転生しても婚約者に裏切られた生贄の私が、婚約指輪を破棄したところ
また、男に騙された――。
それは、婚約指輪をはめられた瞬間に前世の記憶を取り戻した私――絵里が真っ先に思ったことだった。
幻想的な夜の庭園。白薔薇が咲き誇るアーチの下。目の前の男、アンソニーは優しげな笑みを浮かべながら、私に甘く囁いた。
「エリス、いいかい? その指輪はね、とても貴重なものだ。だけど僕は、どうしても君に渡したかった……。だって、僕には君しかいない。エリス、愛してるよ。絶対に君を幸せにする」
「……!」
途端に全身の肌が粟立ち、胃の奥底から逆流するような強い吐き気に襲われた。
――違う。
これは優しさなんかじゃない。
詐欺だ――。
だって、私を裏切った「あの男」の笑い方と、まったく同じだったから。
「僕を信じてほしい。君さえいてくれたら、他に何もいらない」
甘く耳に絡みつくような声色に、頭の奥に眠っていた記憶が閃光のように弾けた。
いつも優しいふりをして、私のことをずっと騙し続けていたあの男――。
頭を強く殴られたみたいに足元がぐらりと揺れた。無言で立ち尽す私を、嬉しさのあまり言葉を失っているとでも思ったのだろうか。アンソニーは言った。
「そんなに喜んでもらえるなんて、僕も嬉しいな。その指輪は僕たちの誓いの証だから、絶対に外さないで。……おやすみ、エリス」
「……」
一方的に告げて去っていく彼の背中を、吐き気を堪えながら呆然と見つめた。
「……」
不思議だった。
突如よみがえった前世の記憶が、今の私の意識と溶け合って重なっていくようだった。そして浮かんでくるのは――どうしようもなく惨めな気持ち。
前世の私の名前は佐藤絵里。ただのOLだった。子供のころから地味で目立たず、学校でも職場でも、いわゆる冴えない陰キャだった。当然、喪女でもあった。そんな私にもある日突然、運命みたいな出会いが訪れた。……勘違いだったけど。
今思えば、偶然を装って近づいてきた、優しくて笑顔の似合う彼。「君だけを見ている」なんて甘い言葉を囁かれて、有頂天になった。なけなしの貯金を切り崩して、彼が叶えたいと熱く語っていた夢を支えた。結婚を信じて、指輪まで選んで……。
けれど、それは全部、嘘だった。
最後に残ったのは、空っぽになった預金通帳と、私ひとりだけになったアパートの部屋。突如現れたかと思えば私を罵る女の怒号と、鋭い痛み。
最後に――。
血の匂い。
思い出せるのは……ここまで。
胸の痛みに耐えながら周囲を見渡すと、視界に映るのは咲き誇る白薔薇。作り物みたいに美しい風景の既視感は、私の沈んだ心を恐怖へと塗り替えていった。
「ここって……。それに、アンソニーって、あの、アンソニー、よね……?」
思い違いであってほしいと強く願いながら、前世でプレイした乙女ゲームのひとつを記憶の底からすくい上げる。
――そのゲームの攻略対象キャラの一人に、誠実そうに見せかけて裏では平然と人を裏切る腹黒男がいた。アンソニーという名の。それに加えて、今世の私にはシャイナという義妹がいる。シャイナとは、そのゲームのヒロインの名だ。
そして私の名前、エリス。
端役にすぎないけど、ただの当て馬キャラじゃない。ゲームのシナリオ通りにこれから物事が進むのなら……。
「うっ……!」
再び胃酸が再び込み上げ、思わず口元を押さえた。唇に冷たい硬質の感触が触れる。そこには、鈍い光を放つ婚約指輪――。
「これって、もしかして……」
愕然としながら自分の指を見つめた。
「また私、騙されるの……?」
震えながらこぼした言葉は、夜の闇に静かに溶けていった。
記憶を取り戻した翌日。私は貴族学校にいた。
「……」
窓から見える広い中庭には、陽光を受けてきらめく噴水と、咲き誇る色とりどりの花。絵里でもある私にとっても、それらには見覚えがあった。つまりここは、乙女ゲームの舞台――。
そんな華やかな空間の片隅で、いつものように一人、教室の片隅に座っていた。誰もエリスに声なんてかけやしない。なぜなら、「優秀で優しい妹、シャイナと比べて、無能で役立たずの出来損ないの姉」という悪評が広まって久しいからだ。
前世で日陰者だった私は、今世では腫れ物のように扱われる存在になっていた。
「ごきげんよう。お姉様」
うつむく私の耳に、甘ったるい声が響いた。顔を上げると、美しい淡い金髪を結い上げ、宝石のように青い瞳を輝かせる女子生徒が立っていた。
――義妹のシャイナだ。
「あら、お姉様。どうなさいましたの?」
今日も取り巻きを連れた人気者の彼女は、まるで聖女のような――実際、このゲームのエンディングで、彼女は聖女となるのだが――笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
シャイナはさりげなく私の左手に光る指輪へと視線を走らせた。そして、満足げな笑みを一瞬浮かべた。
(やっぱりこの指輪、シャイナがアンソニーに……?)
