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UnChain  作者: 大垣礼緒
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■第五章 放浪せし孤影


 渋谷の雑踏の片隅に、ひとりの男が潜んでいた。


 モスグリーンのシャツの内側で、黒い素材が肌に密着して汗を吸い上げる。強化スーツ――逃げるために脱げない鎧だった。トルコ系移民に占拠されたこの街は、かつてのモノとは大幅に姿を変えて、サイバーネオンに外国語が浮かび上がっている。はた目から見れば外国観光に来た渋い日本人のように見える彼は、行き交う群衆の目には映らないように、影の中だけを選んで歩く。


その名は――大杉 蓮。


 アイスブラストの教官として活躍していたが、いまは組織から追われる逃亡者。

身を隠すために選んだ街が、よりによってこの渋谷だった。

 ネオンは消えかけ、機械だけが黙々と働く早朝。

彼は屋上の片隅に腰を下ろし、煙草の火を押し潰した。

「……ここから、どうすっかな」

独り言は風にさらわれ、誰の耳にも届かない。

 ここにいる限り、安全というわけではない。

今の彼は当てもなく潜伏しているに過ぎず、いつかかつての仲間が追ってきてもおかしくない状況にあった。

だが――こうした人込みこそ、身を隠すにはうってつけだと彼は知っている。


 その孤影がやがて物語の別の道を切り開くことを、まだ誰も知らなかった――。

 街の屋台の前で、香辛料の匂いに足を止める。

 鉄板の上で焼かれる肉が油を弾き、匂いは空腹を確実に刺激した。

 だが、蓮はそのまま足を動かさず、ポケットに手を突っ込んだまま呟いた。

「……ここで決済したら、バレるな」

 この時代、貨幣は存在しても形骸化していた。

 支払いはすべて体内のナノマシンに登録された仮想通貨で行われる。

 網膜の奥で「使用者認証」が走り、決済と同時に時刻・座標・購入品目が監視網に記録される。

 ただ食事を買っただけでも「そこに居た」という痕跡が残り、後で誰かが追跡すれば逃亡者の足跡になる。

 蓮は視線を宙に投げ、煙草を咥えたふりでジャケットの内側を軽く叩いた。

 ――ジャマー。

 無線の遮断と信号の改竄を同時に行う小型装置。

 これさえ起動していれば、自分の居場所は常に虚像として記録され、実際の足取りとは大きくずれる。

 それでも、安易に決済すれば痕跡が残る。油断は死に直結する。

 屋台の青年が声をかけてきた。

「兄さん、安くしとくよ。一本どうだ?」

 蓮は口角を僅かに上げてみせたが、答えはしなかった。

 腹を満たすよりも、潜伏を優先する――そういう選択を繰り返すのが今の生き方だった。

 空腹を紛らわすがごとく煙草を吸っていたが、ついにそのストックも尽きた。

ポケットの中を手探りするが緊急用の仮死薬があるだけで、あってもこの街で口にするには役不足だ。買おうにも金が使えない——体内ナノの仮想通貨をパッと動かせば、その瞬間に居場所が記録される。安易な決済は逃亡者への通告書だと、蓮はそんな世のことわりを骨身に刻んでいた。

 むなしい気持ちになって、手に持っていた空箱をぎゅっと握りつぶす。紙の繊維が爪の間に食い込み、ぺしゃりと潰れた箱をそのまま路面めがけて投げる。箱は弾み、アスファルトに跳ねてコロコロと転がり、水たまりに浮いた。

「――あの、……おなか、すいてますかね?」


 路地の影からゆっくりと一人の男が現れた。見た目だけで言えば、ここが渋谷だということを忘れさせるような異物──スチームパンクそのものの人間だ。

 大きなブラウンのハットには大きめのゴーグルが載せられており、普段は額の上にズラしてあるため顔の表情は丸見えだが、レンズ部分は硝子は薄く曇っており、真鍮と細かな歯車で縁取られている。ゴーグルの側面には微小なレンズが幾つか折り畳まれており、必要に応じてそれらを覗き込むと視界が拡大するような仕掛けだ。

 上衣は丈の長い革のコートで、肩から胸にかけては幾重にもステッチが入った補強布と金属のプレートが縫い込まれている。コートの縁や肘には薄茶色のパッチが打たれ、無骨な装飾用の鎖や小さな歯車のチャームがランダムにぶら下がっている。裾は多少煤け、夜明けの光を受けて鈍く光る真鍮のリングが幾つも絡んでいる。

