あなたのことを教えて
これは恋ではない。
橘ヒバリがそう確信する理由はたった一つ。
押したらあっさりと倒れ込んでしまいそうな、風に散る桜の花びらのように儚げな幼馴染を前にして感じる――動悸。
これがときめき由来のものではない事を、ヒバリは誰よりも分かっていた。
不安。
恐怖。
焦燥。
ヒバリは嫌われたくなかった。いつもどこか悲しげに微笑みかけてくる幼馴染に。
「どこいくんだよ、ツバメ」
いつも通りの日曜日。
大学が休みであるにも関わらず、朝早くから身だしなみを整え、通学用のリュックを雑に引っ掴んだ双子の妹――ツバメを、ヒバリはパジャマ姿のまま、廊下で眺めていた。
「サクラんとこ。行ってきまーす」
ツバメは笑顔でそう言うと、軽い足取りで玄関を出る。
訪れる静寂。
ヒバリはため息をつくと、リビングの机に置きっぱなしになっている妹のマグカップを手に取った。
小学生の頃、幼馴染から貰って以来、ずっと使っているアイテムの一つ。桜の枝にとまっている燕の絵がプリントされている。
台所へ移動し、万が一にでもプリントを削らないよう優しくスポンジで洗い流しながら、ヒバリは頭を抱えたくなっていた。
「……また迷惑かける気だな」
◇
幼馴染の春日サクラは、大学から一駅程離れたマンションに一人暮らしをしている。
ツバメにとっては、彼女のマンションは第二の我が家のようなものだった。何度足を運んだか分からない。酔った帰り道でも、自然に足がここへ向かうほどに馴染んでいた。
「サクラー! さーくーらー!!」
インターホンを押すだけでは飽き足らず、ツバメはドンドンと無遠慮に玄関を叩いた。
こうすればサクラは慌てて出てくると知っているからだ。
ツバメの想定通り、ぱたぱたと急ぐような足音が扉の向こうから近づいてくる。
鍵ががちゃりと開く音。扉が押し開かれると共に、ふわりと甘やかな香りが鼻孔をくすぐる。
少し困ったような笑顔の幼馴染は、ツバメを見てどこか安心したような顔をした。
「ツバメちゃん。どうしたの」
「あそびきた」
自分より少しだけ背の高いサクラをのぞき込むようにして、ツバメはにっと微笑む。
サクラはわずかに身を引き、指先でドアの縁をぎゅっと掴んだ。
「でも、今日は課題が」
「そう思って、持ってきた。一緒にやろ!」
「で、でも……」
「嫌なの?」
サクラの長い睫毛が、微かに震える。
沈黙が落ちる。
突然、ツバメは扉のふちに手を掛け、半身を押し込んだ。サクラはびくりと肩を揺らし、思わず顔を上げる。
目が、合った。
屈託のない笑顔を浮かべながら、ツバメは勢いよく扉を引き寄せた。
「お邪魔します!」
◇
ヒバリは日陰のベンチに座り込むと、ぼうっと穏やかな春空を眺めた。
晴れているとはいえ、日陰はまだ少し肌寒い。だが、ヒバリにとってはそれがどこか居心地が良かった。
ふと、近くで自転車が通過して、少し離れた位置でブレーキの擦れる音。
落とし物でもしたのだろうか、とヒバリは特に気にも留めなかった。だが、ざくざくと砂を踏む音が近づいてきて、ヒバリは漸く視線を向ける。
足音の主を確認して、ヒバリはほんの少しだけ姿勢を正す。
「ひーちゃん! なーにやってんの」
日向に仁王立ちして声をかけてきた、麗らかな黒髪をポニーテールにまとめた女を、ヒバリが知らないはずがなかった。春日スミレ。サクラの姉。幼馴染の家に遊びに行くと時々家にいて、たまに遊びに付き合ってくれていた。昔から、サクラとは違って溌剌とした性格で、なんとなく憧れてしまうようなそんな雰囲気を纏っていたが、それは今も健在だ。
「スミレさんこそ……」
「買い物行くついでにちょっと散歩? サイクリングしようと思ってさ。食べる?」
スミレがコロコロとしたキャンディを一つ差し出す。透明なビニールの下のパステルカラーは、光を透過してきらきら輝いて見えた。
「ありがとう」
ヒバリはそれを受け取って口に放り込む。甘い。甘酸っぱい。美味しい。
