蓮へ問いかけた。
「……で? わざわざ“ここに来た”理由は何や」
蓮は煙を吐きながら、壁にもたれかかった。
「俺をしばらくここにおいてくれ。アイスブラストを脱退して行き場がなくなった。てめぇらと同じ追われる身だ。しかしまあタダとは言わねぇ。新人教育と、組織の情報提供、それから前線に出向く。これが条件だ。どうだ?」
「まあええやろ。けどここは軍でも組織でもない。前いたとこより条件はくそほどにわりぃぞ。それでもええんか?」
蓮は煙草の灰を落とし、短く笑った。
「指図は受けねぇが。いいだろう」
「……じゃあ、決まりやな」
キヨシは静かに立ち上がると、湊たちを見渡した。
「紹介は済んだ。これで正式に――蓮はここの一員や」
「お、おい、勝手に決めんなよ」
湊が抗議するが、キヨシは肩をすくめるだけだった。
「嫌なら勝負でもしてみぃ。勝ったほうの意見を採用する」
「は?」
蓮がゆっくりと笑う。
「悪くねぇ。ちょうど体、火傷するぐらいには温まってるしな」
湊の顔が引きつる。
つかさが小声でつぶやいた。
「……いい加減服着てよ」
夜明け前の空は、まだ群青色を残していた。
ラフィーナの最上階デッキ――かつて商業施設だった吹き抜けの屋上は、崩れたガラスとコンクリートの残骸に覆われ、風が吹くたびにどこかで鉄板が鳴った。
その中央に、二つの影。
一人は、大きなボルトクリッパーを携えた湊。
もう一人は、タオルを首に掛け、煙草をくわえたままの大杉 蓮。もちろん服は着ている。
「……ここでやるのかよ」
湊が呟く。
「他に広いとこ、ないやろ」
キヨシが背後から答えた。
手には端末を持ち、軽く空中にスキャンを飛ばす。
「ここ、再建エリア外。多少壊しても文句は言われへん。あ、せやけど下はうちの畑やでそこは壊すなよ」
「多少ってレベル、あんたらに通じるのかね」
サムがため息をつきながら壁際に腰を下ろした。
「戦い明けに戦わせるってどういう組織だよ、まったく」
「信頼ってのはな、汗で築くんだよ」
蓮がタバコを指で弾き、アスファルトに落とした。
火の粉が散る。
「……熱湯よりマシだろ?」
「……準備はええか」
キヨシの低い声。
湊は頷き、蓮と距離を取った。
コンクリートの上に靴音が響く。
風が鳴り、破れた広告幕がはためいた。
「好きにやりぃ。ただし――命までは取るな」
その言葉を合図に、静寂が落ちた。
風が鳴り止んだ。
張りつめた空気の中、湊が息を吸い込む。
蓮は片手をポケットに突っ込んだまま、新しい煙草を指先で転がしていた。
「いつでもいいぜ、坊主」
「……行くぞ」
湊が地面を蹴る。金属が唸り、ボルトクリッパーが弧を描く。風を裂く音が鋭く響いた――が、蓮の姿はそこにはいない。
「遅い!」
背後から声。
振り返る間もなく、背中を軽く叩かれる。
衝撃は小さいが、確実に狙いすました一撃。
湊は距離を取り、もう一度構え直す。
今度はフェイントを混ぜ、横薙ぎから縦へと変化。
だが、蓮はその軌道を読むように一歩先を踏む。
「ほら、また振りが大きい。
武器が重いのが命取りになっている。
それじゃ相手に隙を与える一方だ。
連撃は肉弾戦――武器を振るう瞬間は“分ける”んだ」
「くっ……」
湊の額に汗がにじむ。
蓮はわずかに笑みを浮かべたまま、真正面から突き出す拳を止めて見せた。
わずか数センチで頬を掠める拳圧。
「……っ!」
湊の心臓が跳ねる。
体が勝手に反応して、後ずさる。
「このおっさん……こっちの動きを全部見きってやがる……」
湊の手が震える。
だが、ボルトクリッパーを下ろすことはなかった。
「まだやるか?」
蓮が問いかける。
湊は短く息を吐いた。
「当然だ。……終わりじゃねぇ」
湊が息を荒げながら再び踏み込む。
蓮の懐に潜り込み、渾身の一撃を叩き込もうとする。
金属音が空気を裂いた――が、手応えがない。
「……あ?」