「顔色が優れませんわね? ちゃんとお休みになられて? 私、心配でなりませんわ」
“優しい”シャイナの言葉にすっかり感銘を受けたのか、後ろにかしずく男たちは一斉に頷き合った。一方私は、警戒を解かぬまま沈黙を守った。
「……おい、何か言ったらどうだ?」
「シャイナがわざわざお前を心配しているのに、無視してんじゃねえぞ」
「シャイナがあの『聖女』様に認められるかもしれない大事な時期だってのに……こっちは相変わらずのダメ姉だな!」
シャイナに反応しない私に苛立った男たちの、吐き捨てるような声が聞こえた。彼らの見下すような、あざけるような視線――。
(いつも通りね……)
前世の私みたいに惨めなエリスと、順風満帆な人生を送るシャイナ。私と違って、義妹はこの貴族学校で淑女として崇められ、盤石な立場を築いてきた。
絵里の記憶を取り戻した今の私は、自分の状況をようやく理解することができていた。シャイナの今までの言動とその理由――すなわち、いつだって助言のふりをして、私のことを巧妙に孤立へと追い込んできたことを。
(やっぱりシャイナも転生者なのかしら……? 少なくとも間違いなく、私の敵……)
すると、何か思いついたような顔でシャイナは言った。
「そうそう! ねえ聞いて、お姉様!」
「……」
姉、か。
作り笑いを浮かべるシャイナを見つめながら、思わず唇を噛み締めた。
私の前世には妹がいた。
昔からケンカばかりしていたけれど、私にとっては可愛い、かけがえのない妹だった。記憶が戻ってからというもの、私は恋しくて仕方なかった――もう二度と会えない前世の家族のことが。
だから、その気持ちを踏みにじられたような気がしてならなかったのだ。
「王城で舞踏会が開かれるそうですわ! ご一緒しませんこと? もちろん、婚約者のアンソニー様もご一緒に」
――舞踏会。
その言葉に、全身の血が凍ったような感覚に襲われた。なんとか絞り出した言葉は、震えてしまった。
「……い、いいえ。わたくしは……遠慮します」
ゲームのシナリオ通りなら――。
その舞踏会で私はアンソニーからあることを告げられ、命を落とす。そして、その直後に起こるイベントで、シャイナはある大きな功績を成し遂げ、真の聖女として国王に認められることになるはず。
(あっ……!)
突如、私の中の絵里が気づいた。後ろの取り巻きの中に、攻略対象キャラの一人がいることに。
つまり――。
(シャイナは、ゲームを着々と攻略してるんだわ……)
「お姉様! そんな遠慮なさらず!」
「い、いえ……」
「もう! そんなことおっしゃらないで!」
「で、でません」
「……今日は素直じゃないのね」
シャイナが小さくつぶやいたその瞬間、美しい彼女の顔がひどく歪み、醜悪な影が走った。
背筋が粟立つ。
間違いない。彼女も転生者だ。
だって、ゲームのヒロインは清らかな女性という設定だった。あんな顔、するはずがない。席に座っていてよかった。もし立っていたら、へたりこんでいたかもしれない。
「……まあ、そう言うのなら、仕方ありませんわね」
シャイナは柔らかな笑みを取り戻すと、わざとらしく肩をすくめて見せた。
「お姉様は、少し人見知りなところがおありですものね」
「シャイナの善意を無視するなよ……」
「まったく、シャイナも大変だな。『いらない』姉がいて」
「……またお伺いしますわ」
シャイナたちがようやく去った後、自分の薬指へと視線を落とした。そこには、婚約指輪が冷たく光っていた。
絵里の記憶が囁く。
――この指輪は、呪われている。
「……」
それは、今の私に避けようのない最後通牒を突きつけていた。
(この世界でも、私に味方なんて、一人もいないんだ……)
「ギイッ! ギギギッ!」
森の奥で、狂気じみた笑い声のような鳥の鳴き声が響いた。
「はあ、はあ……」
昼間だというのに森の中は薄暗く、吹きぬける冷たい風は、息を切らせた私の身体を容赦なく冷やしていく。悪夢の中を必死に走っているときのように心臓が痛い。だって、こんな森の中を一人で進むなんて、自殺行為に決まっているのだから――。
(でも……行かなきゃ。今さら、引き返せない……)
自らを必死に叱咤しながら、指先に視線を落とす。薬指にはめられた銀の指輪が、木々の間からわずかに零れる光を受け、鈍く光った。
――絵里の記憶は語った。
この指輪をはめた女は、生贄に捧げられる。
生贄が死んだ瞬間、世界を滅ぼす魔王が召喚される。そして。
(最後は聖女がその魔王を封印して、世界に救いをもたらす……)
それがこの世界の「結末」。私は捨て石のように、シナリオの都合で惨めに死ぬだけなのが、約束された「筋書き」――。
思わず手を握りしめた。悔しくて堪らなかった。
アンソニーが私に指輪を渡したのは、シャイナに裏で頼まれたから他ならない。彼の意中の女性は、最初から私ではなくシャイナ。つまり、ゲームをクリアするための前提をシャイナは一つ消化しただけに過ぎなかった。
(前世と何も変わらないじゃない……!)
悪い男に騙されて。無関係な女の勝手に踊らされて。そして殺されるだなんて。また同じ死に方をすることだけは、受け入れられなかった。
「はあ、はあ……」
立ち止まって息を整える。
実は、指輪は外そうと思えば外せた。けれど、どうしてもできなかった。
恐ろしい呪いのアイテムを迂闊に外したら、どんな大変なことが起こってしまうか知れたものではなかった。無関係の誰かを巻き込むことだけは、どうしても避けたかった。
ずっと悩んでいた私が思いついた答え。それは――。
指輪を、この森の奥にあるはずの「聖なる湖」に沈めること。
ゲームのエンディングでラスボスの魔王が封印されたあの湖に、この呪いの指輪を捨てれば、誰にも迷惑はかからないのでは? そう思い立ったのだ。