 蓮は問いに眉一つ動かさず、じっと男を見据えた。屋台の湯気越しに見える男の手先には、先ほどとは別の小さな工具が光っていた。油に濡れたような光沢だ。

「アークロイヤルの私兵か?」蓮の声は低く、警戒が滲む。

 男は肩をすくめ、にやりと笑った。髭の端に煤が浮いている。声はやわらかく訛りがあるが、日本語は達者だった。

「そうなんですが、敵ではないですね。見たところ普通の方ではないようで、あなたにお願いしたいことがあります」

 言い方は穏やかだが、そこには確かな用件の重さがあった。蓮は一拍置いてから、鼻先で笑った。

「金ならないぞ」

「わかってます。私はこの地で公認の設備屋をやりながら兵としても働いている、セリム・ヌール・シヴァアルム・ビシャール。みんなからはシンビサルとかビシャって呼ばれています」

 シンビサルは長い名を一呼吸で畳み、蓮を見やった。口元に淡い笑みを浮かべるが、その眼差しは余裕と疲労を同時に含んでいる。

「この街は平和が故に基本的には公的な仕事を兵である我々がやるんです。配管直しに、センサーの点検、無人機のちょっとした調整――そういう類の仕事を請け負う。表の顧客に工具を回し、裏では誰にでもできない“便利屋仕事”を請け負ってるんですよ」

 彼はベルトの小箱を軽く指で弾き、蓮にもう一度目線を合わせる。街の空気は蒸気と煤に混ざったまま、時間だけがゆっくり進む。

「で、こういう話になります。公式に動けば色々と面倒が舞い込む。上の連中に『中南海の連中がこの街で怪しい動きをしているから探りを入れてほしい』なんて言われたら、こちらも公の立場で突っ込まざるを得ない。だが、ご覧のとおり我々はアークロイヤルとして目立つ存在なのです。奴らに噂が立てば、真面目に暮らす住民まで巻き込まれる。だから裏で手先を動かす必要があります。つまり君みたいな――“顔に出ない奴”が必要なんですよ」

 こちらが何か問う間もなく、矢継ぎ早に言う。

「見たところ、君は我々では手に入れられないほど精巧なジャマーを持っていますね。ということは、やつらに感知されずに動ける。君、足取りがバレたくなくてそんなものを携えているから、飯も食えなければタバコも買えない。そういう状況なわけだ。理由は聞かないが、万が一君が協力してくれるのであれば、飯はおろかタバコだろうが酒だろうがなんだろうが、果ては脱出手筈すらも整えてあげようじゃないか。さあ、協力する気になりましたかね?」

 シンビサルは言いながら、ゆっくりと手を伸ばした。油で艶の出た串の先端に刺さった肉片が、路地の薄明かりにじっとりと照らされている。熱気と香辛料の香りが立ち上り、鉄板の上で弾ける脂の音が二人の間を満たした。差し出されたのは、湯気の上がるシシケバブの一串。手渡される瞬間、串の木部が指先に暖かさを残した。

 条件は悪くない。腹には響く温度がある。背に腹はかえられない──とは、蓮の胸中にある生存原理そのものだ。だが同時に、提示された“脱出手筈”という言葉が警鐘を鳴らす。裏にどれほどの代価が吊り下がっているかは測れない。アークロイヤルの兵であり、かつここに顔のきく人間が、なぜ非公式の依頼を持ち出すのか。動機を測るのに一瞬の躊躇が入る。

 蓮は串をじっと見つめたまま、ゆっくりと息を吐く。唇の端にかすかな笑みを浮かべ、言葉は短く、しかし確実に返る。

「条件が良けりゃ、動く。脱出経路だの機材だの、どれだけ本気かは現場で見せてくれ。上手くやれば、俺も旨い飯も煙草も我慢しなくて済むか」

 シンビサルは目を細め、にやりと満足そうに笑った。


「交渉成立ですね。では、こちらへ」

 シンビサルはそう言うと、杖の先でレンガを一つずつ突いた。唐突なことに見えたが、その部分の壁だけがほんの僅か、歯車仕掛けのように軋んで下がり始める。石がずれてゆっくりと抜け落ちると、その奥に薄暗い階段が現れた。蒸気と煤の匂いが混じった朝の空気とは別世界の冷気が、階下からひんやりと流れてくる。