次の瞬間、湊の手から“カオマン・ガーイ”がすっと抜け落ちていた。
いつの間にか、蓮がその柄を奪い取っていたのだ。
「武器の重みに身を頼るな」
低く響く声。
蓮は一歩踏み込み、その巨大なボルトクリッパーを逆手に構え――
振り下ろした。
風圧が湊の頬をかすめる。
ギリギリの距離で止まった“刃のない刃”が、頬の汗を一筋切った。
湊の目が見開かれる。
動けない。反応する前に、勝負はついていた。
蓮はそのままボルトクリッパーを離し、軽く笑った。
「顔に当てる気はねぇよ。……でも、もう少しでてめぇの頭は吹っ飛んでたな」
湊は拳を握りしめたまま、唇を噛む。
「……くそっ」
蓮が煙草をくわえ、火を点ける。
炎が二人の間を照らし、煙がゆらめく。
「悪くねぇ。動きは素直だ。
だが、敵と向かい合うなら“生き残るための癖”を身につけろ」
湊は黙って睨み返す。
だがその目には、悔しさと同時に――ほんの僅かな敬意が宿っていた。
静寂が戻った。
風がラフィーナの吹き抜けを抜け、二人の間の煙をさらっていく。
「……今のが、俺の全力だ」
湊が小さく呟く。悔しさよりも、何かを掴もうとする目をしていた。
蓮は煙草をくわえたまま、その顔をまっすぐ見た。
「そうか。なら、悪くねぇ」
彼は軽く笑い、湊の肩を一度だけ叩いた。
「その目は、まだ折れちゃいねぇ。――気に入った」
後方からキヨシの声が響く。
「ええやろ、そこまでにしぃ。ちゅうことで大杉は今日から仲間や」
蓮は振り返り、肩をすくめる。
「もうちょっとだけ遊んでもよかったがな」
「壊されるほうが先や。ここ、補修するだけの物資どっから出すんよ」
キヨシの言葉に、つかさとサムがようやく安堵の息を吐いた。
蓮はボルトクリッパーを湊に返しながら、ぼそりと呟いた。
「名前のわりに、よく噛みつく武器だな」
「……カオマン・ガーイだ」
湊が肩で息をしながら返すと、蓮は一瞬きょとんとし――次の瞬間、声をあげて笑った。
「はっは、なんだその名前!だが、いいな。俺は好きだカオマンガイ」
その笑い声が、壊れたビルの吹き抜けにこだました。
湊は無言で“カオマン・ガーイ”を見つめたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「……おい、蓮のおっさん」
「ん?」
「俺に、戦闘を教えてくれねぇか」
一瞬、風の音だけが残る。
蓮の目がサングラス越しにわずかに見開かれ――次の瞬間、ふっと笑った。
「はっ、言うと思ったぜ」
背後でキヨシが呆れたように肩をすくめる。
「えらい懐いたもんやなぁ。出会って数時間やで?」
「よせ、子守りは苦手なんだ。お前も知ってるだろ?」
蓮は煙草を指で弾き、夜明けの空を見上げた。
「よし、じゃあ決まりだ。次の任務までの間――毎朝ここでお前と、その“カオマン・ガーイ”の特性を活かした戦術訓練をやろうじゃねぇか」
湊が目を丸くする。
「……マジで?」
「寝坊するなよ? 俺は寝坊するヤツがいちばん嫌いだからな」
サムが遠くからぼそっと呟く。
「おっさん、絶対朝から全力なんだろうな……」
つかさは小さく笑って、包帯を巻いた腕を見つめた。
――夜明けの風が、三人の間を静かに吹き抜けた。
――場所はアイスブラスト本社、最上階の会議室。
壁一面のガラス越しに遠く、夜明け前の東京湾が見える。
無機質な長机を挟んで、四つの勢力の代表が並んでいた。
鷹虎がゆっくりと手を組み、声を発した。
「今回の中南海の独断の動き、放棄された地帯である鶴見の利権を不当に得ようとした件については目に余るものがある。
そこに対して皆のものから意見をいただくと共に――王、あなたには説明責任の義務があると思っている」
沈黙のあと、金色の指輪をいじりながらマジェンタ・デ・シェイロが鼻で笑う。
「川崎含め、あそこはおたくが掃討作戦で全滅させたんだろ?