再び歩を進める。前世のゲーム知識を活かし、教会で密かに買った魔除けの聖水を絶えず振りかけながら、安全なルートを慎重に選び続ける。
「……ふふっ」
つい吹き出してしまった。
魔物に遭遇するかもしれないという恐怖のあまり、私は少しおかしくなっていた。
「そういえば、懐かしいな……」
絵里の記憶が、場違いな郷愁を伴いながら、あることを思い出させていた。
――魔王ヴェルヘゴル。
魔族の長にふさわしい禍々しい装い、頭に伸びる大きな角、顔に刻まれた呪詛のような紋様、そして、世界を破滅へと導く驚異的な能力――。
人びとから恐れられ、やがて命を落とすことになるラスボス。
けれど、前世の私は密かに彼の隠れファンだった。ゲームのイラストに映った、どこか淡々としていて、冷酷さの奥に宿る美しい瞳に、心が不思議と惹きつけられた。
しばらく森を進むと、木々の切れ間から白い光が差し込み、視界がぱっと開いた。
「着いた……」
そこには、たしかに湖があった。水面は鏡のように澄み、陽光を反射してゆらめいていた。空気はひんやりとして森のざわめきさえ遠く、神聖な静寂に包まれていた。
息をのむほど美しい湖。絵里の記憶は正しかった。私は目的地に立っていた。
「……」
震える指で薬指の指輪をつかむ。指先は汗で冷たく湿っていて、うまく力が入らない。
(もし、外しただけで魔王が召喚されたら……)
強い恐怖の予感に胸が締めつけられ、息が詰まった。それでも、これで今までの自分を捨てられるかもしれない――そんな期待に背中をわずかに押されながら、なんとか指輪を外した。
「……」
何も起こらなかった。
思わず息を吐く。けれど、気持ちは再び沈み込んでいく。
(どうせ捨てたところで、何かが変わるはずなんてないわ……)
結局、この世界でも私の味方なんて、誰一人いない。
そんな想いをかみしめながら振りかぶり、湖へ向かって指輪を思い切り投げた。
指輪は高く弧を描き――静かな水面にぽちゃん、と小さな音を立てて沈んだ。
その瞬間、張り詰めた空気を切り裂くように、白い光が空と湖を一閃した。
「えっ……?」
焦って辺りを見回す。心臓が早鐘を打つ。
けれど……やがて、遠くから野鳥の鳴き声が再びこだまし、風に揺れる葉擦れの静かな音が耳に届く。湖は初めから何事もなかったように、鏡のような静謐な水面を湛えている。
「大丈夫、かな……?」
(でも……)
美しい湖を見つめながら思う。
自分の人生は詰んでいる。私は遅かれ早かれ、シャイナやアンソニーの道具として利用され、いらなくなったら捨てられて――この世界からも消えるのだろう。
(どうせもう、終わりだわ……)
私は力なく踵を返した。
「――待て!」
突如、おどろおどろしい低音が轟く。心臓が跳ね上がり、呼吸が止まる。
(な、なに……!?)
逃げなきゃ――本能的にそう思った瞬間、もつれた足が地面に取られ、無様に倒れ込む。落ち葉の匂いが鼻を刺す。地面に手をついて必死に身体を起こそうとしても、膝が震えて力が入らない。
「待て! 逃げるな!」
再び鳴り響いた声が間違いなく私に向けられたものだとわかり、背筋が凍りつく。空に黒い渦が巻き起こり、周りの木々が一斉にしなる。
(しょ、召喚――!?)
やっぱり大丈夫なんかじゃ、ないじゃない!?
恐怖に飲まれ、倒れ込んだまま目をぎゅっとつぶる。
ゴウウウ!!!
時空が捻じ曲げられたかのような、前世も含めて聞いたことのない轟音が私の体を震わせる。
そして、何かが地面にすとんと降り立つ音がした。
(こ、殺される――!)
おそるおそる顔を上げ、目を開けた瞬間、息を呑んだ。
「あ、あれ……?」
間の抜けた声が思わず零れた。なぜなら、そこに立っていたのは、一人の細身の青年だったから。さっきまでの異様な気配が嘘のように、静かに佇むその男は――。
(ま、魔王? い、いや、でも……?)
思考が追いつかない。
だって、前世でスマホ越しに見たゲームの魔王、そして、この世界でも魔族を統べる王としてエリスが伝え聞いていたヴェルヘゴルは、おどろおどろしい魔族の装いに、大きな角や禍々しい紋様、黒髪黒目のはず。
けれど、目の前の男は――すらりとした長身に、まるでこれから地元の図書館にでも出かけるような、清潔感のあるシンプルな白いワイシャツに紺のスラックスという、リラックスした装い。
夜の静寂を映したような銀髪が風にさらりと揺れ、透き通るような白い肌の美しさは、神聖なる湖の前に立っても遜色なく。
(だ……誰……?)
呆気に取られる私を前にして、彼は左手に小さな本を一冊抱えたまま、右手の長い指で、細身の上品なフレームの眼鏡をクイッと押し上げた。
「君、落ち着きたまえ。私の名は――」
眼鏡の奥の、サファイアのように澄んだ青い瞳で私のことを穏やかに見つめながら、彼はたしかにこう言った。
「ヴェルヘゴル」
彼は静かに私へ歩み寄ってきた。
「君に話がある」
長い影が覆いかぶさるように落ちてきて、息をのむ。
その整いすぎた顔立ちからは、何ひとつ感情を読み取れない。しかし、そこにただあるだけで、人の形をしていながら人ならざる存在が放つ圧倒的なオーラに、恐れ慄いてしまう。
(もしかして、私が指輪を捨てたことを、怒ってる……?)
怖くて咄嗟に身を縮めた。そんな私の視線の先に、すっと差し出されたのは――。
白く細い手だった。
「……立てるか?」
驚くほど柔らかな声だった。その掌が「大丈夫だ」とまるで告げているようで、思わず震える指先を重ねてしまう。手を借りて立ち上がった私を見つめながら、彼は言った。
「君の悩みを聞こう」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
悩みを、聞く……?