 シシケバブを頬張りながら階段を降りると、そこにはレンガ造りの西洋風の部屋が広がっていた。天井は低く、古い梁が黒光りしている。壁にはパイプや古い圧力計が並び、何十年も前の工場を改装したような趣がある。ところどころに置かれた作業台や工具箱には、シンビサルの名残が色濃く残っていた。蒸気管からはときおり蒸気が漏れ、古い電球がぽつりぽつりと灯る。

「ここにいる間の拠点としてお使いください」シンビサルは言い、壁沿いの粗末な棚から数枚の紙片を取り出した。紙は特別な厚紙で、片面にはアークロイヤルの象徴めいた焼印が押され、その周囲には見慣れない小さな刻印や手書きの番号があった。インクは滲んでいるが、真鍮の印章で押された凹みが確かに存在する。

「入り方はさっきの通りです。ここなら誰にもバレません。ご飯やタバコは、アークロイヤル公認のチケットで引き換えてください。これならば足取りは誰にも悟られません。ご自由にお使いください」

 蓮は紙片を受け取り、指先で縁の凹凸を確かめる。灰色のインクが指に多少移るが、焼印の冷たさが掌に伝わる。見た目はただの紙切れだが、重さが違う。

「こんな紙切れが役に立つのか?」蓮がやや疑い深く尋ねる。

「少なからず、この街では使えます」シンビサルは肩をすくめるように言った。「アナログであるほど信用深いのがこの街の特性です。デジタルで記録されるものは監視網にひっかかる。だが、現場の信頼関係で回るアナログの札は、それ自体が“誰かの保証”になるんです」

 棚の一角に積まれた小さな紙袋から、タバコの束と数個の乾いた食料セットが取り出される。どれも質素だが、何もない状況よりかは遥かに価値がある。シンビサルは一枚一枚のチケットに小さな藍色の汚れを指先でつけ、蓮に差し出した。

 「では、今日の夜。109という数字が書かれた建物の前でお待ちしておりますよ」

そう言い残し階段を上がり去っていった。


 シンビサルが去り、地下に静けさが戻る。

 蓮はチケットの束を内ポケットに滑り込み、代わりに紙巻きの箱を取り出した。粗悪な包装に手を突っ込むと、指先に乾いた感触が触れる。一本を口に挟み、火を点ける。


 肺の奥にまで煙が流れ込み、しばしの間、頭の中が白く霞んだ。

「……悪くない」

 舌に残る薬草めいた苦味と、喉を焦がす熱。煙は天井の古い梁にゆらりと広がり、消えかけの電球の灯りに照らされて薄く揺らめいた。

 別室へ移ると簡素なパイプシャワーに手をかけた。赤錆びた蛇口を捻ると、少し遅れて暖かいお湯がほとばしる。躊躇いながらも頭から浴びると、こびりついた汗と埃が一気に流れ落ちていった。