今やあの土地は“不可侵条約”の下で成り立ってる。とは言えよ、不当に利益を掠め取ろうとしたわけじゃねぇんだから、いいだろうよ?」
鷹虎は微動だにせず、淡々と返す。
「しかしながら、ここは国際問題にも関わる話だ。慎重に進めなきゃならない。
――そういえばマジェンタ様、あなたのところのアークロイヤル管理下の渋谷地区に、うちの者が紛れ込んでいたらしい。
そして“匿った”と聞いている。この件に関しては?」
マジェンタは脚を組み替え、クーフィーヤの影から笑みを覗かせた。
「組織としては知ったこっちゃねぇさ。
うちはそこのチャイナ野郎たちでも、誰でも出入りを許可してる。誰が入っても不思議じゃねぇ。
ただ、俺としては“そっちの組織の人間が好き勝手やりやがった”――それだけは許せねぇ話だな。なぁ、ブラックなんとか?」
ヨンヒが表情を変えずに答える。
「うちの組織はこの件に関しては関与していない。
強いて言うなら、この“四社協定”がアイスブラスト主導のものであるにもかかわらず、統制が取れていないこと。――そこだけが遺憾である」
部屋の空気がさらに冷たくなる。
ミョンソクが控えめに書類を差し出し、采女が静かに視線を動かす。
王は沈黙を保ったまま、ただ両手を杖の上に重ねている。
鷹虎の低い声が会議室の空気を切る。
「王。あなたには、説明責任がある」
数秒の沈黙。
その隙を割るように、マジェンタが笑った。
「説明? ははっ、笑わせんな。あそこにお前らの組織が兵組んでるの知ってんだからな」
「なぜ知っている。お前らも出入りしているのか」
鷹虎の声がわずかに低くなる。
「おいおい、四社協定をつくったのに先に火を点けたのはお前らだろ?」
マジェンタが身を乗り出す。
椅子がギィと鳴った。
「俺たちはただの掃き溜めの管理人だ。だがな――
“地獄を作った連中”が天国面してるのは、見てて虫唾が走るんだよ!」
采女が小さく眉をひそめた。
だが鷹虎は怯まず、むしろ鋭く反撃する。
「言葉を選べ、マジェンタ。
君たちのような“掃き溜め”の人間が好き勝手しないようにの監視だ。また我々が警邏隊を送ったのは立ち入り禁止区域のギリギリ外だ。何も問題は無い。
――それよりも、貴様の組織が裏切り者を逃がした。そこが問題だ。それぞれ裏切り者に対する粛清は協定の範囲内だろう」
「逃がしたぁ? はっ、冗談じゃねぇ!」
マジェンタはテーブルを拳で叩き、ぐちゃぐちゃに丸めた書類を投げ捨てた。
「俺たちのアークロイヤルは開かれた街だ。
チャイナもヤポンもコリアンも、誰でも入ってこれる。
うちの一、民(いち、たみ)が誰が誰を匿ったなんざ、知ったこっちゃねぇ!