スミレは満足げに笑うと、ヒバリの隣に少し間を開けて腰を下ろした。
それからふと、ベンチに影を落としている石壁をちらりと見やって、二の腕をほんの少し擦る。
「ツバメちゃんは?」
「サクラん家」
「あらま。また?」
ヒバリは両膝に肘をついて、溜息を落とした。その様子を、スミレは微笑んで眺めている。
「ほんと、あいつ、すぐサクラに迷惑掛けるんだから……ほんっとゴメン、いつも」
ヒバリは項垂れたまま、顔を上げることが出来なかった。
一方スミレは、目をわずかに丸くして見つめていたが、ふっと笑い声を漏らした。
「まあ、あいつ気が弱いっていうかなんていうか……あたしが言うのもなんだけど、優しいからな~。多分、気にしてないと思うよ?」
「……どーだか」
ふと、ヒバリの視界の影が濃くなった。少し前を向くと、スミレがにこにことしながら顔をのぞき込んでいたので、ヒバリは思わずのけ反る。
スミレは悪戯っぽく笑うと、ベンチにリラックスするように背を預けた。
「ひーちゃんは会いに行かなくていいの~? あ、分かった。二人に気ぃ遣ってるんでしょ」
「いや……気を遣うっていうか、俺は……。迷惑掛けたくないっていうか」
「そんなに気にしなくていいのに! 会いに行ったらきっと喜ぶよぉ、サクラってずっと昔から二人の事好きだしさー」
ヒバリは顔を上げなかった。ただ無意識に首の後ろを掻くように手をやって、誰に言うでもなく呟く。
「……そっすか」
「あれー、照れてる~?」
腕を小突かれて、ヒバリの体が揺れ戻る。
「そういうんじゃないっす」
「あははっ! 冗談だよ。ごめんって」
スミレがおどけたように笑った。
十分にからかったところで、スミレはキャンディをいくつか押し付けた後、ツバメちゃんにもよろしくね、と手を振って、自転車に乗ってサイクリングを再開する。
ヒバリは軽く手を振って見送りながら、スミレという存在が、今でも憧れという感情を呼び起こすことを実感していた。
そしてあの姉妹には、日向がよく似合う、とも思っていた。
好きだと聞けたのは嬉しい。
だけど、本人以外から聞いた言葉を真に受けるほど、素直ではない。
◇
窓の外はすっかりオレンジ色に染まっている。
あれからまっすぐ帰宅したヒバリは、大学の課題が残っていたことを思い出し、貰った糖分を糧にノートpcと睨み合いを続けていた。
そんな中、玄関扉が慌ただしく開けられる。聞き間違える筈がない。ツバメが帰ってきた。
「ヒバリー!!」
ヒバリの体がぴくりと揺れる。ヒバリがリビングの扉を振り向くのと、扉が開かれ、双子の片割れが部屋になだれ込むのはほぼ同時だった。
ツバメの目が潤んで赤くなっているのを、兄は見逃さなかった。というか、嫌でも目に入ってしまう。
この登場の仕方は、絶対に何かがあったときだ。
「最悪!! ほんと、許せない!!」
やっぱりか、とヒバリは肩を落とした。残念な訳でも、嫌という訳でもない。ただ、あまりにもいつものことで、そしてツバメがサクラのことでこうなる度に、心臓が窮屈になるというだけで。
「またか」
「ほんと、何なの!? 意味わかんない! ぶん殴ってやりたい!」
ツバメは一度だけ床を強く蹴って、髪を振り乱した。まるで地団太を踏む子供のようだ。怒りに飲まれているように見えて、表情は悲しみ一色に染まっている。
言葉こそ強いが、決して本気で誰かに危害を加えようとしているのではない事は、ヒバリには分かっていた――今のツバメにとっては、それが本物の気持ちとしか思えないとしても。
だが、慣れたと言えば噓になる。感情を暴走させる人間の姿に、ヒバリはいつも圧倒される気がしていた。
「怖いからやめろよ、そういうの。何があったんだよ。……ユウタか?」
ヒバリは久しく会っていない、小学生のユウタの事を思い出した。
