なくしもの
霧は生きた菌糸のように街を覆い、昼なのに闇のように深かった。彼は灯火もなく、足元すら見えない道を漂うように歩いていた。まるで誰かの、遠い日の無邪気な願い——それに導かれるまま、道端の花を一本、ただ気紛れに摘んだあの日の子供のように。今はもう、その花さえどこへ消えたのか。
「遺失物取扱所」と書かれた古びたドアが、濃霧の中にぼんやり浮かんだ。中は埃っぽい空気が漂い、無造作に積まれた箱の山が薄暗がりに沈んでいた。カウンターの向こう、老眼鏡をかけた老人が顔を上げた。
「何をなくされましたか?」声は乾いた紙の擦れるようだった。「場所の心当たりは?」
彼は無言で底の抜けた鞄を掲げた。頭の中は鞄同様、すっかり空っぽだった。どの道を通り、どうここへたどり着いたのか。記憶は霧に溶け、跡形もない。
何を失ったのか。その肝心なものの形さえ、朧げにしか浮かばなかった。ただ、それがかつて自分の全存在を支えていた重みだけは、胸の奥に鈍く残っている。この空っぽの鞄を抱え、この虚無と対峙し続ければ、いつか誰かがそれを拾い、届けてくれるだろうか? 生き延びたことに、かすかな意味を見出せる日が来るだろうか?
頭上から降り注ぐのは、予告も理由もない悪意の雨だった。道端の花壇に一羽の蝶がふわりと止まった。その儚さが突如、耐えがたい苛立ちとなって彼を襲う。指が伸び、無意味に、ただ衝動で、その柔らかな翅をちぎってしまった。翅の破片が指先に残り、すぐに雨に流された。
生きるとは、ただ惰性で呼吸を続けることに過ぎない——そう思える瞬間が増えた。諦めの念だけが頭の中を渦巻く。何となく目覚め、何となく意識を失う。鞄の中は相変わらず空っぽ。明日も、明後日も、この繰り返しだろう。
かつては、守るべきものが幾つもあった。一つたりとも失いたくなかった。必死に抱え、注意深く歩んできたはずなのに。気づけば、手には底抜けの鞄だけ。重さは消え、中身も意味も、すべて霧散していた。生きるとは何なのか? この問いだけが、空っぽの頭蓋骨に反響する。
老人は彼の茫然とした様子をじっと見つめていた。埃まみれの帳面をそっと閉じると、窓の外、容赦なく降り注ぐ雨を指さした。
「…探すこと自体が、失くしたものの形を教えてくれることもあるよ」
老人の声は、雨音にかき消されそうだった。
「…ただ生きていること、それもまた答えの一つかもしれんがな」
彼は老人の言葉を反芻した。答えは見えない。それでも、ふと、雨に濡れたアスファルトの上で微かに光る、ちいさな蝶の翅の欠片を見つけた。指が震えた。拾い上げるべきか、このまま踏み潰すべきか。
霧の向こうで、雨の音が変わった。いつか、いつか降り止むその日まで。踏みつける足を止め、差し出された手を掴み、「なくしもの」を誰かと見つけられるその日まで——ただ、歩き続けるしかない。足取りはなおふらついていたが、少なくとも、立ち止まってはいなかった。霧は相変わらず深く、彼の行く手を阻んでいた。それでも、いつかは…
「でっちあげ」面白かったよ!