「あ、あなた様は、ま、魔王様、ですよね?」
「その通りだ。よく知っているな」
魔王は、意表を突かれたように美しい瞳をぱちりと瞬かせた。
「どうして、こちらに……?」
「君は……絶望しているのだろう?」
――絶望。
どくん、と心臓が跳ねた。けれど、彼の視線はただ真っ直ぐで、ふざけているようには見えない。すると彼は、さっき私が湖に投げ捨てたはずの指輪を、すっと目の前に差し出てきた。
「この指輪が私を呼んだ。君はこれが何か、知っているのか?」
「え? えっと……」
口ごもる。魔王本人を前にして、それは実は乙女ゲームの呪いのアイテムで、魔王召喚に使われるものだなんて、口が避けても言えない。
「……」
「ふっ。なるほど……。そういうことか。本当のことは、知らないのだな」
黙り込む私を見て、なぜか彼は得心したように優しげに笑った。
「“共同所有者”の君には、知る権利がある。教えよう」
「きょ、共同……所有者?」
戸惑う私をよそに、彼は簡潔に語った――。
曰く、呪いの指輪の真の名は「救済の指輪」。魔族に代々伝わる秘宝であり、「心の声」を「魔族を統べる者」へと届ける力を秘めているのだという。
「心の……声?」
「そうだ。代々の魔王は、困ったり、苦しんだりしている民がいないかを知るため、その指輪を有するしきたりがあるのだ。だが、この指輪は私の父――先代の王のときに、人間の盗賊に奪われ、失われていた」
し、知らなかった……。
前世の自分の知識が根底からひっくり返されたようで、足元がぐらりと揺れた。Webサイトで見た乙女ゲームの設定資料にだって、そんなことは書かれていなかった。きっと、同じ転生者のシャイナだって知らないはずだ。
指輪は呪いの道具なんかじゃなかった。
民の苦しみを指輪の力を通して……統治者である魔王に伝える、大切な宝物だったのだ――。
「……」
とはいえ、失われていた指輪がなぜ彼を呼ぶことができたのかがわからず戸惑っていると、ヴェルヘゴルは静かに促した。
「聞かせてくれ。君が何に苦しんでいるのかを。何に苦しんできたのかを」
「えっ……」
「君が話せる範囲でいいんだ」
「……」
――不思議だった。気がつけば、魔王を前にしてぽつぽつと口を動かしていた。
前世での後悔と惨めな最期。そして、生まれ変わった今世でも変わらぬ過ちを繰り返していたこと。
思い出すたび胸が締めつけられ、話せば話すほどつらさに押し潰されそうになった。自分が情けなくて、顔を伏せた。それでもどこかで、かすかな安らぎが私の心をそっと撫でてくれたような気がした。
「――というわけで、私はここまでやってきたのです」
話し終え顔を上げた瞬間、驚きのあまり目を見開いた――。
「なんて、ひどい話だ……」
なんと、魔王ヴェルヘゴルは眼鏡を外して、溢れる大粒の涙を指先で拭っていた。
「お前は、苦労したのだな……」
「……」
「わかるぞ、その気持ち。一度失敗して強く後悔していることを、また繰り返してしまうと……。それがまるで、これからもずっと続くような気がしてしまって、どうしようもなくなる。もう自分も、誰も信じられない、救いなんてない――そう思ってしまうよな……」
「……」
私まで涙が溢れていた。
今まで理解されなかった、いや、誰も知ろうともしてくれなかった私の気持ちを、当たり前みたいに分かってくれる人がいた。それが、よりによってこの世界を滅ぼすはずの魔王だなんて、信じられないけれど……。
呆然としていたら、静かだった空気が急に震えだし、湖面が波打ち始めた。目の前の人ならざる存在から、不穏な気配が放たれていた。
「……復讐するぞ」
「えっ!? ふ、復讐!?」
魔王様は鼻をちょっとすすりながら、怒りを隠そうともせず声を荒げた。
「君は、悔しくないのか!?」
「……」
「前世の件はどうにもならないかもしれない。だが、今の君の目の前にいる奴らは、のうのうと君を嘲り、利用しているんだぞ!」
青い瞳に燃えるような怒気が宿り、その気配に呼応するように空気が再び激しく震えた。
「そ、それは……もちろん、く、くや……」
……悔しくないはずがない。でも、私には味方なんて一人もいなかった。過去だって、今だって。どうにかしたくたって、どうにもならなかった。
けれど、それは言い訳でもあった……。強く唇を噛む。本当は、勇気がなかったのだ。前世のときだって本当は、あの男が私を愛してないことに、薄々気付いていた。今のエリスだって、アンソニーが本気で自分のことを想っているのか、強い不安をずっと抱えていた。
――でも、怖くて聞けなかったのだ。
ぎゅっと目を瞑ってうつむいていると、頬がそっと拭われた。顔を上げると、濡れた白く細い掲げたまま、彼がうなずいていた。
「君が未来を変えたいなら――」
「未来……」
「私が協力しよう。どうだ?」
――その瞬間、胸が叩かれたように痛くなる。
前世の記憶が、強い警鐘を鳴らしていた。
(また、男に騙される――)
しかし、そんな私の逡巡を見透かしたように、ヴェルヘゴルは小さくため息をつくと、穏やかな笑みを浮かべた。
「すまない。私もつい熱くなってしまったな。……君の名を教えてくれ」
「絵、絵里……です」
「エリ、か。なら俺のことは、ベルと呼んでくれ」
ベ、ベル……。
魔王らしからぬ可愛らしい響きと、はにかむような彼の笑顔に戸惑ってしまう。そして、もうひとつの困惑が胸に浮かぶ。
(この人、たぶん、すごく純粋な人なんだ……)
今まで散々人に利用されてきた私が言うのもなんだけど……。
(この魔王様、こんなに優しくて大丈夫なのかしら……?)