彼はサクラの近所に住む春日家の親戚の子供だ。サクラによく懐いていたのを覚えている。時々遊びに来ては、彼女に宿題の面倒を見てもらったりしていた。
無邪気で嫌みの無い、自分のような冴えない男にも分け隔てなく接してくれる……とまで言うとなんだか意識しすぎている気もするが、まあ押し並べて理想的な良い子だ。ヒバリが百円ショップでなんとなく買った小さな車のおもちゃを、これまたなんとなしにあげた日には、自分では考えられないほどにはしゃいで受け取ってくれた……ということを、ヒバリはなぜかずっと覚えていた。
だから、ヒバリはツバメがここまでユウタに対抗心を燃やす理由が理解できずにいた、……というより、共感できずにいた。
だって、相手は子どもなのだから。
「そーだよ! サクラ、あたし達よりあいつの方が大事なんだ!!」
「しょうがないだろ、あいつ俺らより年下なんだから。サクラも親戚のよしみで構ってやってるんだろうし……」
そう口にしてから、ヒバリは口ごもった。ツバメの視線が肌に突き刺さる。
「あたしとの課題よりあいつの勉強の方が大事なわけ!?」
まずい対応をしてしまった。
そうだ、相手が誰であろうと自分を納得させる理由を考えてしまうのは、癖だからしょうがない。……と自分に言い聞かせて、怒らせる気は無かったとでも言いたげに、ヒバリは降参するように両手を胸の前に掲げる。
「いや……比べられるようなもんじゃないだろ、そんなの」
「うるさい、ヒバリのばか、サクラのばか!! もう知らない!!」
ツバメはどかどかと足音を立てて部屋を出ると、ドアを勢いよく閉めた。
床と壁を通して、振動がヒバリの体に伝わる。
どうも落ち着かない震えだ。
ヒバリがツバメの嫉妬深さを認識したのはもう随分前のことだ。彼女が癇癪を起す度に、ヒバリが寄り添って宥める流れはもはや恒例行事と化していた。
呆れながらもヒバリがツバメの振る舞いに付き合うのは、勿論双子だから、兄妹だからという理由もある。
だが、決してそれだけではないと、ヒバリはどこかで分かっていた。彼女の持つ巨大なエネルギーも、ユウタへの劣等感も自分には無い。
それでもツバメが悲しむ理由が、心の動きが、ほんの少し分かってしまうから、どうも放っておけないのだ。
◇
月曜日。世の大多数の例に漏れず、朝からヒバリはどこか憂鬱な気分だった。
自分で選んだ結果とはいえ、午後の一コマだけの為に月曜日に稼働しなければならないというのは、まあ案外面倒なものだ。
こんな事を言うと、ツバメに「ぜーたくもの」だと誹られるのだろう……と考えて、鼻で笑いたくなる。
当のツバメはというと、昨日の情緒の荒ぶりが嘘だったかのように今朝見た夢の話を語りつくした後、遅刻ギリギリを気にしながら家を飛び出すくらいには元気そうだった。
あの元気を少しでも分けてくれたら、なんだか自分たち双子はとてもちょうど良くなる気がする……なんてことを考えながら、ヒバリは一人で軽い昼食を済ませ、気持ち姿勢を正して家を出た。
大学校舎に辿り着いてから、目的地である大教室の端っこ気味の、中途半端な席に一人で座るサクラの背を見つけて、少し息が詰まる。
自然さを意識する時点でもう自然ではないよな、と思いながらもなるべく自然な動きで、ヒバリはその背中にそっと近づいた。
おはよう、もう昼だけど、と声を掛けると、サクラは肩を震わせた後、ヒバリを見上げてほっと微笑む。隣に座ってテキストを適当に配置し、スマホでSNSのトレンドワードをこれっぽっちも興味を惹かれないまま追っていると、チャイムの音とともに講義が始まった。
講義は毎週の通り退屈だった。船を漕ぐ度にサクラにペンシルの頭で腕を突かれ、姿勢を正す。そしてまた段々と頭が下がっていく。
そんなくだらない動作を繰り返しているうちにまたチャイムが鳴り響き、漸く意識がはっきりとしてきた。正直これは最悪で、どうせなら講義中に眼が冴えていて欲しいとしか思えなかった。反省するべきだとも思う。