だがな――一つだけ確かなのは、
“お前らのやり方”がもう誰にも通用してねぇってことだ!」
ヨンヒが静かに指先でグラスを回しながら言葉を挟んだ。
「……静かにしていただけるかしら。
この会議は感情をぶつける場ではない。
我々ブラックデビルはこの件に関与していない。
ただ――」
彼女は目を細め、鷹虎とマジェンタを交互に見た。
「この“四社協定”を主導するアイスブラストに統制がないこと、
そして中南海がそれに乗じたこと。
どちらにも“責任”があると思っているわ」
その瞬間、空気が凍りついた。
誰もが言葉を失う。
沈黙の中心に、王がいた。
杖を支えに立ち、閉じた瞼の奥で、ゆっくりと息を吸い込む。
その吐息だけで、室内の熱が一気に冷めていく。
鷹虎も、マジェンタも、誰一人として口を開けなかった。
王は静かに口を開いた。
「――今回の一件、指示したのは私だ。責任は、すべて私にある」
場の空気が一瞬で張りつめる。
杖の先が床を軽く叩き、音が静寂を切り裂いた。
「だがしかし、あの倉庫を独断で使用したのには理由がある。
川崎に住まう“不法占拠者”たちを見張るためだ。
手痛い傷を負わされたアイスブラストさん――
あなた方が“知らぬ存ぜぬ”とは言うまい」
沈黙。
鷹虎は唇を結び、視線を落とした。
ヨンヒは小さく頭を抱え、グラスの氷が静かに鳴った。
マジェンタは立ち上がり、椅子を軋ませながら言葉を叩きつけた。
「はっ、開き直りかよ王さんよ!
協定を知っておきながら自分で指示しておいて“見張りのため”だと?
そんな理屈、通ると思ってんのか!?」
王は微かに笑みを浮かべながらマジェンタが投げた丸まった書類を手に取った。
「ははは、通らぬことはわかっておる。
だがな――なぜ自ら、綺麗に掃除した街に落ちた“ゴミ”を拾わぬ?
日本人たる誇りを忘れたのか……それとも…」
鷹虎の眉がぴくりと動き矢継ぎ早に理由を話す。
「機を伺っていた。ただそれだけだ。
彼らは賢い。あらゆる感知をすぐに察知して潰す。
故に、下手に手を出せない……それだけの話だ」
王は静かに目を閉じ、短く息を吐いた。
「内部統制が取れなくなっていることの言い訳に過ぎぬな、鷹虎よ。
……だがしかし、今回は私に落ち度があろう。
煮るなり焼くなり、好きにするがよい」
マジェンタがニヤリと口角を上げた。
「そうこなくっちゃな。
だったらよ、全く関与してねぇ――このブラックデビルの姐さんに、
“ジャッジ”を下してもらおうじゃねぇの」
マジェンタの言葉が飛び、場がざわつく瞬間──ヨンヒはゆっくりとグラスを置いた。指先の動きは小さいが、その視線は鋭く会議室を貫く。
「……マジェンタ、あなたここはジャッジの場ではないわ。討論の場よ」
彼女の声は冷静で澄んでいる。だがその冷たさには、同時に重みがあった。
ヨンヒは鷹虎と王を順に見渡す。
「私が求めるのは二つだけ。事実と、行動の正当性だ。
中南海が独断で物資や拠点を使用した証拠を出しなさい。
王よ、あなたが“見張り”と言うのであれば、その範囲と目的、結果を明確に示してちょうだい。
この場での言い逃れは通用しない。感情で判断するつもりはない」
王は淡々と答える。
「残念だが、提出しようにも倉庫を爆破されてしまい証拠も何もない。そこでどうだ、あらたな協定をたち決めてはいかがだろう」
会議室に静かな緊張が戻る。マジェンタが苛立ちを露わにする。鷹虎はやや顔色を変えたが、口を閉ざす。
ソ・ミョンソクがその場で文書を作成し立ち上がり、全員に送信した。
一つ)即時の“事実調査団”の結成。各勢力から一名ずつ、そして王の推薦する一名を加えた計五名で現場を検証する。現地情報と残骸、目撃証言を照合する。
