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1話

 降り注ぐ陽光は、まるで世界全体を祝福するかのように柔らかく、校門へと続く道に敷き詰められた桜の絨毯を淡いピンク色に染め上げていた。真新しい、少し硬い感触のブレザーの襟元を無意識に正す俺——榊原 直人。高校一年生。入学式の今日、期待と緊張が入り混じった複雑な感情を胸に抱えていた。


 昇降口を抜け、指定された教室——一年三組へと向かう廊下は、同じデザインの制服に身を包んだ生徒たちでごった返していた。俺の隣では親友の健太が、「お前、あの七瀬澪が同じクラスになったらしいぞ」と、やけに興奮した声で話しかけてきた。


「マジかよ…」


 七瀬 澪。中学時代、誰もが知る「絶対領域の女王」。その美貌と、人を寄せ付けない冷たい雰囲気で、男子にとっては憧れの的であり、永遠の高嶺の花だった。彼女に告白した男子は数え切れないほどいたが、全員があっさりと「興味ありません」の一言で切り捨てられたという伝説を持つ。健太も中学三年のバレンタイン前に勇気を出して告白したが、冷たくあしらわれた一人だった。


 クラスの名簿を確認すると、確かに七瀬澪の名前があった。覚悟を決めて教室に入ると、すでに彼女の姿が窓際の席に。陽の光を浴びて輝く漆黒の髪、真っ直ぐな背筋。周囲には既に小さな人だかりができていた。男子たちが彼女に話しかけようと必死になっている様子が滑稽に見えた。


「やめとけって。また傷つくだけだぞ」


 俺は健太の肩を叩いた。健太は澪に熱っぽい視線を送りながら呟いた。


「わかってるよ…でも、高校生になったんだから、少しは変わったかもしれないじゃん…」


 やがて担任が入ってきて、ホームルームが始まった。自己紹介の時間。七瀬澪が立ち上がった瞬間、教室が静まり返る。


「七瀬澪です。よろしくお願いします」


 それだけ。そっけなく、簡潔な自己紹介。それでも教室の男子たちの目は彼女から離れなかった。


 自己紹介が一通り終わり、クラス委員や係の決定をしていた時、教室の扉が開いた。


「すみません、遅れました」


 そこに立っていたのは、一人の男子生徒。スラリとした体格、日焼けした健康的な肌、知的な印象の顔立ち。


「ああ、橘君か。遅れるって連絡は受けてたよ。自己紹介をどうぞ」


 彼——橘 怜は、堂々とした態度で前に立った。


「橘怜です。競泳やってます。今朝は病院での定期検査があったため遅れました。スポーツ推薦で入学しました。よろしくお願いします」


 そう言って頭を下げる彼の姿に、女子たちの間で小さな騒めきが起こった。スポーツ推薦、なるほど、と納得する声も聞こえる。実際、その整った体格は明らかにアスリートのものだった。


 彼は指定された席——七瀬澪の後ろの席に向かって歩き始めた。その時だった。


「怜?」


 教室に響いた、七瀬澪の声。しかし、いつもの冷たい声色ではなく、驚きと喜びが混ざったような、誰も聞いたことのない温かい声色だった。


 橘怜が顔をそちらに向けると、彼の表情が一瞬で明るくなった。


「澪!お前もこのクラスだったのか!」


 彼女を名前で、しかも呼び捨てで呼んだ。教室の空気が凍りついた。


 七瀬澪——あの七瀬澪が、照れたように微笑んでいる。

 

「まさか同じクラスになるなんて。びっくりした」


 彼女の口調は柔らかく、中学時代に誰も見たことがない表情だった。


 健太が俺の腕をつかみ、「な、なんだよこれ…」と震える声で言った。教室中が混乱に包まれる。中学時代から澪を知る男子たちは、まるで雷に打たれたような顔をしていた。


「二人、知り合いなの?」


 担任が尋ねる。

「ええ、怜とは小学生の頃からの幼馴染みです」


 澪が答えた。それを受けて橘がしゃべる。

 

「いや、幼馴染なのか?そう言われたらそうか?俺たち、競泳で同じクラブチームに所属していて、小学校のときからほぼ毎日一緒に練習してるんです」


 その言葉に、教室がシンと静まり返った。


 俺は健太の顔を見た。彼は呆然としていた。中学時代、七瀬澪に近づこうとした全ての男子の顔が、同じ表情に染まっていた。彼女の周りにあった厚い氷の壁は、橘怜の前では存在しないかのようだった。


 入学初日の残りの時間、クラスの男子たちは放心状態だった。黒板を見つめているようで、実際は七瀬澪と橘怜の後ろ姿を交互に見ていた。二人の間に流れる空気は明らかに特別だった。ちょっとした目配せ、小さな笑顔の交換。誰にも見せないはずの表情を、彼女は彼にだけ見せていた。