「ごめんサクラ、昨日またツバメが暴れてただろ」
ろくに使わなかった筆記用具をしまいながら、ヒバリはばつが悪そうに呟いた。
同じようにノートを鞄に仕舞いかけていたサクラは、一瞬だけ手を止めると、何事もなかったかのように微笑む。
「大丈夫だよ。私こそ、いつもごめんね」
また謝られた、とヒバリは思った。「ごめんね」はサクラの口癖、と言ってもいいかもしれない。
それを責めるつもりも改めさせたい気持ちも無いが、そのセリフを言わせたくないとこれまで何度思ったか分からない。
口癖だと認識してしまう程とはいえ、それは決して心無い謝罪ではないのだろうという事は、サクラの様子を見ていればなんとなく分かっていた。
「いやいや、謝んなよ。あいつが悪いんだから」
「ツバメちゃん、大丈夫だった?」
その言葉に、ヒバリの表情が曇る。
昨日の荒れ具合を思い出したからではない。
サクラの前で、心配されるような態度をとったんだな、と思ったから。
「……まあ、機嫌ならどうせすぐ直る」
「そっか……」
人が少なくなった教室に、次のコマの授業を受けるであろう学生たちがちらほらと入室し始める。ずっとここに残っている訳にはいかない。
ヒバリはふと口を開いた。
「あのさ、俺たちってただの幼馴染、腐れ縁みたいなもんだし、本当に……無理して関わんなくてもいいからさ」
ふと、サクラが鞄を持ち上げようとした手が止まった。
「……でも、ツバメちゃんは、私と遊んでくれるし……離れたくないって言ってるよ」
「サクラほどあいつの無茶に付き合ってくれる奴がいないからな。そうそう手放したくはないだろ。だけどサクラがそれに付き合う義理は無い」
ヒバリは、自分が今ひどく疲れた顔をしていることを自覚していた。
サクラは拒否するという言葉を知らない、としか思えなかった。どれだけ言葉を尽くしても、返ってくる言葉はきっと同じだ。
「ヒバリくんも、もし私に迷惑が掛かるとか心配してるんだったら、気にしないで。私のことで悩んでほしくないから。いつもごめんね」
無意識に、ヒバリの指がぴくりと動く。
「いや……まあ、サクラが嫌じゃないなら、いいんだけどさー」
頬を指で軽く搔きながらヒバリがそう言うと、サクラの表情の緊張が少し解けた気がした。
「じゃあ俺、もう授業ないし、帰るから」
「もういっちゃうの」
ヒバリは僅かに驚いたように、思わずサクラの方を見る。
サクラは一瞬、視線を落とした。すぐに顔を上げ、どこか寂しげにも見える微笑みを浮かべたまま、小さく手を振る。
ヒバリは、ほんの一瞬、言葉を探して逡巡した。
瞬きを数回するだけの時間が、妙に長く感じる。
結局、ふさわしい言葉が思い浮かばなくて、ヒバリは何も見なかった事にした。
◇
帰宅後。ヒバリは食事も風呂も何もかもいつも通りに終わらせる。
そして気づけば二十三時を回っていた。これもいつも通り。
なにもやる気が出ないまま、ベッドに転がって壁を見つめる。
こうしていると頭が整理されて、どんな悩みも解決の糸口を掴める。よくある事だ。
――サクラが、悲しそうでも寂しそうでもつらそうでもない、柔らかな笑みを浮かべているのを、最後に見たのはいつだろうか。
きっと最近にでも、どこかで見たのかもしれない。だけど思い出せない。
自分が気にしすぎなのだろうか? けど、他人の気持ちを正しく把握することは、難しい。
サクラは気にするなと言う。だけどそれが彼女の本心だと誰が言いきれるだろう。
だから結局この結論に辿り着いてしまう――悲しませてしまうくらいなら、自分は消えた方がマシだ。
これは逃げか? 親切心か? わからない。
分からない時は、どうしたらいいんだっけ。
自分は何が嫌なのか、何を恐れているのか、段々とぼやけて、いつしか……痕跡だけがそこに残る。
人に尋ねてはいけない事は存在する。
行動にはリスクが伴う。
今あるものを守るために、選択肢を一つ消す。
選べるものが無くなったら?
