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3月22日(水)_くるるちゃんエッロ

 キス、とは。


 接吻(せっぷん)または口付け。

 唇を他者の身体等に接触させ、愛情を示す行為。友愛、親愛、性愛などの意味から儀式的行為として行われる場合もある。


 解人はリビングのソファに寝転がってスマホを眺めていた。

 カレンダーアプリに刻まれた明後日の予定。

 くるるに連れられて美容院デビューする日だった。

 当然、楽しみにしている。けれど、心がはち切れそうでもあって。


「なんだよ、キス未遂って……」


 昨日はうまいこと逃げられてしまい、真相を知ることができなかった。

 夜になっても寝付けず、ようやく意識を失うように眠りについてから起きてみれば昼前だった。完全に自堕落な春休み。

 くるるに聞きたいことは山ほどあった。


 まず、誰が誰にキスをしようとしたのか?

 解人は風邪で寝込んでいたわけで、くるるがキスをしようとしたと考えるのが自然だろう。

 しかし、あの時は意識も記憶もおぼろげになっていた。

 そもそも家に招き入れたのも自分だというのに夢の中とごっちゃになっていて覚えていなかったのだから。


 まさか、と解人は思う。

 甘えたのと同じように、自分からキスを迫ってしまったのではなかろうか。

 そんな破廉恥を働いたとあれば、まともに会話ができるはずもない。ビンタの一つや二つ喰らって然るべきだろう。

 

「でも……別に叩かれてないしな……」


 解人は頬をさする。

 ほんのりと熱を感じるが痛みはない。

 そもそも普通に会話ができていたのだから、そういった類のやらかしではないだろう。


 となると、もう一つの可能性にスポットライトが当たる。

 脳内のステージで突如として脚光を浴びた刺客、その名も『桜間さんが寝ている俺にキスをしようとした説』。

 最初から居たのに、解人が照明を向けようとしなかっただけの影の主役ともいう。

 なぜ解人はその可能性を見て見ぬふりしたのか。

 

「桜間さんが俺に……」


 解人は想像する。

 くるるが自分にキスをしようとする光景を。

 桜色の唇が自らの頬に迫る。その吐息が頬に吹きかけられたような気がして。


「ぐあっ……!」


 解人はソファから転がり落ちた。

 猛烈な恥ずかしさがこみあげてくる。この恥ずかしさは、床をのたうち回る燃料として優秀だった。

 やましい妄想をしてしまったことも、その内容も。

 自分が好きな相手に対して抱いている根拠のない願望なのではないかという疑問があるからこそ、解人はこの可能性を考えなかったのだ。


 昨日のくるるの言葉を思い出す。


『私の前では、思ったことを言って欲しい』

 

 言えるかこんなの! と解人はいっそう激しくのたうち回る。

 君が俺のことを好きだからキスをしようとしたんだね? なんて、そんな都合がよくて甘ったるいセリフを吐けるわけがない。

 もちろん、それが現実だったら嬉しい。嬉しくないわけがない。

 けれど、もしもキス未遂の真相が全く違うものだったら、この妄想とは心中するべきだ。こんなことを彼女に伝えられるか? 無理だ。

 解人は体を転がす。思考も回っていく。


 ガン! とリビングのローテーブルに膝をぶつけて、正気を取り戻した。

 

「なにをしているんだ俺は……」


 冷静になろう、と深呼吸を一つ。

 昨日は逃げられてしまったが、明後日も同じようにくるるが逃げだすとは考えづらい。

 当日、ゆっくり丁寧に話を聞けばいい。

 解人はそうやって自分を納得させた。



 ◇ ◆ ◇



 くるるは木の椅子のうえで縮こまっていた。

 目の前には腕組みをした理央。

 ハワイをテーマにした実にアロハなカフェだった。バイト先とは違い、明るくてトロピカルな店の片隅で、乙女裁判の第二審が開廷していた。

 裁判長は理央。検察も理央。

 被告人はくるる。弁護人もくるる。

 罪状は『風邪療養のため睡眠中だった明石解人に対する接吻未遂』及び『意図的な説明機会の放棄』だ。

 理央がくるるのほっぺたを挟みこむ。

 