二つ)当該倉庫と利権に関わる“暫定管理”――調査完了までの間、該当地域の立ち入りと資源収取を凍結する。違反が確認されれば、当該勢力に対する経済制裁と公的非難を科す。
三つ)再発防止のための“共同監視ライン”の設置。鶴見の警察署に置かれたアイスブラスト社独断の兵を解体し、新たに四勢力が交代でパトロールを行い、外部の監査を交える。透明性を担保し、誰かの“独断”が二度と通らぬようにする。
「これだけでは不十分だ」と鷹虎が言うもかき消されてしまう。
王は杖を軽く床に突き、静かに言った。
「よかろう。今ここで我々の同盟が崩壊してしまうと大阪のキャスター社や仙台のキャビン.incの介入を許してしまうこととなる。それだけは許されない。何としても秩序を取り戻そう」
ヨンヒは一息つくと、周囲を見回した。
「これで意義はないかしら?」
マジェンタが鼻を鳴らす。「監視だぁ?俺の手駒を差し出すつもりはねぇぞ……」
ヨンヒは微笑を浮かべるように見せて、静かに返す。
「手駒ではない。互いの“目”だ。目がなければ誰も保てぬ平衡がある。君の利権も守られる。理解できるだろう?」
その言葉に、場の空気は少しだけ折り合いを見せる。鷹虎はわずかに頷き、王の顔を見た。王は俯き、短く頷く。
議題は一応の合意へと傾いていった──だが、会議室の外、鷹虎の内側では別の声が小さく鳴っていた。彼の心の中の独白が、無言のうちに芽を伸ばす。
(――あの地には、まだ“生きている何か”がある。簡単に潰せる相手ではない。蓮か。いや、あれだけでは説明がつかぬ。もっと大きな流れが動いている。俺達が見ていないところで、別の歯車が回りだしている。)
鷹虎は椅子にもたれ、窓の外の空を見た。遠く、川崎の方角に薄い靄が掛かっているように見える。それは天候のせいなのか、それとも──。
会議の結論が文書にまとめられ、出席者はそれぞれの帰路に就く準備を始めた。表面的な解決がまとめられたその裏で、川崎では既に別の動きが進行していた。ある影が情報を集め、別の影が静かに牙を研いでいる。
数週間が過ぎ、傷は塞がり、包帯は外れた。川崎ロゼリアの空気は少しだけ柔らかさを取り戻していたが、薄暗いランプの下で回る機材の風切り音は、以前と変わらず耳を離れなかった。
作戦室の一角、散乱したパーツと半分解された端末の山の前で、芹沢は黙々とコードの断片を繋いでいた。画面の文字列がカタカタと流れ、青白い光が彼の頬を照らす。手には小さなデバイス。彼はそれをぐっと握りしめ、ゆっくりと口を開いた。
「……俺らのナノだが、そろそろ限界に達している。バグシステムが従来のシステムを蝕み始めて、まともな効果が出なくなってる」
その言葉に、周囲が一瞬静まる。空気が少し冷えた。
サムは寝椅子からゆっくりと起き上がり、伸びをしてから顔を上げた。寝癖のついた頭、寝袋の匂いをそのまま纏っている。相変わらずのひょうひょうとした口調で尋ねる。
「蝕むって、いい方向じゃないの? システムに穴が空くってことは、監視の目が薄くなるんだろ? 問題はあるのか?」
芹沢はモニタのログを指差した。映るのはナノ群の振る舞いを示すグラフと、赤で点滅するアラートライン。彼の声は冷静だが、震えが混じる。
「今まではバグで“見つからない”状況を作っていた。だがな、ナノは自己修復と適応のプロセスを持ってる。バグを繰り返し与えれば与えるほど、ナノ側に“抗体”が出来る。抗体が強まると、バグの影響は限定的になる――で、その過程で予期せぬ副作用が出る。遺伝子情報まで書き換えられ始めてる。つまり、ナノが“自己”を拡張しだしてるんだ。しかも、我々が与えたバグのパターンに対して大きく耐性ができてきてる」
つかさは椅子に深く腰を落とし、腕をさすりながら静かに言った。