消せるものはもう、一つしか残っていない。
……離れた方がいいんだろうな。
そうすればサクラはきっと楽になる。
そう思うのに、胸の奥がざわついて仕方がなかった。
◇
「どうしたんだよ、それ」
立っているだけで汗が滲んできそうな夏の日。
珍しく時間ギリギリにやってきたサクラを見て、ツバメは愕然とした。
遅刻しかけたからではない。彼女の淡い色の肌に青く浮かぶ痛々しい痣や包帯を見たからだ。
「ちょっと転んじゃって」
サクラはどこか焦った様子で微笑みを作る。
「本当になんでもないの。気にしないで」
「気にしないでって言われても……痛そうだ」
ヒバリが顔を不安に歪ませたのを見て、サクラの表情がほんの少し強張る。
「心配かけてごめんね。でも、見た目ほど痛くないから」
「……悪い。早く治るといいけど」
チャイムが鳴る。教室が静まる。二人は黙って前を向いた。
何も起こらなかった。だがヒバリは、サクラのペンを持つ手の動きが鈍くなっている事に気を取られて、殆ど講義の内容が頭に入って来なかった。
◇
ヒバリが帰宅すると、薄暗い部屋ですすり泣く声が聞こえてきた。
ぱちり、と照明のスイッチを押せば、ソファに蹲るツバメの姿があった。
「どうした。何があった」
意識せずとも歩みが速まった。ツバメの前に片膝をつき、その体に一目見て異常がないことを確認すると、ヒバリはそっと声を掛けた。
喧嘩か? 失恋か? 思い出の品を失くしたか。
ツバメが泣くことには慣れている。そのつもりだった。
「ヒバリ……あたし、もう嫌だ。あたしのせい……」
「怒らない。言ってみろ」
「あたしのせいで、……サクラが……」
「サクラが怪我してた理由、知ってるのか」
「あたしがまた、勝手に怒って、周りが見えなくなって……あたし、そんなつもりじゃなかったのに。サクラがあたしを止めようとして」
「……あたしのせいで、サクラが怪我して……」
「お前がやったのか」
「だって……だって……!」
手を伸ばしかけて、ヒバリは止めた。
慰めることも、責めることも、意味は無い。
一つ、聞こえるか聞こえないかの小さな息を吐いて、言葉にする。
「もうサクラに関わるのはやめよう」
「え……?」
「もう見てられないんだよ、お前もサクラも」
「や、嫌だよ、そんなの」
ツバメの声が震えた。
だが、言い返す言葉が見つからない。
「けど、一緒にいるのは、つらいだろ。サクラの事が本当に好きなら、離れてやれよ」
僅かな沈黙の後、ヒバリが口を開く。
「……俺も、そうするから」
ツバメは手の甲で涙を拭う。
「サクラは、私達と関わらない方が、良いのかな……」
「わからない。けど、サクラは……本音なんか、ずっと言ってくれないだろ。だから、俺たちが動くんだよ。あいつの為に。……もう俺たちの我儘を押し付けるのはやめよう」
ツバメは何も言えず、ただ泣くだけだった。肯定したくなかった。だが否定出来なかった。それは長く一緒にいた中で、ツバメが直感的に感じていた事だった。
ツバメがこくりと頷く。
障害は無くなり、これですべて解決する――そんな確信があるにも関わらず、ヒバリの胸の奥には、鈍い痛みだけが残っていた。
だからといって、彼には耐える他の術など考えられなかった。
けど、精一杯やった。自己犠牲は決して悪ではない。
次々に浮かぶ疑問も、苦しさも、すべて抑え込んでしまえば、無かったも同然だ。
だからこれでいい。ヒバリはそう自分に言い聞かせていた。
◇
静かな日々が始まった。
サクラとの同じ講義では、ヒバリはわざわざ開始ぎりぎりに教室に入り、適当な空いた席へつく。
なんて健気で無駄な努力だろうか――ヒバリは時々、外から見た自分を冷笑したくなった。
当然ながら、サクラが能動的に、ヒバリの隣の席に座る学生に席を譲れと交渉……なんてするわけもなく、ただ何事もないまま、時間は過ぎていった。
もう、ツバメがサクラの家に押し掛けることも無い。
きっとサクラも、何も変わらない平穏な日々を送っている。
そう思えば耐えられた。
チャイムの音と共に、教室にざわめきが戻る。
いつも通り、黙って席を立つ。その時、その光景にヒバリの視界は一瞬奪われた。
同期くらいだろうか。一人の男子学生が、サクラに話しかけていた。
決して聞き耳を立ててはいない。だが、聞こえてくる会話の内容的から、同じゼミの学生だという事は分かった。
そしてその時、サクラは笑っていた。
ヒバリは見ていられなくなって、静かに扉を出た。
これでいい。自分達がいなくても、サクラの生活も幸福も、何も変わらない。
なのに何故こんなに不快なのか。ヒバリにはうまく言葉に出来なかった。
◇
夏休みを間近に控えた週末。
ツバメは冷たいベッドで横になりながら、しきりにスマホの通知を気にしていた。
通知音が鳴る度に、ツバメは真剣な顔をして、すぐに落胆する。それでもこの手のひらサイズの薄い板は手放せずにいた。
どれだけ待っても、サクラから連絡は来ない。
――やっぱりサクラは自分なんてどうでもよかったんだ。私に絡まれて、いつも迷惑してたんだ。あんな怪我までした。
でも大丈夫。これからは大好きな友達に、迷惑を掛けることは無い。
なら、このままで良いのかもしれない。
……本当に?