「二度も逃げだしたくるるちゃんは、それでもまだ罪がないと申すか」

「うう、だって……恥ずかしくって……」

「モチモチモチ! そんなこと言うのはこのほっぺか!」

「わやややや! ごめん! ごめんなひゃい!」


 くるるが降参のポーズをとるので、理央は手を離す。


「くるるちゃんさー、謝る相手が違うっしょ?」

「で、でもさあ、理央ちゃんだったら打ち明けられる? 私がキスしようとしましたよー、なんて」

「あたしはまず寝てる相手にキスをしようとしない!」

「ぐあっ、せ、正論……」


 テーブルに崩れ落ちるくるる。理央は平然とした顔でマンゴージュースを飲む。小さなパラソルのささったゴキゲンなドリンクメニューだった。


「ま、くるるちゃんの気持ちも分かるけどねー。男子って起きてるときはあたしたちよりもでっかくて強くて、とてもじゃないけど太刀打ちできないように感じるってゆーかさー」


 歩み寄るような理央のセリフにくるるが復活して相槌を打つ。


「うんうん。剛志くんほどじゃないけど、カイトくんだって私からすれば充分おっきいもん」

「剛志とか、普段は拡声器が歩いてるん? ってくらい声でっかいけど、部活で疲れて寝てるとことかマジで静かで……そーゆー時の顔って妙に子供っぽいってゆーか、無邪気だなあってなるわー」

「わかるよ。カイトくんもいつもは大人っぽいのに風邪で弱ってて、それはもう可愛くて……」

「だからってキスはヤバいっしょ。くるるちゃんエロっ」

「ぐああああ!」


 くるる、再びの撃沈。

 理央はそのつむじをツンツンとつつく。くるるがもぞもぞと頭を動かす。今度は小刻みにつつく理央。プルプルとくるるの頭が震えた。


「実際さー、口滑らしちゃったならいつかどっかで言わなきゃじゃん?」

「それはあ……そうなんだけどさあ……」


 言わなければと思っている。

 それでも踏み出せないのは、キスをしようとしていたと伝えることがそのまま告白になりかねないとくるるが思っているからだった。

 いつか告白はしたい。

 自分の気持ちは解られたい。

 それでも、こんな形で説明しなくてはいけないなんて、くるるとしては望まない結末だった。


「どうすればいいんだろ……」


 外の世界を窺うようにくるるは伏せていた顔をわずかに上げる。

 そのとき、あるものが目に入った。

 卓上に置かれたポップだった。

 ハワイアンカフェらしく南国色に彩られた文字と写真。そこにはこんな一節が。


「……アロハの、意味?」

「んー? どしたんくるるちゃん」

「や、なんかこれ……アロハにはたくさんの意味があります、って書いてあって」

「マジ? どんなんなん?」

「えーと、おはよう・こんにちは・こんばんは・いらっしゃい・おやすみ・じゃあね・愛してますなど、挨拶や友愛、愛情を表す言葉です……だって」

「やっば~。なんでもアリじゃん」


 くるるが勢いよく体を起こす。


「これだ……!」


 急に瞳を輝かせるくるるに、理央は置いてけぼりを食らう。


「どしたんくるるちゃん」

「アロハだよアロハ! カイトくんにもアロハって言えばいいんだってこと!」

「へ? なんで?」

「だから、き……その、き、キスをしたのは、アロハなんだよってこと! 友愛……そう! 友愛だったんだよって!」


 しどろもどろなくるるに、理央は呆れた目を向ける。


「そんで、くるるちゃんや」

「はひ」

「実際のとこ、どこにキスしようとしてたん? お姉さんに言うてみぃ」

「……じ、です」

「聞こえんのお~」

「首すじ、です…………」

「えっ……唇とかじゃなくて……?」

「唇は最初に見たけど……じゃなくて! ち、違うの! 理央ちゃんこれは!」

「エッロ! くるるちゃんエッロ!」

「わあ~言わないでえ~~」


 くるるは両手をパタパタと振る。

 そのほっぺたは太陽をたくさん浴びて熟れたフルーツのように艶やかだった。

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