 水音だけが響く空間で、蓮はほんのわずかに息をついた。強化スーツの下で張り詰めていた筋肉が、ようやく自分のものに戻っていく。

 シャワーを終え、古びた布で身体を拭うと、簡素な寝台に横たわる。薄いマットレスは決して快適ではないが、背骨に重くのしかかっていた緊張がじわじわと溶けていく。

 蓮はタバコの残り香を口に感じながら、瞼を閉じた。

 ――次に目を開ければ、夜。109と書かれた塔の前でまた歩き出さなければならない。

 そう思うと、逃亡者にとってはあり得ないほど深い眠気が、抗えない波のように押し寄せてきた。


 夜の渋谷。109の下で再び合流したシンビサルは、余計な言葉を交わすことなく先導した。ビルの裏口から入り、螺旋階段をいくつも上ると、薄暗いフロアに辿り着く。

 そこでは数人の男たちがいそいそと機材を組み立てていた。

 蓮の目が細くなる。

 男たちが床に据え付けていたのは、古びたアンテナと複雑に絡まる受信機群。

 今の時代、人から人へナノマシンを媒介として電波が伝わる。理屈の上では、もはやこんな旧式の装置は不要のはずだった。

 ――にもかかわらず、彼らはそれを設置している。

 やがて、一人が孤立した瞬間を見計らい、蓮は影のように背後へ回り込んだ。

 太い腕が音もなく首へ絡みつく。わずかな抵抗と喉の呻きがあったが、強化スーツに覆われた力は容赦なくそれを封じた。

「……何をしてる?」

 低い声で問うと、男は呼吸を荒げながら必死に答えた。

「……川崎に……ミリタリージャケットを着た男が……部隊を率いてる。そいつらが旧式の無線を使ってる……だから……検知するために……」

 蓮の脳裏に、過去の断片がよぎった。

 ――ミリタリージャケットの男。

 旧式無線。

 浮かび上がるのは、まだ確信にならないが、どこかで繋がる“影”だった。

 蓮は無言で力を込め、男の意識を闇に沈めると、そのまま拘束した。

 そして一人、また一人と影を狩るように仕留めていく。部屋に漂うのは機械の唸りと、倒れ伏す人間の衣擦れだけ。

 無線機を取り出し、シンビサルに繋ぐ。

「ビシャ。こいつらは?」

 一拍置いて、彼の声が返ってきた。

「……始末しておいて大丈夫です。あとは私が片付けます。そこからは私の仕事ですから」

 蓮は短く頷いた。影の中で灯る煙草の火が一瞬だけ赤く揺らめき、すぐに闇に呑まれた。

 109から出て街路に戻った瞬間、強い視線を感じた。

 スクランブル交差点の真ん中に、一人の男が立っていた。

 群衆が信号と共に一斉に動き出す中、その男だけは歩みを止め、まっすぐに蓮を見据えていた。

 ――伊藤玄馬。

  群衆の中にあっても、その姿は異様に際立っていた。

 黒いカウボーイハットが夜のネオンを受けて鋭い影を落とし、縁の厚い眼鏡が灯りを反射して表情を読ませない。

 口には火の消えかけたタバコをくわえ、灰が今にも落ちそうに揺れている。

 肩口には色褪せたデニムシャツ、胸元には着古した黒いレザーベスト――。革のブーツに大きな拍車を着けた無骨な装いだが、逆に彼の体躯の大きさを際立たせていた。

 全身から漂うのは、古い西部劇のガンマンと都会のチンピラを掛け合わせたような、場違いな迫力。

 だがその眼差しには、ただのならず者にはない「迷いと執着」が宿っていた。

「大杉……会いたかったぜ」

 蓮は一瞬だけ足を止めたが、すぐに睨み返す。

「伊藤……なぜここがわかった」

 玄馬はコートの襟を直しながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「俺とお前は、幼いころから共にしてきた。……友の考えぐらいは分かる」