 昼休み、教室の窓から俺たちは二人が中庭に向かう姿を見ていた。距離感が近い。肩が時々触れる。そして、彼女の笑い声。中学三年間で一度も聞いたことのない、心から楽しそうな笑い声。


「これってマジなのか?」


「あの高嶺の花が、別の世界では……こんなに……」


「違う顔を持ってたってことか……」


 放課後になると、七瀬澪と橘怜は一緒に下校していった。「コーチが新しいメニュー考えてるらしいぞ」「えぇ、また筋トレ増やすんでしょ?」そんな会話が聞こえてきた。




 彼らが去った後、クラスの男子たちは自然と集まっていた。


「お前ら、なんか胸が焼けるような感じしねえ?」


「しねーよ、お前心臓弱いんじゃねえの」


「いや、わかるわ。あれだよ、嫉妬っていうか、羨望っていうか……」


「いや、もっと複雑な感情だよ…なんていうか……」


「脳が焼かれる感じ……」


 健太がぼんやりと言った。


「そう!それ!俺たちの想像の中の七瀬澪と、橘のいる世界の七瀬澪のギャップで、脳が焼かれるような…」


 突然、俺たちの背後から声がした。


「ねえねえ、七瀬さんと橘君のこと検索してみたんだけど」


 クラスの女子——小野寺さやかが自分のスマホの画面を見せてきた。地方紙のネット記事だった。


「二人とも県大会優勝経験者なんだって。橘君はジュニアオリンピックで銅メダルだって。七瀬さんも全国大会の決勝に出てるんだよ!」


 記事の写真には、表彰台に立つ橘怜と、決勝に進出したものの表彰台には届かなかった七瀬澪。そして二人が並んでインタビューに答えている写真も。メダルをかけた橘怜の隣で微笑む七瀬澪の表情は、学校では見たことのない輝きに満ちていた。二人の間には確かな信頼と絆が感じられる。


「このインタビュー、二人の関係すごくない?」


 小野寺が続けた。


「記者が『ライバル関係はありますか』って聞いたら、橘君が『澪は特別な存在です。互いに高め合える唯一無二のパートナーです』って答えてるんだよ。で、七瀬さんも『怜がいなかったら、私は今日まで競泳を続けていなかったと思います』って。学校じゃ絶対見られない表情してる……」


「てか、プールサイドにこんな青春あったのかよ…」


「俺らが知らない間に……こんな関係になってたなんて……」


「それにしても、橘ってやつ、羨ましすぎるだろ……」


 俺たちはその日、授業が終わってもなお教室を出ようとしなかった。窓から見えるグラウンドの向こう、多分彼らがいる市民プールの方向をぼんやりと眺めていた。俺たちには決して足を踏み入れることのできない、彼らだけの水の世界。そこで七瀬澪は、俺たちが知らない顔を見せ、俺たちとは違う言葉を交わし、俺たちには決して見せない笑顔を振りまいていた。


 それは、まるで幻を見たような衝撃だった。あの高嶺の花が、別の世界では満開に咲き誇っていた事実に、俺たちの脳は焼き尽くされていた。


 「明日からどうすりゃいいんだよ……」


 健太が呟いた時、誰も答えることができなかった。学校という小さな世界の中だけで見ていた七瀬澪という存在が、実は広大な別世界で、まったく違う顔を持っていたという事実。その衝撃から、俺たちはまだ立ち直れないままだった。


 しかし不思議なことに、その後の数日で少しずつだが、彼女に向ける視線は変わっていった。彼女の冷たさは、実は自分たちではなく「別の世界に生きている」からなのだと理解できた時、なぜか心が軽くなる感覚があった。



 入学から一週間後、昼休み。俺と健太は図書館前のベンチで弁当を食べていた。するとそこに、七瀬澪と橘怜が通りかかった。二人は何か競泳の話で盛り上がっている様子で、周囲の存在など気にしていないようだった。