数週間前に途絶えたサクラとのDMの画面を開いたまま、スマホを持つ手に力がこもる。
連絡のひとつくらい、寄こしてくれればいいのに。
見返せば、いつも連絡を送っているのはツバメからだ。
サクラは寂しくないの?
私が日常からいなくなっても、何も思わないの?
そんな考えがぐるぐると脳内を巡り続ける。
――こんなの、私らしくない。
「……散歩いこ」
外は雨だ。湿度と気温が高くて、服や髪がじっとりと張り付くような不快感に包まれる。
やっぱりやめようか、と躊躇したが、昼ご飯を作るのも億劫だ。
結局近場のコンビニまで出ることにした。
サクラの家に行くときは、雨でも気にせず行ってたのに。
でも、そういうところが嫌だったりしたのかな。
私って気が利かない性格なのかな。
車が水をはねて少しかかって不愉快。グレーのパーカーは水のしみが目立つ。
最低な気分。
コンビニを出て傘をさすと、見慣れた子供が傘のしずくを払っていた。
ユウタだ。
ツバメは気づかないふりをして通り過ぎようとしたが、すれ違いざまに「ツバメねーちゃん」と大声を出されて、立ち止まらざるを得なかった。
無視することも出来た。けど、小学生を無視するなんてまるで自分も小学生みたいで、プライドが許さなかった。
「サクラちゃん、最近元気ない」
ツバメの肩がぴくりと揺れる。
聞きたくなかった名前。口にしてほしくない相手。
私は未だにこんな子供に嫉妬している。
本当にうざったい。
ユウタが? ……違う。私自身が。
「ふうん、そうなんだ」
無関心を装った口ぶりに、ユウタは気づきもしない。ただ不思議そうな、不安そうな目でツバメを見上げている。
「ツバメねーちゃんが最近遊びに来ないって言ってたよ。どうして?」
「……あんたには関係ないでしょ」
ツバメは溜息を吐くと、ビニール袋から買ったばかりのチョコレートを取り出す。
「ほら、これやるからあっちいきな。買い物しに来たんでしょ。あたしもう帰るから」
しずくが飛ぶのも気にせず傘を開く。ユウタは受け取ったチョコレートを嬉しそうに抱えて、笑顔を見せた。
「ありがとうツバメねーちゃん! また遊ぼうね!」
何も考えてない方が、構ってもらえるなんてずるい。
ツバメは立ち止まって、また歩き出す。赤信号に立ち止まって、何気なく振り返った時には、ユウタはもう居なくなっていた。
◇
きぃ、とブレーキのゴムが軽く軋む音。顔を上げればそこには、咲くような笑顔。
「ひーちゃん! 久しぶり!」
「スミレさん」
スミレの顔にサクラの面影を見て、ヒバリの表情は僅かに曇った。
「ねえ、サクラとさ、どうしちゃったの? 最近喋ってないんだって~?」
自転車のハンドルに両肘をついて、スミレは揶揄うように笑う。
ヒバリは珍しく居心地の悪さを感じて、苦く笑った。
「まさか、ほんとに好きになっちゃって気まずいとか……」
いつものように、流す気分になれない。
「違いますよ」
遮るように否定すると、スミレはわずかに固まってから、申し訳なさそうに笑った。
「ごめん、茶化しすぎたね」
やり場を失ったかのように、スミレは自分の腕を抱いた。それをヒバリはただ複雑そうに眺めていた。
スミレの視線が、ほんの少し遠くなる。
「……心配してるんだ。あの子ったら妙に元気ないのに、詳しい事は何も教えてくれないし。君に訊けばわかると思ってさ」
その声色は軽やかで、責め立てる意図など一切感じられない。
「すみません。俺、何も知らないんで。サクラのこと」
嘘ではなかった。ただ本当の事を言っただけなのに、ヒバリの胸はまた痛むようだった。
「そっか、そっか。ごめんね、変な事聞いちゃって」
スミレは頬を軽く掻くと、勉強ガンバレよ、と拳を見せて、自転車のペダルを踏み込んだ。
ヒバリは遠ざかっていくその背を少しだけ見送って、重い足取りで歩き出す。
最悪だった。
スミレさんに気を遣わせるような物言いしか出来なかった自分が腹立たしい。
自分の不器用さが嫌になる。
サクラが落ち込んでいると聞いたのに、俺は声を掛けようともしない。
スミレさんに心配そうな表情ひとつ見せれもしない。
こんなの優しさではない。ただの――臆病さだ。