 そして、薄い笑みを浮かべて低く言った。

「戻って来いよ」

 蓮は鼻で笑う。

「いいや、まっぴらごめんだ。俺は上の言いなりにはならない」

 玄馬の目がすっと細くなり、声の温度が冷たく変わる。

「……お前はやっぱり、そういう“四條畷”なところが気にくわないな」

 蓮は怒号のように言う。

「それは大阪の市だぁあああ!!」

 一瞬の沈黙の後、二人の拳がほぼ同時に振り抜かれた。

 雑踏の真ん中で、かつての戦友は再び敵として激突する。



 蓮が踏み込み、重心を落とした拳を叩き込む。だが玄馬は一歩も引かず、鋼のような前腕でそれを受け止め、即座に膝を打ち上げる。

 膝蹴りを肩で受けた蓮が後方へ弾かれるが、倒れることなく靴底でアスファルトを削って踏みとどまった。

「やっぱり腕は鈍ってねえな……!」

 玄馬が咥えたタバコの灰がこぼれ、火の粉のように夜風に散る。

 蓮は強化スーツの内圧を微かに調整し、身体を捻って低い姿勢から突きを放つ。

 玄馬はその動きを読み切ったかのように、手首を掴んで引き寄せ、逆に頭突きを叩き込む。鈍い衝撃音と共に二人の額がぶつかり、火花のような痛みが走る。

 周囲の群衆がざわめき、信号が青から赤へと変わるたび、人の波は二人を避けるように渦を巻いた。

 殴り合いはただの暴力ではなかった。

 かつて同じ戦場に立ち、互いを知り尽くした者同士だからこその、寸分の隙も許さない攻防だった。

 息を吐く音、靴が路面を擦る音、肉がぶつかる鈍い衝撃音だけが、ネオンの光の下に鮮やかに残っていく――。

 互角の拳が何度も交錯し、渋谷の交差点の雑踏はざわめきに飲まれていく。

その最中、蓮の耳元で無線が弾けた。

「……戻ってきませんけど、なにかありましたか?」

「ちょっとな。交差点のど真ん中で、やべぇのに見つかっちまった」

「了解しました。すぐに援護します」

人の流れを縫うようにして、シンビサルが杖を片手に現れる。

その先端には薄膜のようなビニールが張り付いており、パチンと弾くと中から濃い煙が弾け出た。

瞬時に辺りが白く霞み、ネオンすらぼやけて見える。

「ビシャ!」蓮が怒鳴る。

「交渉のうちですよ。今は退きましょう」

さらにシンビサルは腰の《アトモス・メーター》を捻り、水素を圧縮した小瓶を杖に装填。

先端から散布した霧が、交差点全体を湿らせる。

 玄馬が踏み込んだ瞬間を狙って蓮は大きく飛び上がり拳を振り上げる。

  蓮の拳を受け止めた玄馬の拍車が、アスファルトを削って**ギンッ!**と火花を散らす。


 その瞬間、シンビサルが仕掛けていた“圧縮ビニール球”のひとつが足元で割れた。

 中に閉じ込められていた微量の水素が解き放たれ、街路の空気と混じる。

 ――バチッ!

 火花が気化した水素に触れ、交差点の片隅で青白い閃光が走った。

 爆音まではいかないが、耳を打つような破裂音と熱気が一帯を揺らす。



「ちっ……!」玄馬が目を細めた隙に、蓮とシンビサルは群衆の波に紛れて姿を消した。

  白煙が晴れた交差点に、ひとりだけ取り残された男。

 玄馬は拳を下ろし、肩で息をしながらポケットからタバコを取り出す。

 火をつける音がやけに静かに響いた。煙が立ちのぼり、街の光をぼやかす。

 周囲を走る車たちはすべてオートメーション制御。

 AIの判断で人の存在を感知すると、滑らかに車線を変えて彼の周囲を避けていく。

 だが、その中で人間だけが立ち止まり、煙を吐いていた。

  赤信号の下、玄馬は短く吐息を漏らす。

「……やっぱり、お前は逃げ足だけは早えな、大杉。猛牛、馬の如しだ」

 薄く笑い、再びタバコをくわえる。

 車のヘッドライトが次々と彼を照らしては、また通り過ぎていく。

 そのたびに、玄馬の影がアスファルトに長く伸びて、ゆらりと揺れた。


 ――白煙の向こう側、ネオンの喧騒が遠ざかる。

 路地裏は雨上がりのように湿っていて、空調ダクトの唸りが低く響いていた。

 蓮は壁に背を預け、深く息を吐く。

 シンビサルは杖の先端に残った水滴を拭い、苦笑を浮かべた。

「……ふぅ、まさか渋谷のど真ん中で暴れるとは。あなた、相変わらず無茶しますね」

「仕方ねぇだろ。あんなところでヤツと鉢合わせするとは思わなかった」

 蓮は口の端を歪めて笑い、首筋の汗を袖口で拭った。

 シンビサルが眉を上げて問う。

「……あの人は一体?」

「ああ、奴は昔の同僚、伊藤玄馬だ。俺と同じくアイスブラストの戦術教官だった」

「どおりで、私の目に狂いはなかった!」

 シンビサルの瞳がわずかに輝く。

「動きに迷いがなかった。あれは訓練された兵の動きだ。

 それに、あなたを“殺す”つもりじゃなかったように見えました」

 蓮は短く息を吐き、目を伏せる。

「さあな、どういうつもりかは知らねぇけども、居場所がばれたことには変わりがねぇからな」


「行くんですか?」

「まあしかたがあるめぇやな」

「わかりました。ですが、とりあえず今はまだ追っ手の目があるはずです。一回拠点に戻って体制を立て直してからリスタートしましょう。その間に、あなたに必要なものを一通り集めておきます」