このゲーム……いや、この世界は、私の知る限り悪人ばかりだ。特にヒロインのシャイナは、彼を必ず殺めようと考えているはず……。
「あの……ヴェ、ヴェルヘゴル様」
「ベルだ」
「え、ええと。私が嘘を言って、あなたを騙そうとしているとは思わないのですか?」
すると彼は、一瞬だけ呆気に取られたような顔をした後、微笑みながらきっぱりと言った。
「それはない」
「え?」
「……君は優しいな」
呟いた彼にじっと見つめられ、胸がざわついてしまう。すると彼は、その美しい青い瞳を静かな聖なる湖へと向け、しばしたたずんだ。
風がさらさらと彼の銀髪を揺らし、彼は少しくすぐったそうに前髪を指で押さえた。その姿は、魔を統べる者というよりも、一人の若く優しい青年にしか見えなかった。
しばらくして、彼が私の方を向いた。
「――そうだ。エリ、手を出せ」
「は、はい」
私の手のひらに、さっきの銀の指輪がぽとりと落とされた。彼は私の手を両手でそっと包みながら言った。
「ぽい捨ては禁止だ」
「え、でも……」
別に私は、いらないし……。
「そもそも、あなた様のものなのでしょう?」
「いいから、持ってろ。もう、捨てるな」
彼はそう言うと、ぷいっと湖の方へ再び視線を向けてしまった。
「……」
こうして、一度成功したかに思えた私の婚約指輪破棄計画は、失敗に終わった。
翌週。貴族学校の広い教室の片隅で、私はいつも通りひっそりと座っていた。しかし――。
パタリ。
本を閉じる音がすぐ隣で聞こえた。
「ふむ……。この本は初めて読んだが、なかなかよかったな」
そう言って満足げに微笑んだのは、銀髪が美しい、白い肌の男子生徒。
「エリ。君はこれを読んだことはあるか?」
「い、いえ……」
「なんだ、もったいないな」
私が座る机の上に悠然と腰かけながら、そううそぶいた男は――
魔王ヴェルヘゴルだった。
学校指定の制服を校則通りにかっちりと着こなし、お馴染みの細いフレームの眼鏡をかけた魔王は、知的で優等生然とした、高貴な貴族令息にしか見えない。
「エリ。あとでまた図書室に行きたい」
「え、ええ。授業が終わったら……」
どうやって潜り込んだのか、突然学校に転入してきたかと思ったら、しれっと学生生活を満喫し始めた彼。
けれど、眼鏡の奥で静かに光る青い瞳を見るたび、背筋が思わずしゃんと伸びてしまう。それは、彼の正体が魔を統べる存在だからだろう。
「まあ!」
甲高い声が耳に刺さった。
前方から、取り巻きを従えたシャイナが歩み寄ってきた。今日も、結い上げられた金髪を輝かせ、宝石のような美しい笑顔を浮かべながら。周囲には、彼女の取り巻きたち。シャイナの横には、楽しそうに歩くアンソニーもいた。
「お初にお目にかかりますわ」
頬を上気させたシャイナが話しかけた相手は、私の隣にいるヴェルヘゴルだった。彼女がここに来た目的は、私ではなく、イケメンの彼目当てなのだと気づく。
「私、シャイナと申します」
鈴を転がすような声で名乗るシャイナ。その庇護欲をそそる、甘く艶めいた笑みに落ちない男など、今まで見たことはない。
「それにしても、なんて素敵な方……。どうして今まで“登場”しなかったのかしら?」
(……)
うっとりとヴェルヘゴルを見上げながら呟くシャイナを見て、私は思った。おそらく彼女は、彼の正体に気付いていない。それどころか、自分が知らない“攻略対象”が急に現れたのだと浮かれているに違いない。
「お名前は?」
「……ベルナールだ」
「まあ、ベルナール様! せっかくこうしてお会いできたのですから、授業が終わったらお茶をご一緒しませんこと?」
――心臓が冷たく跳ねた。
ヴェルヘゴルもまた、シャイナに靡いてしまうんじゃないか――そんな強い不安が頭をかすめた。けれど。
「断る。興味がない」
低く、涼やかな声が教室に響き渡った。シャイナは一瞬きょとんとした後、作り笑いをさらに濃くしながら彼に近づいた。
「まあまあ、そんな冷たいことをおっしゃらないでくださいませ。まだこの学校のことを、よくご存じないでしょう? 私が姉に代わって、ご案内いたしますわ!」
「うるさい」
「え?」
「私にはエリと一緒に図書室に行く予定がある。お前はあっちへ行け」
教室に重苦しい沈黙が落ちた。だがヴェルヘゴルだけは、周囲など意に介さぬように新たな本を手に取ると、静かに読み始めた。
「――エリス」
私に近寄ってきたのは、アンソニーだった。彼もまた、いつもの優しげな作り笑いを浮かべていた。
「……ずいぶんと、その男と仲がいいみたいだね」
笑顔の裏に潜む棘に、思わず身が竦んだ。
「君は、僕の婚約者だよね? 他の男と遊ばれるのは困るなぁ。立場がないよ。僕の顔を潰したいのかな? ほら、君のその薬指の指輪。忘れちゃったの?」
「……」
――強い怒りが込み上げてくる。
結局、私は今でも指輪をはめている。けれど、この男のためなんかじゃない。ヴェルヘゴルにそう頼まれたからだ。
「おい、転校生」
「……」
「シャイナに対するさっきの舐めた態度と言い、何か勘違いでもしてるんじゃないか? ……痛い目でも見たいのか?」
アンソニーはそう言いながら、私の机の上に腰かけたヴェルヘゴルに迫った。彼は小さくため息をつくと、本を閉じた。
「くだらん。読書中だ。――あっちへ行け」
彼がただ静かに立ち上がっただけで、アンソニーは血の気を失ったように顔を青ざめさせ、後ずさった。
「……そうそう、お姉様」
シャイナが冷たい目線で私に言った。
「この前申し上げた舞踏会の件、いらっしゃるのでしょう? ……ね?」
――舞踏会。
そこで、私は死ぬ。
けれど、私はゆっくりと息を吸うと、あえて頷いた。
「……ええ」
「ふふっ!」
私が首肯した瞬間、シャイナは醜悪な笑みを浮かべた。
「それでよくってよ。……楽しみですわね」
満足気にそう言うと、彼女は取り巻きを連れて踵を返した。
「まったく……」
少し経って、ヴェルヘゴルは静かにため息をついた。