 そのとき健太が、突然立ち上がった。


「あの、七瀬さん」


 二人が振り向く。澪の目に、一瞬だけ警戒の色が浮かんだ。


「俺、中学の時に告白して振られた斉藤です。その…あのときはすみませんでした」


 意外な言葉に、澪も橘も驚いた顔をした。


「いえ……私こそ冷たくしてしまって……」澪が少し困ったように言った。


「いや、七瀬さんが断ったのは当然だと思います。その、橘さんがいたんですよね、ずっと」


 健太の言葉に、七瀬澪の頬が少し赤くなった。橘怜は照れたように後頭部を掻いた。


「あの……お二人が頑張ってる競泳、いつか応援に行ってもいいですか?」


 七瀬澪は一瞬驚いたような顔をした後、柔らかく微笑んだ。クラスの男子たちには見せたことのない、けれど競泳の仲間たちには見慣れた表情だったのかもしれない。


「……ええ、もちろんです」


 その言葉に、健太の顔が明るくなった。


 彼らが立ち去った後、健太は晴れやかな顔で言った。


「なあ、なんか……すっきりしたよ」


「お前、諦めたのか?」


「違うよ。なんていうか……高嶺の花の向こう側に、俺たちの知らない世界があって……そこで彼女が輝いているなら、もういいかなって」


 俺は健太の横顔を見た。教室で「脳が焼かれる」と言っていた彼が、今は穏やかな表情をしていた。


「お前、成長したな」


「うるせえよ」


 健太は照れながらも笑った。


 あれから数週間。七瀬澪は相変わらず教室では物静かだったが、橘怜と過ごす時間や競泳の話題になると、別人のように生き生きとした表情を見せるようになった。クラスメイトたちも、彼女たちの特別な関係を少しずつ受け入れていった。



 七月の中旬頃、俺たちクラスの男子数人と、最近橘怜に興味を持ち始めた女子たちは、七瀬澪と橘怜が出場する高校総体の県予選を見に行くことにした。普段は関係者以外立ち入りできない大会だが、高校総体であれば学校の枠組みで応援もできる。


 会場に到着すると、そこには学校とは全く違う世界が広がっていた。整然と並ぶレーン、響き渡る歓声、空気中に漂う塩素の匂い。


 そして、プールサイドに現れた七瀬澪と橘怜の姿に、俺たちは言葉を失った。


 学校の制服ではなく、チームのジャージを身にまとう二人は、すでに別次元の存在に見えた。サブプールでのウォーミングアップに向かう途中、二人は会話を交わしていたが、その表情は学校で見せるものとも、二人きりの時のそれとも違っていた。絶対的な集中力と、冷静な緊張感。「アスリート」という言葉が相応しい、プロフェッショナルな雰囲気だった。


 女子100m自由形の予選。七瀬澪の出番だった。スタート台に立つ彼女を見て、クラスの女子たちが息を呑む。


「あれ、七瀬さん……?」


 小野寺がつぶやいた。


「全然違う人みたい……」


 確かに、そこにいるのは学校では見たことのない七瀬澪だった。スイムキャップとゴーグルを身につけ、肩を回しながらスタートの合図を待つ姿には、普段の冷たさとも、橘怜と過ごす時の柔らかさとも違う、凄まじい集中力と決意が満ちていた。


 号砲と同時に水中へ飛び込む七瀬澪。そのフォームの美しさ、ストロークの正確さ、ターンの鋭さ。すべてが完璧に計算され、研ぎ澄まされていた。彼女の泳ぎには無駄がなく、圧倒的な存在感があった。


「マジで…あの七瀬が…」 


 健太の声が震えていた。


 続いて男子100m自由形。橘怜の登場に、女子たちが小さく悲鳴を上げた。キャップを被り、ゴーグルを調整する彼の姿は、教室で見る優しい笑顔の持ち主とは思えないほど鋭く、緊張感に満ちていた。


 スタートの合図で水を切る橘怜。その泳ぎは圧巻だった。力強いキックと腕の回転、完璧な呼吸のタイミング。見る者全てを魅了する泳ぎに、クラスメイトたちは息を呑んでいた。


 レース中、二人は全く余計なものを見ることなく、ただ前だけを見つめて泳ぎ切った。自分以外のその他すべてなどただの些事と言わんばかりに、ただひたすらに自分のレースに集中する姿に、全員が圧倒された。


 予選を無事通過した二人は、その後決勝と進み、見事に二人とも優勝を果たした。それぞれの表彰式で表彰を受ける二人の姿は、もはや別世界の住人のように思えた。


 競技が終わり、クールダウンを終えた二人が観客席に挨拶に来たとき、ようやく俺たちが知る七瀬澪と橘怜の姿に戻っていた。だが、彼らの瞳の奥には、さっきまでの「アスリート」としての輝きが残っていて、それが彼らをさらに魅力的に見せていた。


 彼女の持つ二つの世界——いや、三つの世界の狭間で揺れ動いた俺たちの心は、今ではある種の静けさを得ていた。高嶺の花は依然として高嶺のまま。だが、それでもいい。彼女がまだ見ぬ世界で見せる姿を、少しだけ垣間見ることができただけでも、俺たちには十分だった。


「高嶺の花には、高嶺の花の咲く場所があるんだよな」


 健太がつぶやいた。


「なんだよ、急に詩人かよ」


 俺が笑うと、健太も笑った。


 俺たちの視線の先では、七瀬澪が橘怜とコーチを交えて次の大会の戦略を話し合っていた。真剣な眼差しと、時折見せる満面の笑顔。俺たちの知らない世界で咲く、満開の花の姿。


 それはもう、脳を焼くような痛みではなく、どこか温かな憧れのような感情に変わっていたのだった。

もしよければ評価をしていただけますと大変嬉しいです。

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