「……わかった。助かる」

 ――拠点へ戻る頃には、外の喧騒もすっかり静まり返っていた。

 地下のレンガ部屋はまだ温もりを残している。

 シンビサルは作業台の上に置かれた工具を片づけながら、振り返ることなく言った。

「明日の朝、ラッシュの時間帯に紛れて脱出しましょう。そのほうがばれにくいはずです」


 蓮は頷き、壁際の簡素な寝台に腰を下ろした。

 目の前のローテーブルにある煙草の箱に手を伸ばす。

 一本をくわえ、火を灯す。

 煙がゆるやかに立ち昇り、古い梁に溶けていく。

 ――それはそれは、静かな夜だった。

 頭の奥で玄馬の声が何度も反響する。

 “戻って来いよ”。

 その言葉を煙でかき消すように、蓮はもう一度深く吸い込み、煙を吐いた。

 やがて瞼が重くなり、タバコの火がゆっくりと灰に沈んでいく。

 強化スーツの下に隠していた疲労が、ようやく意識を奪いに来た。


 朝。

 拠点の上階では、通勤ラッシュのざわめきがかすかに響いていた。

 シンビサルが支度を整え、入り口の奥で何かを引きずり出す。

「さあ、こっちへ来てください」

言われるがままに奥の倉庫らしき場所へ向かうと布がかけられた大きな何かがあった。

シンビサルが布を外すと、そこにあったのは銀色の車体だった。

 塗装というよりも、削り出しの金属そのものが呼吸しているような質感。

 鈍く光るタンクの表面には、無数の細かな傷が走り、まるで時の流れを刻む皺のようだ。

 丸目のヘッドライトには頑丈なガードが取り付けられており、かつて戦場を走った機械の面影を残している。

 グリップには濃いブラウンの革が巻かれ、掌を当てるとわずかに油と風の匂いが染みついているのがわかる。

 全体のラインは無骨で、だがどこか美しい。

 走るためだけに削ぎ落とされた造形が、この無骨なレンガ模様の背景に映える。

 蓮はそのタンクに手を置き、軽く叩いた。

 中から響く金属音は、眠っていた獣が息を吹き返すようだった。

 エンジンをかけると、空気を震わせる低い唸りが地下の壁を揺らす。

 無駄な電子音もなければ、光沢めいた演出もない。

 ただ、油と鉄が擦れ合う素朴な音――それが、この機体の鼓動だった。


「こいつは、もしかして…」

「はい、規制前のものです。ID認証も必要なければ、GPSも搭載してません」


 蓮は跨がると、ゆっくりとスロットルをひねった。

 エンジンが一拍の遅れをもって唸りを上げ、重い空気を押しのけるように響く。

 クラッチをつなぎ、駐車場のスロープを駆け上がる。

 金属の鼓動が全身に伝わり、体の芯が震えた。

「まさに化け物だが……手になじむ。最高だ!」

 笑いとも叫びともつかない声が、マフラーの音に溶けて消えた。

 坂の上、薄曇りの朝日が差し込み、銀の車体が一瞬だけ白く閃く。

 その背に、シンビサルの声が飛んだ。

「待ってください!」

 振り返ると、彼は手に何かを持って駆け寄ってくる。

 煤けたコートの裾が風に揺れ、額のゴーグルが光を弾いた。

「これを。――風除けにもなりますし、顔を隠すにも都合がいい」

 差し出されたのは、ベージュのアフガンストール。

 蓮はそれを受け取り、首に巻いた。

 シンビサルがわずかに微笑む。


 「……どうか、ご無事で」

 その言葉に蓮はヘルメットをかぶり、短く頷いた。

 スロットルを開く。

 銀の機体が再び低く唸り、街のざわめきの中へと溶けていった。


第五章はちょっと視点変わって別のキャラのお話になります。


今後このキャラがどう活躍するか、見ものでございますな。


そういえば私、平日はサラリーマンをしてたりするんですが、

通勤時間がかなりゆとりがあるもので執筆が捗るんですよね。


書いたり、Tiktok見たり、YouTube見たり、ちょっとお勉強したり……。

あれ?遊んでばっかりじゃん!


真面目にやりマース。



そんなこんなで次回の更新も土曜日に!


……って意気込んで宣言すると忘れるんですよね


というわけで土曜日更新出来なかった場合は月曜の朝にあげます。多分これは絶対……。いや、絶対なんて言わないよ絶対。


えー、気長に待っててください(笑)


まったく……酷い作者だぜ。

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