でも、だとしても……どうすれば、傷つく事を自分に許せるというのだろう。
◇
ツバメにとってこんなに退屈な夏休みは無かった。
待てども、待てどもサクラからの連絡は無い。
ベッドの上で無為にスマホを眺めていれば、寂しさを考えずに済んだ。
窓の外では蝉が鳴いている。
それももう、聞き慣れてしまった。
期待するのも無駄だと諦めかけていた、その時。
ツバメは飛び起きた。
待ちわびた名前の書かれた通知が目に飛び込んできたからだ。
数週間ぶりの――サクラからのメッセージ。
〈部屋を片付けてたら見つけたんだけど、ツバメちゃんのかな?〉
いつの間にか失くしたと思っていたキーホルダーの写真が添えられている。
内容なんてどうでも良かった。
胸がどきどきと高鳴っている。
サクラが連絡してくれた。それだけでこんなに嬉しい。
ずっと前からそうだったけど。
それに気づいたら急に、我慢してるのが馬鹿馬鹿しくなった。
会いたい。
だから、会いに行こう。
動機なんてそれだけで十分だった。
◇
曇り空の下、家の数メートル前まで辿り着いて、ヒバリは足を止めた。
ヒバリが前方から歩いてきて、立ち止まる。ツバメは帽子のつばを上げて、ヒバリの目を見た。
「迎えに行く手間、省けて良かった」
双子の兄の顔などもう見飽きたとでも言いたげな表情で、ポケットに両手を突っ込む。
「サクラに会いにいくけど。来る?」
その言葉にヒバリは眉を顰めた。聞き間違いではない。あの日あれだけ泣いておきながら、何故平然とそのセリフが吐けるのか、甚だ疑問に思っている顔だ。
「何で。約束はどうした?」
「サクラから連絡きた。もう無効」
唖然とするヒバリの様子を意に介す事無く、得意げに笑んだツバメが続ける。
「ヒバリも来たいでしょ?」
ヒバリの息が止まる。蝉の声がやけに騒々しく感じた。
「……いや、何でだよ」
「あっそ。じゃあ一人で行く」
ツバメの返事は早かった。颯爽と歩きだし、固まったままのヒバリをさらりと置いていこうとする。
「待てよ」
数歩進み、悩んだ末に受け入れたのか、立ち止まる音。
「仮に今日はなんとかなったとしても、お前が関わる限りサクラには負担が掛かる。お前はそれが嫌だったんだろ。また感情に流されて、後悔してもいいのか」
「いい。あたしは……サクラに嫌われたっていい。あたしはサクラと一緒にいたいの。だから会いに行く」
「そんなの……サクラの為にならない。ただの自己満足だ。サクラがお前の事を思ってやったことだって悪く受け取るくせに、一緒にいたって碌なことにならないぞ。二人ともだ」
「ヒバリはどうしたいの」
ツバメが睨みつける。
「サクラは確かに何も言ってくれないけど、ヒバリだって何も訊かないじゃん。そんなに心配なら、訊けば?」
「そんなの、無理だ。わかるだろ。壊したくない。俺は……」
このままでいい、と言おうとした。だが、言えなかった。
「おくびょーもの。見てらんない。あたし、行くから」
再びツバメは歩き出す。
今度こそ、呼び止めても彼女は振り返らない。
ヒバリももう引き留めなかった。止めても無駄だと分かっていた。
ここで立ち止まっていたいなんて思わない。でも、動く動機が見つからない。
何よりも今、それを求めているのに――その時、ポケットの中で、珍しくスマホが震えた。
掴む。持ち上げた。通知に、視線を落とした。
〈ツバメちゃんが、二人で家に来るって言ってたけど、大丈夫?〉
しばらく無表情に歩いていたツバメの耳に、ぎこちない足音が駆けこんできた。
膝に手をついて苦しそうに喘ぐ双子の兄を見ても、妹はつんとした表情を浮かべているだけだったが――。
「……やっぱ行く」
ヒバリのその一声に、漸くツバメは口の端を引き上げた。
「二人で出かけるの、久しぶりだね。ヒバリ。サクラに会えるの、嬉しい」
こんな時に笑える余裕なんてあるか、と思って、ヒバリは黙ってそっぽを向いた。
◇
玄関のチャイムが鳴り響く。
ぱたぱたと急ぐ足音。がちゃりと開く扉。淹れたての紅茶の香り。
「いらっしゃい、久しぶり……ひゃっ」
突然ツバメに抱きしめられ、サクラは驚きの表情を浮かべた。
「ど、どうしたの」
ツバメは久しぶりのサクラの声に感極まっているのか、抱き着いたままじっとして、喋ろうともしない。