「どうされましたか?」
「あいつら、ひどいものだな」
「え?」
「特にあのシャイナとかいう女。……“色”が腐ってる」
淡々とした彼の声が、冷たい風のように背筋を撫でた。
「く……腐ってる、ですか?」
「まあ、いい。すぐに思い知らせてやるさ」
彼が不敵に笑ったそのとき、窓の外の木々が一斉にしなったような気がした。
――王城の大広間は、まばゆい光と華やかな音に包まれていた。
天井に吊るされた巨大なシャンデリアが煌めき、楽団の奏でる甘い旋律が響く。高貴な香水の匂いが入り混じり、笑い声が途切れることはない。
今宵は、国王陛下もご臨席なさる、格式高い舞踏会の日――。
(……同じだわ)
前世の絵里の記憶が再びよみがえる。ゲームで見たものとまったく同じシーンが、今、目の前で再現されていた。その現実が、足元を震えさせた。
「はあ、はあ……」
だんだん息が詰まって、苦しくなってくる。それは、いま身につけているコルセットのせいではなかった。
「――エリ」
隣からそっと声がかかった。ヴェルヘゴルが心配そうに私を見つめていた。
「これを飲め」
「あ、ありがとうございます」
彼が渡してくれた水をいただく。彼もまた、手元のグラスを優雅に傾け、その薄い唇に含んだ。
礼服をまとった彼は、どこから見ても名家の若き令息。その華麗な立ち姿に、さっきから貴族令嬢たちの視線がひどく集まっているが、彼が気にする様子はまったくなかった。
「エリ、落ち着くんだ。心配はいらない」
「……」
「私がついてる」
心は追い詰められ、不安で押し潰されそうだった。けれど、彼の迷いのない言葉に、少しだけ気持ちが安らいだ。
「エリス」
優しげな笑みを浮かべながら――アンソニーが近づいてきた。
「探していたよ。君と踊りたくて。そろそろダンスの時間だ」
――ダンス。
シナリオが、定められた通りに進んでいることを知る。
そう――。
ゲームでは、ダンスのシーンでアンソニーはエリスに婚約破棄を突然告げる。
そのことに絶望したエリスは狂乱し、捕縛される際の事故で命を落とす。
そして、魔王が召喚されてしまうのだ――。
「……」
ちらりと視線を、召喚イベントを飛ばして顕現している存在へと向ける。すると彼は、その美しい青の瞳をシャンデリアの光に煌めかせながら、無言で小さく頷く。
頷き返し、深く息を吸う――。
「わかりましたわ」
震える指先を隠しながら、私は死のダンスフロアへと足を踏み出した。
壮麗な音楽に合わせて、アンソニーと黙々と踊る。彼の顔に貼り付く優しげな笑みを眺めながら思う――。
(絵里の記憶が戻る前は、彼とこんな風に踊れたら、なんて思っていたっけ……)
音楽が終わり、フロアに一瞬の静寂が訪れた瞬間、アンソニーがその笑みを深めた。
「エリス、話がある。すまないが、君との婚や――」
「あなたとの婚約を解消願います」
彼の笑顔が固まった。
「私はあなたを微塵も愛しておりません。どうぞ、本当にお好きな方のもとへお行きください」
「……は?」
「そして……二度と私に、近寄らないで」
「な、なんだと!」
突然響き渡った叫びに広間がざわめいた。アンソニーは顔を真っ赤にして取り乱していた。
「な、な、なにを……! こ、この僕のことを、誰だと思ってるんだ! ぼ、僕は引く手あまたなんだぞ! 君は不釣り合いという言葉を知らないのか!?」
「……」
「シャイナと比べて出来損ないとずっと呼ばれ、誰からも無視されていた君のことを、僕はずっと大切にしてきたじゃないか!?」
「……」
裏でシャイナから頼まれ「呪いの指輪」を私に勝手にはめておきながら、よくそんなことが言えたものだ。自分でも驚くほど冷ややかな気持ちで、元婚約者のことを見据えた。
(捨てられる側の気持ち……。あなたにも、少しはわかったかしら?)
「お姉様!」
騒ぎに気づいたのか、シャイナが駆け寄ってきた。
「どういうことですの!?」
「たいしたことはないわ。少々、婚約破棄の話をしただけ。……私からだけどね」
「!」
シャイナの美しい顔が、驚きと怒りで醜く歪んだ。
「ふ、ふざけないで! すぐに取り消しなさいよ!」
「お断りします」
「い、いいから、言う通りにしなさいよ!」
「私が誰と婚約しようがしまいが、シャイナ。あなたには関係ないわ」
「はあっ!? アンタが婚約破棄されなきゃ、シナリオが進まないのよ!」
「シナリオ? どういうことかしら?」
「だって、モブのアンタがそうしなきゃ、魔王が……!」
その瞬間、空気が震えた。
湖のほとりで体験したあの圧。今度は王城全体を包むかのようだった。
ゴウウウ!!!
時空が捻じ曲げられるかのような、あのときと同じ音が鳴り響いた。光と共に広間の中央に現れたのは――。
「あ、あれは!?」
「ま、ま、まお……!」
黒と深紅で象られた装束をまとい、頭に戴く長い角。顔に浮かぶ紋様の禍々しさ。それは、この会場にいる誰にとっても、破滅を想起させるものだろう。
「――ヴェルヘゴル=アークラリア=ディオルグ」
その名乗りに広間全体がさらにどよめいた。恐怖に震え上がる人びと。それは、先ほどまで厳かに座っていた国王でさえも例外ではなかった。
「なんで……? どうして……? エリスはまだ死んでないのに……?」
シャイナもぽかんと口を開けたまま動かない。一方、ヴェルヘゴルはゆるりとこちらへ顔を向けると、漆黒の長髪を靡かせながら悠然と歩み寄ってきた。
「……おや?」
シャイナの前に立ちはだかり、冷ややかに見下ろすヴェルヘゴルの薄紫色の唇には、皮肉の笑みが浮かんでいた。
「お呼びでなかったかな?」
「ま、魔王……!」
「せっかく来たのだ。慈悲の一つくらいは見せてやろう。私に話があるなら、聞いてやってもいいぞ。ただ私の方は、腐れ外道な君に対し、なんの関心もないがね」
「な、な、なんですって! む、むしろいい機会よ!」
怒り狂ったシャイナは距離を取ると、たちまち強力な魔力を練り始める――。