「遺伝子が書き換わる……それって、人間の身体そのものにまで影響が及ぶってこと?」
芹沢は頷く。スクリーンに表示された、変異の兆候を示す短い映像を再生した。小さな分子のモデルが、急に別の様式へと組み替わっていく様は、どこか不吉だった。
「何度も書き換えてきたから、現場での事例は少しずつしか出てない。だが、積み重なれば確実に個体に影響が出る。――このまま放置すれば、我々は皆“死ぬ”可能性がある」
部屋に重い黙りが垂れた。誰もが自分の手のひらを見つめる。サムが小さく笑ったが、その笑顔はどこか乾いていた。
「で、対策は?」とサム。
そのとき、キヨシが前に踏み出した。いつも通りの軽口はない。彼の目は、普段より鋭く、はっきりしている。
「そこでや、今回は新宿にあるアイスブラスト本社に眠ってる旧体制のナノマシンを奪取するんや」
一同が顔を向ける。新宿──アイスブラスト本社。思わず息を飲む者、歯ぎしりする者。ガラス張りのビルの地下に眠る“旧体制のナノ”は、幻にも似た存在だ。高リスク、だが成功すれば巨大なリターンが期待できる。
芹沢が眉間に皺を寄せる。スクリーンに映る旧系統のスペック表を指して言う。
「旧体制のナノは、中央統制に依存しない自主型モジュールだ。改変にも耐性があって、適切に使えばバグシステムの“歪み”を還元できる。だが注意点も多い。古い設計には暴走リスクと物理的崩壊の可能性がある。直に触れば、感染の危険だってある」
サムは肩をすくめてふざけ混じりに返す。
「いいじゃぁん。ちょっと古いギアを拝借して直すだけ。俺、こういう“掘り出し物”大好きなんだよね。宝探しってやつだ」
つかさは首を振る。
「簡単に言わないでよ。アイスブラスト本社だよ?今まで戦った相手だって強かったのにそれ以上の相手を敵に回すなんて無理よ」
キヨシが拳を握る。彼は淡々とプランを口にした。
「敵地侵入、しかも本社。ややこいが手順はシンプルや。まず情報だ。入り口と監視の構成。各端末に情報は送っとるで適宜チェックな。旧系統の保管場所は大杉が知ってる。次に夜間の巡回ルートに爆弾を仕込むんやが、これはすでに結乃ちんが終わらせとるわ。ほんで重要なんが目くらまし。ここは湊、サム、つかさがやるんや。そして最後に奪取班――大杉が保管庫に潜入する。彼はすでにナノの保管庫に入れるよう、かつての部下に根回ししてるそうや。ほんでもって回収して撤退。成功の鍵は速度と精度や」
「はぁん……だからシャワーのおっさん、朝いなかったのか」
サムはぼそりとした一言を放つ。
湊は静かに立ち上がり、手のひらを拳に変える。
「行く。……ただし一つ条件がある。仲間を守る方法を、ちゃんと教えてくれ。」
サムが笑みを返す。つかさは両手を胸の前で組む。芹沢は画面のログに指を這わせ、一つずつチェックマークを付け始めた。
「よし、じゃあ計画を詰めよう。経路から起爆のタイミング。それから雑兵の対処法にドローンの監視のくぐり方。人数は最小限、だが機動力重視。準備出来たらそのまま出発。時間との勝負だ」
外では新宿の方向に薄い朝靄が漂っている。彼らの影が長く伸び、室内のランプを揺らした。静かな決意が、また一つこの拠点を満たしていく。
その夜、ラジオの電波の隙間から小さくニュースが漏れた。都市の片隅で聞こえる雑音のように――風が変わった。彼らはまだ知らない。その風が、嵐の前触れだということを。
ココ最近ハードな日々が続いてるんですよね
筆が進まないことこの上なし
一日に良くて2000文字となると8万字までは……
まじ卍ってやつですね
さて来週も土曜日に更新予定です
モチベが上がらないのでコメントお待ちしてますm(_ _)m