仕方なくヒバリは口を開く。
「ごめんサクラ、急に来て」
ツバメの背を宥めるように撫でているサクラは、ヒバリの顔を見上げると、ふわりと笑った。
「元気そうで、よかった」
何を返せばいいのだろう、とヒバリは戸惑いながら必死に言葉を探す。
だが、一言発する前にツバメが口を開いた。
「ねえ。なんでずっと連絡してくれなかったの」
「ごめんね、ここ一週間は実家に戻ってたの。連絡したって、会えないし……」
「会えなくも、連絡してくれるだけで嬉しいのに! 元気? とか、一言だって……」
「あんまり勝手な事言うなよ。お前は良くても、面倒だろ。それにお前が連絡止めてたんだから、連絡無くて当たり前だ」
「……それはヒバリが……」
「お前、俺のせいにするつもりか」
「いいの、ヒバリくん。私が連絡してなかったのは本当だから。寂しくさせてごめんね」
サクラがツバメの肩をとんとん、と軽く叩くと、ツバメが拗ねたような顔を上げる。眼前には、ツバメの忘れ物のキーホルダー。ツバメの顔が明るくなった後、恥ずかしそうに目線が泳いだ。
「ヒバリくんは、付き添いかな」
「あ、ああ」
「……本当は何しに来たの?」
サクラがほほ笑む。
双子はうっかり、互いに顔を見合わせた。アイコンタクト。だが何も伝わってこない。
「謝りに来たの」
ツバメはサクラの方を向きなおすと、俯き加減に答えた。
「急に冷たくしてごめん」
ヒバリが頭を下げる。サクラは静かに首を傾げた。
「……冷たくされてた?」
「……ごめん」
もう一度ヒバリがそう告げると、ツバメも慌ただしく謝りながら頭を下げた。
サクラは迷うように手をおどおどと動かして、かけるべき言葉を探している。
「ねえ、サクラ」
ツバメはもじもじと指を重ねて、言いづらそうに、だが確実に言葉を紡ぐ。
「私、これからもサクラには迷惑かけると思う。それに、サクラが私の事嫌いになったら……絶対怒るよ? 泣くし、うるさいし、……また怪我させる、かも……」
「あれはツバメちゃんのせいじゃないよ。私がバランス崩して、ぶつけちゃっただけ」
もう綺麗になったよ、とサクラは傷があった場所を差し出した。確かに元通りの肌に戻っている。
「ツバメちゃんには、出来れば泣かないでほしいな。……でもツバメちゃんが泣くなら、私はそばにいるようにするよ」
ツバメはべそべそと泣きだした。サクラはぎょっとして、ツバメの肩に手を添える。
「大丈夫だ。嬉し泣きだしな、それ」
ヒバリが真顔で呟くと、ツバメは双子の兄を睨みつける。
「ヒバリ。あんたも言うことあるんじゃない」
ヒバリは舌打ちしたい気持ちになった。
サクラは微笑んだまま首を傾げている。純粋に、ヒバリの話に興味を持ったらしい。
ヒバリは今すぐツバメを置いて帰ってしまいたくなったが、ここで退いたら負ける――直感的にそれを理解して、訊きたかったことを口にしようとした。
「サクラは……」
サクラは、俺たちの事が嫌いか? 本当は俺たちに迷惑を掛けられたくはないんじゃないか?
言いかけて、踏み止まる。
それを明かして、明かさせて何が変わる?
サクラに負担は掛けない。自分が伝える。それで何かが変わったって、構うものか。
もう、壊れても、悔いは無い。
「多分俺も、今後……今までみたいに、サクラには迷惑を掛ける。気を付けたところで、すぐには変わらないと思う。でも、俺は……サクラが好きだ。これからも一緒にいたい」
ツバメはヒバリを拗ねたように睨みつけ、サクラを抱きしめる力を強めた。
「……だから何だって、話なんだけどな。……聞かなかった事にしてくれ」
こんなに真正面に人に好意を伝えたのは、いつ以来だろう。思い出すことも出来ない。ヒバリは最早、どこを見ればいいのか分からなくなっていた。
「うん。でも、ありがとう」
ツバメの腕に軽く触れながら、サクラが微笑む。
「心配しないで。私はどこにもいかないよ」
曇り空に、光が薄く滲んでいる。
その一言に、保証なんてどこにもない。
だが、少なくとも――まだ、傍にいられる。
それだけで十分だった。
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