(……さすがは元プレイヤー。レベル上げはしっかりしてきたみたいね。でも……)
「このクソ魔王がぁぁあ! 死にさらせぇぇぇ!!!」
「キャー!」
「な、なんだ!」
シャイナが躊躇うことなく凄まじい力をヴェルヘゴルにぶつけ、格式ある舞踏会の場は、突如放たれた魔力の渦に阿鼻叫喚となった――が。
「……おい、どうした?」
渦が消え、姿を再び現したヴェルヘゴルは、埃を払うかのように魔族の華美な衣装を軽くはたいた。
「もっと気合を入れろ。それともまさか、今のがお前の本気ではあるまいな?」
そう言いながら魔王はシャイナの前に歩み寄った。
「いずれにせよ、話し合いはしたくない。そういうことだな?」
「な……!」
シャイナが驚愕するのも無理はなかった。
ゲームではご都合主義的に聖女が魔王を倒すのだけど――本当は、両者には埋めがたい力の差がある。それは、どれだけレベリングをしても覆せないほどに。
それでもヒロインが勝利できたのは、死の間際のエリスの絶望の叫びを聞きつけ、慌てて駆けつけた魔王の不意を突くことができたからにすぎない。
さらにゲームでは、魔王には唯一の弱点とされる魔法属性の設定があった。それはこの世界でも同じで、シャイナのさっきの魔力の渦にもしっかり付与されていた。彼女は正しく「攻略」しようとしたのだ。
けれど――今のヴェルヘゴルは、私の助言によって万全の装備を整えていた。ゆえにシャイナといえど、勝てる見込みなどないのだ。
「油断してなければ、こんなものさ」
不敵に笑うヴェルヘゴルを前にして、シャイナはへたり込んだ。魔王は一瞥をくれると、この舞踏会の主であり、わが国の至上の存在のもとへ悠然と歩を進めた。
「――人の王よ」
「な、な、何用だ……!?」
「盗まれた魔族の秘宝を、今日は返してもらおうか――指輪だ」
「ゆ、指輪!? そ、そんなものは……!」
「知らぬとは言わせん。もし返さねば――」
ヴェルヘゴルは周囲を睥睨しながら咆哮した。
「この場にいる者すべてを――いや、この国そのものを、灰にするぞ!」
圧倒的な威圧感を前にして、誰も身じろぎすらできなかった。
「そ、その! その指輪なら!」
沈黙を破るように、耳障りな甲高い声が響き渡った。
「あいつが持ってるわ!」
シャイナが私を指差していた。
「……」
(どうしても、私を殺したいのね……)
ならばと、私はゆっくりと、この場のすべての人々に見えるように左手を掲げた。シャンデリアの光を受け、銀の指輪が鈍く輝いた。
「たしかに、私が持っています。ですが――この指輪は、アンソニー・クロード伯爵令息がもともと有していたものです」
指先を元婚約者へと向ける。
「そしてこの指輪は、クロード伯爵家が魔族から盗んだと、私は聞き及んでおります」
「な!? なぜ!? ち、ち、違う! その女が勝手に――!」
取り乱すアンソニー。無理もない。なぜ私が彼の家の秘密を知っているのかというと、絵里の前世の記憶によるものだ。
「ぼ、僕は関係ない! 殺すならその女だ!」
「そうよ! あの女が! あいつが盗人よ!」
シャイナまでが必死の形相で私を罵り始めた。長い間、私を支配してきた彼ら。今やみっともなく取り乱す二人を、もはや哀れとしか思えず、醒めきった感情で見つめる。
(最後まで私を利用して、逃げ切る気なのね……)
やるせない思いに沈んでいると、そっと肩に大きくて温かな手が触れた。振り向くと、魔王ヴェルヘゴルの漆黒の瞳がどこか切なげに揺れていた。
彼は私に頷くと国王へ視線を移した。
「私には、彼女が言っていることが正しいように思える」
「……」
「国王よ、どちらを信じる? 答えよ!」
「……」
張り詰めた沈黙の中、玉のような汗を浮かべた国王は、私たちとシャイナたちを風見鶏のように必死に首を振って見やると、絞り出すように言った。
「……魔王殿の、言う通り、なのだろう」
「なっ――!」
シャイナが悲鳴のような声を上げた。
「わ、私の言うことが信じられないのですか!? 私が正しいのです! 私こそが聖女なのです!」
「……」
国王は、シャイナのことをまるで石ころでも見るかのように一瞥すると、視線を逸らした。
(そりゃそうよね……。だって、この場でシャイナが魔王を殺すことによって、初めてシャイナは、聖女として認められるんだから……)
「私の聖魔法を、見せて差し上げます!」
叫んだシャイナは、私たちからさっきよりも大きく距離を取り、足掻くように魔力を再び練り始める。アンソニーは「に、逃げよう、シャイナ」と腰を抜かしている。
強力な魔力が収束していく光景に、思わず息を呑む。
「……落ち着くんだ、エリ。危ないから動くなよ」
穏やかにそう言った魔王の手が、そっと私の腰に回る。私がぎゅっと目を閉じたのと、轟音が広間を揺らしたのは、ほぼ同時だった。そして――。
「ギャアアアア!」
「いたい! いたい! いたい! だ、誰か、助けてくれ!」
立ち込めた光が霧散すると、顔に手を当てながら、ホールの床にのたうち回る二人の姿があった。
(跳ね返した、の……?)
「まったく、何が聖女だ。ただ力に溺れた、腐った塊のようなその力――お前の方が、お前たちの考える魔族らしいな」
ヴェルヘゴルは冷酷に言い放った。
「……衛兵」
国王の静かな一声で、兵士たちはすぐさま彼らを連れ去った。ヴェルヘゴルが国王へ視線を向けると、彼はコクコクとうなずいた。
ヴェルヘゴルの咆哮が再び広間に轟く――。
「聞くがよい、皆の者! 確かに指輪は今ここに、我々に返してもらった!」
不思議でならなかった。私の指にはまだ指輪が残され、腰にはヴェルヘゴルの手がしっかりと添えられたまま、離れる気配がなかったから。
彼は、天に響くほどの声で高らかに叫んだ。
「ラスル!! アークラリア!!!」
……一体、どんな意味なのだろう? 魔族語はさすがに絵里の記憶をしてもさっぱりだ。
(勝利宣言……みたいなものかしら?)
疑問を抱きながらヴェルヘゴルを見ると、彼は晴れ晴れとした表情を浮かべていた――。
季節がひとつ巡った。貴族学校の中庭には、薄紅の花が咲いていた。
「あ! エリス様!」
「ごきげんよう」
「今度の休日、また一緒にお出かけしませんこと?」
「ええ、是非」
通りすがりの同級生に応じた。以前とは違って、自然に言葉を交わせる友だちが増えていた。もう一度、窓の外の景色へと視線を向けた。
(もう、終わったのね……)
顛末は、あっけなかった。
シャイナは、公式の舞踏会で危険な魔法を放った重罪により投獄された。ヴェルヘゴルに弾き返されたその力は、彼女本人の顔に深い痕を刻んだ。いまの彼女は牢の中で錯乱しているという。
アンソニーは、秘宝窃盗の嫌疑で同じく投獄された。魔族との関係悪化を憂慮した国王は、彼の伯爵家をも連座させ、家名ごと社交界から抹消した。その余波で、シャイナの取り巻きたちも白眼視され立場を失い、私に絡むこともなくなった。
私の願いは果たされた。もしかしたら、生まれて初めて得られた心の平穏かもしれない。なのに――。
「ふむ。この本も興味深い」
「……」
なぜか本好きの魔王様はまだ私の隣にいた。
「こんなところで油を売っていて……“お務め”の方は大丈夫なのですか?」
思わず小声でたずねる。ちなみにお務めとは、魔王としての彼の役目のことだ。
「問題ない。人と違って、私には二十四時間ある」
「……」
眼鏡をきらりと光らせ、真顔で応じる彼に絶句する。彼も一応、夜は眠るらしいのだけど、「ブラック魔王」という妙なフレーズが脳裏をかすめた。
自分の指に輝くものに、ふと気付く。
「あの……」
「うん?」
「こちら、そろそろお返ししたいのですが……」
薬指に残る指輪をそっと見せる。けれど、ヴェルヘゴルは一瞬だけ青い瞳をこちらに向けただけで、ぷいと視線を逸らして読書へと戻ってしまう。
結局、私の婚約指輪廃棄計画については、いまだ成し遂げられていなかった。思い切ってたずねた。
「……ひとつ教えてください」
「どうした?」
「なぜ……私の言う事を、あなたは信じられたのですか?」
ずっと胸に抱いていた疑問を口にした。私は転生者だからゲームのシナリオを知り、それに沿って動くことができた。でも、転生者なのはシャイナも同じ。そうではない彼が、どうして私の言葉を信じてくれたのか、理由を知りたかった。
「話していなかったな」
彼はぱたりと本を閉じた。
「……君の色は、嘘をついていなかった」
「色?」
「私には見えるんだ。魂の“色”が」
「え……?」
「困っている色、苦しんでいる色、泣いている色――。私には、放ってはおけない」
「……」
再び本を開き、読書に戻る彼を見ながら愕然とする。そんな設定、ゲームでも明かされていなかった。魔王が相手の心を読めるなんて……。
便利?
……いいえ。
それは、とても大変なことのように思えた。
望まなくても、彼は相手の本心がわかってしまう。しかも彼は、魔族の王として、秘宝たる指輪を所有しなければならない。その指輪には、誰かの「嘆き」を魔王へ届ける力があるのだ。
優しい彼は、この世界のどこかで、苦しむ誰かがいると知ってしまったら、きっと見逃せない。
ゲームでの舞踏会の夜、絶望の中で死んだエリスのために駆けつけ、そして命を落としたように――。
「ヴェルヘゴル様」
「ベルだ」
私は言った。
「ありがとう……ベル様」
◇◆◇◆◇◆
私の名はヴェルヘゴル。
職業は魔族の王。
趣味は読書、とりわけ自分の知らない不思議な話を知ることが好きだ――だが、最近耳にした話は、これまでで最も不可思議だった。
何でも私は、人間に謀略で誘い出され、殺されて死ぬ運命にあったらしい。そう聞かされたときは本当に驚いた。「死ぬ運命」なんて、まるで物語の中の話だ。
それでも私は、そのこと語った女性――絵里を信じた。彼女の魂の色は、深く傷ついていた。それでもなお、誰かを思いやる優しい色を宿していた。だから私は、彼女を信じたのだ。
「ありがとう……ベル様」
呟いてうつむく彼女のことをじっと見つめた。
「……絵里」
「はい?」
「……」
伝えかけた言葉を飲み込んだ。実は――。
彼女の薬指にある指輪は、魔王の花嫁が所有する婚約指輪なのだ。言い伝えによれば、その持ち主は運命によって定められるという。
私は運命など信じていなかった。だが今は、彼女こそ自分の運命の相手だと、自然に信じてしまっている。共に過ごしていると、その魂の色に心が安らぎを覚える、唯一無二の存在なのだと確信している。
けれど絵里は、これまで男に欺かれ、奪われ続けてきた。
その魂の傷が癒えるのは、まだしばらく時間が必要だろう。
だから、今は黙っていよう。絵里の気持ちがいつか変わる、その日まで――。
「そういえば……」
絵里は、ふと思い出したようにたずねた。
「どうした?」
「以前、舞踏会の最後で叫ばれていた、“らする・あーく”なんとかって、なんて意味なんですか?」
「……」
私は「そんなこと言ったかな」という表情を作って、視線を逸らした。
あのとき叫んだ「ラスル・アークラリア」とは実は――。
魔族の王が王妃と決めた者に求婚するときや、周囲に婚約したことを正式に宣言する際の、由緒正しき言葉だ。
舞踏会の折、絵里からのアドバイスを受け、普段滅多に着ることのない魔族の王の正装をばっちり着込んでしまっていたせいで気が昂り、勢い余ってつい宣言してしまった。
寝る前に自分の発言を思い出して急に恥ずかしくなり、ベッドの上を転がり回ってしまうことがあるのは秘密だ。
「そんなこと言ったかな……?」
「……」
絵里からジト目でにらまれ、私はそそくさと荷物をまとめた。
「え、ええと……それよりも、絵里。そろそろ図書室に行きたいな」
「……はい! ベル様!」
彼女は笑った。
お読みいただき、本当にどうもありがとうございました!
意外とヘタレでプロポーズ前から絵里に頭が上がらなくなりつつあるベルは、ちゃんと絵里に求婚できたのか?――それは皆様のご想像にお任せします。
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